「僕は生きるためにコピーライターになった」過酷な営業時代、泣きながら書いたコピーが原点 ENJIN TOKYO クリエイティブディレクター 神谷啓介さん
コピーライター、CMプランナー、クリエイティブディレクターとして数々の広告を手がけ、国内外の広告賞を受賞してきた神谷啓介さん。現在在籍するクリエイティブエージェンシーのENJIN TOKYOでは、ドラマ企画などの新たな挑戦にも踏み出していますが、キャリアのスタートは、意外にも過酷な営業からでした。「なりたくて、ではなく、生きるためにコピーライターになった」と話す神谷さんは、どのようにしてコピーライティングと出会い、現在までのキャリアを築かれてきたのでしょうか。今回は、マスメディアンのコンサルタント、加藤巧恭がお話を伺いました。
先が見えないキャリアこそ楽しめる
──現在はENJIN TOKYOで、どのような案件を担当されていますか?テレビCMなどの広告制作を中心に、コミュニケーションデザインやブランドコンサルティングなど幅広く担当しています。最近では、株式会社ディー・エヌ・エーのライブコミュニケーションアプリ「Pococha(ポコチャ)」のブランドコミュニケーションに従事しました。テレビ東京のドラマ25『これから配信はじめます』では本ドラマの構想からテレビ東京への企画協力を開始。また、そのドラマの主題歌兼「Pococha」の新テレビCMソングでもある、ロックバンド「ねぐせ。」による楽曲のコラボMV制作を担当しました。
テレビ局との番組制作はENJIN TOKYOとしても初でした。ただ、ブランドが示したい「『Pococha』はライバーとリスナーによる双方向のコミュニケーションを楽しみ、誰もが自分らしくいられる、コミュニティ型のライブ配信アプリ」というイメージには、ストーリーでじっくりと見せられるドラマがマス広告よりも有効だと考えました。大枠のストーリーや、脚本、主題歌書き下ろし、「Pococha」との連動コンテンツなどさまざまな側面でテレビ東京と連携し、結果、当初目的ではなかった「Pococha」の利用者増にもつなぐことができました。
また、24時間年中無休フィットネスジムの日本国内でのリブランディング施策も進行中です。 ──クリエイティブディレクターの神谷さんがドラマ企画を担当することもあるんですね!
僕はクリエイティブディレクターという肩書ではありますが、コピーライターやCMプランナーとして参加する場合もあります。大手の総合広告会社では職種ごとに分業される業務も、少人数のチーム構成のため職種に関係なく携われます。こういった職種や部署に縛られない働き方が可能なのはENJIN TOKYOならではですね。
僕は元々ポジションにこだわらず、クライアントの力にさえなれれば嬉しいという考え方です。業務や案件の幅が広がり、大変ですけど毎日充実しています。
──ENJIN TOKYOの前は、東急エージェンシーでクリエイティブディレクターとして約7年間務められ、広告賞も受賞されるなど大変な活躍をされています。にもかかわらず広告会社からクリエイティブエージェンシーへと移られるというのは、広告制作をやりたい方にとっては少し珍しい気もします。どうしてなのでしょうか?
決して不満があったわけではないんです。個性のバラバラなクリエイティブディレクターと働けて、刺激の多い日々でした。入社4年後には僕もクリエイティブディレクターとして昇進し、担当部長として6名のチームを持ってマネジメントも行いました。野心ある同僚たちと広告賞にも挑戦しました。それぞれコピーライターとして参加した、エイチ・アイ・エスのテレビCMでは「ADFEST 2022」フィルム・クラフト部⾨でブロンズを、ヤクルト本社のテレビCM『変わらない今日を、届ける』では「2021年ACCブランデッドコミュニケーション部門Cカテゴリー」でシルバーを受賞しました。
ただ、年次が上がってきたときに、この会社で今後どんな仕事ができるのか、つまりキャリアの先が見えてしまった気がしたんです。それで、広告以外にも挑戦してみたくなりました。
そこでマスメディアンに相談をしたところ、コンサルタントの加藤さんにENJIN TOKYOの紹介を受けました。実はそれ以前から、ENJIN TOKYOのことは知っていたんです。創立間もない2013年ごろに、シューズブランド「crocs」の、ドローンが新商品のスニーカーを運ぶ「空中ストア」に衝撃を受けたことを思い出して。広告業界を変えていくようなクリエイティブエージェンシーが現れた、とずっと心に残っていたんですよね。
さらに言えば、ENJIN TOKYOで働く人に惹かれたことも理由です。雑誌『ブレーン』で、「空中ストア」を担当した野村志郎さんと、やおきん「うまい棒」の施策を担当した山田哲也さんという、2人のクリエイティブディレクターの仕事に感動して、「この人たちがいる会社で働いてみたい!」と素直に思ったんです。また、代表の西川聖一さんの「世界猿人」という言葉があります。海外のエージェンシーの名前が日本でも知られているように、日本、東京のエージェンシーであるENJIN TOKYOも世界に名を知らしめたいという話に、自分の仕事への視座も大きく変えられました。
あの時一緒に働きたいと思った人たちと、今は同じ案件を担当できているなんて感慨深いです。
つらい営業時代、クライアントからもらった「いいね」が心の拠り所に
──1社目は営業をされていたそうですね。学生のころはまだクリエイターを目指していなかったんですか?いえ、就活は思うようにはいかなくて…(笑)。総合広告会社を目指してはいたんです。大学在学中に雑誌『アイデア』でアートディレクターの佐藤可士和さんの特集を見て。「Honda」の「ステップワゴン」と「インテグラ」の広告に、「可愛らしい世界観と、エッジの利いた格好いい世界観を同時につくれる人ってすごい!」と大きな衝撃を受けました。それが初めて広告という仕事を知った体験でした。
充実した大学生活は送ったものの、特別何かに打ち込むようなことはなく……。当時、就職氷河期だったこともあいまって、希望の会社には入れませんでした。それで、総合広告会社にも転職しやすいかもという目論見で、業務用食品専門の広告会社に就職しました。
企画営業という肩書だったのものの、最初はとにかく電話をかけまくって案件を獲得するという日々でした。3カ月経ったころ、紆余曲折あって、上司の仕事を一手に引き継がなければならなくなり、1人で広告やパンフレットをつくることに。調理器具メーカーの雑誌広告では、自分で営業して、モデルをやって、広告のコピーも考えて、出版社にデータを送って……みたいな。
──すべておひとりで……!? まるで「ひとり広告会社」ですね。
まさに。今でも思い出しただけで泣きそうになります。それでも食らいついて必死に制作するなか、僕が書いたトマト缶のパンフレットのコピーを、クライアントが「いいね」と褒めてくれたんです。もう本当に本当に嬉しくて、心の拠り所になって。その時、コピーライターっていう道もあるのかもと思いました。
当時は本当に忙しくて大変で、辞めて地元の名古屋に帰ろうかなとも思っていたころで……。でも、その仕事のおかげで、コピーライターとして転職できました。だから、「なりたくて」というより「生きるために」コピーライターになったというのが、実情です。
転職先はグラフィック制作会社のアドレイ。ほぼ未経験での転職ですから、当時はコピーの基礎の基礎すら知らなかった。見様見真似でつくってはびっしり赤字を入れてもらい、自分で本や事例を読んで学んでいきました。三井ホームやニューバランスのカタログ、住宅展示場のリーフレットなどを担当しましたが、1年半ぐらい経ったころ、赤字がゼロだったことがあって。自分もちょっとは書けるようになったのかも、それなら次はマス広告をやってみたいと思い、2004年に広告制作会社のジオグラフィックスに転職しました。
──3社目でようやく担当できたマス広告のお仕事はいかがでしたか?
忙しかったけど、すごく楽しい6年間でした。本田技研工業、トヨタ自動車、P&Gジャパン、BMW Japan、集英社などのナショナルクライアントを担当し、OOHやラジオCMなども任せてもらいました。担当した広告が公開になった時や、プレゼンでクライアントに褒められた時にはすごく報われました。
今振り返ると、この制作会社2社での経験で、コピーライターとしての基礎体力を身につけられたのだと思います。カタログのテキストやボディコピーなど、長文を書く機会が多かった。ひたすらそれをこなしたことが、アウトプットの質につながり、アイデアの引き出しも増えたと思います。
──忙しい中、広告賞にも挑戦されていますよね。
広告賞については、ある時先輩のアートディレクターに「忙しいのはわかる。でもやるんだよ」と言われたんです。「人より一歩先までやらないと、今以上には成長できないよ」って。こんなに忙しいのに……と思いながらもたくさん応募して、ようやく2つ入賞にたどり着きました。コピーライティングがうまくなるためならと、休日も公募などに時間を費やしていました。
──「生きるため」だったコピーライティングの存在も変わりましたか?
はい、ここで一気に「コピーがうまくなりたい!」に変わりましたね。社内で同世代の優秀なメンバーに刺激を受け、TCC(東京コピーライターズクラブ)の存在を知ったことはもちろん、代表の川崎誠さんに出会えたことが一番の理由です。原宿サン・アド出身の方で、「Honda」のテレビCMなどで長年活躍されてきた方。コピーライターの仕事とは何かを川崎さんから学んだと言っても過言ではないです。現在でも師匠だと思っています。 ──同じコピーライターとして、川崎代表の仕事で特に影響を受けた作品はありますか?
ジュエリーブランド「BVLGARI」が日本展開する際に、川崎さんの書かれた「変わらないために変えていく」というコピーです。入社したばかりの時に感銘を受けてから、今もずっと心に残っていています。僕は保守的な人間なのであまり変化は好きじゃない。だけど、楽しく仕事をし続けるには、どこかで意識して自分に負荷をかけないといけないんだと気づかせてくれました。今でも、初めての案件や、自分とは異なるスタイルのメンバーとの仕事に挑戦するなど、無理矢理にでも自分に負荷をかける環境をつくるよう意識しています。
のちのち転職する際に、川崎さんは「お前はこの会社を選んだというより、コピーライターっていう仕事を選んだんだ」と背中を押してくれました。同じコピーライターとして贈ってくれた言葉は、すごく胸に迫るものがありましたね。
──その後、ジオグラフィックスから電通ヤング・アンド・ルビカム(当時)へと転職され、ついに制作会社から広告会社へと移られたのですね。広告会社でのお仕事はいかがでしたか?
2010年に、電通ヤング・アンド・ルビカムへコピーライター兼CMプランナーとして転職しました。ジオグラフィックスで僕の企画がテレビCMで採用されたことがあり、マス広告の中でも影響力が大きいメディアに挑戦したいと思ったからです。また、広告会社に入ることで、クライアントの幅を広げて、企画から携われたらと思いました。
田中貴金属の案件では初めてクリエイティブディレクターを担当でき、大きく成長させてもらいました。
──制作会社と広告会社、それぞれを経験されて大きな違いはありましたか?
まず環境面では、広告会社では「社内で自分をどう売り出すか」を考えるようになりました。特に営業に対して、自分のやりたいことを日々発信したり、広告賞を獲得することでモチベーションや企画力の高さを示したりしないと、志向するキャリアにつながるような案件はなかなか依頼してもらえません。アピールは苦手でしたが、広告賞の公募などが役立ってくれたと思います。
制作面では、クライアントの反応を直接聞けるようになり嬉しかったです。悪い反応をもらえば落ち込むこともありましたが……(笑)。1社目で営業を経験して、広告制作はクライアントあってこその仕事だと思っていたので、クライアントとの距離が遠い制作会社はもどかしく感じていました。クリエイターから見た「いいコピー」とクライアントから見た「売れるコピー」は異なる場合があります。僕の言葉が世の中に出るのはクライアントに価値を感じてもらえてこそだと思い、よりクライアントのためを意識して制作するようになりました。
クライアントに認められるまで、自分の軸足をつくる
──神谷さんの思う、クリエイターに求められることとは何ですか?大きく分けて2つあります。
今は、クライアントの抱える課題が複雑で、それを解決するためのアウトプットやコミュニケーションも一筋縄ではいかない。だからこそ、まずクリエイターに必要なのは「真っ当な人であること」だと思います。クリエイターはタレント性で生き残る人と、チーム力で生き残る人に2極化しています。ただ、複雑化する課題に、1人の力で対処するのは難しい。チームで知恵を出し合わなければなりません。機能するチームづくりには、一人ひとりの謙虚さや誠実さがとても大切です。クライアントからも、長く伴走する案件なら、付き合いやすいチームが重宝されますしね。
もう1つは「自分の軸足を明確にする」。僕の場合はコピーですけど、どんな職種でもクライアントに認めてもらえるまで、自分の得意を1個、深くつくること。そうでないと、自分がディレクションをする立場になったときに、指針がぶれてしまいます。
──最後に、若手クリエイターへのアドバイスをお願いします。
待っているだけではチャンスがなかなか来ない時代だと感じるので、自分から戦略的に動いて声のかかる環境をつくっていくべきだと思います。昔よりはクリエイター同士の横のつながりも増えたので、人脈からチャンスを得たり、広告賞の公募に力を入れてみたり。また、クリエイターの働き方も大きく変わってきましたが、やっぱりある程度の期間、仕事にどっぷりと浸る時間も必要なんじゃないでしょうか。自分がどうしたいのかを大事に、人よりあと一歩先までやり続ければ、ゆくゆくは人との大きな差になります。結局、時代に関係なく、出てくる人は出てきますから。