電通入社のきっかけは、hideの言葉

──北尾さんは2000年に電通へ入社し、その後任天堂の「Wii」や「DS」などの広告クリエイティブを担当されていたのですよね。やはり昔から広告業界に憧れなどを抱いていたのでしょうか?
いえ、広告業界やクリエイターへの憧れはまったくありませんでした。私に電通へ入社するきっかけを与えてくれたのは、X JAPANのギタリストであったhideさんでした。

きっかけは私の学生時代。いまでこそ、大学が学生にメールアドレスを付与するのは当たり前ですが、1990年後半は、まだインターネットが普及し始めたばかりの時代。私の通っていた慶應のSFCは、学生全員にメールアドレスを与えた初めての大学でした。

そんな時代のなか、hideさんはほかのアーティストたちよりも一足早く、公式ホームページを開設していました。この開設されたホームページですが、hideさんに直接メールを送ることができたのです。そこで、試しにメールを送ってみたら、なんと本人から返事が来て…。すごくびっくりしましたね。
──hide本人からですか!? いまでは考えられないですね…。
そのころは送られてくるメールも4~5通程度だったらしく、だからhideさん自らがメールをチェックして対応することができたそうです。

当時の私も憧れていたアーティスト本人から返事がきたのが嬉しくて、このあともメールを送り続けました。自分のつくっていたホームページを気に入ってくれたようで、hideさんからも「いまアメリカではこんなバンドが流行っている」や「今度下北沢で友達がライブをやる」など、いろいろなことを教えてくれるようになって、段々関係が濃くなっていきました。そしてあるとき、hideさんが私をイベントに招待してくれて、とうとう直接お会いする機会を設けていただいたのです。そこからさらに、イベントの打ち上げにも誘っていただいて、hideさんと直接話しをさせていただきました。それからはありがたいことに、さまざまなコンサートや撮影現場に同行させていただけるようになって、とても多くのことを勉強させてもらいました。

そのようななかで、X JAPANが解散することになって、hideさんもソロ活動に専念をしていくことになりました。その際に、「新しくホームページを立ち上げたい」と私にホームページの作成を依頼してくれたのです。すごく嬉しくて、私も気合いが入っていたため、1カ月ほど学校を休んで夢中でホームページをつくりあげましたね(笑)。当時はホームページの管理や運営、デザインなどすべてを私一人で担当していたため大変でしたけど、hideさんもファンの人たちも喜んでくれていたので、すごく楽しい日々を過ごしていました。

私はこのまま就職をせずに、hideさんの事務所で働かせてもらおうと考えていました。しかし、1998年にhideさんが急逝してしまった。

実はhideさんが亡くなる前日も一緒に飲ませていただいていて、そのときに、私の進路についてhideさんに尋ねられたのです。「hideさんの事務所にいきますよ!」と私は話したのですが、「せっかく良い大学を出るのだから、日本のど真ん中から、世の中を変えろ!」と突き返されてしまって。でも続けて、「ロックな世界に帰ってきたくなったら、いつでも遊びにくればいいし」とも言ってくれて…。hideさんが亡くなったのは、その言葉をかけてもらった翌朝のことでした。
その言葉が私にとっては、hideさんからもらった最後のメッセージ。だから、それをかなえていこうと思って、「日本のど真ん中」を目指すことにしました。それがきっかけで、私は電通に入社しました。

任天堂の広告クリエイティブを手掛けて

──電通入社後はどのようなキャリアを築いたのでしょうか?
私が入社した2000年ごろは、TUGBOATが設立されたばかりで、職種で言うと、CMプランナーが花形の仕事であった時代です。そのせいか、同期は「面白いCMをつくりたい」という価値観を持つ人が多かったのですが、私は少しそこからずれた価値観を持っていました。というのも、面白いCMよりも「商品が売れるCM」をつくりたいという思いが強かったのです。だって、クライアントから仕事をもらうわけですし、その後も仕事を続けていきたいじゃないですか。だから面白いCMをつくるよりも、効果のあるCMをつくって成果を出したいと思っていました。そんなことをその当時から考えていたので、周りからはかなり変わり者扱いされていましたね。

ある日、任天堂の案件が私のもとに回ってきました。いまでは考えられませんが、当時は任天堂のゲームは「子どものおもちゃ」という印象が強くて、誰も担当したがらなかったのですよ。それで若手の私のところへ回ってきたのですが、いろいろな巡り合わせもあって、任天堂製品のCMやゲーム紹介映像を一人で担当することになりました。

──お一人で担当されていたのですか!? しかも当時はまだ北尾さんも若手であったとのことですし、すごく大変そうですが…。
一人なのが逆に良かったのです。企画や構成、スタッフィングやキャスティングなどをすべて自分で決めることができたので。しかも若手のうちにですから、滅多にない機会だと思いましたし、すごく運が良かったと思っています。任天堂の宣伝チームと一丸となって2000年半ばころに、「DS」や「Wii」などのCMをとにかくたくさんつくりました。
──「DS」や「Wii」のCMというと、タレントがゲームをプレイしているだけ……というCMがとても印象的に残っています。
そのCMシリーズは私が監督も務めていました。私がこのCMを演出する際に一番時間をかけたのは、ひたすらそのゲームをやり込むことでした。ひたすらやりこんで、ゲームの魅力が一番伝わるシーンはどこか探す。その場面をタレントにプレイしてもらい、用意したセリフではなく自分自身の言葉で感想を言ってもらうにはどうすればよいか、を考えました。

例えば、出演者が2人いた場合には、どちらか片方にのみ、ゲームが有利になる情報を伝えます。「このコマンドを使えば、ロケットスタートができます」みたいな。そうすることで、伝えられていない出演者は素で驚く。「なにそれ!?」というような感じで。そんなふうにして、あのCMはつくっていました。

このような演出のCMは、プロの映像監督に頼んでもつくることは難しい。なぜなら、忙しくゲームをやりこむ時間をつくれないから。だから、当時は自分で監督もして、そのゲームを知り尽くしている人として商品が持つ魅力を全面に引き出して伝えることだけを考えていました

ただ一方で、一人で全部やっていたため、残業時間がとてつもないことになってしまって…。私自身は泊まり込みでも仕事を楽しむことができていたのですが、会社としては看過できない状態になってしまいました。

そのため、任天堂の担当を外れるよう言われてしまったのですが、私もまだこの仕事を手放したくなくて。だから、「どうしても続けたかったら、どうすればいいですか?」と聞いたところ、「会社を辞めるしかない」と返されて。それを真に受けて、一度そこで本当に電通を辞めて、2008年に子会社のbless youに移り、そこで任天堂の仕事を続けることにしました。
bless youでは任天堂の仕事をメインでやりつつも、自分のクリエイティブの能力を広告以外の領域へ拡張していくことに努めていました。漫画原作の映画の脚本執筆やお菓子の商品開発、自治体のプレゼンテーション資料の作成など、広告を離れた部分でも、クリエイティブの能力を活かそうと取り組んでいました。

そのときに、私が一番やりがいを感じたのはCIや企業ブランディングなどの仕事でした。理由は企業の経営層の人たちと仕事をできたから。クリエイティブ領域から、企業の経営に近い人たちと仕事をしていくことがすごく楽しかった。そこで、より経営層との仕事をするために、電通に戻ったのですが、そこで「クリエイティブ・コンプレックス」のような状態にもなってしまいました。

クリエイティブを離れた先に待っていたモノ

──「クリエイティブ・コンプレックス」とはどのような状態なのでしょうか?
クリエイティブ領域の考え方を持った人間を経営層の人たちは面白がってくれるのですが、クライアントとの窓口である電通社内の営業たちが、「クリエイター」としてしか認識をしてくれないのですよ。つまり、私が経営層の方々と会うときには、「すでにCMをつくることが決まっている段階」ということです。でも私はそうではなくて、経営層の人たちと、「どんなマーケティング戦略をとるのか?の段階」から仕事をしたかったのです。だから、そこの段階から着手することができず、社内でクリエイターとしてしか仕事のチャンスが与えられないことがコンプレックスになってしまいました。

電通入社時のエピソードでも話しましたが、「面白いものをつくりたい」よりも、「商品をたくさん売って、成果を出したい」という気持ちを、私は昔から強く持っていました。

これはやはり、学生時代にhideさんのところで積んだ経験の影響が大きいのだと思います。hideさんのホームページをつくった際も、私自身が面白いものをプラスする必要はありませんでした。なぜなら、hideさんの魅力だけでコンテンツが成立するから。私がするべきことは、hideさんの魅力をどうやって、お客さんに伝えるかということ。むしろ、hideさん以外の要素を入れることは私には求められていませんでした。
この経験が私の原点にあるため、クライアントの想いやプロダクトの魅力を膨らませることに、最も力を入れたいという思いを、私は強く持っています。しかし、クリエイターという立場では、これをかなえることに限界がありました。

だから、私はMBAの資格を取ることにしました。その肩書きがあれば、クリエイターという立場から離れた仕事ができるのではないかと思って。1年間イギリスへ留学に行きました。

──経営者と仕事をしていくために、クリエイターとしてのキャリアがありながら、MBAの取得を目指しイギリスへ留学されたわけですか…。すごい行動力ですね。
ビジネス領域で仕事をしたくて、クリエイティブの領域を離れようと思ったのですが、留学した先で驚くことがありました。それは、経営学や会計学、組織人事論などビジネスを学ぶあらゆる授業で、「クリエイティビティが必要である」、そう言われたのです。

クリエイティブが嫌で、ビジネスを学びに行ったのに、まさか「クリエイティビティが必要だ」と言われるとは予想しておらず、とても驚きました。でもだからこそ、クリエイティブの領域でキャリアを築いてきた私でも、ビジネス領域で通用できる部分があるのではないかと、逆に強く自信を持つことができました。

──ビジネスとクリエイティブ、北尾さんは両方の領域で活躍されているわけですが、「クリエイター」が大切にすべきことは、結局どういうところにあるとお考えですか?
どの企業やプロダクトであっても、そのなかには必ず、社長の想いが存在しています。つまり、業クリエイターがするべきことは、社長のなかにあるその想いを引き出して、それをクリエイティブとして形にすることです。決して、クリエイター自身の表現を押し付ける必要なんてないと、私は思っています。
もちろん、アーティストとしてのクリエイターであるならば、自分の信念を貫く必要があります。しかし、商業クリエイターを目指すなら、その必要はありません。商業クリエイターというのは基本、受託であり、企業のお金で、企業のためにモノづくりをしている意識を忘れてはいけない。社長の言葉をお客さま向けに翻訳してあげることが商業クリエイターの仕事なのです。

だから私は、社長と仕事をしたいと思うようになりました。それこそがクライアントのために一番良い結果を残せる形だからです。

また、クリエイティブとビジネスの掛け合わせの結果は、必ずしもCMなどのアウトプットである必要はないとも思っています。新しいビジネスを生み出すことや新しいターゲットを見つけることなど、クリエイティブ発想だからこそ生み出せる新しいアイデアがあるのではないかと、私は考えています。

クリエイティブの素養を持ってビジネス側へキャリアを進んだ人は、まだまだ多くないと思います。だからこそ、自分がどのような結果を生み出していけるのか、私自身も興味が尽きないですし、まだ見ぬ領域を目指して、この先もチャレンジしていきたいと思います。

──hideとの出会いにより、踏み出した商業クリエイターとしての道。クリエイティブを越えて、ビジネス領域へ進んだ北尾さんのこれまでのキャリアについてお聞きしました。もはやクリエイティブの能力は、クリエイターにのみ求められるものではなく、すべてのビジネスパーソンに求められる力であると、強く感じました。今後の北尾さんのご活躍を応援しています。
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