母と子 ─ 未来のエモーション 第9話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第9話は「母と子」。
「うとましい」
そんな言葉が有希子の口からふっと出た。自分でも思いがけずに。
うとましいのは母のことだ。縁側で庭をぼーっと見ていて、心が虚ろになって、その言葉が湧いて出たのだった。
空にはハケで描いたような秋の白い雲があった。しばらくその動きを見つめていた有希子は、今は庭を見ている。夏草がだいぶ残っていて庭は荒れている。10年前に他界した父が石材屋に頼んで持ち込んだ灯籠ももはや廃墟の置物のようだ。背の高い樹木は野放図に枝を伸ばしている。
うとましい。
自分の口から出た、その5文字の意味がなんだか正しく捉えられず、有希子はスマートデバイスで検索した。
<うとましい/疎ましい> 1好感がもてず遠ざけたい・・・ 2異様で恐ろしい・・・・
1の意味で、私は思ったんだな、と有希子は確認してから、そこに2の意味も含まれているかもしれないと少し自分の心の暗がりを見たような気持ちになった。
有希子は縁側から立ち上がり、母の寝ている部屋の方にゆっくりと歩いて行った。
母はほぼ1カ月前にこの鎌倉の自宅に戻ってきた。
その前は横浜の病院にいた。突然、横浜駅の地下街でショッピング中に倒れたのだった。ブティックの店員が横たわって小刻みに震えている母を見つけ、救急車がすぐに呼ばれ、搬送されたのだった。
「中度の脳梗塞です」。
搬送された病院の医師が、急いで駆けつけた夫の谷口圭吾と有希子に病名を告げた。
「すぐに手術をします。出血した細い血管をつなぎ合わせます。簡単な手術ではありませんが、希望が十分に持てる状態だと思います」
医師は、母の脳のスキャンをスクリーンに3Dで映し出した。「ここから出血し・・・早く搬送されたので・・・運良く・・・」。圭吾はその医師の説明を必死に聞いていたが、有希子は上の空だった。
ただ心臓がドキドキと高鳴り続けていて、その音を心の内側で聞いていた。
驚かせないでよ、お母さん。
そう思いながら、ああ、母ももう83歳になっているんだなと気づく。私だって50歳を超えた。母は母のままいつまでも存在し続けている、そう思うことが間違いなのだ。大きな病気をせず、ずっと元気に暮らしてきた母の行く先を有希子は初めて意識していた。
手術はうまくいき、人工筋肉とロボットによるリハビリが始まった。母の意識は順調に戻り、闊達には歩けないものの有希子やロボットが支えればゆっくりと歩を進めることができた。 重苦しい日々から有希子の心は少し解放された。
2カ月ほど病院にいた頃だろうか。ある日、担当医に呼ばれて、今後の方針を聞かされた。「もう病院でやることはなくなりつつあります。考えておいていただきたいのは、次のことです。介護施設に入ることもできると思いますが、医師としては自宅に帰られることをお勧めします」。その言葉を聞きながら、退院できるという喜びはあまりなく、有希子は今後どうするかの選択に迷っていた。
自宅に帰る方がいい理由は、脳も身体も発症前にかなり戻ってきているが、覇気がない。生きていこうという意思が不足している。心の病かもしれない。見ず知らずの人がいる施設よりは、自宅に戻り家族に支えられて生活した方が、心が元に戻りやすい。
そんな趣旨のことを、医学用語をあまり使わず医師は優しく話した。
有希子たち家族は東京の品川区の3LDKで暮らしている。家族に支えられて生活した方がいいと言われたが、鎌倉の実家までは遠い。一方、施設に入れば、安心だ。お金がかかるのが欠点だが、母の口座から毎月引き落とせばなんとかなる・・・・。
2030年代後半の今、ケア・テクノロジーの進歩はめざましかった。1センチ大のICチップを心臓上部、鎖骨周辺に埋め込む。チップは常時、対象者の大量のデータを計測し送り続ける。脈拍数、血圧、心肺機能などはもちろん、白血球数、血糖値、コレステロール値、尿酸値などを体の内側から測定し、モニターでヘルスマネージメントする。GPSにより、チップを入れた対象者が廊下やトイレや浴場で倒れてもすぐにアラームを発することができる。万が一、施設外で徘徊してもすぐに位置を知ることができる。
各種の介護ロボットが身の回りの世話を「心を込めて」こなす。その技術が各施設の売りになっていて、その競争が激しかった。
―――食事の配膳・片付け、排泄物の管理、入浴サポート、部屋の掃除ともうほとんど人間の手を借りることはありません。会話ができるロボットもいますから、コミュニケーションもスムーズです。人為的なミスのない完璧なケアライフ! 24時間AIフルサポート! 親族の方の安心も私どもなら大きく違います―――。
しかし、本当にそれでいいのか。安心であることは確かだし、家族は楽だが、本当にそれでいいのか。それで母の心は戻るのか。有希子は何度も自問した。理屈ではなく感情として割り切れない部分が水滴になって胸を伝わっていくのだった。
「おばあちゃんを家に帰してあげようよ」
娘の結衣は明るく言った。「私が学校のない土日に行くから!」、そう続けた。
「僕もなるたけ行くようにする」と夫の圭吾も言った。「かわいそうだよ」と結衣。「人間らしく過ごしてもらおう」と夫。
そうして、母は実家に戻ることになった。だが、有希子にはわかっていた。結衣も圭吾もそのうち実家に行かなくなることを。今の決意がやがて薄らいでいくことを。嘘をつかないで! そう本当は大声を出したかった。有希子にはわかっていた。だから、声を荒げることはしなかった。
予測できる未来に、人は抵抗しない。ただ絶望するだけなのだ。
母はベッドに寝ていた。目はつぶっていなかった。古い家屋の天井の闇をただじっと見つめていた。それは不気味な気分を有希子に与えた。
いつからこうなってしまったのだろうか。
母は元気な人だった。行動的でいつもハツラツとしていた。スマートデバイスでいろんなものを撮って、有希子たち家族によく送ってきた。旅行の写真や花の写真やペットの動画も多くあった。わずか半年ほどでそれがガラッと変わった。元気だっただけに、今の衰弱が余計に際立つのだった。脳梗塞が直接の原因だが、その前から心に元気がないのを有希子は何とはなしに感じていた。
静かだ。時間も空間もすべて。
活気を失った家で、母は一つの「もの」と化してしまった気がする。何も起こらない。もう何も起こらずに、このまま「もの」は消滅していくのかもしれない。体内にチップを埋め込まれれば、きっといろんなものと接続して生きたのだろうが、今は何にも接続されてない。それは孤独というものではないのか。最先端の施設の方が良かった――そんな気持ちも頭を持ち上げる。
母に声をかけた。「ヘルパーさん、来た?」
2日に一度は人間のヘルパー一人とケアロボット一体が来て、身の回りの世話をする。そして、2日に一度は、有希子が電車とバスを乗り継いで片道1時間半をかけ実家に来て、世話をする。しかし、有希子に急な用事ができて来られない時は、ヘルパーさんに午前中だけをお願いすることもあった。
母は小さくうなずいた。表情は穏やかだが、目は有希子を見ていなかった。空中にある何かを変わらずに凝視していた。しかし、意識はあるし、言葉は理解できている。失語症にでもなったのかと漠然と思い、医師に尋ねたが、単に話す気力が欠落しているだけではないか、と答えた。
思い出すことばかりだ・・・・有希子は久しぶりに20代半ばまでいた実家で一日近くを過ごすとそう感じた。ここでは忘れられた時間がこっそりと忍び寄ってくる。不意に母の言葉が部屋のどこからかやってきて、形や色を伴いながら、脳裏をゆっくり駆けていく。
有希子、はい、お弁当!
よく頑張ったね、いいのよ、ビリでも。
泣かないで、私が代わりに泣くから。
就職おめでとう。頑張った、ホントに、ホントに。
朝、起きると台所にはいつもお弁当があった。最終コーナで転んだ小学校の運動会。失恋して死んでもいいと思った夜。就職でやっとやっと内定がもらえた日・・・。
母がいて、私がいた。いつもエールを送ってくれた。有希子はそのことを思い出して、何度も心を小さな弦楽器のように震わせた。
その母が今、別人のようになっている。母の黄色い排泄物が尿器にたくさん溜まっている。オムツも含めて、そろそろ替えてあげないといけない。
本当は歩けるはずなのに。お母さん、起き上がって、そして笑って。お願いだから。
未来があることを私に示して。今までいつもそうしてくれたように。
母はいつからこうなってしまったのだろうか。
有希子はそのことを幾度も考えた。そして、ふと、その手がかりを母のスマートデバイスの中に探してみようと思いついた。
森閑とした家を有希子は隅々まで探した。父の部屋、居間、キッチン、仏壇、食器棚、本棚、テレビまわり・・・・。なかなか見つけられなかった。そもそも入院中も母のスマートデバイスはなかった。ということは、横浜駅の地下街で倒れた時からもうないのかもしれない・・・。
探しながら、もう一つ思い出すことがあった。それは倒れるちょっと前から、母から写真や動画が送られてこなくなったこと。その時は気づかず、今になって気づいている自分に呆れてしまい、探している手を休め、ため息を有希子はフーッとついた。
有希子は夕方になって暗くなったクローゼットのある部屋に入った。一度入った部屋だったが、今度は明かりをつけて入った。
クローゼットを開ける。母の服と有希子の服が並んでいる。有希子の服は20代に着ていたもので、年齢に合わなくなって、この家に置いていったものだ。
思いの外、カビくささはなく、むしろ母のつけていた香水の匂いがかすかだが、ふわっと香ってきた。それはまるで、母と有希子のかつての生活が保存されたアルバムのような感覚だった。1着1着、色濃く二人の時間が縫われていた。
そして、母のスマートデバイスはあった。
母のお気に入りだったが、最近は着ていない、目に鮮やかな白いワンピースのポケットにそれはあった。有希子の高校の卒業式、さらに、大学の入学式に着ていた服。その華やかな存在感を有希子はありありと思い出すことができた。
なぜ、こんなところに・・・といぶかしく思いながら、有希子は電源を入れた。当然のように電源は入らなかった。光なく、無言のままだった。
ニャー。
猫の鳴き声が聞こえた。ニャー。庭の方からもう一度。
有希子は部屋から縁側に出て、庭を見渡した。庭にはまだ明るさがあった。しかし、猫の姿はなく、鳴き声ももうしなかった。幻だった。いないものの声を聞き、いないものの姿を探したのだった。確かに聞こえたと感じたが、今はもうあやふやで、母のスマートデバイスを手に持ちながら、有希子は母の寝ている部屋にまた戻った。その時に、母が野良猫を可愛がっていたことを思い出した。
確か・・・メス猫で「ユー」と言ったな。シッポの長いスッとした三毛猫。そうだ、ユーちゃん、ユーちゃんと母は呼んでいた。しばらくして家に住み着いて、その可愛らしい仕草や声の動画がなんども送られてきていた。
先ほどの猫の幻が、誘うように有希子にユーの存在を思い出させた。それはしばらく開けられていなかった部屋のドアを開ける鍵で、そのなかには母の時間の落し物があった。
有希子は一瞬、心が凍りついた。
ああ、ユーは死んだのだ。しばらく母の前から姿を消し、ふらふらになりながら、かろうじて歩きながらまたやってきて、母の膝で死んだのだ。その動画が送られてきていた。いつものような楽しげな母のコメントは何もなく、ただ、弱々しく最後の息の合間にニャーミャーとなんどもユーは切なく繰り返していた。
そうだ、あの時から、母は心の元気を失ったのではないのか。
有希子も圭吾も結衣も、もちろん可哀想だ、哀切だと思ったが、一匹のペットが死んだことによってもたらされる感情は数時間後には消えていて、それ以上のことは何も感じなかった。しかし、母は違った。父が死に、有希子もいない家で、ユーは唯一の心の支えだったのだ。人は、人のいない孤独の中で何かに愛情を絶え間なく注ぎこまないと生きていけないのだ。
生きるとは、つまり、愛を注ぎ続けるということではないのか。
有希子の心が凍りついたのは、ユーの死、その時の母の思い、そして、人生の哀切さ、それらがいっしょくたになってやってきたからだった。母のことを感情の深いレベルで一度も理解してあげられていなかった、その悔いや愚かさも、そこには混ざっていたかもしれなかった。
有希子はユーの最後の動画をもう一度見たいと思った。そして、ユーの最後の言葉をどうしても聞きたいと思っていた。どうしても。
木の床の広い部屋があった。開け放たれた窓の外には緑の木々が見えて、風にさわさわとそよいでいた。大きな自然木のテーブルが真ん中にあって、4つの木の椅子があり、その一つに有希子はじっと座っていた。
「動物言語解析研究所」は湘南の山側の森でできた丘にあった。緩い坂をくねくねとバスで登りながらここに来た。海の匂いとは違う、すがすがしい空気がそこにはあった。
「お待たせしました」
男がやってきた。白衣を着て、細っそりとした体型と丸い顔をしている。40代だろう。メガネを手に持っていた。そして、頭には猫耳バンドをしている。
「猫博士です。待たせちゃいましたね」と言って座り、メガネをかけた。博士らしい顔つきになった。
「あ 本名はあるのですが、もちろん。猫博士とみんな呼んでいるので猫博士と呼んでください」
「はい。素敵なところにある研究所ですね」と有希子は言った。
「猫耳バンドもお似合いです、猫博士」と小さく笑いながら続けた。
「ありがとう。今もペルシャ猫のフロリスと長話をしていました。申し訳ない。大切な話だったらしく、なかなか終わらずに遅れてしまいました」
「これがメールした母のスマートデバイスです。この中に母の可愛がっていたユーの最後の映像があります」と有希子は言った。
猫博士はそのスマートデバイスを手に取り、猫の動画を素早く次から次へと探し出し、音量を大きくしたり小さくしたりした。長い間、その作業を繰り返してから、うなずいて言った。
「ユーは賢い猫です。まだ詳しく解析しないとわかりませんが、話の中身に深みがあります。人間でも薄っぺらな言語能力の人とそうでない人がいるように。猫もまったくもって同じなのです」
猫耳バンドが得意そうにピクピクと前後に揺れた。
「お母さまはたくさんのユーの映像とユーとの会話を残してくれています。これだけあれば大丈夫です。まがい物の猫語翻訳アプリとは違う猫に恥じない結果を約束します」
「他は、まがい物なのです、か?」
「そうです。お腹が空いた、遊びたい、眠たい、愛して、こっちへ来て、嬉しい、
怖い、楽しい。そういう言語を猫の仕草や表情にAIで学習して当てはめることを私どもはしていません」
「と、言うと?」
猫博士は目をキラキラさせて答えた。
「猫は飼い主の言葉を聞きながら学習していきます。日本の猫とアメリカの猫は言語からもたされる行動が自ずと違ってきます。言語の環境が違うので当然です。つまり、言語の本質であるコミュニケーションは、飼い主と猫の間に存在するものです。その特殊性を加味しないと本当の翻訳には至りません」
「難しい話ですね。要は、猫単独の研究だけでなく、母とユーとの間のやりとりを研究しないとダメということですか」
「そうです。では、早速、やってみましょう。1カ月ほど時間をいただけますか。スマートデバイスもその間、お借りできますか」
なんだか説明はわからない感じもあったが、有希子は答えた。
「はい、猫博士、よろしくお願いします」
「はい、うまくいくといいニャン」
猫博士は笑った。有希子も笑った。久しぶりに楽しい気分になっていた。
母は画面を見ている。相変わらず視線は曖昧に対象物を捉えるだけだったがなんとか背をベッドにもたせかけて見ていた。
スマートデバイスのユーの最後の動画には翻訳が入っている。それが画面に表示される。有希子はまだその翻訳を見ていず、母と一緒に見ようと思っていた。
動物言語解析研究所の猫博士の顔が思い浮かぶ。あの猫耳バンドは得意げに揺れているだろうか。
午前の穏やかな日差しが母の寝室に漏れている。なんの物音もしない。母と娘はその静けさの宇宙に二人だけでいた。
スマートデバイスから、いくつかの三毛猫ユーの愛くるしい映像が再生されている。餌を夢中で食べている様子、その時の立てながらゆっくり動くシッポ、顔を右の前足でふく仕草、母の手にじゃれつき体をすり寄せる動作・・・・。母の目の輝きは乏しかったが、それでも視線をそらすことなく画面を見ていた。やがて、ユーの最後の映像にたどり着いた。猫博士が画面にユーの言葉を文字にして出すはずだ。
・・・・縁側にユーが横たわっている。毛が濡れて汚れている。雨の中を彷徨い歩いてきたのかもしれない。カメラが寄って画面いっぱいがユーの姿になった。お腹がゆっくりかすかに波打っている。自らに間も無く訪れる時を知っているかのように目は閉じられている。衰弱している。が、小さく声を絞り出した。ミャッー・・・・。
1秒たって文字が出た。
「ごめんなさい」
ミャオミャオ・・・・
「子どもを産んでたの」
ミャッー・・・・ミャッー・・・・。
「ごめんなさい ごめんなさい」
ニャウー・・・ニャイー。
「会いたかった、最後に」
ミャウー・・・。
「ありがとう」
その次のユーの言葉はとても弱々しかった。だが、画面に文字が出た。
「・・・お母さん・・・」
やがて、静かにユーは息絶え、旅立っていった。画面が激しく揺れた。
母は声を上げずに泣いていた。肩を震わせてうめくように泣いていた。「お母さん・・・」、ユーの最後の言葉。有希子は母の肩を抱き、体を抱いた。チップを入れられてない母の体の温もりがした。有希子も震え、頬に涙が伝わった。
ユーが母の前から姿を消したのは、出産のためだったのだ。猫は隠れて出産をすると言う。そのことを有希子は思い出していた。
ニャー。
その時、猫の鳴き声が聞こえた。
また幻かもしれないと思ったが、有希子は寝室から声のした庭の方を見た。
一匹の猫がいた。三毛だ。まだ子猫のようだ。晩秋の日差しのなかにちょこんと座っている。有希子は1秒で理解した。この子は、ユーの子どもだ。ユーが命と引き換えに産んだ子どもなのだ。自分の母が住んだ家に、最後の時を迎えた家に今、帰ってきたのだ。
「お母さん! ユーの子どもだよ。ほら、お母さん!」
有希子は母にそう庭を指差しながら言い、縁側に飛び出していった。
子猫は有希子を見ると、ニャーと礼儀正しく一度挨拶をし、すくっと後ろ足で立ち、前足を宙に広げた。そして、その両方の前足を右に左に動かした。
猫踊りだ。
軽やかにリズミカルに右に左に足を、体を、動かす。
ふと気がつくと、母がすぐ後ろまで立って歩いてきている。そうして、縁側から庭に降りると、子猫に合わせて、当たり前のように猫踊りを始めた。思いの外、リズミカルだ。ハイ、右に。ハイ、左に。手も足も、ハイ、軽やかに。その後ろ姿を「お母―さん」と言って追いながら、有希子も縁側から庭に降りて、踊り始めた。
ハイ、右に。ハイ、左に。手も足も、ハイ、軽やかに。
そんな言葉が有希子の口からふっと出た。自分でも思いがけずに。
うとましいのは母のことだ。縁側で庭をぼーっと見ていて、心が虚ろになって、その言葉が湧いて出たのだった。
空にはハケで描いたような秋の白い雲があった。しばらくその動きを見つめていた有希子は、今は庭を見ている。夏草がだいぶ残っていて庭は荒れている。10年前に他界した父が石材屋に頼んで持ち込んだ灯籠ももはや廃墟の置物のようだ。背の高い樹木は野放図に枝を伸ばしている。
うとましい。
自分の口から出た、その5文字の意味がなんだか正しく捉えられず、有希子はスマートデバイスで検索した。
<うとましい/疎ましい> 1好感がもてず遠ざけたい・・・ 2異様で恐ろしい・・・・
1の意味で、私は思ったんだな、と有希子は確認してから、そこに2の意味も含まれているかもしれないと少し自分の心の暗がりを見たような気持ちになった。
有希子は縁側から立ち上がり、母の寝ている部屋の方にゆっくりと歩いて行った。
母はほぼ1カ月前にこの鎌倉の自宅に戻ってきた。
その前は横浜の病院にいた。突然、横浜駅の地下街でショッピング中に倒れたのだった。ブティックの店員が横たわって小刻みに震えている母を見つけ、救急車がすぐに呼ばれ、搬送されたのだった。
「中度の脳梗塞です」。
搬送された病院の医師が、急いで駆けつけた夫の谷口圭吾と有希子に病名を告げた。
「すぐに手術をします。出血した細い血管をつなぎ合わせます。簡単な手術ではありませんが、希望が十分に持てる状態だと思います」
医師は、母の脳のスキャンをスクリーンに3Dで映し出した。「ここから出血し・・・早く搬送されたので・・・運良く・・・」。圭吾はその医師の説明を必死に聞いていたが、有希子は上の空だった。
ただ心臓がドキドキと高鳴り続けていて、その音を心の内側で聞いていた。
驚かせないでよ、お母さん。
そう思いながら、ああ、母ももう83歳になっているんだなと気づく。私だって50歳を超えた。母は母のままいつまでも存在し続けている、そう思うことが間違いなのだ。大きな病気をせず、ずっと元気に暮らしてきた母の行く先を有希子は初めて意識していた。
手術はうまくいき、人工筋肉とロボットによるリハビリが始まった。母の意識は順調に戻り、闊達には歩けないものの有希子やロボットが支えればゆっくりと歩を進めることができた。 重苦しい日々から有希子の心は少し解放された。
2カ月ほど病院にいた頃だろうか。ある日、担当医に呼ばれて、今後の方針を聞かされた。「もう病院でやることはなくなりつつあります。考えておいていただきたいのは、次のことです。介護施設に入ることもできると思いますが、医師としては自宅に帰られることをお勧めします」。その言葉を聞きながら、退院できるという喜びはあまりなく、有希子は今後どうするかの選択に迷っていた。
自宅に帰る方がいい理由は、脳も身体も発症前にかなり戻ってきているが、覇気がない。生きていこうという意思が不足している。心の病かもしれない。見ず知らずの人がいる施設よりは、自宅に戻り家族に支えられて生活した方が、心が元に戻りやすい。
そんな趣旨のことを、医学用語をあまり使わず医師は優しく話した。
有希子たち家族は東京の品川区の3LDKで暮らしている。家族に支えられて生活した方がいいと言われたが、鎌倉の実家までは遠い。一方、施設に入れば、安心だ。お金がかかるのが欠点だが、母の口座から毎月引き落とせばなんとかなる・・・・。
2030年代後半の今、ケア・テクノロジーの進歩はめざましかった。1センチ大のICチップを心臓上部、鎖骨周辺に埋め込む。チップは常時、対象者の大量のデータを計測し送り続ける。脈拍数、血圧、心肺機能などはもちろん、白血球数、血糖値、コレステロール値、尿酸値などを体の内側から測定し、モニターでヘルスマネージメントする。GPSにより、チップを入れた対象者が廊下やトイレや浴場で倒れてもすぐにアラームを発することができる。万が一、施設外で徘徊してもすぐに位置を知ることができる。
各種の介護ロボットが身の回りの世話を「心を込めて」こなす。その技術が各施設の売りになっていて、その競争が激しかった。
―――食事の配膳・片付け、排泄物の管理、入浴サポート、部屋の掃除ともうほとんど人間の手を借りることはありません。会話ができるロボットもいますから、コミュニケーションもスムーズです。人為的なミスのない完璧なケアライフ! 24時間AIフルサポート! 親族の方の安心も私どもなら大きく違います―――。
しかし、本当にそれでいいのか。安心であることは確かだし、家族は楽だが、本当にそれでいいのか。それで母の心は戻るのか。有希子は何度も自問した。理屈ではなく感情として割り切れない部分が水滴になって胸を伝わっていくのだった。
「おばあちゃんを家に帰してあげようよ」
娘の結衣は明るく言った。「私が学校のない土日に行くから!」、そう続けた。
「僕もなるたけ行くようにする」と夫の圭吾も言った。「かわいそうだよ」と結衣。「人間らしく過ごしてもらおう」と夫。
そうして、母は実家に戻ることになった。だが、有希子にはわかっていた。結衣も圭吾もそのうち実家に行かなくなることを。今の決意がやがて薄らいでいくことを。嘘をつかないで! そう本当は大声を出したかった。有希子にはわかっていた。だから、声を荒げることはしなかった。
予測できる未来に、人は抵抗しない。ただ絶望するだけなのだ。
母はベッドに寝ていた。目はつぶっていなかった。古い家屋の天井の闇をただじっと見つめていた。それは不気味な気分を有希子に与えた。
いつからこうなってしまったのだろうか。
母は元気な人だった。行動的でいつもハツラツとしていた。スマートデバイスでいろんなものを撮って、有希子たち家族によく送ってきた。旅行の写真や花の写真やペットの動画も多くあった。わずか半年ほどでそれがガラッと変わった。元気だっただけに、今の衰弱が余計に際立つのだった。脳梗塞が直接の原因だが、その前から心に元気がないのを有希子は何とはなしに感じていた。
静かだ。時間も空間もすべて。
活気を失った家で、母は一つの「もの」と化してしまった気がする。何も起こらない。もう何も起こらずに、このまま「もの」は消滅していくのかもしれない。体内にチップを埋め込まれれば、きっといろんなものと接続して生きたのだろうが、今は何にも接続されてない。それは孤独というものではないのか。最先端の施設の方が良かった――そんな気持ちも頭を持ち上げる。
母に声をかけた。「ヘルパーさん、来た?」
2日に一度は人間のヘルパー一人とケアロボット一体が来て、身の回りの世話をする。そして、2日に一度は、有希子が電車とバスを乗り継いで片道1時間半をかけ実家に来て、世話をする。しかし、有希子に急な用事ができて来られない時は、ヘルパーさんに午前中だけをお願いすることもあった。
母は小さくうなずいた。表情は穏やかだが、目は有希子を見ていなかった。空中にある何かを変わらずに凝視していた。しかし、意識はあるし、言葉は理解できている。失語症にでもなったのかと漠然と思い、医師に尋ねたが、単に話す気力が欠落しているだけではないか、と答えた。
思い出すことばかりだ・・・・有希子は久しぶりに20代半ばまでいた実家で一日近くを過ごすとそう感じた。ここでは忘れられた時間がこっそりと忍び寄ってくる。不意に母の言葉が部屋のどこからかやってきて、形や色を伴いながら、脳裏をゆっくり駆けていく。
有希子、はい、お弁当!
よく頑張ったね、いいのよ、ビリでも。
泣かないで、私が代わりに泣くから。
就職おめでとう。頑張った、ホントに、ホントに。
朝、起きると台所にはいつもお弁当があった。最終コーナで転んだ小学校の運動会。失恋して死んでもいいと思った夜。就職でやっとやっと内定がもらえた日・・・。
母がいて、私がいた。いつもエールを送ってくれた。有希子はそのことを思い出して、何度も心を小さな弦楽器のように震わせた。
その母が今、別人のようになっている。母の黄色い排泄物が尿器にたくさん溜まっている。オムツも含めて、そろそろ替えてあげないといけない。
本当は歩けるはずなのに。お母さん、起き上がって、そして笑って。お願いだから。
未来があることを私に示して。今までいつもそうしてくれたように。
母はいつからこうなってしまったのだろうか。
有希子はそのことを幾度も考えた。そして、ふと、その手がかりを母のスマートデバイスの中に探してみようと思いついた。
森閑とした家を有希子は隅々まで探した。父の部屋、居間、キッチン、仏壇、食器棚、本棚、テレビまわり・・・・。なかなか見つけられなかった。そもそも入院中も母のスマートデバイスはなかった。ということは、横浜駅の地下街で倒れた時からもうないのかもしれない・・・。
探しながら、もう一つ思い出すことがあった。それは倒れるちょっと前から、母から写真や動画が送られてこなくなったこと。その時は気づかず、今になって気づいている自分に呆れてしまい、探している手を休め、ため息を有希子はフーッとついた。
有希子は夕方になって暗くなったクローゼットのある部屋に入った。一度入った部屋だったが、今度は明かりをつけて入った。
クローゼットを開ける。母の服と有希子の服が並んでいる。有希子の服は20代に着ていたもので、年齢に合わなくなって、この家に置いていったものだ。
思いの外、カビくささはなく、むしろ母のつけていた香水の匂いがかすかだが、ふわっと香ってきた。それはまるで、母と有希子のかつての生活が保存されたアルバムのような感覚だった。1着1着、色濃く二人の時間が縫われていた。
そして、母のスマートデバイスはあった。
母のお気に入りだったが、最近は着ていない、目に鮮やかな白いワンピースのポケットにそれはあった。有希子の高校の卒業式、さらに、大学の入学式に着ていた服。その華やかな存在感を有希子はありありと思い出すことができた。
なぜ、こんなところに・・・といぶかしく思いながら、有希子は電源を入れた。当然のように電源は入らなかった。光なく、無言のままだった。
ニャー。
猫の鳴き声が聞こえた。ニャー。庭の方からもう一度。
有希子は部屋から縁側に出て、庭を見渡した。庭にはまだ明るさがあった。しかし、猫の姿はなく、鳴き声ももうしなかった。幻だった。いないものの声を聞き、いないものの姿を探したのだった。確かに聞こえたと感じたが、今はもうあやふやで、母のスマートデバイスを手に持ちながら、有希子は母の寝ている部屋にまた戻った。その時に、母が野良猫を可愛がっていたことを思い出した。
確か・・・メス猫で「ユー」と言ったな。シッポの長いスッとした三毛猫。そうだ、ユーちゃん、ユーちゃんと母は呼んでいた。しばらくして家に住み着いて、その可愛らしい仕草や声の動画がなんども送られてきていた。
先ほどの猫の幻が、誘うように有希子にユーの存在を思い出させた。それはしばらく開けられていなかった部屋のドアを開ける鍵で、そのなかには母の時間の落し物があった。
有希子は一瞬、心が凍りついた。
ああ、ユーは死んだのだ。しばらく母の前から姿を消し、ふらふらになりながら、かろうじて歩きながらまたやってきて、母の膝で死んだのだ。その動画が送られてきていた。いつものような楽しげな母のコメントは何もなく、ただ、弱々しく最後の息の合間にニャーミャーとなんどもユーは切なく繰り返していた。
そうだ、あの時から、母は心の元気を失ったのではないのか。
有希子も圭吾も結衣も、もちろん可哀想だ、哀切だと思ったが、一匹のペットが死んだことによってもたらされる感情は数時間後には消えていて、それ以上のことは何も感じなかった。しかし、母は違った。父が死に、有希子もいない家で、ユーは唯一の心の支えだったのだ。人は、人のいない孤独の中で何かに愛情を絶え間なく注ぎこまないと生きていけないのだ。
生きるとは、つまり、愛を注ぎ続けるということではないのか。
有希子の心が凍りついたのは、ユーの死、その時の母の思い、そして、人生の哀切さ、それらがいっしょくたになってやってきたからだった。母のことを感情の深いレベルで一度も理解してあげられていなかった、その悔いや愚かさも、そこには混ざっていたかもしれなかった。
有希子はユーの最後の動画をもう一度見たいと思った。そして、ユーの最後の言葉をどうしても聞きたいと思っていた。どうしても。
木の床の広い部屋があった。開け放たれた窓の外には緑の木々が見えて、風にさわさわとそよいでいた。大きな自然木のテーブルが真ん中にあって、4つの木の椅子があり、その一つに有希子はじっと座っていた。
「動物言語解析研究所」は湘南の山側の森でできた丘にあった。緩い坂をくねくねとバスで登りながらここに来た。海の匂いとは違う、すがすがしい空気がそこにはあった。
「お待たせしました」
男がやってきた。白衣を着て、細っそりとした体型と丸い顔をしている。40代だろう。メガネを手に持っていた。そして、頭には猫耳バンドをしている。
「猫博士です。待たせちゃいましたね」と言って座り、メガネをかけた。博士らしい顔つきになった。
「あ 本名はあるのですが、もちろん。猫博士とみんな呼んでいるので猫博士と呼んでください」
「はい。素敵なところにある研究所ですね」と有希子は言った。
「猫耳バンドもお似合いです、猫博士」と小さく笑いながら続けた。
「ありがとう。今もペルシャ猫のフロリスと長話をしていました。申し訳ない。大切な話だったらしく、なかなか終わらずに遅れてしまいました」
「これがメールした母のスマートデバイスです。この中に母の可愛がっていたユーの最後の映像があります」と有希子は言った。
猫博士はそのスマートデバイスを手に取り、猫の動画を素早く次から次へと探し出し、音量を大きくしたり小さくしたりした。長い間、その作業を繰り返してから、うなずいて言った。
「ユーは賢い猫です。まだ詳しく解析しないとわかりませんが、話の中身に深みがあります。人間でも薄っぺらな言語能力の人とそうでない人がいるように。猫もまったくもって同じなのです」
猫耳バンドが得意そうにピクピクと前後に揺れた。
「お母さまはたくさんのユーの映像とユーとの会話を残してくれています。これだけあれば大丈夫です。まがい物の猫語翻訳アプリとは違う猫に恥じない結果を約束します」
「他は、まがい物なのです、か?」
「そうです。お腹が空いた、遊びたい、眠たい、愛して、こっちへ来て、嬉しい、
怖い、楽しい。そういう言語を猫の仕草や表情にAIで学習して当てはめることを私どもはしていません」
「と、言うと?」
猫博士は目をキラキラさせて答えた。
「猫は飼い主の言葉を聞きながら学習していきます。日本の猫とアメリカの猫は言語からもたされる行動が自ずと違ってきます。言語の環境が違うので当然です。つまり、言語の本質であるコミュニケーションは、飼い主と猫の間に存在するものです。その特殊性を加味しないと本当の翻訳には至りません」
「難しい話ですね。要は、猫単独の研究だけでなく、母とユーとの間のやりとりを研究しないとダメということですか」
「そうです。では、早速、やってみましょう。1カ月ほど時間をいただけますか。スマートデバイスもその間、お借りできますか」
なんだか説明はわからない感じもあったが、有希子は答えた。
「はい、猫博士、よろしくお願いします」
「はい、うまくいくといいニャン」
猫博士は笑った。有希子も笑った。久しぶりに楽しい気分になっていた。
母は画面を見ている。相変わらず視線は曖昧に対象物を捉えるだけだったがなんとか背をベッドにもたせかけて見ていた。
スマートデバイスのユーの最後の動画には翻訳が入っている。それが画面に表示される。有希子はまだその翻訳を見ていず、母と一緒に見ようと思っていた。
動物言語解析研究所の猫博士の顔が思い浮かぶ。あの猫耳バンドは得意げに揺れているだろうか。
午前の穏やかな日差しが母の寝室に漏れている。なんの物音もしない。母と娘はその静けさの宇宙に二人だけでいた。
スマートデバイスから、いくつかの三毛猫ユーの愛くるしい映像が再生されている。餌を夢中で食べている様子、その時の立てながらゆっくり動くシッポ、顔を右の前足でふく仕草、母の手にじゃれつき体をすり寄せる動作・・・・。母の目の輝きは乏しかったが、それでも視線をそらすことなく画面を見ていた。やがて、ユーの最後の映像にたどり着いた。猫博士が画面にユーの言葉を文字にして出すはずだ。
・・・・縁側にユーが横たわっている。毛が濡れて汚れている。雨の中を彷徨い歩いてきたのかもしれない。カメラが寄って画面いっぱいがユーの姿になった。お腹がゆっくりかすかに波打っている。自らに間も無く訪れる時を知っているかのように目は閉じられている。衰弱している。が、小さく声を絞り出した。ミャッー・・・・。
1秒たって文字が出た。
「ごめんなさい」
ミャオミャオ・・・・
「子どもを産んでたの」
ミャッー・・・・ミャッー・・・・。
「ごめんなさい ごめんなさい」
ニャウー・・・ニャイー。
「会いたかった、最後に」
ミャウー・・・。
「ありがとう」
その次のユーの言葉はとても弱々しかった。だが、画面に文字が出た。
「・・・お母さん・・・」
やがて、静かにユーは息絶え、旅立っていった。画面が激しく揺れた。
母は声を上げずに泣いていた。肩を震わせてうめくように泣いていた。「お母さん・・・」、ユーの最後の言葉。有希子は母の肩を抱き、体を抱いた。チップを入れられてない母の体の温もりがした。有希子も震え、頬に涙が伝わった。
ユーが母の前から姿を消したのは、出産のためだったのだ。猫は隠れて出産をすると言う。そのことを有希子は思い出していた。
ニャー。
その時、猫の鳴き声が聞こえた。
また幻かもしれないと思ったが、有希子は寝室から声のした庭の方を見た。
一匹の猫がいた。三毛だ。まだ子猫のようだ。晩秋の日差しのなかにちょこんと座っている。有希子は1秒で理解した。この子は、ユーの子どもだ。ユーが命と引き換えに産んだ子どもなのだ。自分の母が住んだ家に、最後の時を迎えた家に今、帰ってきたのだ。
「お母さん! ユーの子どもだよ。ほら、お母さん!」
有希子は母にそう庭を指差しながら言い、縁側に飛び出していった。
子猫は有希子を見ると、ニャーと礼儀正しく一度挨拶をし、すくっと後ろ足で立ち、前足を宙に広げた。そして、その両方の前足を右に左に動かした。
猫踊りだ。
軽やかにリズミカルに右に左に足を、体を、動かす。
ふと気がつくと、母がすぐ後ろまで立って歩いてきている。そうして、縁側から庭に降りると、子猫に合わせて、当たり前のように猫踊りを始めた。思いの外、リズミカルだ。ハイ、右に。ハイ、左に。手も足も、ハイ、軽やかに。その後ろ姿を「お母―さん」と言って追いながら、有希子も縁側から庭に降りて、踊り始めた。
ハイ、右に。ハイ、左に。手も足も、ハイ、軽やかに。