──はじめに金山さんのキャリアについて順を追ってお話いただけますでしょうか。
はじめに私のキャリアをざっと一通り伝えると、“使われる仕事→仕える仕事→私仕事→志仕事”なんです。電通で使いっ走りからスタートして、そこから何かしら会社に貢献できる部分を見つけたのが“使われる仕事→仕える仕事”。それがうまく回りだして我が出てきた。それで小林武史さんのもとでプロデューサー業を極めます。それが言うなれば“私仕事”。そして最終的には社会を良くしていきたいという境地に行き着いて“志仕事”になりました。

──4つのフェーズに分かれるのですね。面白いですね! では“使われる仕事”のときは何をしていたのですか? 
2001年に電通に入社しました。電通に入ったら華やかな仕事ができると思うじゃないですか。けれども最初の配属は衛星メディア局。地上波ではなく衛星放送で、当時仕事に華やかさも感じられず、気持ち的には閑職についてしまったと思っていました。おそらく、入社当時はかなりの落ちこぼれだったんですよ(笑)。さらにメディア担当の体育会系の気質が合わなくて、仕事を放棄していました

──そうだったんですか!? まだ“使われる”ですらなかったのですね。
転機は、BSだけでなくCSも担当するようになったときです。衛星放送は黎明期だったこともありリソースを割けられない事情もあり、BSとCSを兼務することになったんです。そこで、スカパーさんなどの仕事をするようになって、MTVやJ SPORTSといった音楽・スポーツチャンネルに関わる機会が増えました。CSはメディア枠の売買だけでなく、番組とクライアントをつないでイベントを開催するなど、自由にできたので面白くってどんどん仕事に傾倒していきました。あまりにもメディア営業を放棄して企画ばっかりしていたので、局担はクビになっちゃって(笑)。その後、企画開発部に異動しました。2年目の期初早々での異動だったので、社内からは「あいつは終わったな」と言われる始末で。そこで思ったのは、社内に味方をつくるよりも、社外に味方をつくったほうが手っ取り早いのでは、と考えました。社外的には「電通マン」として見られているので、そこをうまく活用していこうと。ある意味、電通という名の与信をもとに金山を信用してもらおうと思ったのです。
──たしかに社会的な信用力は高いですね。そして内側に向くより、外側に向いたほうが結果的にご自身のバリューは高まりますね。
それで最初に目をつけたのが、イチロー選手。僕が電通にちょうど入社した年に、シアトル・マリナーズに移籍して、またたく間に活躍していました。MLBの放送は、NHK BSとTBS系・フジテレビ系のBSだけが放送していたので、なにかできるのではと企画しました。ドキュメンタリー番組としてシーズン通して追いかける予算もないし、毎年代わり映えがしなくなると感じたので、対談企画にしました。マスでは見せない、ユニークなイチロー選手を届けたいなと。そのちょっと前に雑誌で、ビートたけしさんがイチロー選手を褒めていたのを思い出して、これは企画として通るのではと思い、さっそくオフィス北野にプレゼンしに行きました。電通社内的には「衛星メディア局の金山」だから無視されるのですが、社外的には「電通の金山」なので丁重に対応いただき、企画自体も好感触で、実現することができました。その後も毎年オフシーズンに対談するサイクルをつくることができて、2003年には糸井重里さんと対談することになったんです。それで収録を電通ホールにしたんです。ちょうど汐留に新社屋ができてすぐの頃でした。電通社員はみんな聞きたいですよね。でも参加受付は金山を通してだったので、みんなから「よくアサインできたね! どうやって企画したの?」と賛辞の声が挙がり、結果的に社内からも重宝されるようになりました。落ちこぼれからの起死回生です。外部で認められたことで、内部からも認められるようになったのだと思います。

企業ではなく社会に属す

──「仕える」仕事へとフェーズが上がったのですね。そこからは社内外からいろいろとお声がけされることが増えたのでしょうか?
そうですね。「電通の金山」にバイネームでお声がけいただく機会が増えました。それで「プロデューサー」としての自信が持てました。しかしプロデューサーとして旗が立った反面、この状況は危ういとも感じるようになりました。なぜかというと、異動になってしまえばおしまいなわけです。会社によってポジションを確立できたけれども、取り上げられてしまう儚いものでもあったんです。

──たしかに薄氷の上に立っているようなものですね。
だからこそ会社に属するのではなく、社会に属してプロデューサー力を発揮していく、そのためにはプロデューサー力を会社に還元するのではなく、社会に還元していくべきだなと感じました。それでプロデューサーとして圧倒的な力を持っていて、Mr.Childrenの櫻井和寿氏や坂本龍一氏とともに環境配慮型の野外フェス「ap bank fes」などに取り組み、社会的に意義のある事業をプロデュースする烏龍舎の小林武史さんに師事することにしました。広告ではなくエンターテインメント領域で、ソーシャルデザインできるプロデューサーになれたら強いと思って、門を叩きました。これまでは、オリエン・課題・ターゲット・ソリューションという広告会社の行動原理のもとで動いていたけれど、小林さんの下で自由・解放・ファン・発見が軸となって動くようになったことはすごくエキサイティングな経験でした。
──ここらへんが「私仕事」ですね。その後は、小林武史さんのもとでどういった仕事をされたのでしょうか? 
烏龍舎で取り組んだプロジェクトの一つで、ap bankの活動の延長で「代々木VILLAGE」というオーガニックレストランをオープンしました。そのときに、街の価値をアップデートできるプロジェクトって面白いなと気づいたんです。これまではひたすらコンテンツをプロデュースしてきました。そしてどちらかというマス向けに届けていました。代々木VILLAGEは一度に数十人しか入らないし、狭いかもしれませんが、この施設があることで代々木に住んでいる・働いている人たちを支えられるのでは?と考えたのです。

子どもにとって渋谷は誇れる街か

──都市デザイン、ランドスケープデザインのような領域に踏み込んだのですね。
電通での仕事は僕の血肉となっていてとても感謝していますが、ここまで自由にはできないですよね。さきほど小林さんのもとで「自由」を学んだとお伝えしましたが、自由≠freeで、自由=Challengeだと捉えています。なんだかんだ”電通””小林武史"という看板のもとで挑戦してきたけど、もっと自由に挑戦していきたいと思い独立しました。それがTNZQという会社です。これまでの経験を通して、自分の目指すべきは何かを改めて深掘りして、会社の存在意義を定義しました。それが、“社会課題やビジネスチャンスを発見し、デザインやクリエイションの力で新しいブレイクスルーを生み出すプロデュース・アトリエ”です。企業だけでなく社会課題やビジネスチャンスをクライアントと捉えて活動をはじめました。

──ここで「志仕事」へ昇華されたのですね。渋谷区観光協会の立ち上げも同じような理由からでしょうか?
ちょうど現渋谷区長の長谷部健が当選したのが2015年で、TNZQの独立と同じ時期でした。長谷部区長とはNPOでご一緒した縁もあり、私に区議会議員として街のプロデューサーにならないかと声をかけていただきました。区議会議員の選挙に出るなんて考えもしなかったのですが、独立後の不安も相まって一瞬揺らぎました。ただ、勘違いしてはいけない、これは急に眼の前にやってきた選択肢で、自らの志に沿ったChallengeではない、と思いとどまりました。しかしこれをきっかけに改めて自分が住む渋谷区について考えるようになりました。それで、果たして渋谷区は子どもにとって誇れる街なのかという疑念が湧いてきました。僕自身子育て中なのですが、娘たちは図らずしも渋谷が故郷となってしまったわけです。ここで「子どものふるさとをどのようにデザインするべきか」という“私仕事”であって“志仕事”とすべき対象が見つかったのです。この2つが掛け合わされているので、それは熱量も高まりますよね。それでこれを解決する糸口は「観光だ!」と思い、渋谷区観光協会を設立することになりました。

──“使われる仕事→仕える仕事→私仕事→志仕事”と一貫しているのですね。なぜ観光だったのかなどについては後編で詳しくお聞きしていきたいと思います。お話ありがとうございました。
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