「常識を変える価値を生み出すマーケターになる」私の挑戦を支えた学生時代の出会い 資生堂ジャパン 新価値創造マーケティング本部 マーケティングリレーション本部 本部長 北原規稚子さん
資生堂ジャパンの新価値創造マーケティング本部を率いる、北原規稚子(きたはらみちこ)さん。北原さんが今まで変わらず貫いてきたのは、常識を変える発想で新価値をつくり出すこと。その原点には、学生時代に出会ったシャンプー「マシェリ」との出会いがありました。後編では、マーケターとしての軌跡と、原点を大切にし続けることができた理由を伺いました。
この記事は前後編です:前編はこちら
「プロダクトじゃなく『文化』を創造したい 新価値創造マーケティング本部が発信する新しい価値のつくり方」
はい、1996年に新発売された「マシェリ」というシャンプーが、私がマーケターを志した原点です。この商品が起こした革命に、私のキャリアは支えられてきました。
それまでのシャンプーは髪と頭皮を清潔にするためのもので、家族みんなで大きいボトルを使うのが当たり前だと感じていました。でもマシェリはまるでコスメを思わせる、細くて小さいスタイリッシュなボトル。さらには透明ヘアマニキュア効果をうたい、「髪の毛を美しく魅せるもの」とシャンプーの常識を変えたのです。 その後、当時のテレビ番組で、マシェリの商品開発の様子を知りました。企画した女性社員は、美容院の帰りに恋人から「髪がきれいだね」と褒められて嬉しかったことで、目に見える変化に対するニーズがあると気づき、自宅のシャンプーでも同じ効果を得られないかと考えたそうです。商品発売を躊躇する経営陣に、女性社員は自らの髪に半分だけ商品を使用して違いを見比べさせたそうで、彼女の大きな熱量にもすっかり感動してしまいました。そして、気づいたのです。マシェリの価値は自然に感じたものではなく、熱い思いを持った誰かの手によってつくられたもの。私も価値を受け取るだけじゃなく、常識を変えるような新価値をつくる仕事がしたいと思いました。
その時、私はちょうど進路を選んでいたころ。マシェリを企画した方と同じマーケターになるために、大学の商学部でマーケティングを学ぶことにしました。
──では大学でもマーケティングを専攻されて、就活でも迷わずマーケターを志望されたんですか?
大学のゼミでは、企業と共同でマーケティングやリサーチを行うなど、かなり実践的に学びました。そして4年生になって、いざ就活を始めたものの、2002年当時は就職氷河期。マーケターを目指したいという夢を持ちながらも大苦戦する中で、内定をいただいたのがライオンでした。影響力がある大きいメーカーで働きたいと思っていたので、とても嬉しかったです。
総合職で採用され、最初に配属されたのは営業部門でした。でも、私は自分をマーケターだと思い込んでいて、当時は変わった営業スタイルだったと思います。
私がまずやったのは、担当店舗の周りを調べて、どんな人が住んでいるのか、どんなものが売れているのかを観察すること。その後、会社のデータ部門に相談して、その地域の生活者の属性データや、近隣の販売店の商品別売り上げなどを教えてもらいました。ある店舗の周辺住民はシニア層がメインで、入れ歯用商材や歯槽膿漏用の歯磨き粉などが売れ筋でしたが、本部が推奨する品ぞろえとは異なる傾向。そこで、自社・他社を問わず、その地域のターゲットニーズを捉えた商品を組み合わせ、新たな棚割りや品ぞろえを提案。卸店にも協力してもらい、必要な商品を入荷できるようサポートしました。それによって自社ではなく、店舗全体での売り上げ向上に成功したんです。会社からは「全国の他営業部で、事例を話してくれないか」なんて言われましたが、そうやって提案型営業、セールスマーケティングの考え方を実践していきました。
3年目に、あるドラッグストアの本部担当を任されました。流通が急拡大していたお取引先でしたから大抜擢です。ただ、先方の幹部からは「こんな若い女性で大丈夫なのか」と言われてしまって。それを聞いて私は、「まずやるべきことは信頼関係の構築だ」と思いました。そこでまた調査をして、わかったのは、急拡大した流通にオペレーションが追いつかず、店舗で品切れがよく発生していたこと。そこで、発注から納品までの仕組み化を行い、欠品が減ったことで、先方にも信頼してもらうことができました。
また、別のお取引先を担当していたとき、商品の共同開発に私も参加できることが決まりました。マーケターに一歩、近づくことができたのです。ただ当時は、250人ほどの本部担当営業の中で、女性は私たった1人という時期もあり。女性セールスの道を切り開いていくのも面白いかもしれないと、マーケターになる夢が薄れかけていた時期でもありました。
──そこで、ビューティーケア商品のマーケティング担当として再び声がかかったのですね。
そうなのです。念願のマーケティング担当となり、ハンドケアやボディケア商品の販促施策を担当したあと、2007年にライオン史上最年少で、オーガニック系マスブランドのブランドマネージャー(以下BM)に抜擢されました。
2007年当時、ヘアケアはコスメティックブランドが主流で、オーガニック系のボディソープやシャンプー、スキンケアなどの幅広いカテゴリーを展開するブランドは大苦戦していた時代。そこで新たな打ち手として、お風呂の中で行うスキンケアの新ブランドを立ち上げることにしました。
ブランドの立ち上げは初めてでしたから、細部までこだわりました。例えば、ボトルの色なら「色は肌に優しそうだけど可愛らしすぎないイメージで、肌への高い効果は表現したい」と、調色メーカーの方に何色もの見本を見せてもらったり。ボトルの材質は、スキンケアのような肌の仕上がりを感じさせる質感にこだわったり。今となっては、クリエイティブチームに対する越権行為だったかも……とも思いますが、当時のチームは「情熱のあるわがままさに動かされた」と言ってくれました。 結果、新ブランドは美容意識の高いお客さまを中心にヒットし、いい商品だったと思っています。でも、ライオンはマス向けの洗剤や歯磨きといったカテゴリーを得意とし、研究に研究を積み重ねてきたメーカーです。商品は、会社のDNAや資産と価値をうまく掛け合わせられるときに、長生きできるもの。私のやりたい価値創造は、ライオンの強みをうまく生かせるものなのだろうか、と考えるようになりました。
──その後、ライオンから資生堂へ入社されるまでにはどのような思いがあったのでしょうか。
2008年に育休を取得して、職場復帰後は再び新規ブランドの担当になりました。再び仕事は忙しくなり、ぐずる子どもを無理矢理にでも保育園につれていかなければならない。子どもにも、自分が本当にやりたいことにも向き合いきれない日々が続いて、いっそのこと仕事を辞めて、家庭に専念しようかとも悩むこともありました。
そんなときにふと思い出したのは、あの日、マーケターという仕事と出会わせてくれたマシェリのこと。子供に背中を見せて忙しく働くなら、もともと憧れた資生堂で化粧品のマーケティングに挑戦がしたいと思ったんです。
これでご縁がなかったら諦めようと思っていたので、資生堂1社しか受けなかったんですよ。面接では、ライオンで奔走した経験、自分の原点であるマシェリのこと、資生堂への愛を語り尽くして、情熱で採用してもらった感じです(笑)。
ライオンを辞めるとき、入社時に書いた私の作文を人事の方が見せてくれました。そこには「10年後には、アイデアで会社の窮地を救うマーケターになりたい」と書いてあったんです。ああ、私の思いは昔から変わっていなかったんだと、気づきました。今度は資生堂でマーケターとしてやっていくという決意を新たにすることができたんです。
人材育成では、マインドを重視しています。例えば、ホームランヒッターって意外と打率が低い。まずは打席に立つチャレンジ精神が重要なのです。誰もがチャレンジしやすい環境に変えるため、「まずは自分たちが楽しむ」という行動指針を立てることなどから始めています。
でも最初から今のようにマネジメントに向き合えたわけではなかったんです。私は現場が好きで……。「数百人も在籍するマーケターに何を教えられるんだろう」「私は現場の方が会社に貢献できるんじゃないか」とすごく悩んだ時期もありました。
そんな時、過去の自分を導いてくれたマーケティング責任者たちの顔を思い浮かべました。そして思ったのは、皆それぞれの軸があるということ。私の軸はやはり、「マシェリ」から始まった、オタクと言えるほどの資生堂への愛。そう思うと、私の役割は会社のDNAを通して、新価値創造や化粧文化創造の喜びやワクワクを伝えることなんじゃないかと思ったのです。 資生堂には、「商品をして、すべてを語らしめよ」という初代社長・福原信三の言葉が受け継がれています。お客さまへの想いを込め、細部までこだわって、魂を埋め込む商品開発……「マシェリ」をはじめ、資生堂の商品は、みなそうやってつくられてきたんです。そんな歴史を知ると、自分も新しいことに挑戦したいと思える。「私の原動力を発信することで、会社に貢献できる立場になったんだ」と考え方が変わってから、マネジメントを楽しめるようになりました。
それからは、社外の講演会などにも積極的に参加していって、自分のスキームを言語化する努力をしてきました。社外の人に自分の考えを伝えるのは正直怖いです。でも、フィードバックを受けることで、自分の軸をさらに磨くことができました。
──北原さんの考える、これからのマーケターに大切なものとは?
マーケティングの原点はお客さまの心を動かす「Wow」であると、忘れないことです。今、マーケティングはまるで学問や計算でできるように思われがちです。データを活用して戦略さえ出せばマーケターの仕事は終わり、と思っている人も多い気がします。でも「Wow」を生み出すためには、コンセプトやアイデアにこだわって、きちんと商品で伝えきることで、お客さまの中に変化を起こそうとする思いが大切です。
だからマーケターは「アート&サイエンス」で発想してほしいんです。データ、つまりサイエンスだけでは「Wow」はつくれないし、クリエイティブやアートだけでは再現性がない。バランスを取りながら、日常の中にヒントを見つけていく探究心と想像力を大切にしてほしいです。
──北原さんはキャリアのあらゆるターニングポイントにおいて、自分の原点を見つめ直すことで前に進んでこられたように思います。自分の原点を持ち続けるにはどうすればよいのでしょうか?
意識的に自分の原点を人に言うといいと思います。私はマシェリのエピソードをどこでも話しちゃうのです(笑)。そうやって、あえて自分の原点を開示して、「資生堂愛が強すぎる人」「新価値創造をするマーケター」と発信することで、逃げ場をつくらないようにしてきました。
でもそんな私でも、「若手の営業時代にもしSNSがあったら、今の自分はなかったかも……」と思ってしまいます。若手の頃は、朝から晩まで関東中を走り回ったり、着ぐるみに入ってイベントをしたり。そんな時にキラキラした生活をしている同年代をSNSで見ちゃったら、ここまで強くマーケターになる意志は保てなかった気がします。だから人と比べない、自分の夢のために目の前のことに集中する。それが自分の原点を保つ秘訣かもしれませんね。
──「夢は口に出せば叶う」とは時々聞きますが、北原さんはそれを何度も口にすることで、マーケターとしての強い軸を築いてきたんですね。本日はありがとうございました。
「プロダクトじゃなく『文化』を創造したい 新価値創造マーケティング本部が発信する新しい価値のつくり方」
「マシェリ」の起こした革命が、今の私をつくった
──2010年に資生堂へ入社された北原さんですが、同社への憧れを抱いたのはもっと前だったそうですね。はい、1996年に新発売された「マシェリ」というシャンプーが、私がマーケターを志した原点です。この商品が起こした革命に、私のキャリアは支えられてきました。
それまでのシャンプーは髪と頭皮を清潔にするためのもので、家族みんなで大きいボトルを使うのが当たり前だと感じていました。でもマシェリはまるでコスメを思わせる、細くて小さいスタイリッシュなボトル。さらには透明ヘアマニキュア効果をうたい、「髪の毛を美しく魅せるもの」とシャンプーの常識を変えたのです。 その後、当時のテレビ番組で、マシェリの商品開発の様子を知りました。企画した女性社員は、美容院の帰りに恋人から「髪がきれいだね」と褒められて嬉しかったことで、目に見える変化に対するニーズがあると気づき、自宅のシャンプーでも同じ効果を得られないかと考えたそうです。商品発売を躊躇する経営陣に、女性社員は自らの髪に半分だけ商品を使用して違いを見比べさせたそうで、彼女の大きな熱量にもすっかり感動してしまいました。そして、気づいたのです。マシェリの価値は自然に感じたものではなく、熱い思いを持った誰かの手によってつくられたもの。私も価値を受け取るだけじゃなく、常識を変えるような新価値をつくる仕事がしたいと思いました。
その時、私はちょうど進路を選んでいたころ。マシェリを企画した方と同じマーケターになるために、大学の商学部でマーケティングを学ぶことにしました。
──では大学でもマーケティングを専攻されて、就活でも迷わずマーケターを志望されたんですか?
大学のゼミでは、企業と共同でマーケティングやリサーチを行うなど、かなり実践的に学びました。そして4年生になって、いざ就活を始めたものの、2002年当時は就職氷河期。マーケターを目指したいという夢を持ちながらも大苦戦する中で、内定をいただいたのがライオンでした。影響力がある大きいメーカーで働きたいと思っていたので、とても嬉しかったです。
総合職で採用され、最初に配属されたのは営業部門でした。でも、私は自分をマーケターだと思い込んでいて、当時は変わった営業スタイルだったと思います。
私がまずやったのは、担当店舗の周りを調べて、どんな人が住んでいるのか、どんなものが売れているのかを観察すること。その後、会社のデータ部門に相談して、その地域の生活者の属性データや、近隣の販売店の商品別売り上げなどを教えてもらいました。ある店舗の周辺住民はシニア層がメインで、入れ歯用商材や歯槽膿漏用の歯磨き粉などが売れ筋でしたが、本部が推奨する品ぞろえとは異なる傾向。そこで、自社・他社を問わず、その地域のターゲットニーズを捉えた商品を組み合わせ、新たな棚割りや品ぞろえを提案。卸店にも協力してもらい、必要な商品を入荷できるようサポートしました。それによって自社ではなく、店舗全体での売り上げ向上に成功したんです。会社からは「全国の他営業部で、事例を話してくれないか」なんて言われましたが、そうやって提案型営業、セールスマーケティングの考え方を実践していきました。
3年目に、あるドラッグストアの本部担当を任されました。流通が急拡大していたお取引先でしたから大抜擢です。ただ、先方の幹部からは「こんな若い女性で大丈夫なのか」と言われてしまって。それを聞いて私は、「まずやるべきことは信頼関係の構築だ」と思いました。そこでまた調査をして、わかったのは、急拡大した流通にオペレーションが追いつかず、店舗で品切れがよく発生していたこと。そこで、発注から納品までの仕組み化を行い、欠品が減ったことで、先方にも信頼してもらうことができました。
また、別のお取引先を担当していたとき、商品の共同開発に私も参加できることが決まりました。マーケターに一歩、近づくことができたのです。ただ当時は、250人ほどの本部担当営業の中で、女性は私たった1人という時期もあり。女性セールスの道を切り開いていくのも面白いかもしれないと、マーケターになる夢が薄れかけていた時期でもありました。
──そこで、ビューティーケア商品のマーケティング担当として再び声がかかったのですね。
そうなのです。念願のマーケティング担当となり、ハンドケアやボディケア商品の販促施策を担当したあと、2007年にライオン史上最年少で、オーガニック系マスブランドのブランドマネージャー(以下BM)に抜擢されました。
2007年当時、ヘアケアはコスメティックブランドが主流で、オーガニック系のボディソープやシャンプー、スキンケアなどの幅広いカテゴリーを展開するブランドは大苦戦していた時代。そこで新たな打ち手として、お風呂の中で行うスキンケアの新ブランドを立ち上げることにしました。
ブランドの立ち上げは初めてでしたから、細部までこだわりました。例えば、ボトルの色なら「色は肌に優しそうだけど可愛らしすぎないイメージで、肌への高い効果は表現したい」と、調色メーカーの方に何色もの見本を見せてもらったり。ボトルの材質は、スキンケアのような肌の仕上がりを感じさせる質感にこだわったり。今となっては、クリエイティブチームに対する越権行為だったかも……とも思いますが、当時のチームは「情熱のあるわがままさに動かされた」と言ってくれました。 結果、新ブランドは美容意識の高いお客さまを中心にヒットし、いい商品だったと思っています。でも、ライオンはマス向けの洗剤や歯磨きといったカテゴリーを得意とし、研究に研究を積み重ねてきたメーカーです。商品は、会社のDNAや資産と価値をうまく掛け合わせられるときに、長生きできるもの。私のやりたい価値創造は、ライオンの強みをうまく生かせるものなのだろうか、と考えるようになりました。
──その後、ライオンから資生堂へ入社されるまでにはどのような思いがあったのでしょうか。
2008年に育休を取得して、職場復帰後は再び新規ブランドの担当になりました。再び仕事は忙しくなり、ぐずる子どもを無理矢理にでも保育園につれていかなければならない。子どもにも、自分が本当にやりたいことにも向き合いきれない日々が続いて、いっそのこと仕事を辞めて、家庭に専念しようかとも悩むこともありました。
そんなときにふと思い出したのは、あの日、マーケターという仕事と出会わせてくれたマシェリのこと。子供に背中を見せて忙しく働くなら、もともと憧れた資生堂で化粧品のマーケティングに挑戦がしたいと思ったんです。
これでご縁がなかったら諦めようと思っていたので、資生堂1社しか受けなかったんですよ。面接では、ライオンで奔走した経験、自分の原点であるマシェリのこと、資生堂への愛を語り尽くして、情熱で採用してもらった感じです(笑)。
ライオンを辞めるとき、入社時に書いた私の作文を人事の方が見せてくれました。そこには「10年後には、アイデアで会社の窮地を救うマーケターになりたい」と書いてあったんです。ああ、私の思いは昔から変わっていなかったんだと、気づきました。今度は資生堂でマーケターとしてやっていくという決意を新たにすることができたんです。
新たな仕事とも向き合えたのも、自分の原体験がきっかけ
──2021年からはマーケティング本部長となり、現在まで若手マーケターの教育も行われているそうですね。人材育成では、マインドを重視しています。例えば、ホームランヒッターって意外と打率が低い。まずは打席に立つチャレンジ精神が重要なのです。誰もがチャレンジしやすい環境に変えるため、「まずは自分たちが楽しむ」という行動指針を立てることなどから始めています。
でも最初から今のようにマネジメントに向き合えたわけではなかったんです。私は現場が好きで……。「数百人も在籍するマーケターに何を教えられるんだろう」「私は現場の方が会社に貢献できるんじゃないか」とすごく悩んだ時期もありました。
そんな時、過去の自分を導いてくれたマーケティング責任者たちの顔を思い浮かべました。そして思ったのは、皆それぞれの軸があるということ。私の軸はやはり、「マシェリ」から始まった、オタクと言えるほどの資生堂への愛。そう思うと、私の役割は会社のDNAを通して、新価値創造や化粧文化創造の喜びやワクワクを伝えることなんじゃないかと思ったのです。 資生堂には、「商品をして、すべてを語らしめよ」という初代社長・福原信三の言葉が受け継がれています。お客さまへの想いを込め、細部までこだわって、魂を埋め込む商品開発……「マシェリ」をはじめ、資生堂の商品は、みなそうやってつくられてきたんです。そんな歴史を知ると、自分も新しいことに挑戦したいと思える。「私の原動力を発信することで、会社に貢献できる立場になったんだ」と考え方が変わってから、マネジメントを楽しめるようになりました。
それからは、社外の講演会などにも積極的に参加していって、自分のスキームを言語化する努力をしてきました。社外の人に自分の考えを伝えるのは正直怖いです。でも、フィードバックを受けることで、自分の軸をさらに磨くことができました。
──北原さんの考える、これからのマーケターに大切なものとは?
マーケティングの原点はお客さまの心を動かす「Wow」であると、忘れないことです。今、マーケティングはまるで学問や計算でできるように思われがちです。データを活用して戦略さえ出せばマーケターの仕事は終わり、と思っている人も多い気がします。でも「Wow」を生み出すためには、コンセプトやアイデアにこだわって、きちんと商品で伝えきることで、お客さまの中に変化を起こそうとする思いが大切です。
だからマーケターは「アート&サイエンス」で発想してほしいんです。データ、つまりサイエンスだけでは「Wow」はつくれないし、クリエイティブやアートだけでは再現性がない。バランスを取りながら、日常の中にヒントを見つけていく探究心と想像力を大切にしてほしいです。
──北原さんはキャリアのあらゆるターニングポイントにおいて、自分の原点を見つめ直すことで前に進んでこられたように思います。自分の原点を持ち続けるにはどうすればよいのでしょうか?
意識的に自分の原点を人に言うといいと思います。私はマシェリのエピソードをどこでも話しちゃうのです(笑)。そうやって、あえて自分の原点を開示して、「資生堂愛が強すぎる人」「新価値創造をするマーケター」と発信することで、逃げ場をつくらないようにしてきました。
でもそんな私でも、「若手の営業時代にもしSNSがあったら、今の自分はなかったかも……」と思ってしまいます。若手の頃は、朝から晩まで関東中を走り回ったり、着ぐるみに入ってイベントをしたり。そんな時にキラキラした生活をしている同年代をSNSで見ちゃったら、ここまで強くマーケターになる意志は保てなかった気がします。だから人と比べない、自分の夢のために目の前のことに集中する。それが自分の原点を保つ秘訣かもしれませんね。
──「夢は口に出せば叶う」とは時々聞きますが、北原さんはそれを何度も口にすることで、マーケターとしての強い軸を築いてきたんですね。本日はありがとうございました。