その愛 消せますか ─ 未来のエモーション 第18話
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をお届けしています。一話完結。第18話は「その愛 消せますか」。
むかしむかしではなく、みらいみらい。
病院の長いフロアを一人の男が看護ロボットと歩いています。
春の午後の日差しが内科待合室にあふれています。何人くらいいるでしょうか。50~60人がじっと押し黙って時を不安げに過ごしています。あの病院独特の消毒液のような匂いもわずかにですが漂っています。看護ロボットは内科のエリアを過ぎて、さらに奥へと動いていきます。奥は薄暗く、秘密の場所へと誘導されているようでした。
男の名前は溝呂木コージ。白いトレーナーにジーンズという出でたちで、モスグリーンの床をいつもより歩幅を狭くして歩いていきます。看護ロボットは1メートルちょっとの大きさで、金属のボディをピカピカさせ、丸い頭をクルクル振り、同じく丸い目をパチパチさせて、機械音をジージー立てて動いています。
看護ロボットは初診の患者と歩行障害がある患者とクルマ椅子の患者をサポートしていて、AIテクノロジー実装の最先端病院に導入されていました。彼あるいは彼女は、今、溝呂木くんが目指す科の診察室にナビゲートしているところなのです。
しばらく行くと、すっかり無人の空間が現れました。秘密めいた天井までの透明で大きなドアがあり、看護ロボットが赤く目をピッと光らせると、スーッと左右に開きました。ともかく静かでした。でも、その静けさは心を落ち着かせる類のものではなく、心をざわつかせる類のものでした。あたりの照度は落ちて、すべての壁はなぜだか薄いピンク色になり、いつか見たSF映画の宇宙船の内部のようだと溝呂木くんは思いました。
「ここで少しお待ちください」
看護ロボットは女性の声で滑らかにそう言うと、クルッと後ろむきになり、先導のタスクを終えた満足感をピカピカと背中に漂わせながらコトコトと去っていきました。
溝呂木くんが座った長椅子もまたピンク色で、目の前の診察室には「Neurosurgery」と表記された液晶プレートがありました。
脳外科。なぜ、溝呂木くんがこの科に来たのか。それはおいおい話すとして、しばらくすると溝呂木くんの診察カードがキラキラと虹色に点滅し、診察室へ入るように促されたのです。
ドアが音もなく開くと、海の底が現れました。
そこに一人の白衣の医師がいました。あごひげを生やして、銀色のメガネをかけ、大柄な体を椅子に深く沈ませて、にっこりと笑いました。海の底と書いたのは、壁も床も天井もぜんぶが淡いブルーで照明の光がゆらゆらとしていて、まるで海中のようだったからです。
「溝呂木さん、ですね。溝呂木コージさん」
「はい」
「お座りください。ま、ゆっくりお話をしていきましょう」
「あ、お願いします」
そんなやりとりから診察は始まりました。
「驚きましたか、変わった診察室ですよね」
医師はモニターをチラッと見てから、部屋をぐるりと見渡して、
「こんなふうにすると、人は落ち着くんだそうです。今まで、あまりにも病院は殺風景すぎたのかもしれません・・・・申し遅れました、クボタです」と言ってから、
医師、つまりドクター・クボタは発光するモニターに向かい、何かを指でサッと入力しました。
「PTSDでいらっしゃいますね」
「はい」
「もう少しリラックスしましょうか、深呼吸をしてみましょう、ハイ!」
溝呂木くんが大きく深呼吸すると、このブルーの環境に同化して海の底にいる魚になったような気がしました。
「そうそう、いい感じですね、心拍数が少し下がりました」
ドクター・クボタはモニターのデータを見て、また、にこやかな笑顔をつくりました。溝呂木くんもその笑顔をみて、少し心を落ち着かせることができました。
PTSDとは、『心的外傷後ストレス障害』のことです。
<強いトラウマ体験をきっかけに、時間が経過してもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験が生じ、それに伴って否定的な思考や気分が精神上に起こり、身体的症状がでることもあります・・・>。人は誰でも嫌悪記憶を持つものですが、その強烈なものが溝呂木くんの脳に離れがたく刻まれているのです。
「消したい記憶はだいぶ前のものですか?」
「ええ、小学校の時です。4年生でした」
「ああ、無理に今は思い出す必要はありません」
今年34歳になるので、それは24年ほども昔のことでした。溝呂木くんは、今度は自分から小さめですが深呼吸をしました。
「今日、私はあなたにその記憶の詳細を尋ねることはしません。それはきっとつらいことでしょうから」
ドクター・クボタがモニターのどこかを人差し指で押すと、音楽が部屋に水があふれるように流れ出してきました。ピアノの音と弦楽器の音が心地よく、夢の中に入り込んでいくようにも感じられました。
「記憶についてだけ、お話ししておきましょう。記憶はデータととても似ています。初期化され、固定化され、保存されます。初めは海馬に、そして大脳皮質に」
笑みが常にドクター・クボタの顔にはあって、初めて会ったのに溝呂木くんはなぜだか懐かしい気持ちになりました。
「保存された記憶は、随時、呼び戻しされます。実は、です。データと大きく違うのは呼び戻されるたびに人間の記憶は書き換えられるということなのです。つまり記憶は経験や時間の積み重ねでダイナミックに変化していくものなのです」
ここまで言って、ドクター・クボタは少し小声になって
「失恋をしたことがありますか」と笑いかけました。
溝呂木くんは振り返ってみましたが、そんな経験はなかったし、そもそも女の子と恋愛を本気でしたこともないと思いました。
「ない・・・かもしれません」
「そうですか。つらい失恋の経験もおじいさんおばあさんになると、美しい思い出に変わる。あれもきっと記憶の書き換えが起こっている証拠なんです」
ドクター・クボタはそれからキッと真面目な顔になり、こう言いました。
「しかし、そんな長い年月を待っていられない人も今、増えています、あなたのように。トラウマの被害はどんどん深刻になっています。現代はそういう時代なのかもしれませんね、とても残念なことですが」
そして、銀色のメガネを外して、レンズをクリーナーティッシュでこすりました。
溝呂木くんは、その時、思ったのです。
メガネのないドクター・クボタの顔、それは誰かに似ていると。保存されている記憶を呼び戻そうとしましたが、何かが邪魔をしていて、呼び戻しには時間がかかるようでした。
「さ、次のステップに行きましょう」
ドクター・クボタがモニターのどこかをまた押すと、壁から静かにベッドが現れました。30秒ほどだったでしょうか。丸いMRIの磁気を出す白い装置も一緒に出てきて、セットされたのです。
「脳から記憶を呼び戻す、その書き換えを狙って、紐づけられている恐怖や拒否の感情を消していきます。そのためには、あなたの忌まわしい記憶がどこの神経細胞にあるかを特定しないといけません。だから、思い出していただく必要があります、どうしても。つらい検査になると思いますが、頑張ってください」
溝呂木くんは、さんざん迷ったあげくに、高額な記憶消去手術をやろうと決意して、ここに来たことを思い起こしました。しかも、名医と呼ばれる医師に奇跡的にアポイントが取れたのです。だから、覚悟は決まっていたのです。あの忌まわしい記憶をすべて思い出そうと、溝呂木くんは生まれて初めと言っていいほどの強い気持ちを奮い起こしました。
そうして、ゆっくり歩いて検査用のベッドに横たわったのです。
その日は授業参観の日でした。小学4年生の秋の学期でした。
教室があって、大きく白いボードの前に先生がいました。先生はいつもより明るく振る舞っていました。でも、生徒たちは背中の方に自分の親がいるからでしょうか、緊張していて行儀よく、笑い声もほとんど出ませんでした。静かでした。先生の名前も顔も、授業の科目の内容もすべて忘れているのに、ただその日の教室のいたたまれないような静けさは覚えているのです。父と母は離婚をしていて、一緒に暮らしていた父はどうしても仕事で来られないとのことでした。
トラブルは授業が始まってしばらくしてやってきました。溝呂木少年は、かすかな尿意を催しだしたのです。授業前にはきちんと廊下の奥にあるトイレに行ってきたはずなのに・・・・そう思うと、かえって生理現象は止まらなくなるようでジンワリと焦りました。もう先生の声は少しずつ遠ざかっていき、ズボンの膝をこっそり何度もさすったり、他のことを考えるようにしたりしました。しかし、気持ちはどんどん上の空になり、意識は下腹部に集中していき、重苦しい不安が全身に寒気のように広がっていきました。あとどのくらいで授業が終わるんだろう、そればかりを考え出し、尿意はさらに膨張していきました。
その時です。不意に先生が呼んだのです。「で。溝呂木くんは、どう思いますか?」と。
慌てて溝呂木くんは「はい!」と立ち上がり、それと同時に、ダムは決壊してしまったのです。温かい液体がズボンの中の腿の辺りを、ぐっしょりと不快に流れていきました。
ああ、そのヌメッとした感覚は昨日のことのようなのです!
みんなの視線を溝呂木少年は感じました。先生とクラスメイトはもちろん、顔も知らない父兄のみんなからの凍りついたような視線。時間が止まるとはああいう瞬間を言うのでしょうか。突然、溝呂木少年は、恥ずかしさと惨めさでいっぱいになり、ズボンから液体を滴らせながら、夢中で教室を飛び出し、トイレへと走り出したのです。
心はまだ痛んでいましたが、溝呂木くんはベッドから降り、ドクター・クボタの前に座りました。
「ご苦労さまでした・・・安心してください。脳の神経細胞の数箇所が反応していたようですので、次にいらした時には手術ができると思います」とドクター・クボタは優しくそう言いました。
本当のところ、記憶を呼び起こすのは簡単なことでした。それは20年以上も前なのに、もう彼の人生の『完全な一部』になっていたからです。トイレに走ってからのことは何も覚えていません。ただ、あの粗相の瞬間のいたたまれなさだけは、鋭利なナイフで刻まれたように記憶され、マイナスの感情をいつも呼び起こす呪詛となっていたのです。それ以降、トイレで用を足すという極めて日常の最中にも、嫌悪の記憶がよぎることもよくあったのです。
しかし、です。もうすぐその呪詛から解放されると想像した時、溝呂木くんの気持ちは日差しに照らされたようにほんの少しだけですが暖かくなっていました。
ドクター・クボタはメガネを外し、じっと溝呂木くんを見ました。そうして、こう言ったのです。
「覚えてるかい、コージくん。僕だよ」
つらい過去をすべて絞り出した溝呂木くんの脳の運動は停滞していましたが、その言葉で動き始め、10秒後にはドクター・クボタの顔に懐かしい面影を見いだしたのです。
「あ、おじさん! 優一おじさん! 中田優一おじさん!」
そう大きく叫んだ溝呂木くんは一瞬の沈黙を経てから、恐る恐る言いました。
「どうして・・・ここにいるんですか・・・どうして」
優一おじさん、つまりドクター・クボタは、窓を開けたように笑いました。
「ははは、僕は生き返ったのさ」
「生き返った・・・確か・・・」
「そう。もう10数年ほど前になる。商社員としてアメリカに行っていた時、交通事故に遭って、脳の3分の1を破損した。君のお母さんから聞いてるよね?」
そう言って、優一おじさんは静かに笑いました。その笑顔は優しくて、溝呂木くんは小さい時からずっと大好きでした。きっとその印象が今、思い起こす力になったのでしょう。
おじさんは母の弟でした。まだ母が父と離婚していない頃、溝呂木くんが大学生の時です。ドアをノックして入ってきた母がスマホを手に呆然と立ったまま、泣きながら、「優一が死んだ」と言ったのを覚えています。
「そうさ、僕は生き返ったのさ。優れた脳外科のドクターの手術によって。そして、人生そのものを書き直したんだ。名前も職業も変えて、生まれ変わったんだよ」
10年そこらで生まれ変わるほどの人間改造ができるものなのだろうか・・・溝呂木くんはそんなふうに思いましたが、現代では脳科学は飛躍的に進み、脳の性能を上げる研究、例えばIQの高い子をつくり、ジーニアスを育成する機関の誕生など、夢だった成果が続々と生まれてきていました。優一おじさんは、そんな夢が生み出した一人なのかもしれない。そう溝呂木くんは思いました。
「さ、この話はまた食事でもしながらゆっくり話そう。今日は君に久しぶりに会えて良かった、本当に」
溝呂木くんも大きくうなづいて笑いました。優一おじさんは続けて言いました。
「ただ、本当に喜ぶのはまだ早い。さ、次は手術だ。いいね」
「はい」
「それまでに、君のトラウマ記憶に直接結びつくものはすべて破棄してほしい。日記やメモなど。君が2度とその記憶を呼び起こさないためにね」
優一おじさんは、すっかりドクター・クボタに戻って、ちょっと厳しい顔で言いました。
手術は簡単なものでした。記憶保存に関わっているタンパク質を、光を照射することで不活性化する・・・というような機序説明をドクター・クボタはしました。とにかく痛みもなく、正直あっけなかったのです。
さぁ、これで、トラウマともサヨナラです。
もう何がトラウマだったのか、溝呂木くんにはわからないのですが、とにかく気分は晴れやかでした。最後にドクター・クボタと対面しました。
「君は今、記憶を消し、僕はかつて記憶を生き返らせた。面白いね。そして、どちらも生きていくためには必要なことだったんだ」
溝呂木くんは大きくうなづいて言いました。
「本当にありがとうございました、おじさん」
診察室は例の海の底でした。ブルーの光が揺らめいています。そのゆらゆらを顔に受けてドクター・クボタは笑みを浮かべ、
「そういえば、アキも元気だよ。いろいろあったけどね」と何気なく言ったのです。
アキ。中田アキ。
覚えています。いえ、覚えているだけではありません。その名前を聞いただけで、溝呂木くんの心は軽やかなステップを踏んでしまったのです。そのステップはワルツのようで麗しく美しいものでもありました。
中田アキさんは、小学校6年まで同じ小学校に通っていたのです。4年生と6年生が同じクラスでした。そのあとは、お父さん、つまりドクター・クボタの商社勤務時代の赴任に合わせてアメリカに行ってしまいました。それ以来20数年、一度も会っていないのですが、思い出は遠くではなく、まだ心の近くにあるようでした。
「離婚したり、大病したり、紆余曲折あったけど、今は元気にしてるよ」
「そうですか・・・良かったです」
「ま、プライベートな話しだけど・・・では、明るく前向きに生きていきましょう。お互いにね」
「おじさんにはお世話になりました。また、ここ以外で話したいです」
と溝呂木くんは言って、海の底の脳外科から、介護ロボットの行き交う病院の長い廊下を歩き、春の風が渡る街へと出ていきました。
メールが来ていました。手術からもう半年ほどたち、秋になっています。それは小学校の同窓会のお知らせで、こんな文面でした。
<6年Bクラスのみなさん、お元気ですか。卒業から22年がたちました。バリバリ働いていたり、子育て中の方もいたり、東京で、地方で、あるいは海外で頑張っておられると思います。久しぶりに集まりませんか。担任の〇〇先生もお呼びして、みんなで思い切り昔話しませんか・・・・>
溝呂木くんはそのメールに目を通して、洗面所に立って歯を磨き始めました。今日は数日ぶりに出社です。歯を磨き終えて、ジャケットに腕を通すと、あらためてメールをじっくり見ました。最後に発起人が3人書かれていて、その一人に目を止めます。
中田アキ。
溝呂木くんの胸はときめいて、卒業式の時のアキさんの笑顔を思い出しました。みんなに手を振って、早めにそそくさと校門を出た瞬間、アキさんが走ってきたのです。紺のスーツ姿に臙脂色の胸のリボンが風にふわっと揺れていました。リボンだけでなく、柔らかに吹く風がストレートな長い髪も揺らしていたように思います。そうです、彼女はキレイでした。ちょっと手が届かないほどキレイだと溝呂木少年はいつも思っていたので意外でした、彼女が自分に走り寄ってきたことが。
「また会おうね、溝呂木くん」と肩を並べて大きな目をクルクル動かしてから、
「親戚だし」
と言って、笑いました。溝呂木くんは、かろうじて左右の口角をぎごちなく上げました・・・。
今、溝呂木くんはアパートの玄関を出ながら思い出したのです。二人の頭上には青空があって、美しさと切なさの小道具のように桜の花びらがはらはら舞っていた、あの時の映像を、息がつまるような気持ちと一緒に。
「行こう!」と溝呂木くんはエレベーターの中で声に出しました。確か、小学校の同窓会はだいぶ前にもあった気がしますが、溝呂木くんは出席しませんでした。なぜ、出席しなかったのか、わからないのですが、中高や大学の同窓会は時々出席していたので、何か特別な不参加の理由があったのかもしれません。
アキさんは今、どんな女性になっているんだろう。お父さんのドクター・クボタは「紆余曲折」と言っていたな、もし、彼女がまだモヤモヤと生きているんだったら激励したいな、と溝呂木くんは考えていました。
溝呂木くんの心はその日、一段と明るく晴れていました。会社の会議中「キミ、近頃、変わったね」なんて先輩や同僚から言われたりもしました。アキさんに会えることが、記憶のトラウマを消したこととあいまって、行く先を灯台のライトのように照らしていたのです。
同窓会は終わりました。イタリアン・レストランを出て、数人がもう1軒行こうということになり、溝呂木くんもその輪に加わりました。会が楽しかったこともあったのですが、アキさんも行きそうだったからなのです。夜空には光るものがいくつもありました。星ではなく、深夜10時までの飛行を許された大型ドローンがチカチカと光っているのです。
2軒目は誰かの行きつけのスナックでした。大きめのカウンターと数席のテーブルにお客さんがいっぱいで賑やかでした。
さて、溝呂木くんとアキさんはどんな会話を交わしたのでしょうか。残念ながら、二人はカウンターの端と端に座ってしまい、話すことはなかったのです。ですが、夜が深まって、溝呂木くんの隣の同級生がトイレに行った瞬間に、アキさんはスルスルっとその空いた席に座ったのです。それは隣が空くのをずっと待っていたような感じでした。
溝呂木くんは、はるかかなたの卒業の日、後ろから駆けてきたアキ少女を思い出しました。もちろん、桜は、今は舞っていませんが、溝呂木くんの胸いっぱいにときめきが舞いました。アキさんからはいい香りがしました。目尻にはシワがありましたが、それもとても美しいと感じられました。誰かと誰かがデュエットで、調子外れに大声でカラオケしていました。
「ずっと話ししたかったんだ、溝呂木くんに」
アキさんは喧騒に負けないように大きめの声を出します。
「わたし、いろいろあったのよ、本当に」
少し酔っているのかなと思いながら、溝呂木くんはその言葉を聞きました。離婚、大病・・・お父さんから聞いたよ、とはもちろん返さずに。ひとしきり自分のつらい過去を話した後、アキさんはグラスのお酒にちょっと口をつけ、天井のほうをふーっと息を吐き、見上げました。その仕草は、重い荷物をずっと運んでいた人がそれを降ろした時に思わずつくような感じでした。
「ごめんね、一方的に話して。でも、わたしは乗り切ったの、なんとか。で、壊れずにここにいることができるの、この場所に」
溝呂木くんは「良かった」とひとことだけを心から言いました。
「ねぇ、つらい時、ずっとわたしを支えてくれたのはなんだと思う? それはね、小学校4年の時のあなたなの」
瞬間、溝呂木くんは小学校4年の時を思い出そうとしましたが、特別なことは何一つ思い出すことができませんでした。
「言いにくいことだけど・・・あなたが教室で粗相をしたことをいつまでも忘れないの」
アキさんは小声でそう言いました。溝呂木くんは、それは僕じゃない!というように顔を2、3度、横に振りました。
そうして、アキさんは大きな瞳を潤ませながら真っすぐ溝呂木くんを見つめて、こう言ったのです。
「わたしはあなたを見たの。粗相でこぼしたものを、廊下で必死にハンカチで拭き続けているあなたを・・・・わたしは思ったの、ああ、美しい行いだと。失敗は誰にでもある、それをどうするか、その心がとても大切だって教えてもらったの・・・ありがとう、溝呂木くん、それを言いたかったの、ずっとずっと」
病院の長いフロアを一人の男が看護ロボットと歩いています。
春の午後の日差しが内科待合室にあふれています。何人くらいいるでしょうか。50~60人がじっと押し黙って時を不安げに過ごしています。あの病院独特の消毒液のような匂いもわずかにですが漂っています。看護ロボットは内科のエリアを過ぎて、さらに奥へと動いていきます。奥は薄暗く、秘密の場所へと誘導されているようでした。
男の名前は溝呂木コージ。白いトレーナーにジーンズという出でたちで、モスグリーンの床をいつもより歩幅を狭くして歩いていきます。看護ロボットは1メートルちょっとの大きさで、金属のボディをピカピカさせ、丸い頭をクルクル振り、同じく丸い目をパチパチさせて、機械音をジージー立てて動いています。
看護ロボットは初診の患者と歩行障害がある患者とクルマ椅子の患者をサポートしていて、AIテクノロジー実装の最先端病院に導入されていました。彼あるいは彼女は、今、溝呂木くんが目指す科の診察室にナビゲートしているところなのです。
しばらく行くと、すっかり無人の空間が現れました。秘密めいた天井までの透明で大きなドアがあり、看護ロボットが赤く目をピッと光らせると、スーッと左右に開きました。ともかく静かでした。でも、その静けさは心を落ち着かせる類のものではなく、心をざわつかせる類のものでした。あたりの照度は落ちて、すべての壁はなぜだか薄いピンク色になり、いつか見たSF映画の宇宙船の内部のようだと溝呂木くんは思いました。
「ここで少しお待ちください」
看護ロボットは女性の声で滑らかにそう言うと、クルッと後ろむきになり、先導のタスクを終えた満足感をピカピカと背中に漂わせながらコトコトと去っていきました。
溝呂木くんが座った長椅子もまたピンク色で、目の前の診察室には「Neurosurgery」と表記された液晶プレートがありました。
脳外科。なぜ、溝呂木くんがこの科に来たのか。それはおいおい話すとして、しばらくすると溝呂木くんの診察カードがキラキラと虹色に点滅し、診察室へ入るように促されたのです。
ドアが音もなく開くと、海の底が現れました。
そこに一人の白衣の医師がいました。あごひげを生やして、銀色のメガネをかけ、大柄な体を椅子に深く沈ませて、にっこりと笑いました。海の底と書いたのは、壁も床も天井もぜんぶが淡いブルーで照明の光がゆらゆらとしていて、まるで海中のようだったからです。
「溝呂木さん、ですね。溝呂木コージさん」
「はい」
「お座りください。ま、ゆっくりお話をしていきましょう」
「あ、お願いします」
そんなやりとりから診察は始まりました。
「驚きましたか、変わった診察室ですよね」
医師はモニターをチラッと見てから、部屋をぐるりと見渡して、
「こんなふうにすると、人は落ち着くんだそうです。今まで、あまりにも病院は殺風景すぎたのかもしれません・・・・申し遅れました、クボタです」と言ってから、
医師、つまりドクター・クボタは発光するモニターに向かい、何かを指でサッと入力しました。
「PTSDでいらっしゃいますね」
「はい」
「もう少しリラックスしましょうか、深呼吸をしてみましょう、ハイ!」
溝呂木くんが大きく深呼吸すると、このブルーの環境に同化して海の底にいる魚になったような気がしました。
「そうそう、いい感じですね、心拍数が少し下がりました」
ドクター・クボタはモニターのデータを見て、また、にこやかな笑顔をつくりました。溝呂木くんもその笑顔をみて、少し心を落ち着かせることができました。
PTSDとは、『心的外傷後ストレス障害』のことです。
<強いトラウマ体験をきっかけに、時間が経過してもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験が生じ、それに伴って否定的な思考や気分が精神上に起こり、身体的症状がでることもあります・・・>。人は誰でも嫌悪記憶を持つものですが、その強烈なものが溝呂木くんの脳に離れがたく刻まれているのです。
「消したい記憶はだいぶ前のものですか?」
「ええ、小学校の時です。4年生でした」
「ああ、無理に今は思い出す必要はありません」
今年34歳になるので、それは24年ほども昔のことでした。溝呂木くんは、今度は自分から小さめですが深呼吸をしました。
「今日、私はあなたにその記憶の詳細を尋ねることはしません。それはきっとつらいことでしょうから」
ドクター・クボタがモニターのどこかを人差し指で押すと、音楽が部屋に水があふれるように流れ出してきました。ピアノの音と弦楽器の音が心地よく、夢の中に入り込んでいくようにも感じられました。
「記憶についてだけ、お話ししておきましょう。記憶はデータととても似ています。初期化され、固定化され、保存されます。初めは海馬に、そして大脳皮質に」
笑みが常にドクター・クボタの顔にはあって、初めて会ったのに溝呂木くんはなぜだか懐かしい気持ちになりました。
「保存された記憶は、随時、呼び戻しされます。実は、です。データと大きく違うのは呼び戻されるたびに人間の記憶は書き換えられるということなのです。つまり記憶は経験や時間の積み重ねでダイナミックに変化していくものなのです」
ここまで言って、ドクター・クボタは少し小声になって
「失恋をしたことがありますか」と笑いかけました。
溝呂木くんは振り返ってみましたが、そんな経験はなかったし、そもそも女の子と恋愛を本気でしたこともないと思いました。
「ない・・・かもしれません」
「そうですか。つらい失恋の経験もおじいさんおばあさんになると、美しい思い出に変わる。あれもきっと記憶の書き換えが起こっている証拠なんです」
ドクター・クボタはそれからキッと真面目な顔になり、こう言いました。
「しかし、そんな長い年月を待っていられない人も今、増えています、あなたのように。トラウマの被害はどんどん深刻になっています。現代はそういう時代なのかもしれませんね、とても残念なことですが」
そして、銀色のメガネを外して、レンズをクリーナーティッシュでこすりました。
溝呂木くんは、その時、思ったのです。
メガネのないドクター・クボタの顔、それは誰かに似ていると。保存されている記憶を呼び戻そうとしましたが、何かが邪魔をしていて、呼び戻しには時間がかかるようでした。
「さ、次のステップに行きましょう」
ドクター・クボタがモニターのどこかをまた押すと、壁から静かにベッドが現れました。30秒ほどだったでしょうか。丸いMRIの磁気を出す白い装置も一緒に出てきて、セットされたのです。
「脳から記憶を呼び戻す、その書き換えを狙って、紐づけられている恐怖や拒否の感情を消していきます。そのためには、あなたの忌まわしい記憶がどこの神経細胞にあるかを特定しないといけません。だから、思い出していただく必要があります、どうしても。つらい検査になると思いますが、頑張ってください」
溝呂木くんは、さんざん迷ったあげくに、高額な記憶消去手術をやろうと決意して、ここに来たことを思い起こしました。しかも、名医と呼ばれる医師に奇跡的にアポイントが取れたのです。だから、覚悟は決まっていたのです。あの忌まわしい記憶をすべて思い出そうと、溝呂木くんは生まれて初めと言っていいほどの強い気持ちを奮い起こしました。
そうして、ゆっくり歩いて検査用のベッドに横たわったのです。
その日は授業参観の日でした。小学4年生の秋の学期でした。
教室があって、大きく白いボードの前に先生がいました。先生はいつもより明るく振る舞っていました。でも、生徒たちは背中の方に自分の親がいるからでしょうか、緊張していて行儀よく、笑い声もほとんど出ませんでした。静かでした。先生の名前も顔も、授業の科目の内容もすべて忘れているのに、ただその日の教室のいたたまれないような静けさは覚えているのです。父と母は離婚をしていて、一緒に暮らしていた父はどうしても仕事で来られないとのことでした。
トラブルは授業が始まってしばらくしてやってきました。溝呂木少年は、かすかな尿意を催しだしたのです。授業前にはきちんと廊下の奥にあるトイレに行ってきたはずなのに・・・・そう思うと、かえって生理現象は止まらなくなるようでジンワリと焦りました。もう先生の声は少しずつ遠ざかっていき、ズボンの膝をこっそり何度もさすったり、他のことを考えるようにしたりしました。しかし、気持ちはどんどん上の空になり、意識は下腹部に集中していき、重苦しい不安が全身に寒気のように広がっていきました。あとどのくらいで授業が終わるんだろう、そればかりを考え出し、尿意はさらに膨張していきました。
その時です。不意に先生が呼んだのです。「で。溝呂木くんは、どう思いますか?」と。
慌てて溝呂木くんは「はい!」と立ち上がり、それと同時に、ダムは決壊してしまったのです。温かい液体がズボンの中の腿の辺りを、ぐっしょりと不快に流れていきました。
ああ、そのヌメッとした感覚は昨日のことのようなのです!
みんなの視線を溝呂木少年は感じました。先生とクラスメイトはもちろん、顔も知らない父兄のみんなからの凍りついたような視線。時間が止まるとはああいう瞬間を言うのでしょうか。突然、溝呂木少年は、恥ずかしさと惨めさでいっぱいになり、ズボンから液体を滴らせながら、夢中で教室を飛び出し、トイレへと走り出したのです。
心はまだ痛んでいましたが、溝呂木くんはベッドから降り、ドクター・クボタの前に座りました。
「ご苦労さまでした・・・安心してください。脳の神経細胞の数箇所が反応していたようですので、次にいらした時には手術ができると思います」とドクター・クボタは優しくそう言いました。
本当のところ、記憶を呼び起こすのは簡単なことでした。それは20年以上も前なのに、もう彼の人生の『完全な一部』になっていたからです。トイレに走ってからのことは何も覚えていません。ただ、あの粗相の瞬間のいたたまれなさだけは、鋭利なナイフで刻まれたように記憶され、マイナスの感情をいつも呼び起こす呪詛となっていたのです。それ以降、トイレで用を足すという極めて日常の最中にも、嫌悪の記憶がよぎることもよくあったのです。
しかし、です。もうすぐその呪詛から解放されると想像した時、溝呂木くんの気持ちは日差しに照らされたようにほんの少しだけですが暖かくなっていました。
ドクター・クボタはメガネを外し、じっと溝呂木くんを見ました。そうして、こう言ったのです。
「覚えてるかい、コージくん。僕だよ」
つらい過去をすべて絞り出した溝呂木くんの脳の運動は停滞していましたが、その言葉で動き始め、10秒後にはドクター・クボタの顔に懐かしい面影を見いだしたのです。
「あ、おじさん! 優一おじさん! 中田優一おじさん!」
そう大きく叫んだ溝呂木くんは一瞬の沈黙を経てから、恐る恐る言いました。
「どうして・・・ここにいるんですか・・・どうして」
優一おじさん、つまりドクター・クボタは、窓を開けたように笑いました。
「ははは、僕は生き返ったのさ」
「生き返った・・・確か・・・」
「そう。もう10数年ほど前になる。商社員としてアメリカに行っていた時、交通事故に遭って、脳の3分の1を破損した。君のお母さんから聞いてるよね?」
そう言って、優一おじさんは静かに笑いました。その笑顔は優しくて、溝呂木くんは小さい時からずっと大好きでした。きっとその印象が今、思い起こす力になったのでしょう。
おじさんは母の弟でした。まだ母が父と離婚していない頃、溝呂木くんが大学生の時です。ドアをノックして入ってきた母がスマホを手に呆然と立ったまま、泣きながら、「優一が死んだ」と言ったのを覚えています。
「そうさ、僕は生き返ったのさ。優れた脳外科のドクターの手術によって。そして、人生そのものを書き直したんだ。名前も職業も変えて、生まれ変わったんだよ」
10年そこらで生まれ変わるほどの人間改造ができるものなのだろうか・・・溝呂木くんはそんなふうに思いましたが、現代では脳科学は飛躍的に進み、脳の性能を上げる研究、例えばIQの高い子をつくり、ジーニアスを育成する機関の誕生など、夢だった成果が続々と生まれてきていました。優一おじさんは、そんな夢が生み出した一人なのかもしれない。そう溝呂木くんは思いました。
「さ、この話はまた食事でもしながらゆっくり話そう。今日は君に久しぶりに会えて良かった、本当に」
溝呂木くんも大きくうなづいて笑いました。優一おじさんは続けて言いました。
「ただ、本当に喜ぶのはまだ早い。さ、次は手術だ。いいね」
「はい」
「それまでに、君のトラウマ記憶に直接結びつくものはすべて破棄してほしい。日記やメモなど。君が2度とその記憶を呼び起こさないためにね」
優一おじさんは、すっかりドクター・クボタに戻って、ちょっと厳しい顔で言いました。
手術は簡単なものでした。記憶保存に関わっているタンパク質を、光を照射することで不活性化する・・・というような機序説明をドクター・クボタはしました。とにかく痛みもなく、正直あっけなかったのです。
さぁ、これで、トラウマともサヨナラです。
もう何がトラウマだったのか、溝呂木くんにはわからないのですが、とにかく気分は晴れやかでした。最後にドクター・クボタと対面しました。
「君は今、記憶を消し、僕はかつて記憶を生き返らせた。面白いね。そして、どちらも生きていくためには必要なことだったんだ」
溝呂木くんは大きくうなづいて言いました。
「本当にありがとうございました、おじさん」
診察室は例の海の底でした。ブルーの光が揺らめいています。そのゆらゆらを顔に受けてドクター・クボタは笑みを浮かべ、
「そういえば、アキも元気だよ。いろいろあったけどね」と何気なく言ったのです。
アキ。中田アキ。
覚えています。いえ、覚えているだけではありません。その名前を聞いただけで、溝呂木くんの心は軽やかなステップを踏んでしまったのです。そのステップはワルツのようで麗しく美しいものでもありました。
中田アキさんは、小学校6年まで同じ小学校に通っていたのです。4年生と6年生が同じクラスでした。そのあとは、お父さん、つまりドクター・クボタの商社勤務時代の赴任に合わせてアメリカに行ってしまいました。それ以来20数年、一度も会っていないのですが、思い出は遠くではなく、まだ心の近くにあるようでした。
「離婚したり、大病したり、紆余曲折あったけど、今は元気にしてるよ」
「そうですか・・・良かったです」
「ま、プライベートな話しだけど・・・では、明るく前向きに生きていきましょう。お互いにね」
「おじさんにはお世話になりました。また、ここ以外で話したいです」
と溝呂木くんは言って、海の底の脳外科から、介護ロボットの行き交う病院の長い廊下を歩き、春の風が渡る街へと出ていきました。
メールが来ていました。手術からもう半年ほどたち、秋になっています。それは小学校の同窓会のお知らせで、こんな文面でした。
<6年Bクラスのみなさん、お元気ですか。卒業から22年がたちました。バリバリ働いていたり、子育て中の方もいたり、東京で、地方で、あるいは海外で頑張っておられると思います。久しぶりに集まりませんか。担任の〇〇先生もお呼びして、みんなで思い切り昔話しませんか・・・・>
溝呂木くんはそのメールに目を通して、洗面所に立って歯を磨き始めました。今日は数日ぶりに出社です。歯を磨き終えて、ジャケットに腕を通すと、あらためてメールをじっくり見ました。最後に発起人が3人書かれていて、その一人に目を止めます。
中田アキ。
溝呂木くんの胸はときめいて、卒業式の時のアキさんの笑顔を思い出しました。みんなに手を振って、早めにそそくさと校門を出た瞬間、アキさんが走ってきたのです。紺のスーツ姿に臙脂色の胸のリボンが風にふわっと揺れていました。リボンだけでなく、柔らかに吹く風がストレートな長い髪も揺らしていたように思います。そうです、彼女はキレイでした。ちょっと手が届かないほどキレイだと溝呂木少年はいつも思っていたので意外でした、彼女が自分に走り寄ってきたことが。
「また会おうね、溝呂木くん」と肩を並べて大きな目をクルクル動かしてから、
「親戚だし」
と言って、笑いました。溝呂木くんは、かろうじて左右の口角をぎごちなく上げました・・・。
今、溝呂木くんはアパートの玄関を出ながら思い出したのです。二人の頭上には青空があって、美しさと切なさの小道具のように桜の花びらがはらはら舞っていた、あの時の映像を、息がつまるような気持ちと一緒に。
「行こう!」と溝呂木くんはエレベーターの中で声に出しました。確か、小学校の同窓会はだいぶ前にもあった気がしますが、溝呂木くんは出席しませんでした。なぜ、出席しなかったのか、わからないのですが、中高や大学の同窓会は時々出席していたので、何か特別な不参加の理由があったのかもしれません。
アキさんは今、どんな女性になっているんだろう。お父さんのドクター・クボタは「紆余曲折」と言っていたな、もし、彼女がまだモヤモヤと生きているんだったら激励したいな、と溝呂木くんは考えていました。
溝呂木くんの心はその日、一段と明るく晴れていました。会社の会議中「キミ、近頃、変わったね」なんて先輩や同僚から言われたりもしました。アキさんに会えることが、記憶のトラウマを消したこととあいまって、行く先を灯台のライトのように照らしていたのです。
同窓会は終わりました。イタリアン・レストランを出て、数人がもう1軒行こうということになり、溝呂木くんもその輪に加わりました。会が楽しかったこともあったのですが、アキさんも行きそうだったからなのです。夜空には光るものがいくつもありました。星ではなく、深夜10時までの飛行を許された大型ドローンがチカチカと光っているのです。
2軒目は誰かの行きつけのスナックでした。大きめのカウンターと数席のテーブルにお客さんがいっぱいで賑やかでした。
さて、溝呂木くんとアキさんはどんな会話を交わしたのでしょうか。残念ながら、二人はカウンターの端と端に座ってしまい、話すことはなかったのです。ですが、夜が深まって、溝呂木くんの隣の同級生がトイレに行った瞬間に、アキさんはスルスルっとその空いた席に座ったのです。それは隣が空くのをずっと待っていたような感じでした。
溝呂木くんは、はるかかなたの卒業の日、後ろから駆けてきたアキ少女を思い出しました。もちろん、桜は、今は舞っていませんが、溝呂木くんの胸いっぱいにときめきが舞いました。アキさんからはいい香りがしました。目尻にはシワがありましたが、それもとても美しいと感じられました。誰かと誰かがデュエットで、調子外れに大声でカラオケしていました。
「ずっと話ししたかったんだ、溝呂木くんに」
アキさんは喧騒に負けないように大きめの声を出します。
「わたし、いろいろあったのよ、本当に」
少し酔っているのかなと思いながら、溝呂木くんはその言葉を聞きました。離婚、大病・・・お父さんから聞いたよ、とはもちろん返さずに。ひとしきり自分のつらい過去を話した後、アキさんはグラスのお酒にちょっと口をつけ、天井のほうをふーっと息を吐き、見上げました。その仕草は、重い荷物をずっと運んでいた人がそれを降ろした時に思わずつくような感じでした。
「ごめんね、一方的に話して。でも、わたしは乗り切ったの、なんとか。で、壊れずにここにいることができるの、この場所に」
溝呂木くんは「良かった」とひとことだけを心から言いました。
「ねぇ、つらい時、ずっとわたしを支えてくれたのはなんだと思う? それはね、小学校4年の時のあなたなの」
瞬間、溝呂木くんは小学校4年の時を思い出そうとしましたが、特別なことは何一つ思い出すことができませんでした。
「言いにくいことだけど・・・あなたが教室で粗相をしたことをいつまでも忘れないの」
アキさんは小声でそう言いました。溝呂木くんは、それは僕じゃない!というように顔を2、3度、横に振りました。
そうして、アキさんは大きな瞳を潤ませながら真っすぐ溝呂木くんを見つめて、こう言ったのです。
「わたしはあなたを見たの。粗相でこぼしたものを、廊下で必死にハンカチで拭き続けているあなたを・・・・わたしは思ったの、ああ、美しい行いだと。失敗は誰にでもある、それをどうするか、その心がとても大切だって教えてもらったの・・・ありがとう、溝呂木くん、それを言いたかったの、ずっとずっと」