定刻1分前だ。文月薫はダッシュで大会議室に飛び込んだ。
 アカウントエグゼクティブ、クリエイティブ、マーケティングのスタッフが大きな長いテーブルにズラッと陣取ってざわざわと談笑していた。
 パッと見、30名ほどいる感じだ。社員数70名ほどの制作プロダクションだから、残りはオンライン参加、あるいは外回りを理由に欠席なんだろう。奥にはスクリーンが下げられていてセミナーの準備が進められていた。
 薫の会社は、月に1度、定期的に勉強会という形で、外部の方を招いて広告の新しいメソッドやテクノロジーを紹介していた。
 スクリーンのところに立って、画面を切り替えながらチェックしている若い男性がいた。
 そのスクッとした長身と整った横顔を見て、薫は「あれ?」と思った。一瞬、薫は席を探すことを忘れ、視線を固定したまま立ち尽くしてしまった。
 似ている。かなり似ている。大学時代、薫がいた広告研究会の同期生。その人に似ていた。卒業後、彼はマーケティングの会社に入ったはずだ。もう7年ほど前なので社名はすっかり忘れた。でも、確かそうだったはず。
 若い男性は横顔を正面に向けた。わずかに緊張しているようだったが、広い会議室をゆっくり見渡し、入り口近くに立っている薫に目線を止めた。目が合った。男性は少し恥ずかしがるように笑みを浮かべた。やぁ、と言うように。久しぶり、と言うように。
 山縣悠二くん。間違いない。あのころ、薫は「山縣くん」と呼んでいた。男子には「悠ちゃん」と呼ばれていた。「久しぶり」と言葉でなく、笑顔で薫はお返えしをした。

 中原サユリの隣がたまたま空いていて、薫はそこに座った。同時にサユリがボブヘヤーの頭をペコリと下げた。前方のスクリーンのところの照明が落とされ、司会のクリエイティブディレクターYが話し始めた。「今日はマーケティング会社のGONNACHANGEさんから、新しいテクノロジーの・・・・」
 そうだ、その名前だ。山縣くんの就職した会社は。最近、広告情報系サイトでもイケてる会社として名前が出ていた。
 次はその会社の社長の挨拶だった。いかにもやり手というメガネをかけている。「今日はわざわざお呼びいただきありがとうございました。Yさんを中心に御社とは新しいプロジェクトを計画しております。まず当社が開発いたしました・・・・」
 話が長そうな予感がして薫は窓の外をぼんやりと見た。いい天気だ。春の青空にスカイタクシーが飛んでいる。宅配ドローンも数台飛んでいる。2030年、東京の空は大忙しだ。
「・・・では、我が社のチームリーダー、山縣のほうから詳しいご説明をさせていただきます・・・」
 そう言われて、山縣はサッと立ち上がって話し始めた。いい感じの笑顔で「山縣です。資料に沿って話させてください。オンラインの方は共有いたします。見えているでしょうか」と言った。「ハイ!」とスクリーンから何人かの声が上がる。
 頑張ってね、山縣くん。上から目線っぽいかもだけど、とにかく頑張って。
 なんだか薫は胸がドキドキしてきていた。

 話は、スマートフォン、スマートスピーカー、スマート家電などに搭載されているAIアシスタントを音声広告メディアとしてパーソナル活用するというものだった。例えば「おはよう。今日のスケジュールを教えて?」とユーザーが質問してやりとりが始まると、やがて「声の調子がいつもと違いますね。風邪のひき始めには、〇〇の風邪薬をお試しください」と広告したりする。「ジョギングに出かけるよ」と言うと、「2年履いているので新しいタイプに買い換えてはいかがでしょう」とスポーツシューズの広告が音声で案内されたり、「午後、雨風が突然、激しくなります。移動予約は〇〇のタクシーで」と天気予報に一言入ったりする。健康管理マネージメントができるスマートデバイスでは、数値の傾向を読み取り、薬品やサプリやフィットネスクラブなどを広告する。もちろん、ナレーターは自分が心地よいと感じる声質をチョイスでき、広告機能をオフにすることもできる。
 要は、ユーザーの生活に密着した形で、広告を音声配信するシステムだった。従来型ターゲティング広告に対するユーザーの拒否感が強くなってきているなかで、視覚的な煩わしさを排除し、かつ、行動に即した実効を獲得するということ。スマート製品のOSをつくっている会社との交渉も進んでいるとのことだった。うまく使えば使えそうなメディアだと薫は感じ、そう言えばさっき社長がプロジェクトを始めると言っていたなと思い出す。
 山縣くんの誠実な話し方は、好感を持って聞いた人がきっと多かったと薫は思う。要所要所にデータをきちんと入れてくれていたから説得力があった。「それではこれで僕の話は終わります」と山縣くんが言うと、パチパチと拍手の波が控えめだけど起こった。薫も静かに拍手をした。
「ハンサムですね、彼」と隣のサユリは拍手をしながら言った。「ハンサム? 古語だな」と薫が返すと「じゃ、イケメン」と言った。「それも古語っぽい」と薫。「じゃ、なんて言うんですか、センパイ」とサユリが小声で粘る。薫は視線を山縣くんに移しながら、確かに整った顔立ちをしているとぼんやりとだけど改めて思っていた。
 しかし、一つだけ、強烈に、薫の心に刺さったデータがあった。そのデータが薫の脳のスクリーンにデリートされずに映り続けている。話が終わり、質疑応答の時間に移っても、ずっと。
 生活者調査の円グラフだった。赤い字で「広告を見たい」8%。青い字で「できれば見たくない・積極的に見たくない」52.5%。数年前にもこれに近い数字を見た記憶があるが、さらに数字は悪化しているようだった。ということは・・・この傾向は止まらないかもしれない?・・・そう考えたとき、淋しい感情が吹き抜けていき、「広告を見たい」0%が赤い字で網膜にチラつき始めた。
「ワタシがしがみついているのはこの絶望的な未来なのか」と気持ちがぐらっと揺れて、黒い水を床にぶちまけたように不安が広がっていく。
 やり手メガネの社長の話す言葉が聞こえてきた。「『広告死ね!』の意識はますます増えてきています。広告のスタイル自体を変革していかないといけない。その時期が明らかに来ています」
 そうだ、わかる。わかるけど、なにが原因なのか、わからないままスタイルばかり変えていっていいのだろうか。服をあれこれ変えても、その人の本質が変わらないように、だ。
 質疑応答が終わって、参加者たちが大会議室をゾロゾロ出て行く。薫は残って、山縣悠二の方に歩いていった。CDのYは社長と親しげに話していて、彼はセッティングの片付けを一人でしていた。
「ご苦労さま」
 薫は静かに声をかけた。山縣は顔を上げて微笑んでから言った。
「久しぶりだね」
「そうだね。山縣くんの話、良かったよ」
「ありがとう。なんか文月さんがいたから落ち着いて話せたのかも」
 薫は少し嬉しくなって、コクリとうなずいた。
「説得された?」と山縣は言った。
「うん、されたと思う」
「そうか。一生懸命話して良かった」
 二人はなんだか笑った。が、次の言葉はなかなか見つからなかった。それぞれが持ついまの情報を知らないので、話はあまり広がらない。
「びっくりした。こんなところで会うなんて思ってなかったから」
 薫は素直な感情をそう言葉にした。
「大学時代以来だよね。今度、話し、しようよ」と山縣は言った。
 話し? そう、それもいいかもね。広告の新しいネタをくれるかもしれないし。なんと言ってもせっかく再会したんだからーーーー心の内側でつぶやいてから、薫は「わかった」と応えた。
 もう学生時代のメルアドを薫は使っていなかった。二人はお互いのスマートデバイスをかざしてメールを開通させた。

 部屋の外にはサユリがPad PCを胸に抱えて待っていた。ニコニコしている。
「センパイ、やりますね、いきなり友だちみたいにして」
 薫はその言葉を聞きながらも、サッサと歩き始めている。
「衝撃の告白しようか、コーハイ」
「えー、聞きたいですー」
「その『友だち』だったんだよ、大学時代」
 エレベーターホールが近づいてきた。
「おーっ。いいなぁ、持つべきものはいい過去ですね」
「すごく優しくて、頑張り屋さんだったよ」
 エレベーターに乗ると社員が二人乗っていたが、サユリはかまわず話し続けた。
「センパイみたいな美貌はないから、性格で勝負しないといけないんですよ、私」
「可愛いほうだと思うよ」
「ほう・・・ですか」
「ごめん、かなり可愛いよ」と薫は別表現に変えてみた。
「かなり・・・ですか」
「ああ、めんどくさいな、日本語」
 薫がそう言うとエレベーターがクリエイティブ局のフロアーに止まった。サユリが降り掛けに言う。
「そのめんどくさい日本語を商売にしている私たちの職業は?」
 二人は顔を見つめ、声を合わせて言った。
「コピーライター!」
 二人は笑った。



 CDの長谷部の定年退職の日が近づいていた。あと1カ月ほどでこの会社を去る。
 マスメディア全盛のころからのクリエイターはもう本当にわずかしかいなくなり、その代表選手の長谷部が消えるのは時代の流れとは言え、淋しいことだった。職人型クリエイターの絶滅ですよねぇ、と言う若手もいた。その淋しさの空気はクリエイティブのフロアーに微妙に漂っているように思える。薫はどうしても彼に聞いてみたいことがあった。有休消化でほとんど顔を見かけない長谷部がガラス張りのCDルームにいたから、薫はその部屋の空いているドアを2つノックしてみた。コンコン。
「お邪魔じゃないですか?」
「もうなにもしてないから、お邪魔なはずないよ、文月さん。入んなよ」と長谷部CDは微笑んで、職人さんみたいな五分刈りの頭を撫でた。
 彼は本棚から大判の写真集やら美術作品集を段ボールに詰めていた。デザイナー時代から収集したものだろう、かなりの数の段ボールがうず高く積まれていた。
「神谷準さんの白い鉛筆は使っているかい?」
「ええ、使ってます。チビチビとですけど」
「勝率は?」
「時々、負けますけど、だいたい勝利してます、スーパーキャッチくんに」
<スーパーキャッチくん>はAIコピーライターで、薫の会社も開発に関わった優れものだ。キャッチコピーを含め、多くの文章作成をこなしてかなりの成果を上げている。
 薫と長谷部は梱包された段ボールにそれぞれ腰掛けた。
「教えてほしいことがあるんです」
「なんだい?」
「『広告死ね!』の件です」
 その薫の言葉を聞いて、長谷部はじっと薫の顔を見つめた。薫は先日のセミナーの話をかいつまんでした。
「いまいまの広告が見られなくなったのはなんとなく肌感でわかるんです。でも、昔もそうだったのかなって思って。広告はずっと嫌われものだったのかなと思って」
 薫は白いシャツの両腕をまくって、その腕を胸のところで組んだ。さ、聞くぞ、の態勢。
「僕が君くらいのとき、そう3、40年前のころ。やっぱりそうだったような気がする」
 長谷部はそう言って、ペットボトルの水をひとくち飲んだ。
「猫またぎなんて言う人もよくいた」
「どういうこと、ですか?」
「魚が好きな猫も、またいで通るような魚だということ。広告は情報のなかでも最も注目度が低い情報ということだよ」
「ヤバイですね、いまより、ある意味」
「そうだよ、マスメディアだから情報はいまのようなターゲティングすら曖昧だったから、ほぼ垂れ流しだった。その代わり・・・」
 長谷部は窓の外を見て、少し懐かしそうで優しそうな顔つきになった。
「その代わり・・・」と薫は復唱した。
「夢中になっていた、みんな。情報そのものの質を上げることにね。見ず知らずの人を振り向かせるためには、強い輝きが必要だったんだ、広告表現に」
 薫は、ああ、と少しわかったような気がしてうなずいた。いまは便利になりすぎたんだ、広告も。ターゲティングできるから、もう安心している。ABテストできるから・・自動生成できるから・・・即時PDCAできるから・・・。効率化が進めば、人間の感情は不必要になり、その仕事自体の魅力度や没入度は下がっていく。そんなパラドックスにも似たことがいろいろ起こっているのではないか、いまの社会に・・・薫は後で、このことをもっと深く考えてみようと思った。
「僕はね、昔が良かったなんて言いたくないんだ。垂れ流しロスがないほうがいいに決まっているからね。広告のテクノロジー化は賛成なんだよ。第一、時間は逆には動かないし。ただ一言。熱は失った気はするな」
「広告界で働く人の熱ですか」
「そうだよ。正確に言うと、『つくる熱量』かな。手間といういまでは邪魔にされがちなことが大切だった気もする。抵抗が多いほど熱が出るという、昔、物理で教わった法則に近いかな」
 昔の広告作品もそうだ。なんだか人間くさくって体温を感じる。つくる側の必死さや思いの強さを感じたりもする。なぜなんだろうと思ってきたけど、長谷部CDの話を聞いていると数センチだけど理解が前に進んだ気がした。『つくる』ということは、手間がかかるけど、とても人間的なことなんだという事実。
「ま、そんな感じで、今日の講義は終わり。偉そうなことを言っちゃったかな」と長谷部は笑みを浮かびながら立ち上がって、再び本棚の分厚い本を手にした。
「ありがとうございました。また受講しにきますのでよろしくお願いします!」
 そう会釈し、薫は部屋を出た。さ、キャッチコピーの時間だ。書くぞ。いいのが出てくれると嬉しいけどね。脳のどこに住んでいるか知らないけど、遠慮しないで出てこいよ、ワタシの発想力。そう祈願していると、メールがブルッと震えて届いた。歩きながら見ると、山縣くんからだった。



 大学名のついた駅の近くのカフェに薫はいた。季節は5月半ばだが、空気には夏の匂いがかなり混じり始めていた。さっき歩きながら、そのことを感じて、心がふわっと夢見るようにダンスした。
 その大学名の学校に薫は通っていた。この街に来るのは久しぶりだ。学校帰りに広告研究会(広研)の仲間とコンパをよくしたし、美味しいパン屋でカレーパンをよく買ったし、本屋に1時間近くいてとても高価で買えないけど素敵な洋書をよく見ていた。いつも私鉄の電車の音がBGMのように聞こえていた。
 まだ20代なのに、そんな生活が誰かの遠い物語のようにいまの薫には思えていた。
 山縣くんは少しだけ遅れてやってきた。スーツをカッコよく着ている。
「ごめん、遅れた。待った?」
「全然。いま来て、いまコーヒーを飲み始めたとこ」
 薫は肩までの髪を少し揺らしてそう答えた。
「懐かしいね、このあたり」
「山縣くんは、よく来るの?」
「いや、数年ぶりかな。どこでお茶しようか迷ったんだけど、文月さんとだから、ここいらがいいかなと思って」
「ワタシも、なんだか懐かしいと思ったよ。店は新しいけど」
 そのカフェは二人が学生時代はなかった。スペースは広くないが、窓が広く、明るいいい気分を提供していた。二人はとっちらかった写真を見る時のように昔のことを話し、笑いあった。やがて自然に広告の仕事の話題になった。
「文月さんは、仕事はどうなの?」
「忙しくしているよ、転びながら走っている感じ」
 確かにそうだった。7年間、それなりに奮闘してきたと薫は思った。実力はまだまだだけど。
「コピーライターになる!って、宣言してたよね、いつも大声で」
「いやー、そうだっけ。そんなワタシをどう思ってた?」
「正直、生意気なヤツだと思ったよ、大して企画書もうまく書けないのに、って」
 と山縣くんは笑い、「でも、夢をかなえたんだね、すごいよ」と言った。
「山縣くんだって、すごいじゃない。チームリーダー、おー!って、思ったよ」
 山縣くんはコーヒーをゆっくりと飲んで、低い調子で声を出した。
「会社が仕立てた若者優遇感の犠牲者だよ」
 その調子にはここから本題に入る感があった。なぜだか薫はそう感じ取っていた。
「チームメンバーが7人いるんだけど、みんな6時には『失礼します』って軽いひとことで帰っちゃうし、結局、11時ころまで、僕がみんなの仕事を引き取ってやってる。チームなんて形ばかりだよ」
 あるあるだなと薫は感じる。残業無しという『正義』が深い議論もなく、まかり通り始めて何年経つんだろう。ブラックからホワイトへの価値転換は、働く意識だけじゃなくて、働く意味も変えたのかもしれない。
 薫は山縣くんの顔がいつの間にかちょっと歪んでいるのに気がついた。
「大変だね、健康も気になるね」
「妻も、たまには早く帰ってきてと嘆くし。ま、やるしかないとは思ってるけど」と山縣くんは続けた。妻。そうか、結婚したんだ、山縣くん。薫はなぜだか少し驚いた。年齢的にも当たり前なことなのに、なぜ驚いたのかうまく説明できないけれど、心が勝手に驚いていた。
「ちょっと未来が見えない感じかな、いま」
 なんと言ったらいいんだろう、同じ業界にいるワタシもいろんな迷いや疑問や軋轢にぶち当たるけど、未来はまだあると『充分に』信じている・・・・薫は言葉がうまく出てこなかった。久しぶりに会って、昔の話をして、また今度ね!と手を明るく振って今日を終わらせるつもりだったのに。
「働くことの意義がわからなくなっちゃって」
 山縣くんは俯きながらそう言った。陽気にならなくちゃと薫は感じて言葉を返した。
「生きるためのお金を稼ぐ! まずはそれだよね」
「それから、なんだろう」
「うーん、社会的な貢献かな、ソーシャルグッドの実現、人がよりよく生きられるように、というようなことかな」
「なんだか、広研で就活前にみんなで話してたことみたいだね」と自嘲の入った笑いで山縣くんはそう言った。
「ハハ。そうだね、完全に時が戻っている」と薫もその笑いを追いかけた。
「みんな見つけられていないんだよ、働くってなんなのか、きっと。ひょっとすると幸せってなんなのか、も含めて。多くの人の心のなかでね」
 特急電車が駅を通過する音が聞こえた。その一段と高い音を聞くと、時の回転がゆっくりになり、心が暗がりに迷い込んでいくようだった。
「マーケティングをいくらやっても本当の答えは見つからない。技術だって便利に終わっているうちは大したことじゃないと思うんだ」
「でも、世の中はそれですっかり幸せそうに進んでいる面もあるよね」
 薫はそう言った。山縣くんは誠実すぎるんだよ、そんなに真剣に考えると身動きできなくなっちゃうよ。そう付け加えたかったが、できなかった。
「自分が一生懸命やればやるほど、心が重くなっていくのはなぜだろう。辛さから逃げようと思っても逃げられないのはなぜだろう、と最近、思うんだ」
 山縣くんはそう言ってから、発言の重たさに気がついたように「ごめん。久しぶりだったのに・・・誰かに話したかったんだ。自分勝手に同じ原点を持つ文月さんにならと思ってしまって。ありがとう」と言った。
「ううん、ワタシも良かった。山縣くんに久しぶりに会えて」と言いながら、薫は微笑んだ。
「コピーライターやってて一番の幸せはなに?」
「そうだなぁ。ある人からもらった言葉なんだけど、ワタシの言葉を待っている人がいるんだって。そのことを想像しながら書く、それが幸せかもね」
「へー、結果じゃなくて、その手前に幸せがあるんだね」
「そうだよ、レアかな」
「いやー、楽天的でいいなぁって。でも、そういうことかもしれないって思う」
 そう言って、山縣くんは学生時代のような笑顔を見せた。
 また電車が通って行った。ゴーッという音に混じって駅のアナウンスも聞こえた。行く先を告げていた。働くことの意味は揺れながら、どこに向かっているんだろうと薫は、一瞬考えた。
 カフェを出て、二人は駅の改札で別れた。山縣くんはこれから仕事で行くところがあると言った。次は広告の未来の話をしようと言った。
 人も、店も、看板も、自転車も、犬も、電信柱も、街の風景のなにもかもが輝きを増しているように見えた。ああ、夏が来ている。その明度に励まされながら、薫は駅の階段をスカートの裾を翻して、一気に駆け上がった。



 それから数週間経っていた。突然だった。
 その不幸なニュースはCDのYからもたらされた。珍しいな、なんだろうと訝しみながら薫は電話に出たのだった。フロアーの隅に移動しながら耳を当てた。
「ああ、Yだけど。山縣さん、事故にあったんだ。知らせておこうと思って・・・いまT大学病院のICUにいる」
 いきなり心臓がぎゅっと押しつぶされ、身体中に悪寒がサーッと広がった。
「かなり危険な状態で、2、3日中が山だそうだ・・・」
 薫の声はこわばって震えていた。
「希望はあるんでしょうか・・・山縣くんは」
「うん・・・希望はあると思う。というか、それを祈るしかない」
「大学の友だちだったんです・・・」
「知っている、中原さんから聞いた。また連絡する」
「はい・・・・」
 あとは言葉にならなかった。電話をオフにし、しばらく薫は立ち尽くしていた。身体の隅々に冷たいものが沁みていって、どうにも動くことができなかった。
 どうしたんだよ、山縣くん。なぜなんだよ。
 どんな事故だったんだろう、そう思った瞬間、ふと嫌な予感がした。この前、久しぶりに会ったときの会話を思い出す。「心が重くなっていく・・・逃げられない・・・」。ネガティブ言葉が脳をかすめて通る。薫はしゃがみこんだ。嘘。そんなことあるわけない。奥さんいるし。チームリーダーだし。目指していた業界で働いているし。そんなことない、絶対に・・・。
「どうしたんですか、文月さん、会議始まりますよ」
 クリエイティブチームの男子がしゃがんだ薫に声をかける。
 ああ、そうだった、行かなければいけない、行きたくないけど。でもここでこうしていてもなにかが解決するわけじゃない。会議にならないのはわかっているけど、なにも考えられないけど、なにも書けないけど行こう。スーパーキャッチくんはいいな、こんなとき。感情がないから。心という重い荷物を持たなくていいから。
 薫は大きく一つ息をして、のろのろと力なく立ち上がった。

 夜の7時ころ、仕事が終了し、フロアーを出ようとするとバタバタと誰かが追いかけてきた。中原サユリだった。「Yさんから聞いてますよね、この前の山縣さんのこと」と言った。薫がうなずくと、「深夜、道で車にはねられたみたいです。全身を強く打ってずっと意識がないそうです・・・心配ですね・・・」と深刻な表情で続けた。薫はまた無言でうなずいた。言葉を発する気力がないのだった。サユリの手を薫が握ると、サユリも握り返してくれた。サユリの目は照明の下でキラッと濡れていた。
 週末の夜の混んだ電車に乗ると、そのサユリからチャットが来ていた。<言いそびれたのですが、一つだけ伝えておきます。S社がピッチになりそうです。というか、なります。相手は広告代理店が3社。センパイにもスタッフに加わって欲しいとYさんが言っていました。詳しくは週明けにでも。サユリ>
 S社は教育関連のビッグクライアントで、10年近く薫の会社の大きな扱いを占めていて、毎年のボーナスはS社の利益から出ていると言われていた。単純計算だが、ピッチ(競合プレ)にもし負ければボーナスはすべて吹っ飛ぶということになる。通販主体でデジタルクリエイエティブに特化していたが、なにがあったのだろう。いまの広告になにが不満なのだろう。ぼーっと考えているうちに、いつもの駅に到着していて、慌てて薫はホームに降りた。山縣のことが脳裏にずっと存在していて、車内は息苦しくつらかった。ちょっとベンチに座ろうかと思ったがホームの人波が薫を押して、彼女はエスカレーターにいつの間にか乗っていた。


 その夜は眠れなかった。電話やメールが怖かった。薫はベッドに身を小さくして横になり、お気に入りの音楽に耳を占領させて時を過ごした。それでも朝方、うとうとなりながら夢を見た。

―――目の前に神谷準さんらしき人がいる。ワタシは必死になって書いたキャッチコピーを彼に見せようとしている。原稿用紙1枚の真ん中に1本のキャッチコピーを『大きく太く』書き記すのが習わしだ。200枚ほど、つまり200本ほどあった。1枚1枚にワタシの思いを2Bの鉛筆で刻印した。神谷さんは厳粛な儀式のようにその分厚い紙の束に向き合う。ワタシは「お願いします!」と頭を下げる。口のなかが乾いて緊張しきっている。これから、神谷さんに駅貼りポスターのキャッチをチョイスしてもらうのだ。ファッションの広告のようだった。何度もダメ出しされたが、いいのがなければ、またもう一度書かないといけない。広告の入稿は3日後に迫っていた。ワタシは背水の陣で、崖っぷちギリギリで、振り向く眼下には海の波が恐ろしげに渦巻いていた。神谷さんは1枚1枚、丁寧に見始める。ここはどこだろう? よくわからないが制作会社か、広告代理店のオフィスのように思える。長い時間が経ってオフィスの窓から夕日がオレンジ色にこぼれるころ。「これがいいかな」と神谷さんはやっと言って、万年筆でサッとそのキャッチに大きな青い丸をつけた。ワタシの心臓がゴトッと巨大な音を立てた。「アアー」。歓喜なのか、開放なのか、わからないが肉体の芯のほうから呻きが飛び出した。「時間がないから、すぐにデザイナーを呼ぼう」と神谷さんは言った。デザイナーは即座に猛烈に走ってやってきた。五分刈りの頭の青年だった。「このキャッチ、写植屋さんに出して」と神谷さんに言われると、大きな声で「はい!」と答え、また猛烈な勢いで席に戻って行った。あれ?とワタシは思った。長谷部さんじゃないかな、CDの長谷部さん。ヨレヨレのシャツにジーンズを履いて、いま、固定電話をかけていて、その声がフロアー中に響いている。「明朝とゴシック、級数は80級、120級、160級、縦組みと横組み。特急で印字してください!」と勢い込んで依頼している。その声を受け取って、先輩のアートディレクターらしき人が「長谷部、写真部にも電話してな。ポジにして届けてくれって。大至急!」と、がなった。やっぱり長谷部さんだ。うふふ、すごく若い。神谷さんは「営業を呼んで説明しておいてください。それからボディコピーも書いてください」とだけ薫に言って、そそくさと席を立った。超売れっ子のコピーライター兼CDの神谷さんにはいろんな社内外のお座敷がかかっている。本当はワタシのコピーなんか見ている暇はなかったのかもしれない。ワタシは深々と感謝の頭を下げた。営業が二人、数分でやって来た。ワタシは選ばれたキャッチコピーを見せた。「なるほど。なるほど。いいですね!」と年上の営業さんは喜んで、すぐさま年下の営業さんに「明日、得意先にプレでオーケーもらうぞ。なる早で段取り組んで。媒体社にも連絡して」と命令し、帰り際にワタシに「いいコピーをありがとう!」と笑顔で言った。1本のコピーが決まることで、すべての広告の作業がいっぺんに動いていく。人がそれぞれ自分の持ち場で猛烈に発熱していく。夢のなかのワタシはなんだかあっけに取られていて、一人だけ動きについていけなかった気がした。そのワタシは、「いまのワタシ」だったのかもしれない。いまのワタシは「過去のワタシ」に尋ねていた。で、なんというキャッチコピーだったの、そのコピーは? 過去のワタシはうーんと唸ったまま、ほんのちょっと前のできごとなのに忘れてしまって、ひとりで固まってしまっていた―――。


 夢から覚めてもキャッチコピーは思い出せなかった。過去のどこかに、もう二度と行けない場所に置いてきてしまったのかもしれなかった。
 薫は諦めて、窓を開けた。思い切り夏がやってきている。顔を洗おう。歯を磨こう。とにかく今日は休みの朝だ。それらしくしよう。ゆっくりコーヒーを沸かして、好きなクロワッサンを食べよう。さぼってたストレッチもしよう。
 しばらくして、ベランダの植物たちに水やりをしていると、薫にはあるアイデアが浮かんだ。そして、通っていた大学のある街にいまから行こう、山縣くんと会ったカフェにまた行こうと決めていたのだった。

 2時間後、カフェに着いた。山縣くんと話した席がたまたま空いていて、薫はそこに座った。コーヒーを飲みながら、窓の外を通る人々をしばらく眺めていた。それから、ウウンと小さく咳払いをして、決意をして顔をきりっと上げ、目の前を見た。そこには誰も座っていなかったが、山縣くんが座っていた。薫はそう信じこんだ。
 どうしても伝えたいことがあった、そこにいる山縣くんに。初めは心のなかで話していたが、やがて、聞き取れないけど微かな声になっていった。
「山縣くん。本当のことを言うけど、大学に入って、広研で君を初めて見たとき、ああ、いいなって感じたんだ。まだ若すぎて自分の心を上手に掴めなかったけど、ああ、これが恋の始まりなのかなとも思ったよ。1年の秋だよね、学園祭のパンフレットのラフをつくって、この商店街を回ったよね。一軒一軒、広告を入れてもらおうとして、二人で夜になるまで。なんだか夢中でとても必死で、君と歩いていたんだ。小さなスペースなら5000円。大きなスペースなら1万円だったね、広告」
 そして、声は聞き取れる声になって出た。
「ねぇ、覚えている?」
 店の女の子が不思議そうに薫を見た。ひとりで前を向いてしゃべっている変なやつ。そんなふうにチラ見していた。
「恥ずかしいから、もうこのくらいにしておくね。最後に、いまの君に伝えたいことがあるんだ」
 薫は胸がいっぱいになった。そして言葉は自然にあふれてきた。
「生きて欲しいよ。生きていさえすれば、なんでもできるんだよ。働くことの前に生き抜くこと、があるんだよ」
 目の前に山縣くんはいなかった。ただ、いると信じて、伝わると信じて、精一杯、心のすべてを言葉にした。
 それから、薫は長い間、祈るように俯いていた。その時、スマートデバイスが突然、時間を切り裂くように鳴った。Yさんからだ。心臓をギュッと鷲掴みにされ、すべてが一瞬止まる。
「山縣さん、一命を取り留めたよ。元の生活に戻れるかはまだわからないらしいけど」
 短い電話が終わり、薫はフーッと息をしてから、「良かった、本当に」と小さくつぶやいた。


 薫は線路の脇の道を歩いていた。大学のある駅から次の駅まで線路沿いに歩こうと思ったのだった。広研のメンバーとコンパのあと歩いたこと、いつの間にか山縣くんと薫がみんなから遅れて二人で歩いていたこと。吹いている初夏の風が、記憶のページをパラパラと巻き上げ、二人が一緒だったページを見せてくれていた。なにを話したなんて覚えていない。その時の感情も覚えていない。ただ、山縣くんと薫と若者たちは歩いていた。次の駅へ、ではなく、どこかにある光の場所へと。
 薫は思っていた。あの時の二人の距離はどのくらいだったのだろう。二人の右手と左手の距離はどのくらいだったのだろう。20センチ、あるいは10センチ。それがゼロになって結ばれていたら・・・もしそうなっていたら、どんな未来がつくられていたんだろう。
 電車が遠くから近づき、やがて轟音を響かせて、薫を追い越していく。いまの気持ちは空っぽだったが、それだからこそ軽やかだった。電車のなかにいる人ひとりひとりに手を振りたいほどだった。上りと下りの電車がやってきて、レールの音を響かせて、薫の横で擦れ違い、別の行く先へと通り過ぎていく。
 不意に、夢のなかのキャッチコピーを思い出していた。
『夢見る力で生きていく。』
 うまいコピーじゃないな、普通だなと薫はひとり笑いながら、まばゆい空を見上げた。
 そして、いまのワタシなら、もっともっと上手に書けると思った。


 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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