夢族 ─ 未来のエモーション 第16話
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をお届けしています。一話完結。第16話は「夢族」。
ここに平凡な一人の男がいる。
田中友康。みんなに「ともやすくん」と呼ばれている。2035年現在、エクセレント企業Rの商品開発部にいる30歳の若者だ。
彼の出すアイデアは、みんなに「ありきたり」と言われている。決して考えていないわけではない。生真面目にデータを集め、知恵を日夜絞り、感受性を鍛えるために映画や小説をけなげに見たりもしている。しかし、いつも「ありきたりだな」と評される。
もし、読者のあなたもそう言われたことがあるなら、彼はあなたにちょっと似た人間なのかもしれない。
ともやすくんのアイデアは、入社以来、まだ一度も商品になっていない。ルーティン業務はきちんとこなすし、ルックスも人間性も悪くない。誠実で真面目が取り柄だが、「それ!どうやって思いついたの!」というジャンプ力に欠ける。入社8年、周りからは愛されていて、そのことを彼は充分知っているのだが、「ありきたり」な自分であることに失望し、心にはいつもモヤモヤと霧がかかっている。
2035年のある春の日、ともやすくんのスマートデバイスがブルッと震えた。通知を見ると先輩の津田だった。オンラインアプリを開くと、「ともやすくーん」と画面の向こうで明るく津田が笑った。
「今日は会社?」
「ええ、会社にいます」
「真面目だね、ご苦労さん」
「津田さんはどちらですか」
「僕は今、湘南の海辺のレストラン。海を見ながら企画するのも悪くないよ」
映像が津田の顔から回転して、テラス席の白いテーブルを舐め、ゆっくりと海を映した。太陽の光がキラキラとして、波が音を立てながらその光を受けて、ひたすらまぶしかった。
「ところでさ」
カメラがリゾートチックな映像を1分ほど実況したあと、津田は話を切り出した。
津田は田中友康の5歳上で、企画部のキーパーソンだった。次々とヒット商品の企画を生み出していた。例えば、去年は「月と星が綺麗に撮れる望遠鏡型コンパクトカメラ」、その前年は「具材を入れるだけで料理がつくれるお任せ調理器」、その前年は「傘がいらない電動保護シールド装備レインコート」という具合に。あったらいいと思っていたけどなかったものを見つけるのがうまかった。夢の中にちょっと出てきそうな、そんな商品たちだった。
「新入社員の歓迎会、僕が幹事やれと言われているんだけど、モーレツに忙しくなってさ、君にも手伝ってほしいんだ」
「あ、はい」
企画部では毎年4月、新入社員が入ってきて、研修終了日に先輩や役員たちとの懇親の夕べが設けられる。そんな「いにしえ」なイベントがまだ続いているのかと読者は思うかもしれないが、立派に続いている。なぜなら、人は、何か区切りがないと打ち解けられないし、安心してその環境に入っていけない動物だからである。ただし、酒を食らった上司や役員たちの古代武勇談を承ることはほとんどなくなった。さも仲良し気に、美味いものを食べて、垣根を取っ払い、我が社のために戦うぞ!コミュニティをつくるのである。そして、このイベントは役員たちが出席するという会社員的意味からも重要なものであった。
「なんか返事にノリがないね、で、やってくれる?」
ともやすくんは揺れている。津田先輩に利用されるかもしれないが、部のため新入社員のため、いい会にしよう!!という気持ちと、業務以外のことに今の自分が時間を割いていいのかどうか・・・と言う不安の間をユラユラと。
彼はいつも決意のコントローラーを右に回すか、左に回すか、にかなり迷い、次に、例えば右に回すならどのくらい回すのか、にさらに悩むタイプだった。
「ま、いいや。明日、返事して。よろしくね」
津田の顔は再び笑顔になり、手を軽く振り、すぐに映像と音声がブチっと切断された。
ま、迷うと思うが、自分はたぶん受けるのだろう・・・しかし、誰かに結局は動かされてしまう、その自分は本当に正しい自分なのだろうか。彼は、しばらく心の中で落ち着き場を見つけられないまま漂流していた。
春の午前、田中友康は『H脳科学研究所』にいた。
壁面もライティングもやたら白くて、だだっ広い待合室にポツンと座っていた。今日は脳の定期チェックアップに来たのだった。
商品企画部のメンバーは、創造力をトータルに見る選抜試験だけでなく、H脳科学研究所で前頭葉の活動までチェックされ、解析・データ化された上で、配属が決められていた。Rの商品開発部は「科学的にも」超エリート集団なのだった。
ちなみに、多くの企業で脳チェックは社員のクリエイティビティやメンタルを知るメソッドとして導入されていた。計数管理やマーケティングやEコマース、経営の一部はもはやAI任せで、人間が創造性を発揮できるのは、企画・開発系しかないーーそれが2035年の企業のグローバルトレンドだった。
ここで、読者の皆さんは、ある疑問を感じたのではないだろうか。
それは、なぜ、田中友康がこの超エリート集団に配属されたのか。なぜ、他の部門に動かされないのか、という疑問。
残念ながら、その答えは、本人は無論のこと、誰にもわからなかったのである。商品企画部最大の謎、と言う人もいるほどの謎だったのである。
結局、歓迎会は津田の手伝いをした。仕事と同程度のエネルギーをかけて、店を徹底的に調べ、リアルに数軒見学に行ったりもした。場所、時間、コスト、メニュー、スペース、インテリア/デザイン、接客・・・。その中には彼女ができたら行ってみたい、こじんまりとして落ち着いたイタリアンもあった。
津田は候補のリストを見て、「ともやすくん、役員たちがみんなの前で話す予定だから、マイクとかの音響のいいところがいいよね、それは調べた?」とまず言った。ともやすくんは、また数日、お店選びに忙殺された。
歓迎会は評判がとても良かった。ただし、その手柄はほとんど津田に持っていかれた。役員連中より津田の方がはるかに輝いてもいた。スポーツニュースと同じで、注目のプレーヤーのヒットは話題になるが、やっと1軍レベルのプレーヤーのそれはサイトの端にも書かれないのであった。
新入社員の丸いメガネの女子(『神原』と名のった)が、「田中先輩、料理、サイコーにおいしかったです」と駅に向かう帰り道で言ってくれたこと。それだけがともやすくんの心に灯った、ねぎらいの光だった。
白い壁に埋め込まれた液晶が、ともやすくんの番号をピロロ~と快感たっぷりの音とともに表示した。
「田中さん、田中友康さんですね」
顔が四角でいかつい印象の医師が検査室に入るなり、そう確かめた。ともやすくんがうなずくと「菊田と言います。このスキャン・チューブの中にお入りください」と命じた。
「同意書に同意されている検査をします。機能的磁気共鳴画像法、fMRIで脳の血流から調べていきます」
「機能的磁気・・・・」
菊田医師はつぶやきを無視して続ける。
「途中、睡眠モードになっていただき、睡眠中の脳のデータも採らせていただきます。何か質問はありますか。ま、毎年、やってらっしゃるので問題はないかと思いますが」
ともやすくんは、質問が何一つ思い浮かばず、チューブの中にそそくさと入って仰向きになった。気体の睡眠導入剤がまだ注入されないのにもう眠くなった。シューッとプラスティックの透明なシールドが足の方から動いて体全体を包んだ。まるで小さな宇宙船にいるようだ。さ、出発!
ともやすくんは小さな公園の噴水を見ている。公園は会社の近くのショッピングセンターにあった。
液体H₂Oが次から次へと細く押し出され、宙にすーっと伸び、すぐに放物線になってキラキラと散っていき、虹になっていく。彼はベンチに座って、その美しい繰り返し運動を見ていた。ショッピングセンター内のスーパーで買った弁当が膝の上にあることも忘れて鑑賞している。
検査は1時間ほど前に終わった。頭は、ネジを抜いた後の壁のように穴が空いている。壁になったことはないが、そんな気がする。
ともやすくんは噴水から視線を離し、やっと弁当を食べ始める。食べ始めたら、ある考えが「また」生まれた。
会社を辞めよう、少なくとも商品企画部を辞めよう。
この考えは、この数年、何度も何度も、彼の脳裏で点滅していた。彼は申し訳ないと思っていた。働く場が自分にあっているかどうか、ではなく、働く場に自分がマイナスを与えているのではないか、と発想した。彼は優しかった。ちょっとHSP(High Sensitive Person)でもあった。明日をより良いものにしたいという欲望はあったが、人を押しのけてまで頂点を目指す野望はなかった。
弁当を食べ終わり、ゴミを片付け立ち上がると、脳に商品のアイデアが浮かんだ。いや、浮かんだような気がした。その感触は確かにあった。いつものように「ありきたり」かもしれないが、何かをひらめいていた。
春の空は柔らかい青で、小さな風が吹いて若葉を揺らしている。子供たちがブランコで遊び、楽しげな声を風が運んでくる。その瞬間、会社を辞めようという決意も、どこかへスッと吹かれていった。まだできるかもしれない・・・そんな希望を灯して、ともやすくんは会社にほんのちょっと急ぎ足で向かった。
二人の男がスマートデバイスで電話をしている。
「彼のデータは無事、採れましたよ」と男。
「いつも申し訳ない。データは今度、手渡しで。ささやかな謝礼もその時に」と別の声。
「睡眠モードの夢の映像もバッチリです。ところで、そんなに彼は優秀なのですか」
「菊田さんは医師なのにおわかりにならないんですか。脳科学も怪しいもんだなぁ」
「津田さんこそ、感覚だけで判断していないですか」
二人の声は押し殺されて、深い闇の中で話しているようだった。
「夢で見た彼のアイデアを、ちょっと加工したものはみんなヒット商品になっていますよ」
「なるほど。津田さんのアイデアと名義を換えられて、ですね」
菊田の声が冷たい笑いを含んでいるような感じになった。
「人聞きの悪い」
「ふふ、事実じゃないですか」
「気弱な男の夢が、単なる夢で終わってしまうところを、僕が現実にしてあげているんです」
「そろそろ切りましょうか。ヤバイことは手短に、が原則」
「メールでは絶対にコンタクトを取らない、も原則」と津田も言い、
「サーバーにメモしているようなもんですから」と続けた。
「罪の意識はないんですか、津田さんは」と闇の中の医師が言った。
「ないですよ」と闇の中の開発者が言った。
「なぜ?」
「それは・・・夢に著作権はないからです」
津田はそう言うと、自分から電話を切断した。
数日後、ともやすくんは例の小さな公園にいた。夜だった。噴水はもう止まっていた。ベンチに座ると、ショッピングセンターから洩れる光や近くのビルの灯が網膜に映った。アイデアは津田に「いいけどなぁ、ちょっとありきたりかなぁ」とやんわり否定された。自信はあったが、確信まではなかったので粘って押し通すことができなかった。結果は、激痛ではなかったが、痛かった。心は全体の10分の1くらい変形した、いつものように。そして、また、会社を辞めようとの思いが湧いていた。
その時だった。一人の女性が現れた、目の前にポン!と突然。
白いトレーナー、白いパンツ、白いスニーカー。突然の白ずくめがキラキラとまばゆかった。誰かに似ていた・・・。そうだ、神原さんだ! 懇親会の後に「サイコーにおいしかった」と言ってくれた、丸いメガネの新入社員。彼女はまるで月の女神のように立っていた。肢体をダンス・アイドルのようにチャーミングにくねらせ、2、3度クルッと回転してから、両方の腕をそれぞれの腰にくの字に構えて、ポーズを決めた。女神の声は天上からのようで厳かだった。
汝 夢族の者よ
夢に背かれ 傷つくとも
なお夢見ることを止められぬ運命(さだめ)の者よ
弱き心のまま 抗う心のなきまま
夢かなうことは あるまじきものなり
戦え 夢族の者よ
立て 夢族の者よ
今こそ 戦え そして 立て
言葉の余韻は精神に染み渡り、時間を止める力に満ちていた。ともやすくんの脳はとにもかくにも、呆気に取られてぴたりと静止した。数分たって、やっとレビューは始まった。
夢族? 運命? 戦え? 立て? 今こそ? ・・・
全く理解できなかったが、何か、温かいものが心の中に流れてくるような気はした。人の生き方がテクノロジーで全て決められつつある今、個人の夢がルールや規範で息苦しくなっている今、大切なメッセージが告げられたのではないか。
ともやすくんは、月の女神、いや、神原さんを仰ぎ見た。今まで気がつかなかったが、その頭上には、はるかな月が白色ライトのように光っていた。
彼女は神々しい顔と、くの字ポーズを崩して、可愛らしく笑って近寄った。そして、ともやすくんに1枚のネームカードを差し出した。
<一人一人の夢を大切にする社会のために/〇〇法律事務所 弁護士 神原瑠奈>
そこにはそう書かれてあった。
3年がたった。つまり2038年。あるニュースが大きくアップされた。とあるオフィスで男がその速報を見ていた。
夢にも著作権 画期的判決
昨日、東京高等裁判所にて、夢にも著作権が存在するとの判決が下された。昨今の脳科学の進化により、企業がその構成員である社員の脳チェックをする事例が著しく増加している中、社員個人の夢を抜き取るなどの行為に対して、問題が提示されていた。今回、R社の商品企画部リーダー・津田義郎(38)がH脳科学研究所医師・菊田肇(36)と共謀して、同・商品企画部(当時)の社員Aの脳から映像やアイデアの断片を、本人の許可なく抽出した件で、東京高裁は著作権侵害を初めて認めた。津田被告、菊田被告ともに控訴を断念し、有罪(賠償金それぞれ500万円)が確定した。
男は画面の記事を2度見てから、熱いコーヒーをゆっくり飲んだ。午前の光がデスクに差している。
「ともやすくん!」と呼びながら、一人の女性が近づいてくる。
「神原さん、ニュース、扱い大きかったですね」
「勝利ね! あなたの元の会社に内偵してから、そこそこ時間がかかったけど」
弁護士事務所はいつもの朝と違って慌ただしかった。間も無く事務所の代表に取材が入るらしい。揺らいでいる人間の正義を確立するために働く。そのソーシャルなポリシーにメディアは好意的だった。
「さ、研修生は勉強会よ、司法試験にパスしてもらわないと今年こそ!」
ともやすくんは、そう言った神原さんの、少し大きいお腹をさすった。こっそり、2往復。そこには二人のベビーがいるのだった。
神原さんは笑顔でこうつぶやく。
「パパの夢を応援してね、夢族の赤ちゃん」
田中友康。みんなに「ともやすくん」と呼ばれている。2035年現在、エクセレント企業Rの商品開発部にいる30歳の若者だ。
彼の出すアイデアは、みんなに「ありきたり」と言われている。決して考えていないわけではない。生真面目にデータを集め、知恵を日夜絞り、感受性を鍛えるために映画や小説をけなげに見たりもしている。しかし、いつも「ありきたりだな」と評される。
もし、読者のあなたもそう言われたことがあるなら、彼はあなたにちょっと似た人間なのかもしれない。
ともやすくんのアイデアは、入社以来、まだ一度も商品になっていない。ルーティン業務はきちんとこなすし、ルックスも人間性も悪くない。誠実で真面目が取り柄だが、「それ!どうやって思いついたの!」というジャンプ力に欠ける。入社8年、周りからは愛されていて、そのことを彼は充分知っているのだが、「ありきたり」な自分であることに失望し、心にはいつもモヤモヤと霧がかかっている。
2035年のある春の日、ともやすくんのスマートデバイスがブルッと震えた。通知を見ると先輩の津田だった。オンラインアプリを開くと、「ともやすくーん」と画面の向こうで明るく津田が笑った。
「今日は会社?」
「ええ、会社にいます」
「真面目だね、ご苦労さん」
「津田さんはどちらですか」
「僕は今、湘南の海辺のレストラン。海を見ながら企画するのも悪くないよ」
映像が津田の顔から回転して、テラス席の白いテーブルを舐め、ゆっくりと海を映した。太陽の光がキラキラとして、波が音を立てながらその光を受けて、ひたすらまぶしかった。
「ところでさ」
カメラがリゾートチックな映像を1分ほど実況したあと、津田は話を切り出した。
津田は田中友康の5歳上で、企画部のキーパーソンだった。次々とヒット商品の企画を生み出していた。例えば、去年は「月と星が綺麗に撮れる望遠鏡型コンパクトカメラ」、その前年は「具材を入れるだけで料理がつくれるお任せ調理器」、その前年は「傘がいらない電動保護シールド装備レインコート」という具合に。あったらいいと思っていたけどなかったものを見つけるのがうまかった。夢の中にちょっと出てきそうな、そんな商品たちだった。
「新入社員の歓迎会、僕が幹事やれと言われているんだけど、モーレツに忙しくなってさ、君にも手伝ってほしいんだ」
「あ、はい」
企画部では毎年4月、新入社員が入ってきて、研修終了日に先輩や役員たちとの懇親の夕べが設けられる。そんな「いにしえ」なイベントがまだ続いているのかと読者は思うかもしれないが、立派に続いている。なぜなら、人は、何か区切りがないと打ち解けられないし、安心してその環境に入っていけない動物だからである。ただし、酒を食らった上司や役員たちの古代武勇談を承ることはほとんどなくなった。さも仲良し気に、美味いものを食べて、垣根を取っ払い、我が社のために戦うぞ!コミュニティをつくるのである。そして、このイベントは役員たちが出席するという会社員的意味からも重要なものであった。
「なんか返事にノリがないね、で、やってくれる?」
ともやすくんは揺れている。津田先輩に利用されるかもしれないが、部のため新入社員のため、いい会にしよう!!という気持ちと、業務以外のことに今の自分が時間を割いていいのかどうか・・・と言う不安の間をユラユラと。
彼はいつも決意のコントローラーを右に回すか、左に回すか、にかなり迷い、次に、例えば右に回すならどのくらい回すのか、にさらに悩むタイプだった。
「ま、いいや。明日、返事して。よろしくね」
津田の顔は再び笑顔になり、手を軽く振り、すぐに映像と音声がブチっと切断された。
ま、迷うと思うが、自分はたぶん受けるのだろう・・・しかし、誰かに結局は動かされてしまう、その自分は本当に正しい自分なのだろうか。彼は、しばらく心の中で落ち着き場を見つけられないまま漂流していた。
春の午前、田中友康は『H脳科学研究所』にいた。
壁面もライティングもやたら白くて、だだっ広い待合室にポツンと座っていた。今日は脳の定期チェックアップに来たのだった。
商品企画部のメンバーは、創造力をトータルに見る選抜試験だけでなく、H脳科学研究所で前頭葉の活動までチェックされ、解析・データ化された上で、配属が決められていた。Rの商品開発部は「科学的にも」超エリート集団なのだった。
ちなみに、多くの企業で脳チェックは社員のクリエイティビティやメンタルを知るメソッドとして導入されていた。計数管理やマーケティングやEコマース、経営の一部はもはやAI任せで、人間が創造性を発揮できるのは、企画・開発系しかないーーそれが2035年の企業のグローバルトレンドだった。
ここで、読者の皆さんは、ある疑問を感じたのではないだろうか。
それは、なぜ、田中友康がこの超エリート集団に配属されたのか。なぜ、他の部門に動かされないのか、という疑問。
残念ながら、その答えは、本人は無論のこと、誰にもわからなかったのである。商品企画部最大の謎、と言う人もいるほどの謎だったのである。
結局、歓迎会は津田の手伝いをした。仕事と同程度のエネルギーをかけて、店を徹底的に調べ、リアルに数軒見学に行ったりもした。場所、時間、コスト、メニュー、スペース、インテリア/デザイン、接客・・・。その中には彼女ができたら行ってみたい、こじんまりとして落ち着いたイタリアンもあった。
津田は候補のリストを見て、「ともやすくん、役員たちがみんなの前で話す予定だから、マイクとかの音響のいいところがいいよね、それは調べた?」とまず言った。ともやすくんは、また数日、お店選びに忙殺された。
歓迎会は評判がとても良かった。ただし、その手柄はほとんど津田に持っていかれた。役員連中より津田の方がはるかに輝いてもいた。スポーツニュースと同じで、注目のプレーヤーのヒットは話題になるが、やっと1軍レベルのプレーヤーのそれはサイトの端にも書かれないのであった。
新入社員の丸いメガネの女子(『神原』と名のった)が、「田中先輩、料理、サイコーにおいしかったです」と駅に向かう帰り道で言ってくれたこと。それだけがともやすくんの心に灯った、ねぎらいの光だった。
白い壁に埋め込まれた液晶が、ともやすくんの番号をピロロ~と快感たっぷりの音とともに表示した。
「田中さん、田中友康さんですね」
顔が四角でいかつい印象の医師が検査室に入るなり、そう確かめた。ともやすくんがうなずくと「菊田と言います。このスキャン・チューブの中にお入りください」と命じた。
「同意書に同意されている検査をします。機能的磁気共鳴画像法、fMRIで脳の血流から調べていきます」
「機能的磁気・・・・」
菊田医師はつぶやきを無視して続ける。
「途中、睡眠モードになっていただき、睡眠中の脳のデータも採らせていただきます。何か質問はありますか。ま、毎年、やってらっしゃるので問題はないかと思いますが」
ともやすくんは、質問が何一つ思い浮かばず、チューブの中にそそくさと入って仰向きになった。気体の睡眠導入剤がまだ注入されないのにもう眠くなった。シューッとプラスティックの透明なシールドが足の方から動いて体全体を包んだ。まるで小さな宇宙船にいるようだ。さ、出発!
ともやすくんは小さな公園の噴水を見ている。公園は会社の近くのショッピングセンターにあった。
液体H₂Oが次から次へと細く押し出され、宙にすーっと伸び、すぐに放物線になってキラキラと散っていき、虹になっていく。彼はベンチに座って、その美しい繰り返し運動を見ていた。ショッピングセンター内のスーパーで買った弁当が膝の上にあることも忘れて鑑賞している。
検査は1時間ほど前に終わった。頭は、ネジを抜いた後の壁のように穴が空いている。壁になったことはないが、そんな気がする。
ともやすくんは噴水から視線を離し、やっと弁当を食べ始める。食べ始めたら、ある考えが「また」生まれた。
会社を辞めよう、少なくとも商品企画部を辞めよう。
この考えは、この数年、何度も何度も、彼の脳裏で点滅していた。彼は申し訳ないと思っていた。働く場が自分にあっているかどうか、ではなく、働く場に自分がマイナスを与えているのではないか、と発想した。彼は優しかった。ちょっとHSP(High Sensitive Person)でもあった。明日をより良いものにしたいという欲望はあったが、人を押しのけてまで頂点を目指す野望はなかった。
弁当を食べ終わり、ゴミを片付け立ち上がると、脳に商品のアイデアが浮かんだ。いや、浮かんだような気がした。その感触は確かにあった。いつものように「ありきたり」かもしれないが、何かをひらめいていた。
春の空は柔らかい青で、小さな風が吹いて若葉を揺らしている。子供たちがブランコで遊び、楽しげな声を風が運んでくる。その瞬間、会社を辞めようという決意も、どこかへスッと吹かれていった。まだできるかもしれない・・・そんな希望を灯して、ともやすくんは会社にほんのちょっと急ぎ足で向かった。
二人の男がスマートデバイスで電話をしている。
「彼のデータは無事、採れましたよ」と男。
「いつも申し訳ない。データは今度、手渡しで。ささやかな謝礼もその時に」と別の声。
「睡眠モードの夢の映像もバッチリです。ところで、そんなに彼は優秀なのですか」
「菊田さんは医師なのにおわかりにならないんですか。脳科学も怪しいもんだなぁ」
「津田さんこそ、感覚だけで判断していないですか」
二人の声は押し殺されて、深い闇の中で話しているようだった。
「夢で見た彼のアイデアを、ちょっと加工したものはみんなヒット商品になっていますよ」
「なるほど。津田さんのアイデアと名義を換えられて、ですね」
菊田の声が冷たい笑いを含んでいるような感じになった。
「人聞きの悪い」
「ふふ、事実じゃないですか」
「気弱な男の夢が、単なる夢で終わってしまうところを、僕が現実にしてあげているんです」
「そろそろ切りましょうか。ヤバイことは手短に、が原則」
「メールでは絶対にコンタクトを取らない、も原則」と津田も言い、
「サーバーにメモしているようなもんですから」と続けた。
「罪の意識はないんですか、津田さんは」と闇の中の医師が言った。
「ないですよ」と闇の中の開発者が言った。
「なぜ?」
「それは・・・夢に著作権はないからです」
津田はそう言うと、自分から電話を切断した。
数日後、ともやすくんは例の小さな公園にいた。夜だった。噴水はもう止まっていた。ベンチに座ると、ショッピングセンターから洩れる光や近くのビルの灯が網膜に映った。アイデアは津田に「いいけどなぁ、ちょっとありきたりかなぁ」とやんわり否定された。自信はあったが、確信まではなかったので粘って押し通すことができなかった。結果は、激痛ではなかったが、痛かった。心は全体の10分の1くらい変形した、いつものように。そして、また、会社を辞めようとの思いが湧いていた。
その時だった。一人の女性が現れた、目の前にポン!と突然。
白いトレーナー、白いパンツ、白いスニーカー。突然の白ずくめがキラキラとまばゆかった。誰かに似ていた・・・。そうだ、神原さんだ! 懇親会の後に「サイコーにおいしかった」と言ってくれた、丸いメガネの新入社員。彼女はまるで月の女神のように立っていた。肢体をダンス・アイドルのようにチャーミングにくねらせ、2、3度クルッと回転してから、両方の腕をそれぞれの腰にくの字に構えて、ポーズを決めた。女神の声は天上からのようで厳かだった。
汝 夢族の者よ
夢に背かれ 傷つくとも
なお夢見ることを止められぬ運命(さだめ)の者よ
弱き心のまま 抗う心のなきまま
夢かなうことは あるまじきものなり
戦え 夢族の者よ
立て 夢族の者よ
今こそ 戦え そして 立て
言葉の余韻は精神に染み渡り、時間を止める力に満ちていた。ともやすくんの脳はとにもかくにも、呆気に取られてぴたりと静止した。数分たって、やっとレビューは始まった。
夢族? 運命? 戦え? 立て? 今こそ? ・・・
全く理解できなかったが、何か、温かいものが心の中に流れてくるような気はした。人の生き方がテクノロジーで全て決められつつある今、個人の夢がルールや規範で息苦しくなっている今、大切なメッセージが告げられたのではないか。
ともやすくんは、月の女神、いや、神原さんを仰ぎ見た。今まで気がつかなかったが、その頭上には、はるかな月が白色ライトのように光っていた。
彼女は神々しい顔と、くの字ポーズを崩して、可愛らしく笑って近寄った。そして、ともやすくんに1枚のネームカードを差し出した。
<一人一人の夢を大切にする社会のために/〇〇法律事務所 弁護士 神原瑠奈>
そこにはそう書かれてあった。
3年がたった。つまり2038年。あるニュースが大きくアップされた。とあるオフィスで男がその速報を見ていた。
夢にも著作権 画期的判決
昨日、東京高等裁判所にて、夢にも著作権が存在するとの判決が下された。昨今の脳科学の進化により、企業がその構成員である社員の脳チェックをする事例が著しく増加している中、社員個人の夢を抜き取るなどの行為に対して、問題が提示されていた。今回、R社の商品企画部リーダー・津田義郎(38)がH脳科学研究所医師・菊田肇(36)と共謀して、同・商品企画部(当時)の社員Aの脳から映像やアイデアの断片を、本人の許可なく抽出した件で、東京高裁は著作権侵害を初めて認めた。津田被告、菊田被告ともに控訴を断念し、有罪(賠償金それぞれ500万円)が確定した。
男は画面の記事を2度見てから、熱いコーヒーをゆっくり飲んだ。午前の光がデスクに差している。
「ともやすくん!」と呼びながら、一人の女性が近づいてくる。
「神原さん、ニュース、扱い大きかったですね」
「勝利ね! あなたの元の会社に内偵してから、そこそこ時間がかかったけど」
弁護士事務所はいつもの朝と違って慌ただしかった。間も無く事務所の代表に取材が入るらしい。揺らいでいる人間の正義を確立するために働く。そのソーシャルなポリシーにメディアは好意的だった。
「さ、研修生は勉強会よ、司法試験にパスしてもらわないと今年こそ!」
ともやすくんは、そう言った神原さんの、少し大きいお腹をさすった。こっそり、2往復。そこには二人のベビーがいるのだった。
神原さんは笑顔でこうつぶやく。
「パパの夢を応援してね、夢族の赤ちゃん」