「よくしゃべるプログラマー」がデジタルを武器に広告の世界へ 西鉄エージェンシー デジタルソリューショングループ部長 大野高志さん
西鉄の車両やバスを忠実に再現したデジタルミュージアム「にしてつバース」。この企画を立ち上げたのは、西鉄エージェンシーの大野高志さん。まだ「Webディレクター」という職種が世間で確立されていなかったころから、プログラミングとコミュニケーション力を武器として、九州のデジタルコミュニケーション、デジタルマーケティングを牽引してきました。ゲームが大好きな小学生だったと話す大野さんは、プログラマー、Webディレクターとしての経験を経て、どのようにマーケティングにまで携わるようになったのか。今回は、マスメディアンのコンサルタント、大友敬文がお話を伺いました。
元ゲーム好き小学生が、メタバースに福岡の街を再現
──「にしてつバース」は大野さんが企画から立ち上げられたとか。そうなんです。自らグループ本社の西日本鉄道に企画を持ち込んで、立ち上げから運用まで担当しています。バス・鉄道ファンからは「普段は見られないほど近くで車両が見られる」「クオリティが高い」と好評です。まだミュージアム機能のみで操作も重たいため、ユーザー同士が気軽にコミュニケーションを取れるようにすることが今の課題です。
夢は「にしてつバース」に福岡の街をそのまま再現することです。天神の街でショッピングを楽しめたり、スポーツの試合をリアルタイムで観戦できたり。もっと言えばVRゴーグルも着けずに遊べないかと、エンジニアと構想中です。僕は福岡のプロサッカークラブ「アビスパ福岡」の大ファンで。いつかは「にしてつバース」を使って、まるでスタジアムにいるみたいに試合を楽しめるようにしたいですね。
実は、デジタルの世界が好きなのは小学生のころから。ファミコンばかりやっていた僕に、祖父が怒って「そんなにゲームばっかりしないで、ゲームをつくる人になりなさい」と、当時まだ珍しかったホビーパソコン、MSXを買ってくれて。趣味でゲームのプログラミングをはじめました。当時はプログラミングの定石も知らず、大学時代にようやくJavaScriptでテトリスがつくれたぐらいで、結局大して上達はしませんでしたが。今思うと、プログラミングに興味を持ったのは祖父がきっかけですね。
──現在は企業プロモーションのデジタルマーケティングや、Webプロデュースを担当しているそうですね。
福岡を中心にさまざまなプロモーション案件のデジタルコミュニケーションに携わってきました。例えば、天神ビッグバンプロジェクト、ONE FUKUOKA BLDG.、ららぽーと福岡などの大型施設の開発や、プロ野球チーム「福岡ソフトバンクホークス」などのスポーツビジネスのプロモーション、音楽イベント「MUSIC CITY TENJIN」、西鉄紫駅と「ももいろクローバー」のコラボ企画。さらに、西鉄バスの廃材を用いたスクラップアート作品を製作販売する「SCRAP ART プロジェクト」など挙げきれないほど。
西鉄グループは、福岡を中心にした交通だけでなく、商業施設やスーパーの運営、イベントや不動産などにも広く関わっています。ハウスエージェンシーである西鉄エージェンシーは、福岡を中心にした都市開発や街づくりにも深く携わることができるんです。
また、西鉄グループ外の仕事も扱っていて、なかやまきんに君さんのテレビCMで有名な「ダイショー」の焼肉のたれなど、食品メーカーの案件も担当しました。僕はクライアントとの打ち合わせから、企画、Webデザイナーへの制作ディレクション、その後の運用まで、幅広く関わっています。
僕が転職した理由も、福岡の都市開発を内側から見られることに惹かれたからなんです。大好きな地元、福岡に根ざしたこの会社なら、他の広告会社にはない案件に携われると思って。地元の商業施設の案件なら、家族や仲間にも、僕がどんな仕事をしたのかわかってもらいやすいですよね。今後も西鉄エージェシーで、デジタルの世界から福岡の街づくりをしていきたいです。
──「福岡」と「デジタルマーケティング」、どちらも叶うのが西鉄エージェンシーなんですね。他には、入社後から今までどんなお仕事を?
交通広告の管理やDX推進など、「デジタルの何でも屋」のように社内のデジタル業務のほとんどに関わってきました。例えば、入社した2013年ごろから交通広告のデジタルサイネージ化を主導したり、DSPを導入して収益化につなげたり。
コロナ禍で広告業界が大きな影響を受けた2020年ごろ、社内の業務改善を行うことになり、DX推進プロジェクトリーダーに抜擢されました。僕のプロモーションの知見とシステム開発経験、どちらも活かしてほしいと言われて。そこで、バスも電車もスーパーも、商業施設まで併せ持つ西鉄グループの膨大な行動データやPOSデータを活かし、グループの施設へ誘導するための施策を実施しました。例えば、肥満気味の40代の男性をターゲットに、帰宅ラッシュの17時ごろに納豆の広告を配信したら、スーパーの西鉄ストアで納豆を買ってくれる率が高いんじゃないかなど。現在は新たに、西鉄グループを好きになってもらう施策を考えています。
また、同時に社内SEも兼任していました。正直、デジタルコミュニケーションやDX推進を行いながら、SEもというのは大変でした。でも、あらゆる部署と関わったことで社内の課題がわかるようになったので、各グループ間のデータ連携のスピード改善に取り組み、結果DX推進にもつなげられました。
──現在、部長を務めるデジタルソリューショングループ部はどのような部署ですか。
デジタルを活用したコミュニケーション戦略の立案、媒体選定および効果測定や運用支援、コンサルティングなど、最適なソリューションを提供する部署です。コロナ禍で急増したデジタル案件の強化を目的に設立されました。部署のメンバーは広告出身、制作出身とさまざま。デジタルマーケティングを行いながら、担当領域以外もメンバー同士で学べる環境です。僕としては、Webディレクターでもシステム関連の知識はつけてほしいかな。部署の誰しもをデジタルのオールラウンダーに育てることが理想です。
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プログラミングに夢中になったWeb制作会社時代
──最初に就職した2000年ごろは、まだWeb制作を仕事にする人は多くなかったと思います。そんな中どのように学び、ディレクターへとなっていったのでしょうか。1998年、独立系ソフトウェアハウスにプログラマーとして採用され、勘定系システム、航空管制のプログラム、「iモード」のメールシステム開発などに携わりました。仕事をしながらプログラミングは覚えていきましたが、最初はプログラムが動くことが単純に嬉しくて。毎日夢中で仕事をしていました。
そのうち「iモード」などのWeb案件にもっと関わりたいと、プログラミング言語やWebサイト構築を独学で勉強を始めました。2002年には雑誌出版社へプログラマーとして転職し、出版社のコンテンツを生かした新たな企画にも挑戦。全国のラーメン店のデータベース、「iモード」を使った博多祇園山笠のライブ配信システムを構築しました。
当時はWebデザイナー、コーダーなどの職種が確立していなかったぐらいなので分業もなく。「Web制作」という肩書きで、システムもプログラムもワイヤーフレームもデザインも、バックエンドからフロントエンドまで行っていました。最初は知識も何もなかったし、そもそも福岡に詳細な技術書も少なかったので、深い技術を習得するために、一部英語の本を読んで独学で勉強しました。
──なるほど、必然的にWebディレクターまで行うように。プログラマーというと職人気質の寡黙な方が多いイメージですが、クライアントとの打ち合わせなどは最初は苦労されましたか?
いえ、僕はむしろクライアントとコミュニケーションを取れるようになったのがすごく楽しくて。Webディレクションができるプログラマーとして、クライアントの要望を聞いたり、提案したり。クライアントが納得するサイトを構築できて初めてプロだと思い、修正の相談があっても喜んで受けていましたね。
また、ヒアリングで課題抽出がきちんとできるよう、夜な夜な飲み屋さんへ行ってコミュニケーション力を鍛えました。おかげで「よくしゃべるエンジニアやね」と言われるようになりました(笑)。
デジタル分野はこれから成長する、プログラミングを武器に広告の世界へ
──その後、Web制作から広告へと業界を移られたそうですね。30歳目前の2007年に、広告会社へ転職しました。当時、3社目のWebサービス会社で、プログラム制作にちょっと疲れを感じていた頃、広告会社のWeb部門の強化に誘われたんです。
広告のことはまったくわからないので、一度はお断りしました。でも、飲み屋さんで出会ったコピーライターの方が、「デジタル分野はこれから先、絶対成長する。広告会社側もデジタルから数字やデータを出せる人材を求めるはず」「プログラマーの技術は武器になるから、絶対行け」と言ってくれたんですよ。広告会社へ転職しようと考えを変えられたのは、本当にその方のおかげです。
広告会社ではWebディレクターやWebプランナーとして通販案件も含めて携わりました。最初は、外部のプログラマーに依頼しても自分の意図と違うシステムで提出されたり、出来上がったプログラムに費用が見合わなかったり……。長年プログラマーを務めた僕の目から見ると、戸惑うことばかりで。また、広告会社だと担当したWebサイトの集客運用結果まで考えねばならず、それもいちから学んでいきました。
──Web制作会社と広告会社で大きな違いはありましたか?
違いは2つあって、まずはゴールが違います。制作会社ならWebサイトの納品ですが、広告会社はWebサイトを運用し目標を達成することです。目標は認知度アップやお問い合わせ拡大など企業によりさまざま。
もう1つは、予算や案件の幅が広がったこと。やりがいも増えました。ただ、社内にはまだデジタルの知見がある人は少なく、営業にもわかるよう企画を説明したり、Webディレクターの僕自ら営業の場に立ったり。クライアントにも社内にも気を配りながら、毎日身を粉にして働いていました。
そうやって5年ほど働いたころ、ふと自分の転職市場での価値が気になって、マスメディアンに登録をしました。広告会社ではデジタルコミュニケーションの知見を蓄積できるし、IT技術のトレンドを追いながら制作の場で実践できる点がよかったので、転職は迷いました。ただマスメディアンのコンサルタントに西鉄エージェンシーを紹介してもらって、より福岡のために働ける広告会社という点が僕にはぴったりでした。
変態になるまで何かひとつを好きになる
──仕事で大切にしていることはなんですか?自分の領域を狭めずに、専門外でも積極的に学ぶ姿勢です。地方という土地柄かもしれませんが、職種ごとに分業がされておらず、自然とたまったWebディレクション以外の業務の知見は僕にとっての財産です。特にデータへの意識は大切ですね。例えば、施策の費用対効果を算出するよう求められたとき、若手のころにデータベースを自主的につくっていた経験が役立ったことがありました。Webディレクターは、実働はエンジニアに任せても、データを集約する仕組みや感覚は持っていたほうがいいと、僕は思います。
──最後に、Web制作に携わる若手に向けて、アドバイスをお願いします。
他の人と違う自分の強み、「武器」を持ってほしいです。僕の武器は「システム関連の高い知見」。システムを理解しながら、デジタルのプロモーションやコミュニケーションをつくれるWebディレクターは、福岡にはまだ少ないです。そして、その武器をつくるには「変態になるまで何かひとつを好きになる」ことです。
今はMAツールなどさまざまな便利なツールが普及して、Webディレクターがデジタルコミュニケーションの施策を考えるのも随分と楽になりました。ただツールにばかり頼ると、将来苦労するのではと心配です。まずは自分の仕事を誰よりも好きになって、一生懸命やって、自分だけの「武器」を見つけてほしい。まだよくわからないなら、仕事で小さな成果を上げることから始めてみるといいと思います。上司に言われた〆切より早く提出物を出せば、上司の自分を見る目が変わるかもしれません。
そして、僕の最大の武器はまだあって「しゃべれるところ」。例えば、最初に制作物を提案するとき、僕は100%まで仕上げません。6~7割の出来栄えで1度見てもらって、方向性が合っているか、意図を汲めていない部分はないかなどを確かめ、必要な軌道修正をしたのちに、残りの3割を仕上げるんです。その方が、クライアントも担当者自身も満足がいく制作物になりやすい気がします。
また、「楽しくお酒が飲めるところ」も僕の武器ですね(笑)。初めてのお店へ行ったり、スポーツで新しい友人をつくったり。プライベートでも人とたくさん会って話すべきだと思います。
例えば、Webサイトやアプリに求められる機能やコンテンツが何かって、制作側では意外と気づけない。自分とは仕事も生活も異なる人だからこそ、新たな発想を得られることがあるんです。他にも、Webニュースだと、自分の興味関心に合わせた記事が前面に並びますが、新聞ならたまたま開いた面の記事が目に入って、新しい発見につながることも。寺山修司の本『書を捨てよ、町へ出よう』じゃないですが、デジタルの世界に没頭しすぎずに。時々街に出て知らない人と触れ合うと、仕事にもかえって役立つものですよ。 ──自分にも他人にも領域を決めず、常に新しく広い視点を求める大野さん。そうやって先を見据えながら自分の武器を磨いておくことが、変化の激しいデジタルの世界でぶれない軸を持って歩みつづけられる秘訣なのかもしれません。本日はありがとうございました。