キャサリンはお金が欲しかった。
 自分のためではなく、息子のジョンの才能のためだったが、とにかくキャサリンはお金のことで毎日頭がいっぱいだった。
 父のスティーブが亡くなって数カ月がたっていた。母はまだ60代なのにめっきり老け込んでしまった。

 ユタ州ソルトレイクシティ郊外にある家のキッチンで、キャサリンは父の遺言状を見ていた。もう何度食い入るようにその紙を見たことだろう。
 広い敷地の庭の方からは小鳥の甲高い声が聞こえていて、2階ではジョンの弾くグランドピアノが同じフレーズを繰り返し響かせていた。今、レッスン中のショパンの難易度の高い箇所で、13歳のジョンはなかなかそこを技術的にも精神的にも自分のものにできなかった。
 シェパーズパイ(羊飼いのパイ)がオーブンで熱せられていて、肉の匂いがいい感じで立ってきている。一家はアイルランド移民だった。19世紀後半にアメリカの南部に住み、各地を転々とし、スティーブがシリコンバレーで働いていたことでサンノゼに住み、退職とともにソルトレイクシティに広い敷地を買い、家を建て、2032年の今、そこに住んでいる。モルモン教の信者が多いこの地で、一家はアメリカ移住以来、ずっとカトリックを信仰してきた。アイルランド名物シェパーズパイのレシピも代々ずっと守られてきたものだった。そのパイを焼くことは、食べるためだけでなく、先祖たちの夢と挫折の物語を思い出すためでもあった。

 父スティーブはビッグテックに勤めるエンジニアで開発者だった。AIの研究を長年し、新しいテクノロジーを世の中に発表するトップチームに属していて、最後は倫理的問題(エシカルイシュー)にアプローチしていた。学習すべきデータが偏見や差別に基づいていないか、過失に対してAIは責任をどう取るべきか、殺人ロボットなどの武器への転用をどう妨げるか。父は家族に「なんだか国連の仕事をやっているみたいだ」と時折、笑って言っていた。
 父は3年の闘病の末、66歳で亡くなった。葬儀には兄のボブもきた。父は遺言状で、兄に自分の保有しているビッグテックの株を全部相続させ、母には広大な家が与えられた。
 そしてキャサリンに遺されたものは何か?
<私の持つA銀行口座の全額を娘キャサリンに遺す>と遺言状には父の署名とともに記されてあった。
 しかし、預金口座を開くパスワードがどこにも書かれていなかったのだ。
 どこにも!
 父の遺言状を作成した弁護士にも聞いてみた。ソルトレークシティ市街の彼の事務所に何度も行ったが、高齢の弁護士は「申し訳ない、私にはわかりません。そこまでの依頼は受けてないのです」と困った笑顔を浮かべて言うだけだった。「そもそも、どのくらいの額が預金されているのでしょうか。父から聞いていませんか?」と尋ねると、彼は肩をすくめ、両手を少し上げて、「わからない」のポーズを取った。
 謎だった。あまり適切な例をキャサリンは思いつかなかったが、例えば、入ろうとするホテルの部屋のドアがどこにもないような感じだった。キャリーバッグを抱えたままうろうろとするばかりでどうにもならず、フロントに行くと、「私どもはドアの件には関わっておりません」と言われる、そんなふうだった。キャサリンこそ、首をすくめ、両手を上げてポーズを取りたかった。弁護士はこうも言った。
「いやはや、今、弁護士の仕事の2~3割ほどはパスワード探しですな。故人が急になくなったり、認知症になったりで・・・30年ほど前の時代に預金をつくった方は特に注意が必要なんです」
 ネット空間のセキュリティが強化されればされるほど、パスワードは堅牢さを要求され、その結果、複雑になり、失われてしまったら再現することが不可能になってきているのだった。生体による認証でも事情は同じだった。
 入りたい部屋にドアがない。この状態はキャサリンを苦しめ、イラつかせた。しかも、知らない誰かが、秘密のドアを見つけて入ってしまうかもしれないのだった。パスワードを探して本人になりすます悪質なハッカーが激増していて大きな社会問題にもなっていた。ハッカーの汚い仕事には個人ではなく、組織はもちろん国家が関わっていることさえあった。
 ともかく、パスワード探しは今、キャサリンの最大で唯一の「仕事」だった。
 A銀行のサイトを見ながら、家族全員の誕生日や記念日など、思いつく限りの数字と記号をインプットしても当たり前のように拒否されるだけだった。

 今日も、キャサリンは父の書斎(スタディルーム)に入った。書斎と言っても1冊の本もなく、デスクが一つ、そこにAIモニターが置かれているだけのシンプルな部屋だった。モニターにキーボードはなく音声で入力していく。
「家族の写真を見せて」と言うと、
「わかりました。あなたが小さい頃の写真を順番に、でいいですか、キャサリン」と女性の落ち着いた声でモニターが聞いてくる。
「いいわよ、ゆっくり、見せて」
 写真はサンノゼに住んでいた頃のものから始まった。キャサリンは2、3歳だろうか。庭で父に抱かれ、母と兄が隣で笑っている。西海岸の明るい日差しが家族の顔半分に幸せな影をつくっている。次に庭での別カットが数枚あって、兄がホースで水を芝生に楽しげにまいていたりした。キャサリンはブロンドのフランス人形を胸に抱き、相変わらず父の腕の中にいる。
 写真や動画は膨大にあったが、キャサリンが大きくなるにつれて、家族のそれらはめっきり少なくなり、父の仕事の同僚とのレストランでの写真や中東や日本でビジネスイベントをした時の動画などが増えていった。
 キャサリンはこの部屋に1日に一度は入り、数時間を過ごした。それは父との懐かしい思い出に浸るためだったのだろうか? いや、残念ながらそうではなかった。
 モニターには父の論文や読書メモやSNSへの投稿(少なかったが)などの書き物もあり、写真や動画を含めたそれらを総ざらいすることで、パスワードのヒントがないか、血眼になって探していたのだった。数時間後、日課のようにキャサリンは大きくため息をつき、弱々しくモニターに言った。
「もう夕食の時間だわ、キッチンに行かなくちゃ」
 そうすると、AIモニターは
「今日こそ、探しているものは見つかりましたか」
 とまさに心の内側を知っているかのようにたずねてきた。キャサリンはそれには答えず、乱暴に電源をオフにした。集中が途切れると、ジョンのピアノの音が耳に入ってきて、なんだか昨日の音から成長が感じられないような気がして、イライラとした感情がルーティンのように湧き出るのだった。

 ジョンはキャサリンの希望そのものだった。ニューヨークでお互いにトレーダーをしていた時に知り合った夫と離婚し、ユタの父の家に引っ越す時、4歳だったジョンを彼女は引き取った。それは、彼に音楽の才能を感じとったからだった。簡単なメロディなら一度聞いただけで、ジョンは子供用のキーボードで再現することができた。ニコニコ笑いながらスラスラと。
 それから今に至るまで、オンラインで名高いミュージックスクールの選りすぐりの先生たちに教えられてきた。しかし数年前から、彼らはグレードアップをしきりに勧めた。ニューヨークやロンドンやウイーンとかの音楽アカデミーに入学し、リアルに先生の教えを受け、リアルにその町で生活し、リアルにライバルたちと競い合ったほうがいいと言うのだった。「才能の種はある。でもこのままでは花が咲かないかもしれない」と先生たちは同じようなニュアンスでモニターの向こう側でアドバイスした。
 その度に、キャサリンは「わかるわ、わかる。でも、お金は?」と思うのだった。だから、父の遺産は彼女とジョンの将来のドアを開くための欠かせない鍵であり、ただ一つの希望の窓でもあったのだ。

 父の死から1年がたった。パスワードは相変わらず見つからないままだった。母は父の遺品をなぜだか整理したがっていて、彼女は「早く捨てて」と何度もキャサリンに言うのだった。
 地下の倉庫には父の身の回りのものをしまった木箱が数個あった。愛用のペンなどの文房具やDIYの道具や趣味の釣りのセット・・・研究のためのノート類や新聞の切り抜き・・・お気に入りのレコード・・・帽子、靴、メガネ・・・そんなガラクタ類だった。キャサリンはノート類だけは一度、自分の部屋に全部を持ってきて食い入るように調べた。しかし、そこにもパスワードにつながるものはなかった。いや、あったのかもしれないが・・・見つけられなかった。
 時たま、キャサリンは父親を呪う感情を持つようになった。なぜ、こんなことを私にしているのか、理由がわからなかったから。父は優しい人間でキャサリンに愛情を持っていたことは確実だったが、それならば、なぜ、こんな意地悪なことをするのか?
 キャサリンがハイスクールの頃、父に「ジャーナリストになりたいの、パパ」と真剣に言うと、父は目を輝かせて「いいじゃないか。とても素敵な職業だと思うよ」とこたえた。数年後、その夢を実現するために西海岸のサンノゼから東海岸のニューヨークに出たキャサリンは、なぜか、方向を変えて金融ビジネスで仕事をするようになった。初めはアルバイトだったが、AIを駆使してトレードをする会社で次々とノルマをこなしていき、信頼され、フルタイムエンプロイーになり、やがて離婚した夫と知り合った。生活のレベルは上がり、住居もセントラルパーク近くの高層ビルに構えた。1年に1度、サンノゼに帰り、父に自分のビジネスのことを自慢すると、表面では喜びながらも父のスティーブはどこか戸惑いを浮かべ、キャサリンに何かを言いたそうだった。

 キャサリンは倉庫の父の遺品の箱を前にしながら、もう一度だけ調べてみようと思った。そして、それが済んだら、このガラクタすべてを処分してしまおうと決意した。処分したら、ここにある父の情報は永遠に消えてしまう・・・元には戻せない作業を前にキャサリンは緊張した、パスワードの手がかりを得る最後のチャンスかもしれないと思うと。
「手伝うよ、ママ」と言うジョンを押しとどめ、キャサリンは箱を1階のポーチに順に運び出した。ジョンの指を傷つけてはならないし、母はまったく役には立たない。女性にしてはハードだったが、自分で汗をかきながら早朝から午後2時頃までかけてその作業をやり遂げた。しかし、陽のあたるポーチにほこり臭い箱の中身を出し、ひとつずつチェックしていっても落胆が深まるだけだった。錆びた釣り竿、変色した帽子、曲がったドライバー、ネックの反ったウクレレ・・・そんなものに何の価値があると言うのだろうか!!
 キャサリンは想像以上にイラついた自分をなだめるように、冷蔵庫にあったアイスカフェラテを持って来てポーチで飲み、よく晴れて澄んだユタの空を見上げた。デルタエアラインらしき飛行機が一機、飛んで行く。飛行機雲がスーッと白く伸びていく。キャサリンは目を細め、それからフーッと大きく息を吐き、また手元の作業を開始した。何度も見たノート類だったが、数冊に新聞や雑誌の切り抜きが貼ってあるものがあった。AIのエキスパートであった父は意外にもアナログな手作業が好きで、自分でルアーをこしらえたり、厚紙に写真を貼って壁に飾ったり、新聞や雑誌の記事を切って収集したりしていた。
 切り抜きの中に、ユタ州エリアの地元紙「Hジャーナル」の新聞記事があって、父スティーブが取材されているものがあった。いつ頃の記事だろう、ソルトレイクシティに引っ越してきてだから、10年くらい前のものではないかしらと推測した。Hジャーナルはまだ潰れずにあるのだろうか、そのこともキャサリンは少し気になった。いずれにしても、以前にサッとは見たが、まだじっくりとは見たことがない記事で、彼女はその内容を、カフェラテを手に読んでいった。
 ブルーのコットンのシャツの父はにこやかに笑っていた。AIの現状と未来についてインタビューされていて、何枚かの連なる記事がページをまたいで貼り付けられていた。数十年前からソルトレイクシティはIT企業の進出が盛んで、その影響もあり、AIのエキスパートであった父が取材対象になったかもしれない。父はAIの未来に明るい希望を持っているだけではなかった。「人の能力を上げるだけでなく、人と人をつなぐ力を上げていくものでもあるべきです」。父はそうインタビューで語っていた。混沌とした今の時代、AIを癒しの道具として発想することこそ大事だとも。
 キャサリンはそんなことができるのかと正直、感じ、ニューヨークのトレーダー時代を思い起こした。その時のAIは成果を上げるためだけの未来予測スーパーツールでしかなかった。人と人をつなぐ目的なんて考えたこともない。戦って勝つための武器。それ以外に存在理由などあったのだろうか。自分の能力を異次元に高め、過去の市場のデータを全知し、明日を全能に予想していく。それ以外にあったのだろうか。
 父の顔写真はもうワンカットあって、それはブルーの目とゆったりカールしたブロンドのフランス人形を持ったものだった。その人形には、見覚えがあった。
 キャサリンが幼い時から7,8歳くらいまで、いつも胸に抱え、一緒にベッドで寝て、何でも話せるぬくもりあるパートナーだった。父は人形にAIの知能を与え、人間と会話できる「思いやりがあって頼りになる人格」を持たせていくべきと記事で話していた。子供と親や友だちの間に存在し、それぞれの意見や感情を知り、関係性をアジャストしていく。父はちょっと若い笑顔で撮られながら、テクノロジーの夢を穏やかに語っていた。
 瞬間、キャサリンは人形の名前を思い出そうとした。もう30年以上も前のことで思い出すのが難しかった。あんなに心が通いあっていた友人をなぜだか、思い出せなかった。髪を指で乱暴にかきむしり、頭を何度か左右に振って、しわがれた深いため息をついた。
・・・・ジェニファー・・・・そう、そうよ、確か・・・・。
「ジェニファー。今日はどんな日だった? 私はね、ちょっと悲しいことが学校であったの」 そんな時、ジェニファーはブルーの瞳に悲しげに涙をためて話を聞いてくれた。とてもとても大切な幼い心の支えだった・・・。
 あっ!とキャサリンは胸を突かれて、鋭い声を上げた。そしてポーチからフロアーを通って倉庫への階段をバタバタと音を立てて夢中で降りた。
 ジェニファー、ずっと忘れていてごめんなさい。
 倉庫にあるキャサリンの木箱はどこにあるかわからなかったが、父の木箱を出したおかげで、その他の箱を移動するスペースができていて、しばらくして見つかった。父の箱よりもっとホコリ臭く、近くにはくもの巣ができていた。
 その中に、ジェニファーは仰向きにいた。
 ピンクのドレスは色あせていたが、目はブルーで髪の毛はブロンドでイキイキと愛くるしい表情のままだった。キャサリンは彼女の髪を整え、箱の上にのせて足をそろえて座らせた。そうして、こう言った。
「ジェニファー、久しぶり。間抜けで恩知らずのキャサリンよ」
 フランス人形はしゃべった。昔はしゃべれなかったが、今はしゃべれた。美しく若い声だった。
「いいえ、あなたは素敵な人よ。会えるのをずっと楽しみにしていたわ」
「パパがあなたに命を与えたのね」
「そう、あなたが求めているものを伝えるために」
 キャサリンは静かにうなづいてから言った。
「教えてちょうだい」
「いいわ」
 そして、ジェニファーは数字とアルファベットでできたパスワードを話した。
「ありがとう、助かったわ」
 そう言ったあとも、キャサリンは動かずにジェニファーの目を見つめていた。
「もうひとつ、お願いがあるの」と彼女は言った。
「何かしら?」
「話し相手になってほしいの。孤独で道に迷い続けてばかりの、この愚かな私の」
「もちろんよ、喜んで!」
 ジェニファーの声は旧友に会った喜びで、明るく地下室に響いた。
「そう、スティーブからの伝言もあるわ、いい?」と彼女は続けた。
「聞きたいわ」
「こうよ・・・あなたはあなたの道を歩みなさい。昔、ジャーナリストになりたいと思った夢を忘れてはいけない。キャサリン、まだきっと間に合う」
 それは明らかに父スティーブがジェニファーの声で言っているとわかった。すべての私との思い出を機械学習させているなんて。そう思うと、乾いた心が温かさでいっぱいに満ちてきて、キャサリンはジェニファーを幼い頃のようにきつく胸に抱いた。そして、こう言った。
「さ、久しぶりに表へ出ましょう。ジェニファー! そして、パパ!」


 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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