Vol.45 営業・イベント・広告・大学 転身に秘められた「つなぐ」ことと「脱・黒子」の想い キャリアアップナビ
キャリアアップナビでは、マーケティングやクリエイティブ職のキャリアアップについて、毎月テーマをピックアップして解説します。今回は、大阪公立大学で広報課 課長代理を務める皆藤昌利さんに、これまでのキャリアについて伺いました。良い転職は、良質な情報を入手することから始まります。「こんなはずではなかったのに…」とならないための、転職情報をお届けします!
──学生時代は寝ても覚めても大学祭活動に夢中だったとか。
はい。試験の前に慌てるタイプの学生でした(笑)。人をつなぐ「大学祭」をゼロから企画し、形にすることに、正直なところ勉学より力を入れていました。このときの経験が現在の仕事につながっていきます。
我々の大学祭実行委員会には時々、イベント制作会社からスタッフ募集の案内があり、さまざまな現場で運営経験を積みました。そのうちにイベント制作や広告の仕事に興味を持ち、就活でも広告業界全般を志望し、活動しました。
とある広告会社の説明会に参加した時、その会社が大阪天満宮「天神祭」の名物企画の1つ「ギャルみこし」を企画持ち込みから実現できたという話を聞きました。提案次第で無限の可能性がある組織風土や、営業やイベント制作の経験が積める期待値から、入社を決めました。
──その会社ではどのような経験をしたのですか?
その会社は当時、広告事業と採用支援事業の2つを収益の柱とする企業でした。私は営業部に配属され、業務時間の8割で人事担当者あてに採用支援事業の案内を、残り2割で広告担当者あてに広告営業を行いました。アポ、飛び込み含めた法人営業を2年強経験するうち、イベント制作を生業にするなら、どこかでその環境に身を置かないといけないと考え始めるように。そのころ、学生時代にお世話になったイベント制作会社の役員と話す機会があり、「うちに来ないか」と声を掛けていただきました。営業の仕事はハードですが非常に学ぶことが多く、その時は即答はできませんでした。
ですが、学生時代から強く思ってきたイベント制作に携われる転機です。経験を積み上げていくなら20代の今、少しでも早く始めたほうがいい。さらに社員5~6人のその会社が採用に動くのもそうはないタイミングだったので、ご縁だと考え転職を決めました。
2社目での仕事は、元請けである広告会社のプロデューサーのもと、私たちがイベント制作ディレクターとなって、イベントを構成する複数の委託会社の総合調整役となるパターンが主でした。営業や制作など社内分業しないスタイルだったので、制作実務から予算管理まで、網羅的かつ一気通貫した経験を積むことができました。
ですが体力仕事ですし、いつまで最前線で体を張って仕事に貢献できるか。イベント以外にさまざまなプロモーション手段がある中で他の手段や川上の領域を知らないことへの不安感が芽生えてきました。
イベント業界に飛び込んで5年、その不安感を解消するため、ご縁をいただけた博報堂に転職。正社員から契約社員への転換でしたが、プロモーションの上流に携われることが決め手になりました。
入社後すぐ、大阪の得意先のバイヤー向け商談会に関わらせてもらうことに。その得意先は「イズム」、つまり「自社らしさ」を大事にする企業でした。最新動向からこちらが思うベストプランを提案しても、「うちらしくない」とあっさり却下されることもしばしば。ですが、むしろそれが心地よかった。得意先の「自分ごとの熱い想い」に触れながら、鍛えてもらいました。
──なぜ広告業界から大学職員に転身することに?
博報堂の契約満期が近づき、自身のこれからのキャリアビジョンと向き合いました。そのとき、「自分ごとの想い」で仕事をしている得意先の方々に憧れている自分に気付きました。私はこれまで、得意先など第三者の黒子として仕事を全うしてきた。ですがこれからは、自らの組織や製品・サービスに誇りを持ち、「自分ごとの想い」で仕事をしたいと考えました。
前職である和歌山大学が広報マネージャーを募集していると知ったのは、そんなときでした。新天地にはメーカーやサービス産業など事業会社をイメージしていましたが、大学も自校のイズムや誇りを持って仕事する点は同じ。そして何よりも若き学生と熱い教職員が「集い、つながる」場所です。理想とする仕事ができると思い応募し、2010年に転職しました。
転職後は広報担当部局に配属。キャンパスを歩いて学生の声を聞くうちに、伝えるべき魅力や思いはここにあると実感し、学生と協働した広報活動にも取り組みました。
2013年、縁があって母校である大阪府立大学に転職。一貫して広報を担当してきました。2022年4月には大阪市立大学と統合し、大阪公立大学となりました。統合の結果、1+1が2で終わるのか、はたまたそれ以上になるのか。少し先の未来で、価値があったと評価をしていただくためにも、魅力的で具体的な研究教育成果の発信に邁進しています。
私は今、「つなぐ」ことを変わらぬ軸として、あの得意先の方々のように「自分ごとの想い」で仕事をしています。「誰かの黒子」時代も意義深かったですが、たどり着いた現在地には、とても満足しています。
はい。試験の前に慌てるタイプの学生でした(笑)。人をつなぐ「大学祭」をゼロから企画し、形にすることに、正直なところ勉学より力を入れていました。このときの経験が現在の仕事につながっていきます。
我々の大学祭実行委員会には時々、イベント制作会社からスタッフ募集の案内があり、さまざまな現場で運営経験を積みました。そのうちにイベント制作や広告の仕事に興味を持ち、就活でも広告業界全般を志望し、活動しました。
とある広告会社の説明会に参加した時、その会社が大阪天満宮「天神祭」の名物企画の1つ「ギャルみこし」を企画持ち込みから実現できたという話を聞きました。提案次第で無限の可能性がある組織風土や、営業やイベント制作の経験が積める期待値から、入社を決めました。
──その会社ではどのような経験をしたのですか?
その会社は当時、広告事業と採用支援事業の2つを収益の柱とする企業でした。私は営業部に配属され、業務時間の8割で人事担当者あてに採用支援事業の案内を、残り2割で広告担当者あてに広告営業を行いました。アポ、飛び込み含めた法人営業を2年強経験するうち、イベント制作を生業にするなら、どこかでその環境に身を置かないといけないと考え始めるように。そのころ、学生時代にお世話になったイベント制作会社の役員と話す機会があり、「うちに来ないか」と声を掛けていただきました。営業の仕事はハードですが非常に学ぶことが多く、その時は即答はできませんでした。
ですが、学生時代から強く思ってきたイベント制作に携われる転機です。経験を積み上げていくなら20代の今、少しでも早く始めたほうがいい。さらに社員5~6人のその会社が採用に動くのもそうはないタイミングだったので、ご縁だと考え転職を決めました。
──志望していた仕事に就いて実際はどうでしたか?
2社目での仕事は、元請けである広告会社のプロデューサーのもと、私たちがイベント制作ディレクターとなって、イベントを構成する複数の委託会社の総合調整役となるパターンが主でした。営業や制作など社内分業しないスタイルだったので、制作実務から予算管理まで、網羅的かつ一気通貫した経験を積むことができました。
ですが体力仕事ですし、いつまで最前線で体を張って仕事に貢献できるか。イベント以外にさまざまなプロモーション手段がある中で他の手段や川上の領域を知らないことへの不安感が芽生えてきました。
イベント業界に飛び込んで5年、その不安感を解消するため、ご縁をいただけた博報堂に転職。正社員から契約社員への転換でしたが、プロモーションの上流に携われることが決め手になりました。
入社後すぐ、大阪の得意先のバイヤー向け商談会に関わらせてもらうことに。その得意先は「イズム」、つまり「自社らしさ」を大事にする企業でした。最新動向からこちらが思うベストプランを提案しても、「うちらしくない」とあっさり却下されることもしばしば。ですが、むしろそれが心地よかった。得意先の「自分ごとの熱い想い」に触れながら、鍛えてもらいました。
──なぜ広告業界から大学職員に転身することに?
博報堂の契約満期が近づき、自身のこれからのキャリアビジョンと向き合いました。そのとき、「自分ごとの想い」で仕事をしている得意先の方々に憧れている自分に気付きました。私はこれまで、得意先など第三者の黒子として仕事を全うしてきた。ですがこれからは、自らの組織や製品・サービスに誇りを持ち、「自分ごとの想い」で仕事をしたいと考えました。
前職である和歌山大学が広報マネージャーを募集していると知ったのは、そんなときでした。新天地にはメーカーやサービス産業など事業会社をイメージしていましたが、大学も自校のイズムや誇りを持って仕事する点は同じ。そして何よりも若き学生と熱い教職員が「集い、つながる」場所です。理想とする仕事ができると思い応募し、2010年に転職しました。
転職後は広報担当部局に配属。キャンパスを歩いて学生の声を聞くうちに、伝えるべき魅力や思いはここにあると実感し、学生と協働した広報活動にも取り組みました。
2013年、縁があって母校である大阪府立大学に転職。一貫して広報を担当してきました。2022年4月には大阪市立大学と統合し、大阪公立大学となりました。統合の結果、1+1が2で終わるのか、はたまたそれ以上になるのか。少し先の未来で、価値があったと評価をしていただくためにも、魅力的で具体的な研究教育成果の発信に邁進しています。
私は今、「つなぐ」ことを変わらぬ軸として、あの得意先の方々のように「自分ごとの想い」で仕事をしています。「誰かの黒子」時代も意義深かったですが、たどり着いた現在地には、とても満足しています。