2030年のコピーライター ─ 未来のエモーション 第12話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第12話は「2030年のコピーライター」。
「チックショー!」
突然、大きな叫び声が聞こえた。間歇泉が噴出したようなボルテージの主は、文月薫だ。
中原サユリは首をすくめてあたりを見回した。オフィスには数人のデザイナーやコピーライターがいたが、何事もなかったようにキーを叩いている。耳は三角アンテナになっているのに聞こえないふりをしている。みんな慣れてきているのだ、この間歇泉の噴出に。
サユリは上目使いに斜め後ろ位置から薫を観察する。顔をデスクに突っ伏して、足を激しくバタバタさせている。短めの赤いスカートで白い足がそのバタバタを際立たせる。まるでだだっ子だ。「さてさて」とサユリは周りを気にしながらも、忍び足でスルスルと薫の位置に移動する。
とにもかくにも、なだめすかさないといけないのです。よしよし、どうーどうーどうーと。それもコーハイ・コピーライターの役割なのです。
「センパイ。天気いいっすね」。
薫は顔を上げる。セミロングの髪がばさっとひと揺れする、が、意外にも爽やかな顔だ。なんだ、嘘吠えかと思ったが、そこはそれ、なだめすかしには演技も必要です。
「なにかありました~?」とサユリもわざと爽やかさ度を上げて尋ねる。答えはわかっている。わかっていることを聞くのも、コーハイの道というもの。
「また、負けた~~」
来た、来た、やはりそうか。
「また、スーパーキャッチくんに負けた~~」
薫はうめくように言った。同じコピーライターのサユリはその声を聞いて悲しくなった。いつも聞き流すつもりなのに、いつも悲しくなってしまうのだ。
うめいた薫は、顔をデスクにつけ、目を閉じ、唇の端にちょっと分泌物をにじませ昇天してしまった。昨日、遅くまで仕事をしたのかもしれない。センパイ、おやすみなさい。サユリは自分のハンカチを出して分泌物を拭ってやり、薫の背中を何回か手のひらでさすって、またスルスルと自分の元いた場所に帰還した。
<スーパーキャッチくん>はAIコピーライターだ。
薫とサユリが在籍している制作プロダクションが独自に開発した広告コピー生成ツールで、キャッチフレーズはもちろん、バナーやSNSやオウンドメディアの記事などを幅広く手がける、まるRなヤツだ。β版だった「キャッチくん」は使えないキャッチコピーばかりを乱出する可愛いヤツだったが、2030年、現場に実装されたスーパーキャッチくんはスーパーにたがわない活躍をし始めている。この数十年のTCC年鑑に掲載されたキャッチは無論、コンバージョン数が多いキャッチ、SNSなどの人気度が高い投稿、サイトの取材記事などを膨大に学習させている。しかも、目的別、ターゲット別、メディア別、商品ジャンル別、そして、「楽しい気分」「勇気付けられる」「トクを感じる」「愉快で面白い」「インパクトがある」などのエモーショナルな反応別にもソートされているから、求められるニーズに的確にアウトプットできるのだった。
さらに人間を驚愕させるのが、そのスピードだ。わずか数分のうちに200本ほどのキャッチフレーズをピンポン!と言ったアテンション音とともに表示する。30分ほど放置して考えさせれば、出るわ出るわ、800本ほどをザクザクザクと排出する。
CDのYがその様子を見て、「ああ~、めんどくせ~、数出せばいいってもんじゃないんだよね~、いいのだけ出してくれればいいんだよ」と言ったあと、薫とサユリの顔の方を向き、「ま、人間はあまり本数がなくて、いいのがなかったりするから、AIのほうがましかね、そうだよねぇ~」と、のたまわった。薫とサユリがこの男にメラメラと殺意を抱いたのは言うまでもない。
ともかく、その高速・大量な生産力はまさに言葉の蒸気機関というか、まさに広告クリエイティブの産業革命というか、コピーライターという人間労働者にとっては気をつけてお付き合いしなくてはならない「すぐれもの」だった。
Yの仕事では、ザクザクと出されたキャッチを人間コピーライターが荒選びすることがよくある。1000本くらいのなかから、命じられて50本ほどに絞り、人間コピーライターのキャッチをプラスして、プレゼン案を検討する。1000本を50本にするのはなかなか労力を要する仕事で、必死になってやっても丸々2日は最低かかった。そんな「お膳立て仕事」がいくつか重なると、人間はヘトヘトに消耗していく、頭も体も、そして、心までも。しかも自分がキャッチコピーを書く時間も必要だし、そもそもAIのキャッチを大量に目の間に並べて選んでも心は楽しく動かなかった。ただの1ミリも。
薫は負けが込んでいる。プレゼンに出したAIコピーがクライアントに採用され、薫のコピーが不採用になることがこのところ多い。今日もそうだった。
クライアントは郊外に多くのチェーン店を持つファミレスだった。政府の無策もあり、少子化はもはや止まらず、ファミリーでレストランを利用する頻度は目に見えて下がりつつあった。そこで、若いカップルに利用してもらおうと発想し、プランニングした。本来なら4人に使って欲しいテーブルを2人に贅沢に使ってもらう。いろんな付加サービスをつけまくり、高級感も演出し、デートを盛り上げ、客単価を上げるようにする。
今日、その新しい施策のキャッチフレーズとメインビジュアルの提案をYのチームが行なった。A案のキャッチフレーズは「日本のデートを美味しく変えます。」で、スーパーキャッチくんの生成。ビジュアルは引き絵の店舗の前にカップルがいて、笑っているというシンプルなもの。キャッチフレーズはドーンと、どでかくレイアウトされていた。B案のキャッチフレーズは「Table for Two. 時間までふたりじめ。」で、薫が書いた。店舗のなかにいるふたりがテーブルを挟んで笑っている。被写界深度が効いた写真で、しっとりした上質の時間を表現するビジュアルだ。ああ、いいなぁと心に直結させようとする狙いだ。
プレゼンは薫がやった。CDのYは責任者のくせにいつもプレゼンをやらない。6、7人の広告担当が前に並んでいた。薫はA案から説明に入った。AIが排出した言葉を人間さまがリコメンドする構造。AIに企画意図はないから、人間がそこを代弁しないといけない。
「御社初めての試みを堂々と宣言します、企業の挑戦感を示します・・・」
そんなようなことを薫は丁寧に話した。AIの案と言えども手は抜けない。案は我が社の大切な商品だから。次にB案。「恋するふたりにとても素敵な世界を見せたいと思います。エモーショナルな力がないといまや人の心は動きません。ブランドもできていかないのです・・・」
当然、力が入った。自分の案だから。何時間もとことん考え、絞り出すように書いたキャッチフレーズだから。力が入っていると思われないように、でも、祈りを込めて話したのです。
「A案がいいと思います! おっしゃる通り、堂々しているからです!」といきなり端っこの得意先の若手が声をあげた。こんなヤツいたっけ、と薫は思う。なにか点数稼ぎというか、俺はここにいるぜ的な自己主張が感じられる声だった。「僕もAだなぁ」という声が上がる。「宣言が必要ですよね、大きなこと始める時は」「力強さも感じました」。そんな反応が追いかける。ヤバイ、この流れ。薫はそう思うが止めることはできない。みんなの声に押されて、広告企画部長が「そうか、みんなの意見がAならそれでいこう」と民主主義的にまとめた。一言も喋ってなかったYが「A案、いいですよね。早速、進めていきたいと思います」と調子づく。
ああ、終わった。ジ・エンド。ジェットコースターのように、薫の心は一気に降下していく。だが、その心の有り様をリアルに見せられないのが、痛かった。案が決まって、少し笑うことさえして見せた、その自分が痛すぎた。コピーライターはキャッチフレーズが世の中に出て、なんぼだ。採用されなければ、練習をしているのと同じこと。薫は案のラフを片付けながら、あまりの心の痛さに体の動きがぎごちなくなっていくのを感じた。痛いよー。負けないぞ、と思う反発心もどこかに消えていき、虚しさのドリルが胸に大きな穴を開けていくーーーー。
「ランチ、来たよ」
薫とサユリがいるフリースペースにCDの長谷部が来て言った。サユリは「ありがとうございます。腹減ったぁ~」と答え、薫は「すぐミーティングルームに行きます」と答えた。
長谷部CDはベテランだ。出身はデザイナーでこの会社をずっと支えてきた。アウトプットだけでなくプロセスも大事にする流儀で、若手の人気も高い。薫とサユリの二人はCDのYとの仕事がいまはメインだが、会社に入ったころは長谷部とも仕事をし、それ以来、時折、ランチしたり、夜呑みしたり、相談に乗ってもらったりしている。
ルームに行くとデリバリーのハンバーガーが来ていた。美味しい匂いがハッピーに充満している。長谷部は照り焼きバーガー、薫はチーズバーガー、サユリはダブルバーガー。
「コーハイ、昼からそれですか」と薫がサユリの分厚いバーガーを横目で確認しながら言う。サユリはダブルバーガー内部に入念にカラシを塗装し始めている。
「昼が勝負なんですよ、センパイ。脳のためには」
「腹のためだろ」と返し、薫はポテトをまず1本、口に放り込む。
「文月というのは、まさにコピーライターにうってつけの苗字だよなぁ」
長谷部はにこやかにコーヒーをすする。
「ルーツはどこなんですか」
と訊きながら、サユリのカラシ塗りは続いている。
「あまり人に話したことないんですけど、その昔、京都で宮中の書記みたいなことやってたらしいです」と言って、薫はチーズバーガーを頬張る。
「へー、すごいなぁ。センパイ、やんごとなき身なんですね」
「いやー、ご先祖さまに申し訳ないほど、いまは、単なる出来損ない」
三人はハンバーガーをそれぞれ食べる。ちょっと幸せ、ちょっとスロウな時が流れている。長谷部に向かって薫が思い出したように言う。
「なぜ、AIコピーライターは得意先の好きなコピーをああも書けるんですか」
「うーん・・・それは広告のコピーは結局、得意先がチョイスし、発信するものだからかな。そういうコピーを膨大に学習させればさせるほど、得意先ライクになっていく」
薫はいつも感じていることを口に出した。
「生活者の存在はどこに行ってしまうんでしょうか」
広告が完全に得意先のものなら、得意先の言いたいことだけを社会に向けて言えばいい。でも、それだと社会に受け入れられにくいから、私たちがいるんじゃなかったっけ? 内部情報を外部情報に変換するとき、つまり企業情報を社会メッセージにするとき、生活者に近い感覚と思考を持つ私たちクリエイターが必要だったのでは?
「難しいね、そこは。AIコピーライターの導入で便利になったことは確かだし。ただ、便利を最優先させるだけでいいのか、といまの時代、多くの人がぼんやりとした疑問を持ってはいるよね」
「・・・・なんだか、いろいろ、わからなくなってきちゃいました」
薫の言葉を聞きながら長谷部とサユリはもぐもぐと音をさせつつ、黙る。それぞれなにかを考えているようだ。
「このまんまやっていっていいのかなと思うなぁ、たまにですけど」
サユリがそう言葉を落とすと、
「ワタシはやめないよ、コピーライター、夢だったから」と薫は言葉をすぐさま拾ってサユリに返した。
出来損ないにも意地があるんだと薫は思う。壁があったら、すぐに迂回する「賢い人生」なんて歩みたくない。まだまだ前に進める、そう信じたい。
「神谷準さんに会ってみるかい。昔、仕事を一緒にしたことがあって」
しばらく無言だった長谷部は突然、提案した。文月のモヤモヤを晴らしてあげたいと思っている。
「あの伝説のコピーライターです、ね・・・・会ってみたいです!」
薫の声が明るくなった。サユリはダブルバーガーを大きく頬張りながら、じっと黙っていた。ふと薫はルームの外を見る。何人かのデザイナーやコピーライターたちが見える。パソコンに向かっていたり、スマートデバイスに文字を打ち込んでいたり。みんな生きている、なにかを信じながら創っている。その思いがどこかに消えていかないようにする方法はないのだろうか、と薫は感じていたーーー。
繁華街の光あふれるストリートを抜けて裏道に入り、ダラダラとした坂を登ると目指すビルがやっとあった。古いビルで、なんだか傾いて立っている。薫は黄色い照明の入り口を通って階段をのぼる。壁面は細いひび割れが目立ち、そこからかすかに黒い水がしみ出していた。ビル全体が冷えている。秋の終わりで、薫はジーンズに白いトレーナーのいでたちだった。
部屋のドアにはなにも書かれていなかった。鉄製で、小さな窓が付いている。薫は一回深呼吸してから、心のなかで気合いを入れ、エイ!とドアを開けた。鍵はかかっていず、いきなり内部だった。まず、長いカウンターが目についた。右の壁際にはおびただしい数のLPレコードが収納され、左の壁際には洋酒のボトルがずらっと陳列されている。フロアーには数人がけの4つの丸テーブルがあった。そして、そして。カウンターの奥に一人の年老いた男がいた。
「こんばんは」と男は言った。「こんばんは」と薫も返した。
「神谷です、ようこそ」
「あ、はい、文月です、文月薫です。今日はわざわざお時間をとって・・・」
「挨拶抜きでゆきましょう」
伝説のコピーライター神谷準は、薫の言葉の語尾を笑顔で遮り、カウンターの奥からフロアーに出てきた。中肉中背で、シルクっぽいシャツが覗くダブルの紺のスーツを着ていた。いまや古語の類だがこういうのを「ダンディ」というのかもしれないと薫は感じる。
「冷たいものはどうです? ハイネッケン、クアーズ、モレッティがあります。エビアンとペリエもあります。ペリエはノンガスです」
入り口近くのクーラーキャビネットを開けながら、伝説のコピーライターは言った。
「エビアンを、お願いします」
薫は緊張していた。当たり前だ、キラキラとした天空の星座のようなコピーで、数々の広告賞をさらっていったレジェンドがいま、その腕をつかめる距離にいるのだから。
「僕はハイネッケンにします」と言って、「どうぞ、座ってください」と一つの丸テーブルを手のひらで示した。二人のテーブルに二つのボトルが置かれた。それはよく冷えていて、表面の水滴が小さい球体になって光っている。――Table for Two. 時間までふたりじめ。
「長谷部くんのメールには、あなたのことをよろしくと書いてありました」
「そうですか・・・このエビアン、美味しいです」
長谷部さん、私のことなんて書いたんだろうと想像しながら、緊張で乾いていた口と喉をグイッと潤した。
「僕ももうずいぶん広告の仕事はしてないんです。20年くらい前に引退して、いまは占いに凝っています。インタイーン生活です」
お、ダジャレだ。伝説の男は笑って言った。初め見たときのひどく年老いた感じから、少しずつだんだんと若返っていくようだった。
「さぁ、若いコピーライターの話を聞かせてくだい。その前に、いま、水晶玉を持ってきます」
神谷準はそそくさと立ち上がり、カウンターの端にあった直径40センチほどの半透明と透明がまだらになった球体を両手で抱えて戻ってきた。
なぜ、ここで、水晶玉?と薫は思ったが、目の前に置かれた球体を一目見て、素直にキレイだと感じた。
「思いを込めて、水晶玉を見てください。祈るように、念じるようにです、さぁ」
薫はその通りにした。3分ほどすると、神谷準は「わかりました!」と嬉しそうに短く叫んだ。
「いまから私の言うことが正しかったら、うなずいてください」
薫はハイの仕草で首を縦に動かした。
「コピーを書いているとき、言葉の意味がわかっているはずなのに、一瞬、意味を喪失してしまうことがありますか」
あるある。書いていて、いまどんなことを書こうとしているか、ふとわからなくなることがある。薫は1回うなずいた。
「ボディコピーなど、文章を書いているとき、前後の文脈がふとわからなくなることがありますか」
あるある。前からあったが、最近は特にそうだ。薫はまた1回うなずいた。
「あなたはゲシュタルト崩壊しています。お菓子でも、秘密警察でもありません。ゲシュタルト」
「なんですかぁ、それ?」と薫の問いは友達に話すみたいだった。
「言葉の認知症みたいなものです。若い人でもかかります。言語の意味を失って、生きることの意味も失っていきます。言葉を多く使う人に起こりがちです」
なんだか怖ろしいことになってきた。
「近ごろ、あなたの言語脳を破壊するようなことが起きていませんか」
あるある。それだ、それ。スーパーキャッチくんだ。私の書く行為に大きな影響を与えつつあるのは。薫はAIコピーライターのことを話した。話し終えると薫のエビアンも神谷準のハイネッケンも空いていた。互いの2本目はクーラーキャビネを開き、薫がサーブした。
「そうですか。あなたの気持ちはよくわかります。書く基準、例えば、正しいものと悪いものとの区別とかが、揺れ動きそうですね」
「ええ、負けたときの喪失感もあります・・・自分がバラバラになっていくような、いまいる座標がなくなってしまうような・・・」
「それでも、あなたは書くことをやめたくない、ですね?」
「ええ、戦いたいんです、今度は。いつも逃げてきたような気がしているからかもしれません」
薫は自分のわずか30年足らずの人生を振り返る。成績も、部活も、趣味も、そして恋愛も、「とりあえず」でやってきた。いつも心のどこかに出口を用意していた。伝説のコピーライターは考えていたが、やがて口をおもむろに開いた。
「うなぎは好きですか」
「ええ、まぁ。でも、すごく高価な食べ物ですから、滅多には食べられません」
うなぎの値段はこの10年で倍近くになっていた。でも、なぜ、うなぎなのか? 薫の頭はクラクラとなった。
「天然は獲れなくなったから、養殖がいまはかなり多くなりました。しかし、どちらが美味しいと言われれば、どうでしょう」
薫が答える前に神谷準は続けて話した。
「科学的で、便利で、操作的なもの。それが世の中にあふれるようになった。しかし、自然で、コントロールが効かず、繊細さに満ちたもの。それは相変わらず、消えてはいない」
「そういうものに会うと、なぜか、心が落ち着き、ほっとします」
「そうですね。言葉でもそういうことがあるのではないでしょうか」
ハイネッケンを一口飲んで、伝説のコピーライターはそう言った。
「養殖ではなく、便利ではなく、天然で繊細なもの。そこに豊かな作用を含んだもの。ということです、か」
少し考えてから薫はそう返した。
「使い分けられるべきだと思います。天然と養殖のように。つまり、AIと人間では目的が違うんではないでしょうか。人が心から待っている言葉は、人が心から練り、発酵させ、届けるべきなのだと僕は考えます」
薫はじっと神谷準の顔を見た。見つめ返してくる眼差しは深い力に満ちていた。
「・・・誰かが、私の言葉を待っているのでしょうか」
水が器からこぼれるようにそう言った。
「そうですよ、きっと多くの人が待っていますよ。それを感じながら書くのが、コピーライターという職業なのです」
薫の胸は熱くなって、少し体が震えていた。
「ま、うなぎの話が適切だったかどうかわかりませんが」と神谷準は笑い、席を立って、こう言った。
「あなたに特別に差し上げたいものがあります」
そうしてカウンターの奥の左端に入って行った。そこには小さな棚があり、ビートルズの4つのフィギュアが上に置かれていた。その棚の引き出しらしきところを開けながら、「ここは、20年ほど前に死んだ友人のロックバーだったんです・・・なにかかけましょうか」と薫に大きめの声で話しかけた。やがて空間にピアノとトランペットの音が優しく響き始めたころ、神谷準は薫の前に再び座り、一本の鉛筆を目の前にかざした。
「アイデアが次から次に湧いてくる魔法が込められています」
鉛筆はなんのブランド名も書かれていない真っ白なものだった。ただ、そこの上部に金色のリングがはめられていた。指と指輪の関係。リングは室内の照明を受けて輝いている。
「さ、手に取ってください。あなただけの、特別な一本になるでしょう」
薫は「ありがとうございます」と言い、鉛筆を手に取った。よく見ると、金色のリングが不思議な輝きを放っている。光を受けて輝くだけでなく、自らもかすかに発光しているようなのだ。なにか、ありえない展開になっている。そう思いながら鉛筆を握って書く動作をしてみた。
うん、なんだかいっぱい書けそうだ。薫は何度も小さくうなずいた。
「ただし、ひとつ注意してほしいことがあります」
「・・・・なんでしょうか」
「それは、鉛筆は削っているうちに芯がなくなってしまうということです」
薫はそれはそうだと思いながら、白い鉛筆をまた握った。もう愛着が湧いてきている! 私に書けと言っている! 金色のリングが薫の気持ちに呼応してキラキラと光った。
「さ、新たな旅立ちです。言葉で人に希望を与えてください」
伝説のコピーライターはハイネッケンのボトルを乾杯の仕草で掲げながら、青年のように笑いかけた。
薫の連戦連勝が始まった。
新規で手がけたコスメ系のクライアントが女性の実感コピーを大切にしたこともあり、スーパーキャッチくんに久しく負けていなかった。つくった広告が大きな広告賞にエントリーもされていた。
「最近、調子いいね」と長谷部CDが薫に声をかける。
「神谷さんからなにか伝授された?」
「ええ、うなぎです」
「え、食べるうなぎ?」
「そうです」と薫はこれ以上ない青空のような笑顔で答える。長谷川も「へー、そうなんだ」と楽しそうに通り過ぎて行く。
金色リング付きの白い鉛筆が私のところへ来てから、私は変わった。それは、ヨタヨタ歩きだった私を支える杖のようだ。夢だったことをしているのに自信が持てなくなっていた弱い心を支えてくれている。一本の鉛筆が杖になるなんて、笑える。ゲシュタルト崩壊とやら、さらば、です。
薫はそんなことを思いながら、遠くのサユリの方を不意に見た。終業の時間をちょっと過ぎたが、なにか必死にキーを叩いている。余裕がない。いつもの明るさがどこかに飛んでいる・・・。
・・・・そう言えば、白い鉛筆は誰にも見せていない。もちろん、それを使って書く行為も。いつもバッグのなかに忍ばせているが誰にも見せていない。人に見られない場所、例えばミーティングルームにこもるときは、白い鉛筆を登場させて書く。芯が減らないように筆圧をやや下げて紙に書く。「減らないように」がとても大切。杖を失ったらまた歩けなくなるかもしれないから。
なんか薫はボッーとしていた。フリースペースの窓側のほうで、嫌な感じではなく、満ち足りた茫漠のなかにいた。ふと、コピーを白い鉛筆で書いていた。書くことを意識していなかったが、浮かんでくる言葉を確実に書いていた。
「センパイ。また勝ちましたね」
サユリの声だ。振り向くとサユリが真後ろにいる。
「たまたまだよ、たまたま」と反応して、薫は白い鉛筆を使っていたことにハッとし、慌てて鉛筆を置き、少し上半身をひねって右の腕で隠す。
「君は、どうなんだ?」
「あたしですか。どうもこうもないです。あまりの才能のなさに自分で呆れる毎日です」
「そうか、そうなんだ」
薫は、なぜ自分はサユリに白い鉛筆を見せないのかと瞬間、思った。この鉛筆、神谷さんからもらった魔法の鉛筆なんだ、くらいのことをなぜ、言えないのか、親しいサユリに、可愛いコーハイに。答えはすぐにわかった。それは彼女がコピーライターという同じ職業だからだ。そして、ライバルの一人だからだ。言葉づくりの本質は、共同作業ではなく、個人作業なのだ。そこでは孤独さえ必要とされる作業なのだ。しかし、薫は自分に対する情けなさも同時に感じていた。セコい、セコすぎる。サユリがうまくいくきっかけになるんだったら、1週間レンタルで貸してあげるくらいの広い心を持てないのか。1カ月は無理かもしれないけど・・・。
「せめて一生懸命にやろうとは思っていて。センパイみたくセンスないけど」
「ま、さ、センス、センスって言うなよ。それを言ったら、前に歩けないじゃん。きっとさ、努力が扉を開けるんだよ。そう考えよう」
「ええ、そうですよね。もうちょっと頑張ってみます」
そう形式っぽく言ったサユリの表情は冴えなかった。もっと話さないといけないと薫は心を刺されるように直感した。
「今週どこかで、夜メシ、行こう!」と薫は明るめで大きめの声を出した。
「ハイ、行きましょう。ちょっと元気になりました!」
サユリはぴょんぴょんと小さく体を跳ねるように動かして、嬉しそうに言った。
来るときが来た。わかってはいたが、ついに来た。
鉛筆の芯がもうわずかしかないのだった。1センチになるまで書こうとしたが、金のリングが邪魔をしてもう書けない。手にしてから1年ほどだろうか。大事に、大事に使ってきた。カッターで丁寧に削ってきた。書くときは慎重に書いてきた。しかし、終わりは来てしまった。
薫はもう一度、神谷準のバーを訪れたいと思った。そこで、神谷さんに、まだ鉛筆は残っていませんか、と言うのか、これからどうしたらいいでしょうか、と言うのか、わからないが、とにかくそうすることがベストだと考えた。杖を失ったら、心が歩けなくなるかもしれないーーーそんな恐怖も芽生えていた。
「ここは、もうずいぶん使われてないんですよ」
ビルの年老いた管理人がドアの前に立って言った。
「どのくらいですか」と薫は尋ねた。1年前にここで神谷さんに会った。それが<ずいぶん>ということになるのだろうか。
「20年くらいですかね。私もそのころは髪の毛がふさふさでね」とテカテカ頭の管理人は答えた。君の髪の毛はどうでもいいんだよ、と薫は思いながら、「そんなはずはないんですが」と言った。
「他の人に借りて欲しいんですが、お金だけはきちんと毎月振り込まれるんでね」
管理人はドアを鍵で開けた。照明をつけると、1年前に来たときと同じ光景がそこにはあった。長いカウンター、LPの棚、ボトルの列、フロアーのテーブル。そして、その上に置かれた水晶玉。ただ、クーラーボックスの電源は切られていて中には1本のボトルも入っていなかった。
「ちょっと一人にしてもらってもいいでしょうか」と薫はお願いした。
「ええ、ちょっとだけなら。終わったら、管理人室まで来てください」
管理人はドアを静かに閉じ、スタスタという足音を残して階段を降りていった。
薫はカウンターの奥へと歩いていく。確か、あのとき、神谷さんは奥の棚の引き出しから白い鉛筆を出した。そのことを思い出しながらゆっくりと進んでいく。ビートルズの4つのフュギアが上にある。そうだ、この棚だ。神谷さん、勝手に開けます、ゴメンなさい・・・そう胸のうちで呟きながら薫は棚の引き出しを手前にぐいっと引いた。
驚いた。そこには白い鉛筆が無数にあったのだった。無数と言うと大げさだが、薫にはそう映った。鉛筆と鉛筆の隙間には、金色のリングが同じくたくさん置かれていて鈍く光っている。あのとき、神谷さんは「あなたに特別に」と言った。それは嘘だったのだ。もっとよく見たいと感じて、引き出しを抜いてカウンターの上に置くと、ふわっと1枚の紙が落ちた。薫はそれをすぐに拾って確かめた。二つ折の紙を開くと、手書きの文字があった。手紙だ。薫はさっきから高鳴っていた心臓の鼓動がさらに振幅を増すのを感じていた。
薫は白い鉛筆とリングをもらった。それぞれふたつずつ。引き出しから取り、ハンカチに包み、バッグにしまった。次に、バッグから白い紙を出し、伝説のコピーライターに短い手紙を書いて、たくさんの鉛筆の上に丁寧に置いた。
中原サユリが会社を辞めると言う噂が立っていた。神谷準のバーに行って次の日に長谷部CDから聞いた。薫はサユリを探したが会社にはいなかった、夕方になっても。仕方なくメールした。2日ほど忙しいので、3日後の午後に会社の近くのカフェでどうか、と返事が来た。会社にも来られないような用事ってなんだろうと思いながら、「了解です!」と明るい感じで返信した。
「あのー、お土産です」、サユリはおそるおそる紙袋を出した。薫が受け取りつつ、その紙袋を怪訝そうに見ていると、「野沢菜です。実家に帰ってました」と言った。2時過ぎのカフェは客もまばらで声がよく通るはずだが、サユリの声は小さく弱々しく聞こえた。
「ありがと。実家は長野でお土産屋やってるって言ってたよね」
薫はマジマジとサユリを見た。
「そうなんです。今度、お店を大きくするんで手伝おうかなと思って」
「つまり、それって、会社を辞めるってこと?」
「ええ、まぁ・・・そんな感じです・・・コピーライターを辞めると言うことでもあります」
サユリは目を合わせずらそうに俯いて言った。何気にサユリの足元を見ると、珍しくハイヒールで、小さめの旅行バッグが置かれていた。長野から直接、東京のこのカフェに来たようだ。薫がなんと答えていいか、うろうろと思案していると
「情熱が才能を超えるなんて、嘘ですよね。頑張りましたが、疲れました。広告がテクノロジーになり過ぎて、あたしのような人間は居場所がなくなったとも思いました」とサユリは顔をあげて言った。
なんと反応していいか、よくわからなかったが、とにかく辞めて欲しくなかった。いまの気持ちはただそれだけだった。だが、それは自分のエゴなのかもしれないとも感じていた。志を同じくする仲間が近くにいてほしい、ただそう自分本位に思っているだけなのではないか・・・本当にサユリの気持ちになって考えることができているのかどうか・・・。
「よく頑張ったよな」
ただそれだけを胸に痛さを感じながら言って、薫はカフェラテの紙コップを口につけて飲んだ。
「センパイの後ろ姿を追っていただけです。ずっとありがとうございました」
そんなウエットで水浸しになるようなこと言うなよ。薫は次の言葉がなかなか探せず、迷子になったように黙った。サユリも申し訳なさそうな顔で黙っている。
薫はまたカフェラテを1回飲んで、あることをしないといけないと思った。バッグを開け、ハンカチに包まれたものをテーブルに出した。
私からのお土産もあるんだよ。間接的に、神谷準さんからのお土産でもあるんだよ。さ、見てごらん、コーハイ。
「これ、あげるよ。特別に、君に」
白い鉛筆をスッと差し出した。金色のリングがキラッと輝いた。その瞬間、サユリの目もキラッと輝いたようだった。身を少し前に出して、鉛筆に視線の焦点を当てた。
「これ、欲しかったんです。センパイが使っているのを見てて」
なーんだ、見られていたのか、ガード甘すぎだよなぁ、ワタシも。でも、まぁ、いいや。
「ごめん、もっと早くあげられればよかったんだけど」
「いえ、いいんです。ありがとうございます」
そう言って、サユリは白い鉛筆を手にし、紙に書く真似をした。エアライティング。
「なんだか、たくさん、いいこと思いつきそう。コピーライター辞めても、書くことは忘れないで、と言ってるみたい」
「とにかく、頑張った自分を忘れずに。レベルを下げるんじゃないぞ」
「ええ、そうですよね」と言いながら、金色のリングを店の照明に夢中でかざしている。
「夢を叶える場所は、平和な庭のなかではない。それはいつも戦いの場のなかでだ」
薫はそう言った。サユリはその言葉に、視線を薫に移し直して、ほーという感じの顔になり、「お、センパイ、いいキャッチコピーっすね!」と褒めた。それゃ、そうだ。伝説のコピーライターが書いたコピーなんだからと思いながら、その言葉が君のいまの心に、はまって良かったなと感じていた。
「そろそろ、私は、戻るよ、戦場に」
「あ、そうですよね、時間ですよね。先に行ってください。その凛々しい後ろ姿を目に焼き付けておきたいから」
薫は微笑んで席を立った。二人のお茶代は店のキャッシャーにカードを歩きながらかざして、ペイした。
さようなら、サユリ。また、どこかで会おう。
胸にこみ上げてくるものがあったが、もうどうしようもできないのだとも思った。振り返らず、仕事が待っている会社に向かおう。
5、6分、歩いて、会社のあるビルの広いエントランスに着いた。なんだか大事な忘れ物をしてきた気持ちがして、足取りが重かった。20 年前の人なら、必死になって「辞めるな」と説得しただろう。でも、いまは人の心のエリアに侵入することを避ける時代になった。去ると決めた個人の意思をひっくり返すことはもう難しいのだ。そんなことを薫は思っていた。
エントランスに入ると数人のビジネスパーソンがいて、打ち解けた感じで笑いあっていた。それをチラ見していると、また心の奥から寂しさが染み出してきた。薫はエントランス奥まで歩いていき、エレベーターの行く先階のボタンを押した。
その時だった。後ろの方で、カツカツという音が鋭く聞こえた。ハイヒールの音だ。振り返った。10数メートル向こうに、逆光気味のシルエットとなって、一人の女性が走ってきている。わかった。何度も見てきた姿だからね。サユリ、どうしたんだい。
薫が正対してサユリを見た瞬間、おそらく数メートルまで近づいてきていたその瞬間、サユリはピッと立ち止まった。そして、サッと右腕を上げて敬礼をした。
「中原サユリ、戦場に戻ってまいりました。許可いただけるでしょうか」
薫は崩れそうな顔で笑いながら、敬礼をして叫ぶように言った。
「よし、許可する! まっとうせよ、コピーライターの任務を!」
突然、大きな叫び声が聞こえた。間歇泉が噴出したようなボルテージの主は、文月薫だ。
中原サユリは首をすくめてあたりを見回した。オフィスには数人のデザイナーやコピーライターがいたが、何事もなかったようにキーを叩いている。耳は三角アンテナになっているのに聞こえないふりをしている。みんな慣れてきているのだ、この間歇泉の噴出に。
サユリは上目使いに斜め後ろ位置から薫を観察する。顔をデスクに突っ伏して、足を激しくバタバタさせている。短めの赤いスカートで白い足がそのバタバタを際立たせる。まるでだだっ子だ。「さてさて」とサユリは周りを気にしながらも、忍び足でスルスルと薫の位置に移動する。
とにもかくにも、なだめすかさないといけないのです。よしよし、どうーどうーどうーと。それもコーハイ・コピーライターの役割なのです。
「センパイ。天気いいっすね」。
薫は顔を上げる。セミロングの髪がばさっとひと揺れする、が、意外にも爽やかな顔だ。なんだ、嘘吠えかと思ったが、そこはそれ、なだめすかしには演技も必要です。
「なにかありました~?」とサユリもわざと爽やかさ度を上げて尋ねる。答えはわかっている。わかっていることを聞くのも、コーハイの道というもの。
「また、負けた~~」
来た、来た、やはりそうか。
「また、スーパーキャッチくんに負けた~~」
薫はうめくように言った。同じコピーライターのサユリはその声を聞いて悲しくなった。いつも聞き流すつもりなのに、いつも悲しくなってしまうのだ。
うめいた薫は、顔をデスクにつけ、目を閉じ、唇の端にちょっと分泌物をにじませ昇天してしまった。昨日、遅くまで仕事をしたのかもしれない。センパイ、おやすみなさい。サユリは自分のハンカチを出して分泌物を拭ってやり、薫の背中を何回か手のひらでさすって、またスルスルと自分の元いた場所に帰還した。
<スーパーキャッチくん>はAIコピーライターだ。
薫とサユリが在籍している制作プロダクションが独自に開発した広告コピー生成ツールで、キャッチフレーズはもちろん、バナーやSNSやオウンドメディアの記事などを幅広く手がける、まるRなヤツだ。β版だった「キャッチくん」は使えないキャッチコピーばかりを乱出する可愛いヤツだったが、2030年、現場に実装されたスーパーキャッチくんはスーパーにたがわない活躍をし始めている。この数十年のTCC年鑑に掲載されたキャッチは無論、コンバージョン数が多いキャッチ、SNSなどの人気度が高い投稿、サイトの取材記事などを膨大に学習させている。しかも、目的別、ターゲット別、メディア別、商品ジャンル別、そして、「楽しい気分」「勇気付けられる」「トクを感じる」「愉快で面白い」「インパクトがある」などのエモーショナルな反応別にもソートされているから、求められるニーズに的確にアウトプットできるのだった。
さらに人間を驚愕させるのが、そのスピードだ。わずか数分のうちに200本ほどのキャッチフレーズをピンポン!と言ったアテンション音とともに表示する。30分ほど放置して考えさせれば、出るわ出るわ、800本ほどをザクザクザクと排出する。
CDのYがその様子を見て、「ああ~、めんどくせ~、数出せばいいってもんじゃないんだよね~、いいのだけ出してくれればいいんだよ」と言ったあと、薫とサユリの顔の方を向き、「ま、人間はあまり本数がなくて、いいのがなかったりするから、AIのほうがましかね、そうだよねぇ~」と、のたまわった。薫とサユリがこの男にメラメラと殺意を抱いたのは言うまでもない。
ともかく、その高速・大量な生産力はまさに言葉の蒸気機関というか、まさに広告クリエイティブの産業革命というか、コピーライターという人間労働者にとっては気をつけてお付き合いしなくてはならない「すぐれもの」だった。
Yの仕事では、ザクザクと出されたキャッチを人間コピーライターが荒選びすることがよくある。1000本くらいのなかから、命じられて50本ほどに絞り、人間コピーライターのキャッチをプラスして、プレゼン案を検討する。1000本を50本にするのはなかなか労力を要する仕事で、必死になってやっても丸々2日は最低かかった。そんな「お膳立て仕事」がいくつか重なると、人間はヘトヘトに消耗していく、頭も体も、そして、心までも。しかも自分がキャッチコピーを書く時間も必要だし、そもそもAIのキャッチを大量に目の間に並べて選んでも心は楽しく動かなかった。ただの1ミリも。
薫は負けが込んでいる。プレゼンに出したAIコピーがクライアントに採用され、薫のコピーが不採用になることがこのところ多い。今日もそうだった。
クライアントは郊外に多くのチェーン店を持つファミレスだった。政府の無策もあり、少子化はもはや止まらず、ファミリーでレストランを利用する頻度は目に見えて下がりつつあった。そこで、若いカップルに利用してもらおうと発想し、プランニングした。本来なら4人に使って欲しいテーブルを2人に贅沢に使ってもらう。いろんな付加サービスをつけまくり、高級感も演出し、デートを盛り上げ、客単価を上げるようにする。
今日、その新しい施策のキャッチフレーズとメインビジュアルの提案をYのチームが行なった。A案のキャッチフレーズは「日本のデートを美味しく変えます。」で、スーパーキャッチくんの生成。ビジュアルは引き絵の店舗の前にカップルがいて、笑っているというシンプルなもの。キャッチフレーズはドーンと、どでかくレイアウトされていた。B案のキャッチフレーズは「Table for Two. 時間までふたりじめ。」で、薫が書いた。店舗のなかにいるふたりがテーブルを挟んで笑っている。被写界深度が効いた写真で、しっとりした上質の時間を表現するビジュアルだ。ああ、いいなぁと心に直結させようとする狙いだ。
プレゼンは薫がやった。CDのYは責任者のくせにいつもプレゼンをやらない。6、7人の広告担当が前に並んでいた。薫はA案から説明に入った。AIが排出した言葉を人間さまがリコメンドする構造。AIに企画意図はないから、人間がそこを代弁しないといけない。
「御社初めての試みを堂々と宣言します、企業の挑戦感を示します・・・」
そんなようなことを薫は丁寧に話した。AIの案と言えども手は抜けない。案は我が社の大切な商品だから。次にB案。「恋するふたりにとても素敵な世界を見せたいと思います。エモーショナルな力がないといまや人の心は動きません。ブランドもできていかないのです・・・」
当然、力が入った。自分の案だから。何時間もとことん考え、絞り出すように書いたキャッチフレーズだから。力が入っていると思われないように、でも、祈りを込めて話したのです。
「A案がいいと思います! おっしゃる通り、堂々しているからです!」といきなり端っこの得意先の若手が声をあげた。こんなヤツいたっけ、と薫は思う。なにか点数稼ぎというか、俺はここにいるぜ的な自己主張が感じられる声だった。「僕もAだなぁ」という声が上がる。「宣言が必要ですよね、大きなこと始める時は」「力強さも感じました」。そんな反応が追いかける。ヤバイ、この流れ。薫はそう思うが止めることはできない。みんなの声に押されて、広告企画部長が「そうか、みんなの意見がAならそれでいこう」と民主主義的にまとめた。一言も喋ってなかったYが「A案、いいですよね。早速、進めていきたいと思います」と調子づく。
ああ、終わった。ジ・エンド。ジェットコースターのように、薫の心は一気に降下していく。だが、その心の有り様をリアルに見せられないのが、痛かった。案が決まって、少し笑うことさえして見せた、その自分が痛すぎた。コピーライターはキャッチフレーズが世の中に出て、なんぼだ。採用されなければ、練習をしているのと同じこと。薫は案のラフを片付けながら、あまりの心の痛さに体の動きがぎごちなくなっていくのを感じた。痛いよー。負けないぞ、と思う反発心もどこかに消えていき、虚しさのドリルが胸に大きな穴を開けていくーーーー。
「ランチ、来たよ」
薫とサユリがいるフリースペースにCDの長谷部が来て言った。サユリは「ありがとうございます。腹減ったぁ~」と答え、薫は「すぐミーティングルームに行きます」と答えた。
長谷部CDはベテランだ。出身はデザイナーでこの会社をずっと支えてきた。アウトプットだけでなくプロセスも大事にする流儀で、若手の人気も高い。薫とサユリの二人はCDのYとの仕事がいまはメインだが、会社に入ったころは長谷部とも仕事をし、それ以来、時折、ランチしたり、夜呑みしたり、相談に乗ってもらったりしている。
ルームに行くとデリバリーのハンバーガーが来ていた。美味しい匂いがハッピーに充満している。長谷部は照り焼きバーガー、薫はチーズバーガー、サユリはダブルバーガー。
「コーハイ、昼からそれですか」と薫がサユリの分厚いバーガーを横目で確認しながら言う。サユリはダブルバーガー内部に入念にカラシを塗装し始めている。
「昼が勝負なんですよ、センパイ。脳のためには」
「腹のためだろ」と返し、薫はポテトをまず1本、口に放り込む。
「文月というのは、まさにコピーライターにうってつけの苗字だよなぁ」
長谷部はにこやかにコーヒーをすする。
「ルーツはどこなんですか」
と訊きながら、サユリのカラシ塗りは続いている。
「あまり人に話したことないんですけど、その昔、京都で宮中の書記みたいなことやってたらしいです」と言って、薫はチーズバーガーを頬張る。
「へー、すごいなぁ。センパイ、やんごとなき身なんですね」
「いやー、ご先祖さまに申し訳ないほど、いまは、単なる出来損ない」
三人はハンバーガーをそれぞれ食べる。ちょっと幸せ、ちょっとスロウな時が流れている。長谷部に向かって薫が思い出したように言う。
「なぜ、AIコピーライターは得意先の好きなコピーをああも書けるんですか」
「うーん・・・それは広告のコピーは結局、得意先がチョイスし、発信するものだからかな。そういうコピーを膨大に学習させればさせるほど、得意先ライクになっていく」
薫はいつも感じていることを口に出した。
「生活者の存在はどこに行ってしまうんでしょうか」
広告が完全に得意先のものなら、得意先の言いたいことだけを社会に向けて言えばいい。でも、それだと社会に受け入れられにくいから、私たちがいるんじゃなかったっけ? 内部情報を外部情報に変換するとき、つまり企業情報を社会メッセージにするとき、生活者に近い感覚と思考を持つ私たちクリエイターが必要だったのでは?
「難しいね、そこは。AIコピーライターの導入で便利になったことは確かだし。ただ、便利を最優先させるだけでいいのか、といまの時代、多くの人がぼんやりとした疑問を持ってはいるよね」
「・・・・なんだか、いろいろ、わからなくなってきちゃいました」
薫の言葉を聞きながら長谷部とサユリはもぐもぐと音をさせつつ、黙る。それぞれなにかを考えているようだ。
「このまんまやっていっていいのかなと思うなぁ、たまにですけど」
サユリがそう言葉を落とすと、
「ワタシはやめないよ、コピーライター、夢だったから」と薫は言葉をすぐさま拾ってサユリに返した。
出来損ないにも意地があるんだと薫は思う。壁があったら、すぐに迂回する「賢い人生」なんて歩みたくない。まだまだ前に進める、そう信じたい。
「神谷準さんに会ってみるかい。昔、仕事を一緒にしたことがあって」
しばらく無言だった長谷部は突然、提案した。文月のモヤモヤを晴らしてあげたいと思っている。
「あの伝説のコピーライターです、ね・・・・会ってみたいです!」
薫の声が明るくなった。サユリはダブルバーガーを大きく頬張りながら、じっと黙っていた。ふと薫はルームの外を見る。何人かのデザイナーやコピーライターたちが見える。パソコンに向かっていたり、スマートデバイスに文字を打ち込んでいたり。みんな生きている、なにかを信じながら創っている。その思いがどこかに消えていかないようにする方法はないのだろうか、と薫は感じていたーーー。
繁華街の光あふれるストリートを抜けて裏道に入り、ダラダラとした坂を登ると目指すビルがやっとあった。古いビルで、なんだか傾いて立っている。薫は黄色い照明の入り口を通って階段をのぼる。壁面は細いひび割れが目立ち、そこからかすかに黒い水がしみ出していた。ビル全体が冷えている。秋の終わりで、薫はジーンズに白いトレーナーのいでたちだった。
部屋のドアにはなにも書かれていなかった。鉄製で、小さな窓が付いている。薫は一回深呼吸してから、心のなかで気合いを入れ、エイ!とドアを開けた。鍵はかかっていず、いきなり内部だった。まず、長いカウンターが目についた。右の壁際にはおびただしい数のLPレコードが収納され、左の壁際には洋酒のボトルがずらっと陳列されている。フロアーには数人がけの4つの丸テーブルがあった。そして、そして。カウンターの奥に一人の年老いた男がいた。
「こんばんは」と男は言った。「こんばんは」と薫も返した。
「神谷です、ようこそ」
「あ、はい、文月です、文月薫です。今日はわざわざお時間をとって・・・」
「挨拶抜きでゆきましょう」
伝説のコピーライター神谷準は、薫の言葉の語尾を笑顔で遮り、カウンターの奥からフロアーに出てきた。中肉中背で、シルクっぽいシャツが覗くダブルの紺のスーツを着ていた。いまや古語の類だがこういうのを「ダンディ」というのかもしれないと薫は感じる。
「冷たいものはどうです? ハイネッケン、クアーズ、モレッティがあります。エビアンとペリエもあります。ペリエはノンガスです」
入り口近くのクーラーキャビネットを開けながら、伝説のコピーライターは言った。
「エビアンを、お願いします」
薫は緊張していた。当たり前だ、キラキラとした天空の星座のようなコピーで、数々の広告賞をさらっていったレジェンドがいま、その腕をつかめる距離にいるのだから。
「僕はハイネッケンにします」と言って、「どうぞ、座ってください」と一つの丸テーブルを手のひらで示した。二人のテーブルに二つのボトルが置かれた。それはよく冷えていて、表面の水滴が小さい球体になって光っている。――Table for Two. 時間までふたりじめ。
「長谷部くんのメールには、あなたのことをよろしくと書いてありました」
「そうですか・・・このエビアン、美味しいです」
長谷部さん、私のことなんて書いたんだろうと想像しながら、緊張で乾いていた口と喉をグイッと潤した。
「僕ももうずいぶん広告の仕事はしてないんです。20年くらい前に引退して、いまは占いに凝っています。インタイーン生活です」
お、ダジャレだ。伝説の男は笑って言った。初め見たときのひどく年老いた感じから、少しずつだんだんと若返っていくようだった。
「さぁ、若いコピーライターの話を聞かせてくだい。その前に、いま、水晶玉を持ってきます」
神谷準はそそくさと立ち上がり、カウンターの端にあった直径40センチほどの半透明と透明がまだらになった球体を両手で抱えて戻ってきた。
なぜ、ここで、水晶玉?と薫は思ったが、目の前に置かれた球体を一目見て、素直にキレイだと感じた。
「思いを込めて、水晶玉を見てください。祈るように、念じるようにです、さぁ」
薫はその通りにした。3分ほどすると、神谷準は「わかりました!」と嬉しそうに短く叫んだ。
「いまから私の言うことが正しかったら、うなずいてください」
薫はハイの仕草で首を縦に動かした。
「コピーを書いているとき、言葉の意味がわかっているはずなのに、一瞬、意味を喪失してしまうことがありますか」
あるある。書いていて、いまどんなことを書こうとしているか、ふとわからなくなることがある。薫は1回うなずいた。
「ボディコピーなど、文章を書いているとき、前後の文脈がふとわからなくなることがありますか」
あるある。前からあったが、最近は特にそうだ。薫はまた1回うなずいた。
「あなたはゲシュタルト崩壊しています。お菓子でも、秘密警察でもありません。ゲシュタルト」
「なんですかぁ、それ?」と薫の問いは友達に話すみたいだった。
「言葉の認知症みたいなものです。若い人でもかかります。言語の意味を失って、生きることの意味も失っていきます。言葉を多く使う人に起こりがちです」
なんだか怖ろしいことになってきた。
「近ごろ、あなたの言語脳を破壊するようなことが起きていませんか」
あるある。それだ、それ。スーパーキャッチくんだ。私の書く行為に大きな影響を与えつつあるのは。薫はAIコピーライターのことを話した。話し終えると薫のエビアンも神谷準のハイネッケンも空いていた。互いの2本目はクーラーキャビネを開き、薫がサーブした。
「そうですか。あなたの気持ちはよくわかります。書く基準、例えば、正しいものと悪いものとの区別とかが、揺れ動きそうですね」
「ええ、負けたときの喪失感もあります・・・自分がバラバラになっていくような、いまいる座標がなくなってしまうような・・・」
「それでも、あなたは書くことをやめたくない、ですね?」
「ええ、戦いたいんです、今度は。いつも逃げてきたような気がしているからかもしれません」
薫は自分のわずか30年足らずの人生を振り返る。成績も、部活も、趣味も、そして恋愛も、「とりあえず」でやってきた。いつも心のどこかに出口を用意していた。伝説のコピーライターは考えていたが、やがて口をおもむろに開いた。
「うなぎは好きですか」
「ええ、まぁ。でも、すごく高価な食べ物ですから、滅多には食べられません」
うなぎの値段はこの10年で倍近くになっていた。でも、なぜ、うなぎなのか? 薫の頭はクラクラとなった。
「天然は獲れなくなったから、養殖がいまはかなり多くなりました。しかし、どちらが美味しいと言われれば、どうでしょう」
薫が答える前に神谷準は続けて話した。
「科学的で、便利で、操作的なもの。それが世の中にあふれるようになった。しかし、自然で、コントロールが効かず、繊細さに満ちたもの。それは相変わらず、消えてはいない」
「そういうものに会うと、なぜか、心が落ち着き、ほっとします」
「そうですね。言葉でもそういうことがあるのではないでしょうか」
ハイネッケンを一口飲んで、伝説のコピーライターはそう言った。
「養殖ではなく、便利ではなく、天然で繊細なもの。そこに豊かな作用を含んだもの。ということです、か」
少し考えてから薫はそう返した。
「使い分けられるべきだと思います。天然と養殖のように。つまり、AIと人間では目的が違うんではないでしょうか。人が心から待っている言葉は、人が心から練り、発酵させ、届けるべきなのだと僕は考えます」
薫はじっと神谷準の顔を見た。見つめ返してくる眼差しは深い力に満ちていた。
「・・・誰かが、私の言葉を待っているのでしょうか」
水が器からこぼれるようにそう言った。
「そうですよ、きっと多くの人が待っていますよ。それを感じながら書くのが、コピーライターという職業なのです」
薫の胸は熱くなって、少し体が震えていた。
「ま、うなぎの話が適切だったかどうかわかりませんが」と神谷準は笑い、席を立って、こう言った。
「あなたに特別に差し上げたいものがあります」
そうしてカウンターの奥の左端に入って行った。そこには小さな棚があり、ビートルズの4つのフィギュアが上に置かれていた。その棚の引き出しらしきところを開けながら、「ここは、20年ほど前に死んだ友人のロックバーだったんです・・・なにかかけましょうか」と薫に大きめの声で話しかけた。やがて空間にピアノとトランペットの音が優しく響き始めたころ、神谷準は薫の前に再び座り、一本の鉛筆を目の前にかざした。
「アイデアが次から次に湧いてくる魔法が込められています」
鉛筆はなんのブランド名も書かれていない真っ白なものだった。ただ、そこの上部に金色のリングがはめられていた。指と指輪の関係。リングは室内の照明を受けて輝いている。
「さ、手に取ってください。あなただけの、特別な一本になるでしょう」
薫は「ありがとうございます」と言い、鉛筆を手に取った。よく見ると、金色のリングが不思議な輝きを放っている。光を受けて輝くだけでなく、自らもかすかに発光しているようなのだ。なにか、ありえない展開になっている。そう思いながら鉛筆を握って書く動作をしてみた。
うん、なんだかいっぱい書けそうだ。薫は何度も小さくうなずいた。
「ただし、ひとつ注意してほしいことがあります」
「・・・・なんでしょうか」
「それは、鉛筆は削っているうちに芯がなくなってしまうということです」
薫はそれはそうだと思いながら、白い鉛筆をまた握った。もう愛着が湧いてきている! 私に書けと言っている! 金色のリングが薫の気持ちに呼応してキラキラと光った。
「さ、新たな旅立ちです。言葉で人に希望を与えてください」
伝説のコピーライターはハイネッケンのボトルを乾杯の仕草で掲げながら、青年のように笑いかけた。
薫の連戦連勝が始まった。
新規で手がけたコスメ系のクライアントが女性の実感コピーを大切にしたこともあり、スーパーキャッチくんに久しく負けていなかった。つくった広告が大きな広告賞にエントリーもされていた。
「最近、調子いいね」と長谷部CDが薫に声をかける。
「神谷さんからなにか伝授された?」
「ええ、うなぎです」
「え、食べるうなぎ?」
「そうです」と薫はこれ以上ない青空のような笑顔で答える。長谷川も「へー、そうなんだ」と楽しそうに通り過ぎて行く。
金色リング付きの白い鉛筆が私のところへ来てから、私は変わった。それは、ヨタヨタ歩きだった私を支える杖のようだ。夢だったことをしているのに自信が持てなくなっていた弱い心を支えてくれている。一本の鉛筆が杖になるなんて、笑える。ゲシュタルト崩壊とやら、さらば、です。
薫はそんなことを思いながら、遠くのサユリの方を不意に見た。終業の時間をちょっと過ぎたが、なにか必死にキーを叩いている。余裕がない。いつもの明るさがどこかに飛んでいる・・・。
・・・・そう言えば、白い鉛筆は誰にも見せていない。もちろん、それを使って書く行為も。いつもバッグのなかに忍ばせているが誰にも見せていない。人に見られない場所、例えばミーティングルームにこもるときは、白い鉛筆を登場させて書く。芯が減らないように筆圧をやや下げて紙に書く。「減らないように」がとても大切。杖を失ったらまた歩けなくなるかもしれないから。
なんか薫はボッーとしていた。フリースペースの窓側のほうで、嫌な感じではなく、満ち足りた茫漠のなかにいた。ふと、コピーを白い鉛筆で書いていた。書くことを意識していなかったが、浮かんでくる言葉を確実に書いていた。
「センパイ。また勝ちましたね」
サユリの声だ。振り向くとサユリが真後ろにいる。
「たまたまだよ、たまたま」と反応して、薫は白い鉛筆を使っていたことにハッとし、慌てて鉛筆を置き、少し上半身をひねって右の腕で隠す。
「君は、どうなんだ?」
「あたしですか。どうもこうもないです。あまりの才能のなさに自分で呆れる毎日です」
「そうか、そうなんだ」
薫は、なぜ自分はサユリに白い鉛筆を見せないのかと瞬間、思った。この鉛筆、神谷さんからもらった魔法の鉛筆なんだ、くらいのことをなぜ、言えないのか、親しいサユリに、可愛いコーハイに。答えはすぐにわかった。それは彼女がコピーライターという同じ職業だからだ。そして、ライバルの一人だからだ。言葉づくりの本質は、共同作業ではなく、個人作業なのだ。そこでは孤独さえ必要とされる作業なのだ。しかし、薫は自分に対する情けなさも同時に感じていた。セコい、セコすぎる。サユリがうまくいくきっかけになるんだったら、1週間レンタルで貸してあげるくらいの広い心を持てないのか。1カ月は無理かもしれないけど・・・。
「せめて一生懸命にやろうとは思っていて。センパイみたくセンスないけど」
「ま、さ、センス、センスって言うなよ。それを言ったら、前に歩けないじゃん。きっとさ、努力が扉を開けるんだよ。そう考えよう」
「ええ、そうですよね。もうちょっと頑張ってみます」
そう形式っぽく言ったサユリの表情は冴えなかった。もっと話さないといけないと薫は心を刺されるように直感した。
「今週どこかで、夜メシ、行こう!」と薫は明るめで大きめの声を出した。
「ハイ、行きましょう。ちょっと元気になりました!」
サユリはぴょんぴょんと小さく体を跳ねるように動かして、嬉しそうに言った。
来るときが来た。わかってはいたが、ついに来た。
鉛筆の芯がもうわずかしかないのだった。1センチになるまで書こうとしたが、金のリングが邪魔をしてもう書けない。手にしてから1年ほどだろうか。大事に、大事に使ってきた。カッターで丁寧に削ってきた。書くときは慎重に書いてきた。しかし、終わりは来てしまった。
薫はもう一度、神谷準のバーを訪れたいと思った。そこで、神谷さんに、まだ鉛筆は残っていませんか、と言うのか、これからどうしたらいいでしょうか、と言うのか、わからないが、とにかくそうすることがベストだと考えた。杖を失ったら、心が歩けなくなるかもしれないーーーそんな恐怖も芽生えていた。
「ここは、もうずいぶん使われてないんですよ」
ビルの年老いた管理人がドアの前に立って言った。
「どのくらいですか」と薫は尋ねた。1年前にここで神谷さんに会った。それが<ずいぶん>ということになるのだろうか。
「20年くらいですかね。私もそのころは髪の毛がふさふさでね」とテカテカ頭の管理人は答えた。君の髪の毛はどうでもいいんだよ、と薫は思いながら、「そんなはずはないんですが」と言った。
「他の人に借りて欲しいんですが、お金だけはきちんと毎月振り込まれるんでね」
管理人はドアを鍵で開けた。照明をつけると、1年前に来たときと同じ光景がそこにはあった。長いカウンター、LPの棚、ボトルの列、フロアーのテーブル。そして、その上に置かれた水晶玉。ただ、クーラーボックスの電源は切られていて中には1本のボトルも入っていなかった。
「ちょっと一人にしてもらってもいいでしょうか」と薫はお願いした。
「ええ、ちょっとだけなら。終わったら、管理人室まで来てください」
管理人はドアを静かに閉じ、スタスタという足音を残して階段を降りていった。
薫はカウンターの奥へと歩いていく。確か、あのとき、神谷さんは奥の棚の引き出しから白い鉛筆を出した。そのことを思い出しながらゆっくりと進んでいく。ビートルズの4つのフュギアが上にある。そうだ、この棚だ。神谷さん、勝手に開けます、ゴメンなさい・・・そう胸のうちで呟きながら薫は棚の引き出しを手前にぐいっと引いた。
驚いた。そこには白い鉛筆が無数にあったのだった。無数と言うと大げさだが、薫にはそう映った。鉛筆と鉛筆の隙間には、金色のリングが同じくたくさん置かれていて鈍く光っている。あのとき、神谷さんは「あなたに特別に」と言った。それは嘘だったのだ。もっとよく見たいと感じて、引き出しを抜いてカウンターの上に置くと、ふわっと1枚の紙が落ちた。薫はそれをすぐに拾って確かめた。二つ折の紙を開くと、手書きの文字があった。手紙だ。薫はさっきから高鳴っていた心臓の鼓動がさらに振幅を増すのを感じていた。
文月薫さん、あなたが、またここに来ることはわかっていました。あなたの大切な白い鉛筆が書けなくなってしまって、自分を魔法のとけたヒロインのように感じたから、ですね。
がっかりしましたか。こんなに多くの白い鉛筆があって。金のリングもたくさんあって。これらは、全部100均で買ったものです。少しも特別なものではなかったのです。
あなたに会ってお話しをしたとき、いちばん思ったのは、行くべき道は見えているのに、その道を歩けるかどうかの不安があなたの胸をふさいでいるということでした。あなたは、ただ自信がなかっただけなのです。白い鉛筆は、それを取り戻すための、まじないのようなものだったのです。
考えれば、人は誰でも一本の鉛筆を持って生きていくのではないでしょうか。思いや目的を叶えるために、必死にその鉛筆に心を込めて書いていく。やがて滅びゆくその日までです。
あなたの言葉を待っている人は必ずいます。血と肌から出た言葉は乾いた砂漠の水のように待たれています。そのことを忘れないでください。誰かが自分の言葉を待っていると考えると、心は強くなれるはずです。
ただ、道は平坦ではありません。そのことを僕は誰よりもよく知っているつもりです。
夢を叶える場所は、平和な庭のなかではありません。それはいつも戦いの場のなかで叶えられるのです。
戦いなさい、思う存分。なにも恐れることなく、天から授かった職、コピーライターを生きていってほしいと思います。 神谷準
薫は白い鉛筆とリングをもらった。それぞれふたつずつ。引き出しから取り、ハンカチに包み、バッグにしまった。次に、バッグから白い紙を出し、伝説のコピーライターに短い手紙を書いて、たくさんの鉛筆の上に丁寧に置いた。
鉛筆を2本、リングを2個、拝借いたします。お手紙の言葉、沁みました。またきっと会いに来ます。 文月薫
中原サユリが会社を辞めると言う噂が立っていた。神谷準のバーに行って次の日に長谷部CDから聞いた。薫はサユリを探したが会社にはいなかった、夕方になっても。仕方なくメールした。2日ほど忙しいので、3日後の午後に会社の近くのカフェでどうか、と返事が来た。会社にも来られないような用事ってなんだろうと思いながら、「了解です!」と明るい感じで返信した。
「あのー、お土産です」、サユリはおそるおそる紙袋を出した。薫が受け取りつつ、その紙袋を怪訝そうに見ていると、「野沢菜です。実家に帰ってました」と言った。2時過ぎのカフェは客もまばらで声がよく通るはずだが、サユリの声は小さく弱々しく聞こえた。
「ありがと。実家は長野でお土産屋やってるって言ってたよね」
薫はマジマジとサユリを見た。
「そうなんです。今度、お店を大きくするんで手伝おうかなと思って」
「つまり、それって、会社を辞めるってこと?」
「ええ、まぁ・・・そんな感じです・・・コピーライターを辞めると言うことでもあります」
サユリは目を合わせずらそうに俯いて言った。何気にサユリの足元を見ると、珍しくハイヒールで、小さめの旅行バッグが置かれていた。長野から直接、東京のこのカフェに来たようだ。薫がなんと答えていいか、うろうろと思案していると
「情熱が才能を超えるなんて、嘘ですよね。頑張りましたが、疲れました。広告がテクノロジーになり過ぎて、あたしのような人間は居場所がなくなったとも思いました」とサユリは顔をあげて言った。
なんと反応していいか、よくわからなかったが、とにかく辞めて欲しくなかった。いまの気持ちはただそれだけだった。だが、それは自分のエゴなのかもしれないとも感じていた。志を同じくする仲間が近くにいてほしい、ただそう自分本位に思っているだけなのではないか・・・本当にサユリの気持ちになって考えることができているのかどうか・・・。
「よく頑張ったよな」
ただそれだけを胸に痛さを感じながら言って、薫はカフェラテの紙コップを口につけて飲んだ。
「センパイの後ろ姿を追っていただけです。ずっとありがとうございました」
そんなウエットで水浸しになるようなこと言うなよ。薫は次の言葉がなかなか探せず、迷子になったように黙った。サユリも申し訳なさそうな顔で黙っている。
薫はまたカフェラテを1回飲んで、あることをしないといけないと思った。バッグを開け、ハンカチに包まれたものをテーブルに出した。
私からのお土産もあるんだよ。間接的に、神谷準さんからのお土産でもあるんだよ。さ、見てごらん、コーハイ。
「これ、あげるよ。特別に、君に」
白い鉛筆をスッと差し出した。金色のリングがキラッと輝いた。その瞬間、サユリの目もキラッと輝いたようだった。身を少し前に出して、鉛筆に視線の焦点を当てた。
「これ、欲しかったんです。センパイが使っているのを見てて」
なーんだ、見られていたのか、ガード甘すぎだよなぁ、ワタシも。でも、まぁ、いいや。
「ごめん、もっと早くあげられればよかったんだけど」
「いえ、いいんです。ありがとうございます」
そう言って、サユリは白い鉛筆を手にし、紙に書く真似をした。エアライティング。
「なんだか、たくさん、いいこと思いつきそう。コピーライター辞めても、書くことは忘れないで、と言ってるみたい」
「とにかく、頑張った自分を忘れずに。レベルを下げるんじゃないぞ」
「ええ、そうですよね」と言いながら、金色のリングを店の照明に夢中でかざしている。
「夢を叶える場所は、平和な庭のなかではない。それはいつも戦いの場のなかでだ」
薫はそう言った。サユリはその言葉に、視線を薫に移し直して、ほーという感じの顔になり、「お、センパイ、いいキャッチコピーっすね!」と褒めた。それゃ、そうだ。伝説のコピーライターが書いたコピーなんだからと思いながら、その言葉が君のいまの心に、はまって良かったなと感じていた。
「そろそろ、私は、戻るよ、戦場に」
「あ、そうですよね、時間ですよね。先に行ってください。その凛々しい後ろ姿を目に焼き付けておきたいから」
薫は微笑んで席を立った。二人のお茶代は店のキャッシャーにカードを歩きながらかざして、ペイした。
さようなら、サユリ。また、どこかで会おう。
胸にこみ上げてくるものがあったが、もうどうしようもできないのだとも思った。振り返らず、仕事が待っている会社に向かおう。
5、6分、歩いて、会社のあるビルの広いエントランスに着いた。なんだか大事な忘れ物をしてきた気持ちがして、足取りが重かった。20 年前の人なら、必死になって「辞めるな」と説得しただろう。でも、いまは人の心のエリアに侵入することを避ける時代になった。去ると決めた個人の意思をひっくり返すことはもう難しいのだ。そんなことを薫は思っていた。
エントランスに入ると数人のビジネスパーソンがいて、打ち解けた感じで笑いあっていた。それをチラ見していると、また心の奥から寂しさが染み出してきた。薫はエントランス奥まで歩いていき、エレベーターの行く先階のボタンを押した。
その時だった。後ろの方で、カツカツという音が鋭く聞こえた。ハイヒールの音だ。振り返った。10数メートル向こうに、逆光気味のシルエットとなって、一人の女性が走ってきている。わかった。何度も見てきた姿だからね。サユリ、どうしたんだい。
薫が正対してサユリを見た瞬間、おそらく数メートルまで近づいてきていたその瞬間、サユリはピッと立ち止まった。そして、サッと右腕を上げて敬礼をした。
「中原サユリ、戦場に戻ってまいりました。許可いただけるでしょうか」
薫は崩れそうな顔で笑いながら、敬礼をして叫ぶように言った。
「よし、許可する! まっとうせよ、コピーライターの任務を!」