人々の悩みを社会に届ける

──「#剃るに自由を」は、どのような背景で制作されたのでしょうか?
齊藤:今回の広告は、貝印が2020年7月に実施した「剃毛・脱毛についての意識調査」の結果をもとに制作されました。この調査で明らかになったのは、人々の剃毛・脱毛に対する考え方が、男女問わず多様化しているということです。日本では「女性はムダ毛を処理すべき」「男性は体毛を残すのが当たり前」といった考え方が、古くから固定観念となっていました。しかし、実際には調査を行った15~39歳の男女のうち、75.7%は毛について何らかの悩みを抱え、90.2%がファッションや髪型のように、剃ることは自由に決めたい、と思っていることがわかったのです。

そこで私たちは、毛に悩みを持つ人々の本音に寄り添うブランドメッセージを発信することを考えました。そうして制作されたのが「#剃るに自由を」なのです。完成した広告はSNSを中心に共感を集め、結果的に大きな反響を呼びました。
──貝印としても、人々の剃毛・脱毛に対する価値観の変化は感じていたのでしょうか?
齊藤:そうですね。当社はこれまで、刃物メーカーとして100年以上にわたってお客さまに寄り添ってきました。最近ではSNSやメルマガなどを活用し、お客さまにより近い場所で発信された意見に耳を傾けています。そのなかで、この1年ほどで集まっていた剃毛・脱毛に対する意見を見つめるなかで、これまで日本社会が持っていた価値観と、現代の人々の価値観との間にズレを感じていました。

例えば、女性は身だしなみの一つとして剃毛・脱毛をすべき、という風潮がまだまだ根付いています。しかし、なかにはアレルギーや肌が弱いなどの理由で、どうしても毛を剃ることができない人もいます。SNSなどでは、常に剃毛や脱毛をしなくてもよいのでは、という意見も少しずつ増えていますね。また、海外ではこうした風潮に異議を唱える動きが既に起きはじめています。例えば、アーティストのレディー・ガガさんは、脇毛を伸ばしている様子をInstagramで公開し、「剃らない自由」についてメッセージを発信していました。こうした影響力を持つ人々の活動もあり、ロンドンのマーケティング会社の調査では、ミレニアム世代の4分の1が脇毛を剃っていないという結果も出ています。

対して、日本の価値観は、女性は体毛を剃ることが当たり前、男性は体毛を剃らないことが当たり前、という考えが定着しているのでは、と感じていました。こうした状況に対して、SNSで人々の本音に耳を傾けてきた当社にできることはないかと考え、2019年の末頃から電通さんと打ち合わせしていくなかで今回の広告が生まれました。

松下:打ち合わせを重ねるなかで生まれたアイデアが、バーチャルヒューマンMEMEの起用でした。私は以前からCGモデリング技術を活かし、人々が身近に感じられるバーチャルヒューマンをつくりたいと考えていました。そのために必要だったのが、モデルにコンプレックスを持たせること。完璧な美少女をつくりあげるのではなく、シミやそばかすなどを持ち、誰もが共感できる女の子としてMEMEをプロデュースしました。
齊藤:私も以前からMEMEにはすごく興味を持っていました。今回の施策の場合、実在するタレントを起用してしまうと、タレント個人が持つキャラクターや思想が影響し、メッセージを正しく届けられないのではという懸念がありました。コンプレックスを抱える人々に身近な存在でありながら、フラットな立場で人々の意見を代弁するという、MEMEならではの表現ができたと思っています。

松下:人間ではなく、バーチャルヒューマンを起用したという珍しさも、広告のインパクトを増大させた要因かもしれませんね。MEMEとしても、その特殊性を活かしながらも、あくまで「普通の女の子」としてみんなの意見を代弁する仕事ができないかと考えていたところでした。まさしく今回は、それにチャレンジできる良い機会をいただくことができたのです。

佐藤:私たち電通としても、以前よりSNSの動向を観察しているなかで、ある課題を感じていました。それは、脱毛やダイエットに関する広告が、人々にプレッシャーを与えているということです。これらの分野では、広告内で「ムダ毛のないツルツルな肌こそ美しい」「痩せていなくては美しくない」と誤解させる過激な表現が用いられており、人々の反発を招いていました。コミュニケーションを促す存在である広告が、人々を傷つけるものになってはならないと考えました。「#剃るに自由を」に関しても、剃毛・脱毛が強制されるものではなく、ファッションや髪型と同じように楽しんでほしい、という思いを届けられるようクリエイティブに落とし込んでいきました。

──制作を進めていくなかで、苦労した点などはありましたか?
松下:センシティブなテーマなので、嫌悪感を覚える人が出てしまわないよう、あらゆる表現に細心の注意を払いました。完成した広告では、MEMEが両手を上げて脇を見せるポーズを取っているのですが、これは見せ方によってはネガティブに捉えられる可能性もありました。その可能性を少しでも減らすため、背景の色味や全体の構図、ポーズの角度や表情など、あらゆる箇所で調整を繰り返していました。ビジュアルはもちろん、コピーについてもチーム内で何度も議論しましたね。

佐藤:そうですね。コピーが1文字違うだけでも、伝わり方は大きく変化してしまいます。読み手による個人差もあるとはいえ、できる限りポジティブにメッセージを受け止めてもらえるよう、ギリギリまで修正を重ねました。齊藤さんとも公開直前まで打ち合わせをさせていただきました(笑)。

齊藤:ポジティブに届けるための調整は欠かせませんでしたね。それでもずっと不安はあって、公開前夜にはMEMEが夢に出てきましたよ(笑)。

また、私の場合は制作工程だけでなく、社内でのコンセンサスを取ることにもすごく時間を使いました。今回の施策は商品に依存するものではなく、貝印という企業の思いとして社会に問いかけるべきだと考えていました。そのためには社内で誤解が生じたり、疑問の声が上がってはいけないと思い、時間をかけて社内の各部署に足を運び、施策の意義を説明し、企画趣旨を理解してもらいました。お客さまの気持ちを代弁するからこそ、会社全体として責任を持てる体制づくりが必要だったのです。

人々の思い、クリエイターの責任

──社内外で尽力された成果が反響につながったのですね。公開後の感触などはいかがでしたか?
齊藤:公開後はポジティブな意見がほとんどで、抱えていた不安は吹き飛んでしまいました。なかには「ずっと抱えていた悩みを伝えてくれて涙が出た」「こういうテーマと向き合ってくれる企業がいてくれて嬉しい」といった感謝のコメントもいただけて、本当に嬉しかったですね。当社としては、あくまで剃毛・脱毛についてのメッセージでしたが、人々のなかではフェミニズムやルッキズムなど、想定以上の領域にまで議論が膨らんでいきました。ダイバーシティに潜む課題の深刻さを、施策を通じて再認識することができたのです。

松下:私たちにとっても、届いたコメントを見たときの達成感はひとしおでした。批判や炎上も覚悟していましたが、クリエイティブを通じて貝印さんのメッセージを正しく届けられて本当に良かったです。

佐藤:公開後に集まったポジティブな反響は、PRとクリエイティブの連携によって得られた成果でもあると思っています。貝印さんと私たちが消費者の声から立てた仮設をもとに、意識調査や海外事例を通じて徹底的に情報を集めました。そこから得られた事実をもとに、人々の抱える悩みを正しく理解し、クリエイティブに落とし込んでいきました。PRによってストーリーとファクトという道のりを整備し、広告によってメッセージを届ける。この両方がうまく機能したからこそ、多くの人に賛同いただくことができたのではないでしょうか。

事前調査を行うなかで印象的だったのが、若い世代を中心に価値観の多様性が進んでいることです。価値観が変化しているからこそ従来の広告が人々を傷つけ、炎上につながる事例もでてきています。クリエイターとしても時代の変化に対応し、広告というものを見つめ直す機会をいただけました。
──今後もダイバーシティの考え方が社会に浸透し、課題に直面する機会も増えていくと思います。そのなかでクリエイターとして、また企業の広報責任者として、どのように向き合っていくべきだと考えますか?
松下:この取り組みを通じて、広告の影響力を再認識することができました。ビジュアルやコピーが少し違うだけで、広告は凶器にも救いにもなり得る。そうしたクリエイターとしての責任を肝に銘じて、今後も研鑽を続けていきたいと思います。また時代の変化に合わせて、広告業界にも多様性を認めようという意識は広がりはじめています。まだまだ多くの社会課題が内包されているからこそ、「#剃るに自由を」に続く次の一手を、貝印さんと協力して取り組んでいきたいと思います。

齊藤:今回の施策では、どちらかといえば女性に対する問題への議論がSNS上でも多かったように思います。しかし、日本では男性の剃毛・脱毛に関する意識も、古い価値観から抜け出せていないということもアンケートやお客さまの声から感じています。偏見や差別といった文化が社会に根づいているなかで、苦しんでいる、悩んでいる方もまだいると思います。メッセージにもある通り、ファッションや髪型のように、”剃る”ことももっと自由で楽しいものであってほしいと思っているので、今後もさまざまな年齢・性別の方々を対象に、メッセージを発信し続けていたいと考えています。

また「#剃るに自由を」を宣言した以上、我々のメッセージが未来にも影響を与えることにも責任を感じています。デジタル化が進む社会において、私たちの取り組みは5年後、10年後にもコンテンツがWeb上に残り続けます。なかには過去の広告の価値が見直され、時代を越えて社会にインパクトを与えることもあるでしょう。だからこそ、中長期的な目線で事業を展開していく必要があるのだと思います。当社では2020年4月に「SDGs推進室」を新設し、ダイバーシティや環境問題に取り組むための土壌を整えているところです。既存の商品やサービスのあり方も見直しを重ねながら、時代にフィットするモノづくりや情報発信を続け、社会に貢献していけたらと思っています。

──未来を見据えたメッセージを、最適な形で具現化する。それぞれの立場で社会と向き合うことが、ダイバーシティの推進につながることがわかりました。両社の連携によって、次はどのようなインパクトを社会にもたらすのか、今後の取組にも注目していきたいと思います。お話いただきありがとうございました!
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