トップ営業から経験ゼロの人事へ 30代半ばでキャリアチェンジを決意させたもの kiCk 経営企画・人事戦略担当 エグゼクティブディレクター 藤原建佑さん
藤原建佑(ふじはらけんすけ)さんは、かつて大手レコード会社に勤務し、誰もが知る有名アーティストのCMやドラマタイアップを手がける腕利き営業パーソンでした。ところが、「学校の先生になる」とあっさり退社。教員免許を取ったものの教壇には立たず、クリエイティブエージェンシー・kiCk(キック)に入社を決めました。そして本年から、30代半ばにして未経験の人事職に挑戦し、周囲を驚かせています。藤原さんのキャリアは一見、ノープランにも見えるようですが、実は一貫したある思いに突き動かされているといいます。今回は、マスメディアンのコンサルタント加藤巧恭が、ご本人にお話を伺いました。
人からの見え方ばかり気にする性格だった
──藤原さんは野球少年だったんですよね。地元の山梨で、小中高ずっとやっていました。意識していたのは、どうすれば試合で自分が目立つか。チームで勝つことには興味がなかったし、そのために自分がどういうプレーをするかなんて考えもしなかったです。
──野球なのにですか(笑)?
そう(笑)。自分のバッティングで点を取ったとか、守備でファインプレーをしたとか、人の目に自分がどう映るかばかり気にしていました。
結局、野球にいまいちのめり込めなくて。家ではヘッドホンでずっと音楽を聴いていました。アルバイトで貯めたお金でターンテーブルを買って、部屋にこもって回したり。
埼玉の獨協大学に進学したのは、地元の山梨を出て新しい世界に行ってみたくなったから。今思うと、人からの見え方を気にする自分の性格に、嫌気が差し始めていたのかもしれません。都会に出て変わりたかった。実際行ってみると、大学がある草加はめちゃくちゃ田舎でしたけどね(笑)。 ──考え方に変化はあったんですか?
サークルに入ろうかなって。でも、ピンとくるものがなく、似たようなことを思っていた人たち4人で、イベントサークルを新たに立ち上げたんです。スポーツで汗をかいたり、飲み会を企画したり。軟派な集まりの印象を持たれるかもしれませんが、すごく真剣に取り組んでいたんですよ。
勧誘を頑張ったら、総勢70人くらいの大所帯になって。だから、どんな企画もちゃんと盛り上がるように、いつも僕らコアメンバー4人が役割分担して臨んでいましたね。僕の仕事は、一人ぽつんとつまらなそうにしている人がいないか、参加者の表情によく目を配ることでした。活動を通じて、自分は少し変われたかなと、その時は思っていました。でもそういう役割を演じているうちに、自分のことではなく、人の顔色ばかりを見る癖が付いていったように思います。
エイベックスを去ったのは、自分を変えたかったから
──大学卒業後は、大手レコード会社のエイベックスに入社されました。高校時代は野球より音楽が好きだったそうですし、思い通りのキャリアの一歩目を踏み出せたわけですね。そうですね。でも就活はけっこう大変でしたよ。エイベックスの試験を受けに行ったら、1次選考から取締役が出てきて。グループ面接で大喜利みたいなことをやらされたんです。覚えているお題の1つが、「あなたの夢がかないました。その瞬間のリアクションをやってください。そして、どんな夢がかなったのか話してください」ってやつ。
そしたら、僕の隣の女性がいきなり椅子に上って雄たけびを上げたんです。
──それは強烈なアピールになったでしょうね(笑)。
取締役の注目を一気に集めた感じでした。それに続いた他の人たちも、だいたい叫ぶわけです。「うぉー!」って。それでもう、僕は膝がガクガクして。田舎者ですし、みんな以上にうまくやる自信がない。だったら逆に、落ち着いたパターンでいくしかないと。
椅子にゆったりと腰掛けて、ワイングラスを回すふりをしました。ワインなんて飲んだことなかったんですけどね。それで、当時本当に欲しかった「無人島が買えた」って呟いて。それが印象に残ったのか無事に入社はできました。
僕はCMや映画、ドラマなどのタイアップを取ってくる仕事でした。入社3年目ぐらいには営業としての仕事ぶりを周囲に認められ、大きく評価もしてもらえるようになりました。
──好きな音楽の仕事でご活躍もしていたのに、なぜそれから1年ほどで辞めようと思ったのでしょうか。
学校の先生になりたくて。
──え?
だいたいそういう反応をされます(笑)。
今でも恩師である当時の上司から「お前にこれから会社を引っ張っていってほしい」なんて言ってもらいました。今の自分があるのは、当時の部署の方々のおかげ。今でも心から感謝をしています。
でも、ふと思ったんですよね。僕はいい成績を取って先輩に褒めてもらって、本当にうれしいんだっけって。当時の僕には「こうしたい」とか「こうなりたい」とか自分の意志がまったくありませんでした。大学のサークル運営を経験して変わった気でいたけれど、人からの見え方ばかりを気にした小手先の行動を取ってしまうところは、ちっとも変わっていなかったんです。
だから、大学時代に中途半端にしてしまった教員免許を取ろうと思いました。なぜなら、子どもに小手先のテクニックやごまかしは絶対に通用しないから。学校の先生になれば、真の自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そうすれば、僕はどうしたいのか、どうなりたいのか、ちゃんと言える自分に今度こそ変われるんじゃないかと思ったんです。それで、通信の大学で勉強して社会科の教員免許を取りました。
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──そんな心の動きがあったんですね。ところが、結果的に先生にはならなかった。
はい。まず教育実習に入る前に、社会科の教科書に載っている国を全部回るつもりで、バックパッカーとして1年間で40カ国ほどを訪れました。子どもたちに授業をするなら、「外国について、自分の目で見てきたことを一緒に話せたらきっと面白いはず」と思ったんです。
ただ、それぐらい意気込んで臨んだ教育実習で、違和感を覚えてしまいました。
僕が担当することになった教育カリキュラムは、吉田松陰の時代でした。その時、NHK大河ドラマでちょうど吉田松陰の話をやっていたので、そこを軸に授業を組み立てれば、子どもが興味を持ちやすいと思いました。それで、指導してくれた先生に「吉田松陰だけで1時間やりたい」と提案したのですが、許可が下りなかったんです。「カリキュラムに沿ってやらなくちゃダメだ」と。「こうしたい」、「こうなりたい」をちゃんと言える自分になりたくて、教員を目指していたはずなのに。このままこの道を進むべきなのか、わからなくなってしまったんです。
──後編では、教員への道に迷いが生まれてしまった藤原さんが、どのようにその後のキャリアを選択していったのかを伺います。
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「一番ワクワクするのは『人』の可能性 マネジメントを経て気づいた営業から人事になる魅力」