広義のデザインは、夢だった「発明家」に似ていた

──いつからデザイナーになりたいと思うようになったのですか?
子どものころは発明家になりたかったんです。「少年少女発明クラブ」(発明協会が全国で展開)が、私のふるさとの愛知県にもあって、小学生のときに通っていました。愛知はモノづくりが盛んですから、子ども向けのそういった活動も活発でしたね。地元の企業から来るボランティアの人たちに教えてもらいながら設計図を書いたりして、「ひらめいた!」なんてやるのが楽しかったです。

進路を決めるにあたり、「発明家に一番近い職業ってなんだろう」と考えて、デザイナーを思い付きました。グラフィックデザインではなく、モノを設計するプロダクトデザインとか、街づくりにかかわる環境デザインとか。それで、大学・大学院でデザインを学んだ後、2000年に大手電機メーカーに就職しました。配属されたのが、携帯電話のプロダクトデザインをしていた部署です。

──その当時、携帯電話と言えば一番盛り上がっている分野。最初からエース部門だなんて、期待されていたということですね。
大学院で街づくりの合意形成の研究をした経験から、デザインというものを、表面的なアウトプットではなく、より広義の意味でとらえるようになっていました。だから、本当はプロダクトデザイナーではなく、まだ世の中にないサービスをデザインする部署に行きたかったんです。

でも、会社には「女性のプロダクトデザイナーを積極的に採用したい」という考えがありました。当時は女性が珍しかったからでしょうね。それで私が選ばれたのだと思います。実際、プロダクトデザインの基礎を手厚く教えてもらって、大事に育ててもらいました。恵まれた環境にすごく感謝していたのですが、「本当にやりたいのはこれじゃないんだよね……」というモヤモヤした気持ちもありました。

──その気持ちを解消するために転職を?
私がいたのはプロダクトデザインの部署ですから、思いっきりデザインができます。でも、逆に言えばそれしかできない。表面的なアウトプットだけでなく、もっと広く、その前の工程や後ろの工程にもチャレンジしたかった。それで、ある通信キャリアの商品企画職に応募し、採用されました。実際は商品企画以外にも、プロダクトデザインのディレクション、ブランディングまで幅広く任せてもらいましたね。

──まさに、デザインの前後の工程に守備範囲が広がったわけですね。
さらに、すべてのプロダクトデザインを決定する権限も、私に与えてくれました。デザイナーがデザインを決めるというのは、日本では当たり前のことではありません。一般的には社長や事業部長が決めることが多いです。それを29歳の若いデザイナーに託してくれた。その会社は、経営陣の多くが40代と若く、ある意味スタートアップ的なマインドをもっていました。「デザインは一番得意なあなたが決めるべきだ」と、いつも言ってくれていました。
それだけではありません。別の通信キャリアから「プロダクトデザインを統括する部署をつくるので、マネージャーとして来てほしい」という勧誘があったとき、「あなたのキャリアのためになるから行きなさい」と後押ししてくれました。両社の役員が話をして、温かく送り出され、迎え入れてもらった。まるでお見合い結婚のようでしたね。娘さんをください、みたいな(笑)。

──そこまで円満な形で同業他社に転職できるのは珍しいです(笑)。それにしても、移った先の通信キャリアはかなりの大手ですね。
はい。その当時で、契約者数が前の会社の10倍以上ありましたから、プロダクトデザイナーとしてはやりがいがありました。

でも、思わぬ苦労もしました。歴史ある日本らしい会社で、前のところとはマインドや風土が全然違ったのです。私の専門領域であるプロダクトデザインの統括より、まず1部門のマネージャーとしての働きが求められました。デザインを決定するにしても、前のように「デザイナーの一存で」とはいかない。関係する部門と連携したり、ときには政治的な調整が必要でしたね。

デザインの専門家としての意見を通すために、まずは会社の風土を素直に受け入れ、なじむ努力から始めました。会社のやり方やシステムをちゃんと踏襲して、他部門のマネージャーと一緒に汗をかきながら事務方作業もした。そうやって、1人のマネージャーとして信頼されて、初めて「デザイナーの視点からするとこうなんです」という意見に耳を傾けてもらえるようになりました。このころは、自分のなかにマネージャーとデザインディレクターの2人が同居しているような感覚でしたね。2倍働いたと思います。私のキャリアに「マネジメント」が加わり、スキルマップがさらに広がりました。大変でしたけど、この先はどこの会社に転職してもやっていける、という自信がつきました(笑)。

「日本の企業への転職は無理」と言われて

──それで外資系企業へ?
そう言いたいところですが……。次のキャリアとして、プロダクトブランディングに軸足を置こうと思っていました。でも、転職エージェントに「あなたのスキルとポジション、年収は、日本の企業から“はみ出る”」と言われてしまったんです。つまり、スキルマップが広がり過ぎて日本の企業への転職は無理だと。それだったら外資系に行こう、と思ったのが実際のところです(笑)。

転職先に決めたのは、まだ日本で頭角を現す前の通信機器メーカーです。プロダクトデザインのレベルはすでに相当高く、足りないのは日本のマーケットにおけるブランディングで、私のキャリアプランに合致すると思いました。それを面接で話したところ、「新しく部署をつくってあげるよ」と言ってもらえたのです。

転職することを周りに伝えたら、「どうして!?」と、かなり突っ込まれましたね。「有名な大手企業から、なぜ知名度も規模も小さい外資に行くのか」って。でも、数年後に10兆円企業に成長したときには、「堀田さん、見る目があるね~」なんて言われましたよ(笑)。

異色の経歴すぎて会社が困惑(笑)

──その後、現在の電通に入社されました。通信から広告へ、はたから見ると、まったく異なる業界に飛び込んだように思えます。どのようないきさつがあったのでしょうか。
その外資系の通信機器メーカーでは、人手が足りなかったため、本務のプロダクトブランディング以外にもいろんなことを任されました。マーケティング・コミュニケーションや広報チームを率いることも。すると、プロダクトを「つくる」領域から、つくったプロダクトを世の中に「伝える」領域へ、職域がどんどん変わっていったのです。

プロダクトの情報をどう発信して、どういう受け止め方をしてもらいたいか。その戦略を考えるのはすごく面白い作業で、もっと追求したくなりました。それで、「伝える」ことが日本一得意な電通グループに入ったのです。これまでなんども転職をしてきましたが、一番ジャンプしたのがこのときだったと思います。通信業界を出るのも初めてでしたし、クライアントビジネスという、事業会社とは異なるビジネススキームも初めて。それはもう、めちゃくちゃ「越境感」を覚えました。

戸惑ったのは電通の方も同じだったと思います。私のような越境者をどのように活かせばいいのか、当初はわからなかったようです。半年間は仕事がありませんでした。例えばプロダクトデザイナーだと名乗っても、クライアントに「メーカーでもない電通にできるの?」と言われてしまうのです。だから、「人間中心設計専門家」と「人間工学専門家」の資格を取りました。それまでの自分の強みを見える化して、第三者に太鼓判をもらえば、社内の人にもクライアントにも、スキルがあることを信じてもらえるかなって。資格保持者であることを名刺に入れているので、初めてお会いした方には「え? 広告会社の方ですよね?」と驚かれます(笑)。

──電通でプロダクトデザイナーとしてのポジションを獲得するために、地道に努力と工夫を重ねていたのですね。なにかブレイクスルーとなる出来事があったのでしょうか。
独自に、ECサイトの使い勝手を評価するシステムを開発しました。サイト利用者の脳波を計測することで、「使いにくさ」の原因を特定し、客観的に評価できるというものです。それをいろいろなところに売りに行きました。自分で顧客を見つけて、自分でプレゼンに行って。

──行動力がすごい!
私のようなスキルセットの人材は、これまでの広告会社にはいなかった。それで扱いに困るなら、自分で仕事をつくるしかありません。広告会社でもこうやってプロダクトをつくって稼げるのだと、自ら実績を出して証明しなければいけないという思いがありました。
 
──随分ストレスを抱えたと思いますが、そこまでして電通でポジションを得て、やりたかったことはなんでしょうか?
プロダクトデザイナーになった当初から「稼げるデザイン」を追求してきました。しかし、前職の外資系通信機器メーカーで「伝える」仕事をするうちに、「いまはもう、良いプロダクトをデザインすれば売れる、という時代ではない」と気付きました。あらゆる市場でコモディティ化が進み、インターネットの発展で消費者の行動プロセスが変わっているからです。これまでのように、つくったあとに伝えることを考えるのではなく、つくるときから伝えることを一緒に考えたり、伝えることから逆算したり。そういうモノづくりが求められていると思いました。

──いまの世の中で稼ぐには、マーケティング・コミュニケーションや広報、ブランディングを最初からセットにして製品やサービスをつくるべきだと。コミュニケーションに強みを持つ電通で、それを実現しようと考えたのですね。もはや、プロダクトデザイナーの領域を超えているのではないでしょうか。
そうだと思います。だから私はいま「ビジネスデザイナー」という看板を掲げています。新しいビジネス、新しい稼ぎ方をデザインしているのです。

──クリエイティブな仕事をされている方は、ビジネスとか稼ぐとか、そういった話はしたくないと思っていました。
確かに昔の広告業界の人は「クリエイターがお金を語るな」と言うかもしれませんね。でも、私はメーカー出身ですから抵抗がありません。むしろ、お金を稼ぐことこそがクリエイティビティだと思っています。新人時代にデザイナーの基礎を教え込まれたとき、「良いデザインをするのは当たり前。買ってもらえるもの、使い続けてもらえる、もうかるものをつくりなさい」と、さんざん言われていました。自分のデザインでどうやってお金を稼ぐか。それを考えることが当たり前のカルチャーで育ったのです。

広告クリエイターが、私がやっているビジネスデザインの領域に入っていくことは、そんなにハードルが高くないはずです。電通に来て「すごい!」と思ったのが、クリエイターたちのアイデア力。発想が面白く、これまでにない切り口を見つける能力に長けています。だから、「新しいお金もうけを考えることもクリエイティビティの1つだ」ととらえ直すだけで、広告作品以外にも、アウトプットできることが増えていく。広告だけでは解決できなくなっているクライアントの課題に、最適な解決策を提案できるようになると思います。

過去の経験すべてを活かして実現したいこと

──今年1月には、部署名が「サステナブルビジネス・デザイン部」に変わりました。
世界中が持続可能な社会を目指すなか、多くの企業は、どうやったら社会課題を解決しつつ稼げるのか、真のサステナビリティを実現するスキームづくりに悩んでいます。

その様子を目の当たりにして、れからは新しいビジネス、新しい稼ぎ方のなかでも、「サステナブルビジネス」のデザインをやりたいと思うようになりました。これこそが社会の要請であり、私に課せられた使命だと。これまでさまざまな経験で集めたスキルセットが、パズルのピースのようにすべてはまり、「サステナブルビジネス・デザイン」という形になったような気がしています。

──サステナブルビジネスをデザインする。イメージしていることはありますか?
「サーキュラー・エコノミー(循環型経済)」が鍵になると思います。従来の「Reduce(リデュース)」、「Reuse(リユース)」、「Recycle(リサイクル)」、いわゆる「3R」とは違い、モノをつくる段階から再利用しやすいデザインにして、廃棄せずに生産と消費のループをぐるぐると繰り返すビジネスモデルです。また、それらをデータでつなぎ、活用することも重要です。

クライアントの「サーキュラー・エコノミー」の実現をサポートすること、そしてもちろん、社内外へ「伝える」作業も同時に行って、企業姿勢のアピールやブランディングをお手伝いすること。今後はこれが私の専門領域になっていくと思います。「サステナブルビジネスデザイナー」という新しい職種をつくり、背負っていくことになるかもしれません。世の中に良いことをしつつもちゃんと稼げる、本当の意味での持続可能性を追求していかれたらいいなと思っています。
──インタビュー中、「稼ぐ」という表現にこだわって、繰り返しお使いになる様子が印象的でした。広告の世界には、クリエイティブの話題でお金に触れるのは野暮だよね、という空気が少なからずあります。しかし、発明家に憧れ、メーカーでプロダクトデザインを極めた堀田さんにとって、デザインでお金を稼ぐことは最上級にクリエイティブなことです。広告界はいま転換期を迎えていますが、堀田さんのような思考をもつクリエイターが増えることが、広告会社のビジネスを持続可能なものにするのかもしれないと思いました。本日はありがとうございました。
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