ブランコを押す ─ 未来のエモーション 第15話
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をお届けしています。一話完結。第15話は「ブランコを押す」。
20年の時がたった。
思い出すとつい昨日のようでもあり、しかし、触ってももう届かないもどかしさもあった。
あの時・・・・澄香がなくなったのは、今日のような雨の降っている日だった。
和人は窓から2032年の東京を見る。遠くにスカイツリーが煙っている。その周りをスカイタクシーが数台飛んでいる。雨の雫が一筋、スッーと東京の風景の中を動いて落ちていく。
一人娘の澄香がクルマにはねられたのは、妻の美加と中央線のKという街に住んでいる頃だった。小学校1年、6歳だった。下校時に信号無視のトラックに気づかず、ぶつかって強く頭を打った。最後を、病院で妻と二人で看取った。妻はその日、その瞬間から、別の人となった。正確に言うと澄香と共に彼女の中の大切な何かが失われてしまった。その何かは、明瞭にはわからなかったが、彼女の生きる力と密接に繋がっていたから、彼女はトボトボと寂しげに歩く影のような人間になってしまった。
それから和人は必死に働いた。せめて少しでも生活のレベルを上げ、美加を喜ばせようとしたのだった。たとえ、夫婦であろうと人は他人の心の奥底には入り込めない。愛があればできるはずだと言う人がいるかもしれないが、愛は万能ではないことに人は誰でも気づいているのではないか。経済的に豊かになることは美加のために必要十分ではないが、必要なことであると信じた。
和人は会社の経営者になった。そのIT系の会社は澄香が生まれた2020年代の初めの頃に仲間たちと起業し、少しずつ大きくしてきた。それからほぼ10年、上場のタイミングも迫ってきていて、50歳を迎えることもあり、和人は都心の高層マンションを購入した。
その42階のマンションの部屋は東京の東部にあり、お台場やTDLや林立するリバーフロントのビル群の光る宝石のような夜景が美しかった。美加は「東京の夜って、こんなにきれいだったんだ。あなた、ありがとう」と中空の窓に、細い体を沿わせ、二つの手のひらをぴたりとくっつけて言った。それは引っ越した最初の夜だった。和人はその言葉を聞いて、確かな達成感を覚え、澄香がなくなってからの自分の頑張りに対する報酬を初めて得たと思った。
和人は雨に濡れて白くかすむ街を見て、あるサイトの記事を思い出していた。「今はもういないあの人に、もう一度会ってみませんか?」というキャッチフレーズを電車の中で、スマートデバイスの画面に見つけた。怪しいと思う反面、瞬間的に惹かれ、ブックマークをすぐにつけた。「今はもういないあの人」はもちろん、澄香のことだった。今生きていれば26歳になっている、どんな娘になっているんだろうという想像が滲むように灯った。無意識と意識の中間くらいの心で、その年齢に近い女性を探そうとして、目線を動かした。しかし、車両の中にはそれに該当する女性はいないように思われた。和人はブックマークをクリックして、その記事を読んでいった。
「当社のホログラム・テクノロジーは、完璧な3D映像で、失われた人をまるでそこにいるかのように再現できます・・・・その人のデータが多くあればあるほど精度は高まります・・・秘密厳守・プライバシーにも配慮いたします・・・委細はメールにて・・・・」
澄香の6歳までの映像や画像のデータは膨大にあり、それは和人と美加の愛情の深さを表すものでもあった。ただ、そのデータは和人や美加のデバイスや記憶メディアに散在し、今はあまり見られないものになっていた。むろん、あまりに激しい魂の苦痛を呼び覚ますものに触れたくないという思いもあった。
ちょうどいい頃なのではないか、それらのデータを集めて整理するのは・・・・和人はそう思い、とりあえずという気持ちで問い合わせのメールを打った。
美加が友達と美術館に出かけた土曜の午後。秋の青空を窓いっぱいに望めるリビングで、ソファに深く腰掛けながら、和人は長文のメールを見ていた。
そこには失われた人を立体として再現するまでのプロセスやコストやらが詳しく書かれていた。ホログラム制作会社の来歴・実績、クリエイティブディレクターやプロデューサーや技術者のプロフィールも添付で送られてきた。怪しい会社ではなさそうだと直感した。気がかりなコストは、10分で再現の場合は200万円、20分なら500万円と書かれていた。高いとも思ったが、同時に安いとも思った。もし、本当に澄香が私たちの目の前に現れ、パパ、ママと一言でも呼びかけてくれるなら、その10分や20分は永遠の価値さえ持つだろう。
サンプルとしてアップされていたプードルの映像は、まるで生きているかのように吠え、尻尾を振り、主人にじゃれつき、甘えていた。その映像は撮影されたものなので3Dではなかったが、これが最先端の3Dで現れるんだと想像して、和人の涙腺は早くも緩むのだった。
澄香を死からよみがえさせる。
とにかく美加に相談しよう。和人は冷蔵庫から1本のペリエを出して窓際に立ち、陽を浴びながら東京のパノラマを目というよりは心の内側で眺めていた。
その日は来た。
長田というプロデューサーが部屋の外に待っていた。全身黒づくめで、黒いサングラスをしていた。思いがけず爽やかな声で、和人と美加に「お待ちしておりました」と会釈をし、「こちらになります」と続けた。ホログラムの視聴ルームは真っ暗だったが、部屋の真ん中には光の粒子がキラキラと動いていた。そのキラキラは無数の微細な蛍の乱舞のようにも見え、その発光が二人の座るチェアの輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。
「私どもはヘッドセットなどの機器は一切使用いたしません。中央の空間に・・・えー、娘さんのお名前は・・・えー、澄香さんですね・・・澄香さんが生前のお姿のまま現れてまいります。20分ほどの再会になりますが、スタッフ一同心を込めてつくらさせていただきました。ぜひご堪能いただきたいと思います」
そう言って、長田は部屋を去って行った。「生前の」「スタッフ一同」「ご堪能」、それらの用語に違和感を覚えながら、和人は澄香の登場を待った。隣の美加の鼓動が手にとるように感じられ、それに共鳴するように自分の胸も息苦しく動き始めていた。
10分後くらいだろうか。突然、蛍のような光たちが輝きを強めた。
そして、その瞬間、光の束の中にふわっと降臨するように少女が現れた。
ああ、ああ、澄香。
笑った。笑っている。もう美加は激しく嗚咽を始めた。澄香は蘇り、今、目の前にあの頃のように生きていた。「ママ」「パパ」と呼びかけた。白と青のストライプのシャツ。そうだ、ストライプがとても似合う子だった。赤いスカートを翻してクルッと回った。細い華奢な体の子だった。抱き上げると天にまで届きそうだった。
「澄香、ママよ、ママ」、美加は呼びかける。「澄香、澄香、澄香・・・」
愛犬のジョンが現れ、二人ではしゃぐ。ジョンは吠え、澄香はボールを投げる。やがて、近くの公園のブランコが現れる。「パパ、押して」と澄香がせがむ。
思い出す。あの普通にあった素晴らしい幸福の瞬間を。
和人はブランコを押している。映像がガタッと揺れ、青空が映り、澄香の体が宙を舞う。まだ幼稚園の頃だった、多分。ブランコでよく遊んだ。澄香のはしゃぐ声で胸に幸せがいっぱいに満ちてくる。
そうして、澄香は少し成長してリビングのピアノの前にいる。何か曲を弾いている。優しく澄んだ音色だ。何の曲だろうーーー。
それが最後だった。シーンは全て終わり、澄香はふっと消滅した。後には、きらめく光の束だけが無音で残った。20分が経ったのだった。
しばらく二人は動けなかった。脳裏から澄香の残像が消えずに命あるものとしてとどまっていた。
和人が美加を見ると、頬に涙の跡がわずかに光っていた。美加は言った。
「悲しいことがこんなにも幸せなこととは思いませんでした」
和人はチェアからかろうじて立ち上がった。美加も立ち上がろうとしたが体のバランスをユラっと崩し、和人の腕で支えられた。
「ありがとう」
美加はそう言った。お互いのぬくもりを感じたまま部屋を出る時、和人は、振り返ってもう一度、ヒロインを失った無数の光の粒子を見つめた。
美加は澄香と会ってから、元気を取り戻したように見えた。それは本当に20年ぶりの元気かもしれなかった。彼女の中に、澄香が透明な生命体として入り込み、重なるように生きようとしている。そんなふうにも和人には感じられた。
だが、和人にはどうしても理解できない、一つのわだかまりがあった。その影は彼の脳裏を数日間しつこく駆けまわり、苦しめ続けているのだった。
わだかまり。
それは、澄香はピアノを弾けなかったという事実だった。
澄香は中等度の聴覚障害を持っていたのだ。だから、突き進むトラックの音の感知が遅れてしまったのかもしれないのだ。音楽を聴きとることはでき、ピアノは練習をさせたものの、微細な感覚がつかめず、上手に演奏することはできなかった。
美加もその事実は当然、知っている。しかし、彼女はわずかな時間だが、澄香がこの世に現れたことに満足仕切ってしまって、枝葉末節にまで神経が行っていないのかもしれなかった。
事実ではないこと。それは、和人にとっては契約違反のように思われた。金銭というよりは、心の問題としてーーー。
数週間後、和人は長田のオフィスにいた。
澄香はピアノを弾かなかったのに、なぜ、ピアノを弾かせたのか、との問いを、黒づくめの長田にぶつけた。長田は静かに答えた。
「同意書をお読みになりましたか」
「ええ、まぁ」と和人は答えた。
「・・・・なお、映像は編集上の都合により、オリジナルデータを加工する場合もあります・・・と書かれています」
読んだような気もするし、そうでない気もする。どうせ膨大な同意書の後ろの方の隠れ項目だろう。その手は、自分の会社でもやっていることだからよくわかる。
「いや、違約金を払って欲しいとかそう言うことではないんです」
「では、何のためにいらしたのですか」
長田の語調は少し強めになった。
「なぜ、事実ではないことを形にしたのかということを聞きたいのです」
その和人の言葉に長田は数秒考えてから答えた。
「美しい思い出を美しいままに終わらせるためです。そして感動を最大値にするためです」
「うちの娘はリアルな存在です。どうしてリアルなままではいけないのですか」
長田は含み笑いをしながら答えた。
「もう時代は変わったのです。AIが人間の能力を超えようとしている今、リアルというものは、もはや一つもこの世にないのです」
長田はやや間を空けてこう続けた。
「あなたが欲しかったのは、リアルなのでしょうか。涙なのでしょうか」
和人は黙ったまま、澄香の3Dを見ていた時の美加の光る涙を思い浮かべた。
正解だったのか、そうでなかったのか。和人にはもう判断がつかなかった。自分でさえ、澄香のピアノの音色はあの時、美しく切ないものとして感じ取ったのではなかったのか・・・。
最後に、長田はオフィスを出ようとする和人の背中にこう言った。
「奥様からメールをいただいていました。『事実が人を苦しめることもあります。だから美しい物語にしてください』とのお願いでした」
長田のオフィスを出た和人は街中を一人歩いていた。わだかまりは胸から去らなかった。リアルなのか、涙なのか・・・・。美加はなぜ、和人に内緒で長田に連絡を取っていたのか・・・・。いくつもの人影とぶつかりそうになり、慌てて体を避けふわふわと和人は歩いた。
ふと、澄香の声が耳元で蘇った。
「パパ、押して」
その突然の声に促されて、和人はジャケットの腕をまくり、「いいよ。澄香」と言った。
そうして、行き交う人たちの怪訝な視線に構わず、ブランコを押す仕草を始めた。左手で押し、右手にはスマートデバイスを持ち、カメラ機能をオンにした。
澄香の体が青空に舞い上がり下がり、はしゃぐ声を心の領域に響かせた。澄香はもうどこにもいなかったが、確かに存在していた。
「パパ、もう1回」
澄香の体がまた空にふわっと舞い上がっていく。和人はなんども、なんどもブランコを笑いながら押し続けている。澄香の声が聞こえる。
「パパ、押しててね、ずっと、ずっと」
思い出すとつい昨日のようでもあり、しかし、触ってももう届かないもどかしさもあった。
あの時・・・・澄香がなくなったのは、今日のような雨の降っている日だった。
和人は窓から2032年の東京を見る。遠くにスカイツリーが煙っている。その周りをスカイタクシーが数台飛んでいる。雨の雫が一筋、スッーと東京の風景の中を動いて落ちていく。
一人娘の澄香がクルマにはねられたのは、妻の美加と中央線のKという街に住んでいる頃だった。小学校1年、6歳だった。下校時に信号無視のトラックに気づかず、ぶつかって強く頭を打った。最後を、病院で妻と二人で看取った。妻はその日、その瞬間から、別の人となった。正確に言うと澄香と共に彼女の中の大切な何かが失われてしまった。その何かは、明瞭にはわからなかったが、彼女の生きる力と密接に繋がっていたから、彼女はトボトボと寂しげに歩く影のような人間になってしまった。
それから和人は必死に働いた。せめて少しでも生活のレベルを上げ、美加を喜ばせようとしたのだった。たとえ、夫婦であろうと人は他人の心の奥底には入り込めない。愛があればできるはずだと言う人がいるかもしれないが、愛は万能ではないことに人は誰でも気づいているのではないか。経済的に豊かになることは美加のために必要十分ではないが、必要なことであると信じた。
和人は会社の経営者になった。そのIT系の会社は澄香が生まれた2020年代の初めの頃に仲間たちと起業し、少しずつ大きくしてきた。それからほぼ10年、上場のタイミングも迫ってきていて、50歳を迎えることもあり、和人は都心の高層マンションを購入した。
その42階のマンションの部屋は東京の東部にあり、お台場やTDLや林立するリバーフロントのビル群の光る宝石のような夜景が美しかった。美加は「東京の夜って、こんなにきれいだったんだ。あなた、ありがとう」と中空の窓に、細い体を沿わせ、二つの手のひらをぴたりとくっつけて言った。それは引っ越した最初の夜だった。和人はその言葉を聞いて、確かな達成感を覚え、澄香がなくなってからの自分の頑張りに対する報酬を初めて得たと思った。
和人は雨に濡れて白くかすむ街を見て、あるサイトの記事を思い出していた。「今はもういないあの人に、もう一度会ってみませんか?」というキャッチフレーズを電車の中で、スマートデバイスの画面に見つけた。怪しいと思う反面、瞬間的に惹かれ、ブックマークをすぐにつけた。「今はもういないあの人」はもちろん、澄香のことだった。今生きていれば26歳になっている、どんな娘になっているんだろうという想像が滲むように灯った。無意識と意識の中間くらいの心で、その年齢に近い女性を探そうとして、目線を動かした。しかし、車両の中にはそれに該当する女性はいないように思われた。和人はブックマークをクリックして、その記事を読んでいった。
「当社のホログラム・テクノロジーは、完璧な3D映像で、失われた人をまるでそこにいるかのように再現できます・・・・その人のデータが多くあればあるほど精度は高まります・・・秘密厳守・プライバシーにも配慮いたします・・・委細はメールにて・・・・」
澄香の6歳までの映像や画像のデータは膨大にあり、それは和人と美加の愛情の深さを表すものでもあった。ただ、そのデータは和人や美加のデバイスや記憶メディアに散在し、今はあまり見られないものになっていた。むろん、あまりに激しい魂の苦痛を呼び覚ますものに触れたくないという思いもあった。
ちょうどいい頃なのではないか、それらのデータを集めて整理するのは・・・・和人はそう思い、とりあえずという気持ちで問い合わせのメールを打った。
美加が友達と美術館に出かけた土曜の午後。秋の青空を窓いっぱいに望めるリビングで、ソファに深く腰掛けながら、和人は長文のメールを見ていた。
そこには失われた人を立体として再現するまでのプロセスやコストやらが詳しく書かれていた。ホログラム制作会社の来歴・実績、クリエイティブディレクターやプロデューサーや技術者のプロフィールも添付で送られてきた。怪しい会社ではなさそうだと直感した。気がかりなコストは、10分で再現の場合は200万円、20分なら500万円と書かれていた。高いとも思ったが、同時に安いとも思った。もし、本当に澄香が私たちの目の前に現れ、パパ、ママと一言でも呼びかけてくれるなら、その10分や20分は永遠の価値さえ持つだろう。
サンプルとしてアップされていたプードルの映像は、まるで生きているかのように吠え、尻尾を振り、主人にじゃれつき、甘えていた。その映像は撮影されたものなので3Dではなかったが、これが最先端の3Dで現れるんだと想像して、和人の涙腺は早くも緩むのだった。
澄香を死からよみがえさせる。
とにかく美加に相談しよう。和人は冷蔵庫から1本のペリエを出して窓際に立ち、陽を浴びながら東京のパノラマを目というよりは心の内側で眺めていた。
その日は来た。
長田というプロデューサーが部屋の外に待っていた。全身黒づくめで、黒いサングラスをしていた。思いがけず爽やかな声で、和人と美加に「お待ちしておりました」と会釈をし、「こちらになります」と続けた。ホログラムの視聴ルームは真っ暗だったが、部屋の真ん中には光の粒子がキラキラと動いていた。そのキラキラは無数の微細な蛍の乱舞のようにも見え、その発光が二人の座るチェアの輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。
「私どもはヘッドセットなどの機器は一切使用いたしません。中央の空間に・・・えー、娘さんのお名前は・・・えー、澄香さんですね・・・澄香さんが生前のお姿のまま現れてまいります。20分ほどの再会になりますが、スタッフ一同心を込めてつくらさせていただきました。ぜひご堪能いただきたいと思います」
そう言って、長田は部屋を去って行った。「生前の」「スタッフ一同」「ご堪能」、それらの用語に違和感を覚えながら、和人は澄香の登場を待った。隣の美加の鼓動が手にとるように感じられ、それに共鳴するように自分の胸も息苦しく動き始めていた。
10分後くらいだろうか。突然、蛍のような光たちが輝きを強めた。
そして、その瞬間、光の束の中にふわっと降臨するように少女が現れた。
ああ、ああ、澄香。
笑った。笑っている。もう美加は激しく嗚咽を始めた。澄香は蘇り、今、目の前にあの頃のように生きていた。「ママ」「パパ」と呼びかけた。白と青のストライプのシャツ。そうだ、ストライプがとても似合う子だった。赤いスカートを翻してクルッと回った。細い華奢な体の子だった。抱き上げると天にまで届きそうだった。
「澄香、ママよ、ママ」、美加は呼びかける。「澄香、澄香、澄香・・・」
愛犬のジョンが現れ、二人ではしゃぐ。ジョンは吠え、澄香はボールを投げる。やがて、近くの公園のブランコが現れる。「パパ、押して」と澄香がせがむ。
思い出す。あの普通にあった素晴らしい幸福の瞬間を。
和人はブランコを押している。映像がガタッと揺れ、青空が映り、澄香の体が宙を舞う。まだ幼稚園の頃だった、多分。ブランコでよく遊んだ。澄香のはしゃぐ声で胸に幸せがいっぱいに満ちてくる。
そうして、澄香は少し成長してリビングのピアノの前にいる。何か曲を弾いている。優しく澄んだ音色だ。何の曲だろうーーー。
それが最後だった。シーンは全て終わり、澄香はふっと消滅した。後には、きらめく光の束だけが無音で残った。20分が経ったのだった。
しばらく二人は動けなかった。脳裏から澄香の残像が消えずに命あるものとしてとどまっていた。
和人が美加を見ると、頬に涙の跡がわずかに光っていた。美加は言った。
「悲しいことがこんなにも幸せなこととは思いませんでした」
和人はチェアからかろうじて立ち上がった。美加も立ち上がろうとしたが体のバランスをユラっと崩し、和人の腕で支えられた。
「ありがとう」
美加はそう言った。お互いのぬくもりを感じたまま部屋を出る時、和人は、振り返ってもう一度、ヒロインを失った無数の光の粒子を見つめた。
美加は澄香と会ってから、元気を取り戻したように見えた。それは本当に20年ぶりの元気かもしれなかった。彼女の中に、澄香が透明な生命体として入り込み、重なるように生きようとしている。そんなふうにも和人には感じられた。
だが、和人にはどうしても理解できない、一つのわだかまりがあった。その影は彼の脳裏を数日間しつこく駆けまわり、苦しめ続けているのだった。
わだかまり。
それは、澄香はピアノを弾けなかったという事実だった。
澄香は中等度の聴覚障害を持っていたのだ。だから、突き進むトラックの音の感知が遅れてしまったのかもしれないのだ。音楽を聴きとることはでき、ピアノは練習をさせたものの、微細な感覚がつかめず、上手に演奏することはできなかった。
美加もその事実は当然、知っている。しかし、彼女はわずかな時間だが、澄香がこの世に現れたことに満足仕切ってしまって、枝葉末節にまで神経が行っていないのかもしれなかった。
事実ではないこと。それは、和人にとっては契約違反のように思われた。金銭というよりは、心の問題としてーーー。
数週間後、和人は長田のオフィスにいた。
澄香はピアノを弾かなかったのに、なぜ、ピアノを弾かせたのか、との問いを、黒づくめの長田にぶつけた。長田は静かに答えた。
「同意書をお読みになりましたか」
「ええ、まぁ」と和人は答えた。
「・・・・なお、映像は編集上の都合により、オリジナルデータを加工する場合もあります・・・と書かれています」
読んだような気もするし、そうでない気もする。どうせ膨大な同意書の後ろの方の隠れ項目だろう。その手は、自分の会社でもやっていることだからよくわかる。
「いや、違約金を払って欲しいとかそう言うことではないんです」
「では、何のためにいらしたのですか」
長田の語調は少し強めになった。
「なぜ、事実ではないことを形にしたのかということを聞きたいのです」
その和人の言葉に長田は数秒考えてから答えた。
「美しい思い出を美しいままに終わらせるためです。そして感動を最大値にするためです」
「うちの娘はリアルな存在です。どうしてリアルなままではいけないのですか」
長田は含み笑いをしながら答えた。
「もう時代は変わったのです。AIが人間の能力を超えようとしている今、リアルというものは、もはや一つもこの世にないのです」
長田はやや間を空けてこう続けた。
「あなたが欲しかったのは、リアルなのでしょうか。涙なのでしょうか」
和人は黙ったまま、澄香の3Dを見ていた時の美加の光る涙を思い浮かべた。
正解だったのか、そうでなかったのか。和人にはもう判断がつかなかった。自分でさえ、澄香のピアノの音色はあの時、美しく切ないものとして感じ取ったのではなかったのか・・・。
最後に、長田はオフィスを出ようとする和人の背中にこう言った。
「奥様からメールをいただいていました。『事実が人を苦しめることもあります。だから美しい物語にしてください』とのお願いでした」
長田のオフィスを出た和人は街中を一人歩いていた。わだかまりは胸から去らなかった。リアルなのか、涙なのか・・・・。美加はなぜ、和人に内緒で長田に連絡を取っていたのか・・・・。いくつもの人影とぶつかりそうになり、慌てて体を避けふわふわと和人は歩いた。
ふと、澄香の声が耳元で蘇った。
「パパ、押して」
その突然の声に促されて、和人はジャケットの腕をまくり、「いいよ。澄香」と言った。
そうして、行き交う人たちの怪訝な視線に構わず、ブランコを押す仕草を始めた。左手で押し、右手にはスマートデバイスを持ち、カメラ機能をオンにした。
澄香の体が青空に舞い上がり下がり、はしゃぐ声を心の領域に響かせた。澄香はもうどこにもいなかったが、確かに存在していた。
「パパ、もう1回」
澄香の体がまた空にふわっと舞い上がっていく。和人はなんども、なんどもブランコを笑いながら押し続けている。澄香の声が聞こえる。
「パパ、押しててね、ずっと、ずっと」