肩書は「クリエイティブディレクターでありシンガーソングライターだ」と言いたくて カンガエル 赤松隆一郎さん
2021年、電通は100%子会社の「ニューホライズンコレクティブ合同会社」を立ち上げました。個人事業主として独立した元電通社員たちを支援するものです。同社と業務委託契約を結んだメンバーは、電通を含むさまざまな企業から受託した業務を担当。完全フリーの独立とは違い、毎月一定額の報酬が入るため、お金のことを心配せず安心してやりたいことに挑戦できる仕組みです。クリエイティブディレクターの赤松隆一郎(あかまつりゅういちろう)さんは、この制度に参加した1人。「体のいいリストラでは」という一部の冷めた声を尻目に、「こんな素敵なリストラはない」と言い切ります。サントリー「GREEN DA・KA・RA」などメジャー企業の広告制作で存在感を発揮する赤松さんは、なぜ独立してニューホライズンコレクティブへの参加を決めたのか。そのキャリアをさかのぼると理由が見えてきました。
広告クリエイターになったのは偶然の積み重ね
──大学を出て最初は銀行で営業の仕事をしていたそうですね。はい。4年間勤めました。学生時代からずっとミュージシャンを目指していて。就職してからも活動を続けて、レコード会社との契約が決まり、いわゆるメジャーデビューをすることになったんです。それで退職しました。
実際にレコーディングが進んだのですが、いよいよというときに、親の病気や家族の問題が重なった。その結果レコード会社と結んだ契約条件に沿って活動を続けることが難しくなり、すべて白紙になってしまいました。
27歳で無職。なんとかしなくてはと仕事を探していました。そのとき、新聞でたまたま電通西日本の求人広告を見つけたんです。
──銀行に戻ることは考えなかったのですか?
また銀行員をやる気分にはなれなかったですね。デビューの話は白紙になったものの、一度入った気持ちのスイッチを完全に切ることはできなくて。音楽は無理でもせめてなにかをつくる仕事がしたいという気持ちがありました。
──だから広告会社の求人広告が目に留まった。
あの日のことは不思議と鮮明に覚えています。毎日、時間だけはあったので、よく本を読んでいました。その日はホラー小説の『リング』を読んで、あまりの怖さに眠れずにいた。明け方4時頃かな、アパートの郵便受けにゴトッと新聞が入って。開いて求人広告欄に目をやると、そこに「電通西日本 クリエイティブ職 募集」と出ていました。それも、僕が住んでいた松山支社での採用というので、受けてみようかなと。
──未経験からのクリエイティブ採用はハードルがかなり高そうです。
そうなんです。銀行員時代にソニーから出したコンピレーションCDを履歴書に添えて提出したのですが、それが印象に残ったのかな。採用担当の人が聴いてくれたみたいで、面接で「これは、詞も曲も自分で書いたの?」と聞かれました。そうだと答えると「へ~!」って。
元銀行員がクリエイティブに入るなんて、広告業界では例がなかったんです。電通西日本としても初めてのケースでした。どうなるかわからないけれど採用してみよう、という感じだったのだと思います。「君は営業ができるから、もしクリエイティブで芽が出なかったら、営業に移ってもらうかもしれない」と言われていました。
──そのくらい異例だったということですね。最初から異動の可能性をほのめかされて、どう思いましたか?
いや、焦りましたよ(笑)。松山支社はそう大きくありませんから、1人でプランナーとコピーライターの両方をやらなくてはいけませんでした。未経験でゼロからの勉強なのに、数年の間になんらかの結果を出さなくちゃって。結果が一番わかりやすいのは広告賞を取ることだと思いました。そのころは、ずっとそればかり考えていましたね。東京や大阪の大手企業がやっているような企画をまねしてみたり。でも全然うまくいきませんでした。
そんななか、地元のテレビ局が主催する花火大会のテレビCMが、立て続けに幾つかの賞を取ったんです。予算が15万円しかなかったので、僕が自分で撮影したワンカットの映像に、ポンとコピーを乗せた、シンプルな作品です。これがすごく褒められた。「こういうやり方をしてもいいんだ」と、1つの突破口を見つけた気持ちになりました。
その受賞パーティーに出席したときのこと。親会社である電通の、関西支社で当時クリエイティブの局長をされてた方と話す機会があって。「君は大阪で働いてみる気はないか?」と聞かれました。そんなの社交辞令だと思うじゃないですか。僕も「いつでも行きます!」なんて気軽に答えて(笑)。ところが現実になった。電通西日本を退職し、あらためて電通の入社試験を受け、関西支社に所属することになったのです。
──またしても異例の人事ですね。
さらに続きがありまして(笑)。関西支社で仕事をするうちに、東京の仕事を受注することが増えた。それで、東京本社のCDCという部署に移籍して、クリエイティブディレクターとして働くことになりました。 ──広告クリエイターとしてのキャリアをとんとん拍子に積み上げてきた印象を受けます。
こうやって話をすると、なにかこう、自分の力でキャリアを選んで、ステップアップしてきたように思われがちなんですけど…。それってちょっと違うなと思うんです。新聞で電通西日本の求人広告を見つけたことも、異動のきっかけになった受賞パーティーに参加したことも、たまたまというか。偶然です。
偶然がきっかけになって就いた仕事を一生懸命やってみたら、自分に向いていただけだと思います。そのうまくいったことを成功体験として語ると、あたかも自分が描いたとおりに キャリアを積み重ねてきたみたいになってしまう。本当に大事なことは、自分の意思とは無関係なところからやってきているのに。
そもそもは音楽がやりたかった。音楽で食べていきたかったんです。27歳という、当時の音楽業界ではギリギリの年齢、最後のチャンスでメジャーデビューが決まり、レコーディングが始まって、タイアップが決まりかけて。めちゃくちゃ夢が広がっていた。それがいきなり無職になってしまった。なにか仕事をしなくちゃいけない。できれば何かをつくる、生み出す仕事を。広告クリエイターとしての出発点はそこです。「キャリアをつくる」という考え方をもちろん否定しませんが、自分に関して言えばそうじゃない。「プランド・ハップンスタンス(計画された偶発性)」という言葉があります。キャリアの8割は予期しない偶然で形成されるという意味です。この主張には賛否両論ありますが、僕は言い得ているなと思うのです。
ニューホライズンコレクティブはすごい「企画」だと思った
──そして2020年末に独立。「合同会社カンガエル」として活動されています。電通を辞めるに至る、なにかがあったのでしょうか。最初の数年は、とにかく広告クリエイターとしての結果を出すことに必死でした。音楽は余暇に楽しむものと割り切っていた。異業種から転職し、ただでさえ未熟な自分が音楽を持ち込むことで、広告の仕事をおろそかにしていると見られることも避けたかった。
ところが、愛媛のテレビ局のブランドCMをつくったときのこと。企画のアイデアに困って、コマーシャルソングを鼻歌でつくってみたんです。それがすごく評判が良くて。当時、地元の人なら誰もが知っている歌になりました。それ以降、歌や音楽を企画に絡めることが徐々に増えていって。広告の仕事と音楽は別物と考えなくてはいけないと思い込んでいたのが、音楽が広告の領域にじわっと入ってきた。隔てていた壁がなくなって、2つが溶け合っていきました。そうやって続けてきたことが15年の時を経て、サントリーの「GREEN DA・KA・RA」のキャンペーンで結実したのだと思います。「グリーンダカラちゃん」のシリーズで提供した一連の楽曲とCM企画は、自分の中でのひとつの完成形です。
そうなったとき、「広告も音楽もどちらも同じくらいに大事だ」と、はっきりわかったんです。自分はクリエイティブディレクターでありシンガーソングライターであると。明確な切り替えスイッチなんかなくて、そのときに応じて変化したり、あるいは交わったりする。どちらも生業として堂々と名乗り、生きていきたいと思った。でも電通に所属している限り、シンガーソングライターは「副業」として扱われる。そして副業には会社の「許可」がいる。どんなに自由にのびのびやっているように見えても、実は会社に許しを乞うことで音楽をつくり、歌っているという事実に耐えられなくなった。これが、電通を辞めたというか、会社に所属することを辞めた理由です。
──独立して「ニューホライズンコレクティブ」(以下、NH)と業務委託契約を結んだのには、どういうお考えがあったのですか?
そんな経緯があったので、もともと近いうちに独立しようとは思っていました。少しずつ準備をしていたとき、人に教えてもらってこの制度の存在を知ったんです。「面白い!」と感じました。働き方改革を模索する電通が、すごく新しい「企画」に挑戦しているように思えたのです。
「体のいいリストラ」と言う人もいるようですが、僕はそうは思わなかった。そう思いたい人はどうぞ、という感じでした。リストラとは本来「再構築」を意味します。こんな素敵なリストラなら、ぜひ手を挙げたい。斬新すぎて企画そのものが失敗するかもしれないけれど、それでも、この前代未聞の集合体に参加してみる価値はあると思いました。NHの存在が後押しとなって、予定より半年ほど早く独立することを決めたんです。
──独立してNHに参加して、広告の仕事と音楽活動の力の入れ方は変わりましたか?
変わりました。クリエイティブディレクター・CMプランナーであることに変わりはありませんが、そこに「シンガーソングライター」と堂々と加えることができるようになった。14年ぶりにソロアルバムを出しました。ジャケットのデザインにも凝りましたし、録音も納得いくまで時間をかけました。制作費用もおかげさまで経費として計上させてもらっております(笑)。表現の活動を会社の許しを得ることなく、なんの遠慮もせずにできるのはとても気分がいいです。
そのアルバムを持って、初めてソロ弾き語りツアーにも出たんです。自分でライブハウスを押さえ、フライヤーをつくり、車を運転して全国8カ所を回った。ギターとピアノ、すべての曲をひとりで演奏して歌うことは初めてだったので、3カ月ほど毎日4、5時間は練習しました。まあまあの時間をかけてるでしょ(笑)。
──確かに、会社員のままではそこまでの時間の調整は難しいですよね。
時間を確保するために、今年は広告の仕事はセーブしました。もちろん、お付き合いが長く、僕が音楽をやっていることを知ってくれている既存クライアントの仕事は全力でやりましたよ。でも、新規のお仕事はお断りせざるを得ませんでした。
このやり方が、今後の自分の人生にどういう影響を及ぼすのか、不安はゼロではないです。仕事がなくなっちゃうかも。でも…仕方ないですよね(笑)。こういうことをやりたいがために会社を辞めてNHにいるんですから。 ──NHに参加して約2年。振り返ってみていかがですか。
メンバーとの関係性が好きです。自分は友達が多くはないし、1人でいることも平気なタイプ。だから、NHの付かず離れずの感じが合っているのだと思います。その気になればリアルに会えるオフィスが人形町にあるというのもいいですよね。いい街だし。
何より、NHにいる230人には、「会社に愛着を持ちながらも悩み、辞める決断をした」という共通の体験があります。それはとても支えになることだと思う。同期入社はあっても、同期退職、それもこの人数で、ってなかなかないですよね(笑)。
──赤松さんがつくったNHのイメージソング『NEW HORIZON』のMVを見ました。すごく良かった。いまお話された仲間たちへの思いが凝縮されているように感じました。
ありがとうございます。
NHとしては今後このシステムをパッケージにして、世の中の企業に提案していくことになると思います。そのとき、どういう言葉とデザインをまとい、どんなプレゼンをすればよりよいかたちで届くのか。自分のクリエイティブディレクションの力を役に立てられたらいいなと思っています。
──NHは、10年間は一定の収入を保障して、自立に向けたサポートをしてくれる制度です。不安が少ないからこそやってみたいことはありますか?
音楽以外でいうと…、地元、愛媛への恩返しですかね。
独立の前後に、愛媛朝日テレビのスローガンをつくる仕事を請けました。「地元を愛す。」というコピーを書いたのですが、チームのメンバーとキャラクターやCMも制作し、さらなる展開で、「地元を愛す アイス」というアイスクリームをつくって売ってはどうかと提案したんです。ダジャレですけど(笑)。地元農家のオレンジを使って、製造も地元のメーカー、流通も地元のスーパーに協力してもらう。テレビ局がスローガンを掲げるだけでなく、実際に地元と連携してまさか!なことをやるのがいいですよねと。そうそう、サウンドロゴも作曲したんですよ。
これからは、こういった仕事をもっとやっていきたい。愛媛、そして西日本は、25年前、クリエイティブの右も左もわからない僕を受け入れて、育ててくれた場所です。お世話になった当時の人、場所に恩返しができるような仕事をしていけたらと思います。
「自分を成熟させたい」が独立の理由でもいいじゃないか
──最後に、赤松さんのこれからについて伺いたいと思います。カンガエルの方針に「事業を成長させない」、「人を雇わない」とあります。会社が掲げる方針としては、なかなか珍しいですよね。事業を大きく成長させようとしたら、人を雇わなくちゃいけなくなる。人を雇うというのは、その人の人生にある程度まで責任を持つことだと思います。その人が窮することなく生活できているか、明るい気持ちで仕事ができているか、すごく気になる。それが僕には相当なストレスになってしまうのです。
いまの日常ですら、仕事や音楽で協力してくれる周りの人に対して感謝はもちろん、多少なりとも責任を感じています。これが精いっぱい。それに、もともと人から評価されるのが嫌いで、評価するのも気が進まない。だから、事業を成長させない、人を雇わないというのは、強い主義主張というほどのものではなくて。性分として無理、ということです。
もうすぐ54歳。たくさんのクライアント、たくさんのプロジェクトに参加して「成長」していくことを渇望する時期はとうに過ぎています。それよりも、どうすればより丁寧で深みのあるクリエイティブディレクションへと上達できるのか。自分の言葉と声を使い切って歌い、演奏できるのか。「成熟」することに興味が向いているんです。
広告の場面で誰かと話をするにしても、目の前の仕事にすぐ役立つなにか、ではなく、それよりも、長く心のなかに留めておけるような言葉のやりとりができるようになりたい。音楽においても、その場でギターを弾き、言葉を紡ぎ、歌っていることが、かけがえのない時間になって長くその人の心に残る。そういうパフォーマンスができるようになりたい。それが、いまの僕の願いですね。
──NHのイメージソング『NEW HORIZON』の歌詞に「終わることを知ったから 始まりが見えたんだ」とあります。ミュージシャンとしてのメジャーデビューをあきらめ、「終わる」ことを経験した。だからこそ広告クリエイターとしての人生を始められたし、それさえいつか終わりが来ることを想像できている。でも悲観しているわけではない。冷静にポジティブに受け止め、自分のクリエイティブディレクションを深掘りしていく道、ミュージシャンとして生きる新しい道を開こうとしている。広告の世界に生きる人たちにとって、勇気が出るようなお話を伺えた気がします。本日はありがとうございました。