小説、漫才台本もつくれるのが、プランナーの仕事の楽しさ

──「やってみなはれ佐治敬三賞」の受賞、おめでとうございます! まずは自己紹介も兼ねて、細田さんにとって思い入れの深い作品を教えてください。
CMプランナーになって15年目を迎え、これまでいろいろな作品をつくってきました。最近だと、佐治敬三賞の受賞対象作品である「関西電気保安協会シリーズ広告」は、やはり印象に残っていますね。

関西では知らない人がいないレジェンドのようなクライアントさんですが、多くのチャレンジをさせてもらいました。たとえば、関西の方なら誰でも知っているであろう同社サウンドロゴを、電気グルーヴの石野卓球さんにアレンジしてもらって「関西電気保安グルーヴ」というWeb動画をつくりました。それから、「関西電気保安協会職員の困惑」という連載小説風の新聞広告を書いたこともあります。

「関西電気保安グルーヴ」
「関西電気保安グルーヴ」
最新作の「相方が関西電気保安協会になってしまった男」では、本物の漫才師であるダブルヒガシさんを起用して、Web動画のシリーズ広告をつくりました。このシリーズ広告には、全編漫才だけの「番外編」があるんです。ダブルヒガシさんに漫才を書き下ろしてもらったんですが、そのための参考資料として、自分でも漫才台本を書いてみたのは良い経験でした。動画制作も、小説も、漫才台本もつくることができる。プランナーという仕事の楽しさを、仕事の度に再認識させてもらっています。

──細田さんの作品には独特の「笑い」「面白み」の要素があって、俗に言う「関西らしさ」も感じます。普段から広告づくりで意識していることはありますか?
実は、高校まで島根県に住んでいたので、自分は生粋の関西人ではないんです。ですが、広告業界でのキャリアのスタートが電通関西だったことから、どこか「関西に育ててもらった」という思いを持っています。だからこそ、やはり“おもろいクリエイティブ”をつくりたいとずっと考えているんです。

ただ、僕の強みは、「関西的な面白さ」のど真ん中の1つでもある「新喜劇的なもの」というより、少し冷めている「シニカルなお笑い」に近いと思っています。そういうシニカルなコメディー要素を含んだ企画・アイデアで"おもろいクリエイティブ"を追及してきたし、これからもそれを意識して、自分なりの面白さをエッセンスにしていきたいと考えています。

なぜシステムエンジニアが広告プランナーになれたのか

──キャリアについてもお聞かせください。広告業界に入る前は、IT会社にいたと聞きましたが…?
IT会社でシステムエンジニアをしていました。ネタでよく言うのですが、コピーはコピーでも、コピー機の仕事をしていたんです(笑)。複合機の画面や紙の動きをプログラミングしていました。

──そこから広告業界に行くのは大きなジョブチェンジですが、きっかけは何だったのでしょう?
同僚が、「宣伝会議賞」を教えてくれたのが最初のきっかけでした。

入社から5年ほどたった頃、プログラミングの仕事から離れて、社内に新設された動画制作・編集チームに所属していました。実は、大学生の頃から、映画やお芝居、小説などの創作が好きで、自主製作映画や演劇を趣味でつくり続けていました。そんな時に、自社製品の使用方法の説明や販促の動画を内製するための動画制作部署が立ち上がって。「趣味で培った経験を活かせるかも」と思い、チームメンバーの社内公募に手を挙げ、異動となりました。

システムエンジニアから広告業界へ!というと、大転換のようですが、実はほそぼそと制作に携わっていたのです。そんな中で「宣伝会議賞」に出会い、面白そうだなと20本ほど応募してみました。入賞したいというより、楽しそうだからやってみようの気持ちが強かった。

そんなふうにつくったコピーが、いきなり2次審査まで通ったんです。1次審査を通過するのも難しいと聞いていたので、「意外といけるかも」と自信をつけて、宣伝会議の発行する月刊誌やSKATを購入しました。それが広告業界への出発点だったと思います。そこからCMプランナー講座やコピーライター講座にも通うようになりました。

──宣伝会議賞がきっかけだったんですね! しかも、初挑戦で2次審査まで通ったと。
もともと創作活動が好きだったので、コピーを書く素地ができていたのかもしれません。しかも、僕は長尺ものを書くのが苦手でした。面白い話を思いつくけど、映画や演劇のような長い物語として書き上げることがうまくできなかった。

だけど、広告の勉強をしていく中で、アイデアはあるけど長いお話がつくれない自分にとって、CMはぴったりだと思ったんです。CMを短編映画、短編戯曲、短編ドラマをつくる感覚でつくれたら楽しいのではないかと考えました。それが、今つくっている作品にも活きているのではないかと思います。

念願の広告業界に入っても、仕事を探し続けた電通関西時代

──そして念願の広告業界へ。電通関西に入社されたとのことですが、どのような経緯だったのでしょうか?
広告賞への公募や、講座に通っていたことで、徐々に広告会社の人たちと知り合うことができました。実際に働いている人たちと会える場に行き、広告の仕事を学び、「広告、CMの仕事をしたいです」と口に出していたんです。

そんなふうに行動していたことで熱意が伝わったのか、広告に興味を持つ以前から知り合いだった電通関西の方が「欠員が出て、1人採用する予定なんだけど、入社試験を受けてみない?」と声をかけてくれたんです。それが、入社のきっかけでした。もちろん選考はきちんとありました。実務の経験がなかったので、自主制作や講座の課題をまとめたポートフォリオを見てもらって。契約社員として採用してもらえることになり、京都営業局という電通関西の中でも小さな局のクリエイティブチームに配属されました。

──自分のやりたいことを言葉にする、学ぶという行動が、機会と結果につながったのですね。
ですが、入社後はやっぱり大変でしたね。自分が担当する業務の前任者はすでに退職していて、なおかつ僕を含めて7名ほどの少数チームでした。業務ごとに見ても、1~2人体制で進めていることが多かったので、研修や業務フォローの体制が万全というわけではなくて企画書をつくり、カンプをつくり、撮影や編集まで対応できるように、見よう見まねで食らいついていきました。

しかし、ようやく仕事を覚えたからと言って、入社までに思い描いたような「自分のやりたい仕事」ができるかというと、それもまた別の話です。京都営業局のいちプレイヤーに大きなCMの案件などなかなか回ってこないのが実際のところ。そのもどかしさは、仕事ができるようになるにつれ、徐々に感じるようになりました。

──自分のやりたい仕事ができたのは、どのタイミングでしたか?
入社3年目ぐらいの時に提案した企画が通って、初めてCM制作に携わることができました。全国放送のテレビで流れるような案件で、やりがいを感じました。

こうした大きな案件は、待っているだけでやってくるものではありません。そこにたどり着くまでに、広告賞に応募したり、社内公募に手を挙げたり、関西支社に「何か仕事はないですか」と聞きに行ったり、自主的にアクションしていたんです。大きな広告会社に入っても、自分から動かないと生き残れないと理解し、じゃあ動かなければ!と思いました。

そうやって動いていたかいがあって、時々関西支社の担当案件にチームの一員として呼ばれるように。このCM制作の場合は、「CMをつくりたい」とあれこれ動く僕を見ていた上司が計らってくれたようで、担当することになりました。このCM制作に携われたことは、自分の中でも大きな成功体験でした。こういう仕事をし続けたいと、あらためて思えました。

少数精鋭だからこそ味わえた、打席に立てる楽しさ

──タイガー タイガー クリエイティブに転職したきっかけを教えてください。
5年満期の契約社員としての採用だったので、契約期間満了という形で、次の就職先を探すことになりました。社内で仕事を探していた時と同じく、知人に「仕事を探しているんだ」と声をかけていました。そんな時に、「うちに来ない?」と誘ってくれたのが、タイガー タイガー クリエイティブ代表の西脇でした。

実は、僕が通っていたCMプランナー講座の講師を務めていたのが、当時、大広に在籍していた西脇で。受講生だった頃から「CMをつくりたい」と言っていた僕を気にかけてくれていました。ありがたいことに、電通関西に入社するまではフリーランスの仕事を紹介してくれたりもしていて、縁が続いていたんです。そうして、当時「風トラ」という社名だったタイガー タイガー クリエイティブに入社することに決めました。代表の西脇と2人のプランナーという少数精鋭の会社でしたが、だからこそ新しいチャレンジができるのではと思ったんです。

──大きな広告代理店から、小規模のクリエイティブエージェンシーに転職したことで仕事の仕方に変化はありましたか?
もともと7名ほどしかいないクリエイティブチームに在籍して、1~2名体制で動いていたので、会社規模や業務領域、進め方などに違和感を覚えることはありませんでした。

一方で、明確に変わったのは、CMの企画に参加できる数です。電通時代は、大きな仕事をする機会をつかむだけで一苦労でしたが、今の会社は4名しかいない。案件に携われる機会は格段に増えました。大きな野球チームにいてたまに代打出場できるくらいだった選手が、少数精鋭チームに行ったことで毎試合スタメンとして試合に出られるようになった感じです。その「打席に立てる楽しさ」は間違いなく感じました。

また代表の西脇が、「面白い仕事を追求する」というスタンスですので、面白い仕事ばかりなのも魅力的だった。そういう仕事の選び方ができるのは、少数精鋭ならではだと思います。

「やってみなはれ」と言ってもらって、広告業界でやってこれた

──広告業界に入って10年以上、広告の仕事について、今感じていることをお聞かせください。
「やってみなはれ佐治敬三賞」の受賞スピーチでも話したのですが、業界的に「ちゃんとしなきゃいけない」という空気が広がり続けているように思います。

僕は別の業界から広告業界に入り、それこそ「やってみなはれ」と言ってもらってここまでやってきた人間です。「失敗してもいいからやってみろ」というような、ポジティブな意味での「いい加減さ」やおおらかさのおかげで、今ここにいます。そういうおおらかな土壌を維持し続けるのは、現実として難しい部分もありますが、それでも、失敗を恐れずに「面白いことをやってみよう」という気持ちを持って、行動しようとすることは大切だと思っています。

今、広告の仕事をする上では、さまざまな制約があると思います。コンプライアンスを守ることなど、ちゃんとすることはもちろん必要です。しかし、「ちゃんとしなきゃいけない」は必ずしも「失敗できない、挑戦できない」ではないと思うんです。僕自身は、代表の考えのもと、面白い挑戦ができる仕事に携われていますが、どの会社も同じというわけでありませんよね。そんな中でも、まずは自分なりにやってみて、制作に関わるみんなでより良い結果を模索していけるのが健全なのではないでしょうか。

だから僕は、クリエイター個人には「やってみなはれ」に対して「やってやろう」と挑戦するマインドを持ち続けてほしい。そして、広告業界には「やってみなはれ」と言えるおおらかさが残っていてほしいと思っています。

──「やってみなはれ」の精神を持ち続けるには、どうすればよいのでしょうか?
めげずに挑むことが大事かもしれません。僕がそうだったように、特に若手のうちはそもそも打席に立つ回数が少ない中、どうにか打席に入れても、最初は打てない人が多い。でも、めげずに頑張っていると、どこかでチャンスが回ってくるはずです。そのタイミングまで、めげないというのは結構難しいことですが、そこをこらえて挑む、ハングリー精神を持っていてほしいですね。

もちろん、チャンスを待つだけではなく、自分から動くことも必要です。挑戦しようというハングリー精神と、「失敗したらその時」と言える柔軟性が大事になるのではと思います。

今、自分が挑戦したい仕事に携わり、CM制作の仕事を続けていますが、いまだに「若手に負けるか、俺の企画が採用されるんや」とハングリーに仕事をしています。逆に若手のクリエイターにも「俺の方が細田よりおもろい!」と思っていてほしいです。そんなふうに、自分なりの面白いことにトライするクリエイターが増えるとうれしいですね。
──最後に、細田さんご自身の今後の展望をお聞かせいただけますか。
まずは、もっと面白いCMをつくっていきたい。僕にとって面白いCMとは、世の中の人が喜んでくれて、クライアントも満足してくれて、自分もつくっていて楽しいもの。そんな三方よしのものをつくり続けたいというのが、CMプランナーとしての展望です。

そして、広告業界で頑張ろうとしている若手のために何かしたいとも思っています。今働いている人だけでなく、これから広告業界に行きたい人も含めてです。実は今、宣伝会議のコピーライター養成講座で講師を務めていて、もう5年たちます。自分が広告業界に送り出してもらい、挑戦させてもらったように、今度は自分も何かを返していきたいんです。

たまに、仕事で会う広告会社の営業さんやクリエイターから「以前、細田さんの講座を受けていました」と話しかけられることがあります。講評で厳しいことを言ってしてしまっていないだろうかと心配にもなりますが、受講生から反応をもらえると、広告パーソンとしての誰かのキャリアの役に立てたようでうれしく思います。

僕の講座を受けて、あるいは僕のつくったものを見て、広告業界で頑張ろう、CM制作をやってみたいと思う人が増えてくれたらうれしいです。そんな仕事をこれからもしていこうと思います。

──自身が「やってみなはれ」と背中を押され、異色のキャリアで広告業界に飛び込んだ細田さん。挑戦しようという強いマインドは、今も、面白いクリエイティブをつくり続けていく姿勢にも表れています。自分がそうしてもらったように、今度は次の世代の広告パーソンの背中を押していきたいという細田さんの展望にも感銘を受けました。本日はありがとうございました。
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