愛はきらめきとともに ─ 未来のエモーション 第1話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第1話は「愛はきらめきとともに」。
石造りの建物に入って、サラは大きく息をついた。
胸のあたりに黒い靄があって重く淀み、いつまでも消えていかなかった。それでもサラは広い階段の手すりにつかまり、一歩一歩登っていった。
ボストンのウエスト地区の美術館。午前8時過ぎ。創設されて10年足らずのこの美術館で、サラはキュレーターとして働いていた。1900年代の初頭に建造されたロココ調の建築物。元は、ある銀行だった。デジタル通貨やフィンテックによるファイナンス・スキームの変化で、もうリアル店舗は必要がなくなりつつあった。価値のない建物は次々に壊され、価値ある建物は、美術館やカレッジやラボラトリーにリノベーションされて生き残った。
「サラ、おはよう。大丈夫かい?」
心配げな声が階段の上からした。館長だった。
「おはようございます。ごめんなさい、心配させて」
大きな窓が館長の後ろにあり、見上げたサラの目に光が溢れて入ってきた。
「もう少し休んでもよかったんだよ、本当に」
「いえ、4日も休んでしまって。やっと・・・」
そのあとの言葉がサラにはうまく紡げなかった。
「ま、少しずつ君らしさを取り戻していけばいい。時の流れに心を任すことも必要さ」
「ありがとうございます」
年老いた館長は笑みを浮かべながら、まだサラを見ていた。彼女は手すりから手を離し、階段を登っていく。サラは今の彼女にしては大きな声で尋ねた。声が石造りの空間に響く。
「C倉庫のドアは開いたのでしょうか」
「いや、手を尽くしたんだが、開かない」
「そうです、か」
「君のスティーブの頭脳に、僕らは追いつけないんだ」
その声にはちょっと懐かしむようなトーンがあった。
『君の』スティーブ。
そう、スティーブ・サザランドはこの美術館のオペレイティング&セキュリティの責任者だった。全館・全作品をスマートシティのようにコンピューティングシステムでコントロールしていた。空調・温度・湿度、展示室の照明、全館の防犯、来館者の動向などすべてを、AIを駆使しながらオプティマイズしていた。
『君の』スティーブ。
そう、彼はサラの恋人だった。二人は深く愛し合っていた。そして、4日前に彼は死んだのだった。二人が暮らしていたアパートメントの部屋には、まだスティーブのものがそのままあった。だから、彼が永遠にいなくなったことがサラには信じられなかった。4日ぶりに美術館で働いた今日もふとした瞬間に、彼の存在を感じた。まだ心は彼と共に生きていた。
来週には部屋の片付けをしよう。前を向くためにはそうしないといけない。そうしていいよね、スティーブ。サラはリビングにある二人の写真に話しかけた。ヨットに乗った二人の後ろにはロングアイランド島の空と海があった。
別れは突然だった。しかし思い起こしてみると予兆がないわけではなかった。レストランで胸を押さえてレストルームに消えていったことがあった。青ざめた顔で地下鉄のコンコースでしゃがんでしまったこともあった。きっと心臓に前からトラブルを抱えていたのだ。思い起こすとそう思うのだが、チャーミングなスティーブのオーラにかき消されて、その時は悪い未来を少しも思わなかったのだ。
C倉庫のドア。今日のミーティングでもその話が出た。
なぜ開かないのか。
それはスティーブが自分の虹彩をパスワードにしたから。
片方の目をカメラが捉えて認証し、ロックを解除する。死んでしまった眼球の虹彩、つまり血の通っていない眼球の虹彩はもはやドアを開けられないのだ。コピーが存在しない、生きているその人の、生きているその目でなければ開けられない。だから簡単にパスワードがハックされてしまう今の環境で、最強のセキュリティを提供できるのだ。
しかし、次善の策をなぜスティーブはしなかったのだろう。心臓の不安を抱える身でありながら、なぜ自分の肉体の生きた一部にしか開けられないように設定したのだろう。万が一の場合の隠しパスワードは設定していなかったのだろうか・・・。美術館のみんなもそう思ったし、サラもそう思うのだった。
A倉庫、B倉庫には、展示用の作品が数多く収納されている。 A倉庫には、印象派やキュービズムなどの近代絵画の群。ルノワールやモネの作品もあり、少しずつだが質も量も充実してきている。B倉庫には、60年代のポップアートや写真のかなりの所蔵があり、美術館のチャームポイントになっていた。そしてC倉庫は?
そこにはAでもBでもないもの。つまり、価値づけが難しいもの、破損が甚だしいもの、真贋が問われているものが入っていた。これらは美術館の作品データからは外されている。キュレーターの中では「ガラクタ部屋」と呼んでいる人もいるくらいだ。
スティーブはこの部屋にだけ、自分の虹彩認証を設定した。ミーティングでは「なぜ」の問いがそれぞれの人の脳裏に灯ったが、まぁ、C倉庫がしばらく開かなくても当面の展示には差し支えないということでスルーされた。それよりはスティーブがいないことで、この美術館のオペレーションやセキュリティはどうなるんだろうという不安の声の方が多かった。
とりあえず、サラはシャワーを浴びて、それから食欲はまるでなかったが食事をしなくちゃと思った。黒い靄はまだ胸の奥に漂い続けていた。シャワールームのミラーに顔を写すと、サラのやつれた顔があった。まだ30才を少し過ぎただけなのにひどく年老いて見える。ふと涙が溢れた。青い目から滴がゆっくりと頬を伝わった。
そうだ、スティーブがなんて綺麗な目なんだといつも褒めてくれた目。青くて透き通っていてヨハネス・フェルメール(J.Vermeer)のラピスラズリの色のようだと言ってくれた目。ああ、スティーブ、あなたの目もすごく綺麗だった。私と同じブルー。同じラピスラズリのブルー。
スティーブは30代の後半になっていたが、少年のような好奇心と人を楽しませるユーモアのセンスに輝いていた。MITを卒業し、ベンチャーを経験した後、この美術館にやって来て、高い能力を発揮していた。そのくせ、展示作品を見つめ、「よくわからないや、説明して、サラ。この絵のどこがいいの?」とよく奢ることなく素直に聞いてきた。サラが説明すると、僕はエンジニア系だからアート系には弱いんだよ。君にはいつも教えられっぱなしだ、と微笑むのだった。そして作品を真剣に見つめて、「だったら、このライティングで本当にいいのかな?」と、しばらく腕組みをすることもしばしばだった。
それから5日ほどが経った。サラがスティーブの残してくれたお気に入りのミュージック・ムービーを超薄型100インチディスプレイに流しながら、部屋を整理していると、不意にサラのスマートデバイスがメールの通知音を鋭く鳴らした。その音は耳ではなく、心の奥底を刺激しているように思えた。
サラはメールを開けた。スティーブからだった。
「ハイ! サラ。元気かい? あのヒストリカルな情緒に包まれている美術館がとても懐かしいよ。君のデスクに用もなく訪ねて行っておしゃべりしたことを今楽しく思い出している。でも、僕はもうそこに行くことはできない。わかるね、僕の命はもう終わったからだ。
と言ってもたった今の僕は生きている。病室のベッドでこのメールを打っている。だいぶ体が辛いけれど打っている。このメールは僕がこの世から去って10日くらいして君に届くように設定した。どう? そうなっているかい?・・・」
サラの体ぜんぶがわなわなと震えていた。スティーブがタイムラグを超えて話しかけてきている。あの優しい声が体いっぱいに聞こえている。
「君に僕の病気のことを言わなかったことをとても後悔している。本当にそう感じる。ただ、弁解させてくれるなら、言えなかったんだ。言ってしまったら、君が僕から離れ、僕を見失い、そして僕が僕自身をも見失うのが怖かったからだ。
僕は10才の時に心臓の移植をした。まだ医学も今ほど進歩していなかったんだ。20年後か30年後、君の心臓はまた動きが悪くなるかもしれない、その可能性は高い、そうドクターは言った。その言葉はいつも僕の生活のどこかで恐怖のデータとして消えることなく存在していた。ああ、もう気持ちのすべてを説明し尽くすことが僕にはできない。
君を愛していた。誰よりも愛していた。
そのことを、そのことだけを、できたら忘れずにいてくれたらいいと今、感じている。いや、重荷になるならそんな感情は捨ててもらっても構わない。サラ、君の好きにしてくれるのが、僕の今の幸せだとも思っている。
時間はもうあまりない。最後に、僕は君にプレゼントをしたい。これも受け取るか受け取らないかは君の意思で決めてくれて構わない。そのプレゼントを手にするには、おそらく大きな決断と覚悟がいるだろう。
明日から僕は面会謝絶になるだろう。もう最後の時が迫っているのがわかる。君に会っても僕は君がわからないだろう。なんて最低なことなんだ!
さ、サラ。お別れだ。僕にはもう力の容量が1バイトも残っていない。このメールを読んだら、ダグラス・チェン医師を訪ねてほしい。必ず。
ありがとう、サラ。滅びることのない永遠の愛を君に。
スティーブ」
サラはメールを何度も見返した。始めは涙とともに読んだが、やがて、スティーブとの関係がまだこの現実世界に残っているような気がして不思議に心は澄んだ空のように透明になった。ダグラス・チェン医師のメルアドがメールに貼り付けられていた。
サラはなんの躊躇もなく、その未知のメルアドにすぐさまメールを送った。
ボストンのダウンタウンにあるその病院は古ぼけたレンガ造りの建物で暗い廊下が陰気に続いていた。2030年代の今、まだ1940年代の第二次世界大戦時の傷病兵がベッドに並んでいそうだった。迷路のような廊下を通り、指定の部屋にようやくたどり着いた。部屋には「DR.DOUGLAS CHEN」のネームプレートがあった。
部屋に入ると、窓側のデスクから白いあご髭を生やしたアジア系の医師が立ち上がり、微笑んだ。そこはおそらく彼の研究室で、実験用の器具で雑然としていた。サラは用意されたチェアーにおずおずと座った。二人は面と向かった。
「お待ちしていました、あなたが来るのを」
ドクター・チェンはそう言った。
彼は白衣を着ていて、意外にもその白衣は清潔に保たれており、彼の医師としての矜持と仕事の質を感じ取ることができた。
「スティーブが言っていた通りだ。あなたは美しい」
サラはなんと答えていいかわからず、ただにこやかに微笑し、ドクターの目をまっすぐに見つめた。
「どうしてここにきているのか、わからないと推察します。ですね?」
「はい・・・」
ドクターの顔から柔和さが消えて真剣になり、きっぱりとこう言った。
「私は、スティーブの眼球を預かっています」
サラは思わず息をのんだ。胸が大きな音を立てて動いた。
「私が取り出しました。正しく言うと私たちですが。私の友である彼に死が訪れる、その瞬間に取り出しました。そして血液を循環させています・・・。そうです。今も彼の右の眼球は生きています」
ドクターは白いあご髭を撫ぜながら続けた。部屋の照明が少しチカチカと息をしていた。
「こういった行いは合法か否か、今も政府はその判断に揺れています。しかし私たちは政府や国の枠組みをもはや信用しません。ネットを介した私たちの『知のチーム』は固い絆で結ばれ、世界中で行動しています」
聞いたことがある。かつてのフリーメイソンを凌駕するような高度なコミュニティが2030年代の今、どこかに存在していることを。その地下水脈のメンバーには現代のニュートンやモーツァルトもいる・・・。
サラは思った。スティーブもその一人だったのだろうか。
「安心してください。すべては私たちの友、スティーブがプランニングしたことなのです。愛するあなたに死を乗り越える贈り物をするために」
沈黙が二人に訪れた。遠くで廊下を歩く靴音がすすり泣くように聞こえてきている。
「さて、本題に入りましょう。ここに二つの道(TAO)があります。一つは極めて変化のない道です。現実を肯定し、日々を安寧に生きるという道(TAO)です。もう一つは、劇的にあなたの人生を変え、決して開くことのないドアを開ける道(TAO)です。あなたはどちらを選ぶか、それを今から問いたいと思うのです」
TAO。そうだ、中国語で道のこと。物理的な風景の道ではなく、精神的な生の道。サラは今、その二つのTAOの分岐点に立っている。
「一つ目は、私の話を聞いてやがてこの部屋から出ていく。それだけの道です。二つ目はスティーブの眼球をあなたの眼球と取り替える、つまり移植する道です」
そのプレゼントを手にするには、おそらく大きな決断と覚悟がいるだろう。
サラはスティーブのメールを思い出す。それは彼の音声になって繰り返し脳に蘇った。大きな決断と覚悟がいるだろう・・・。
サラは大きく息をした。恐怖と同時に、愛する人の肉体の一部とともに生きる喜びの感情も交錯した。そして、強く一つのことを思った。
ドアの向こうには何があるんだろう。それを見なければ私の人生は平坦なままなのではないか。見なければ恐ろしいほどの悔いを引きずるに違いないのではないか。
さ、サラ、ドアを開けよう。
サラは静かに揺るぎのない声で言った。
「スティーブの目を私の目にしてください。お願いします」
その日、朝7時にサラは美術館に着いた。まっすぐに地下のC倉庫に向かった。無音の館内は暗く冷たく、サラのナイキのシューズだけが微かな足音を立てていた。
スティーブの右目とサラの左目はともにブルーでよく似ていた。驚くことに移植後、サラの印象は全くと言っていいほど変わらなかった。ドクター・チェンのチームは完璧に仕事をしてくれた。痛みも違和感もすぐにやわらいでいった。
ついにドアの前まで来た。ついに。
待ち望んでいた瞬間がやってこようとしている。もしドアが開かなかったら・・・その不安が胸いっぱいに広がっている。もし認証を受けられなかったら・・・移植そのものが「完璧に」無駄になる、その恐怖も息苦しいほどに湧いてきている。
しかし、サラは信じていた。スティーブのこの最後のプロジェクトを。
そのプロジェクトを生み出した、愛の力を!
サラはカメラの前に立った。希望の火を必死にかき集め、祈るようにその場に立った。
「お願い、スティーブ、開けて」
ドアは開いた。
右目を読み取り、キューンという電子音を響かせて、ロックは解除された。サラは重いドアを開けた。照明が一斉に灯った。
大きな空間が目の前に広がっていた。キャビネの列が奥まで続き、無造作だがある秩序を持って、特別な紙やシートに包まれた作品たちが存在していた。
サラはしばらく立ち尽くしていたが、我に返り、倉庫の中へ歩いて行った。ライティングにも空調にも湿度設定にもスティーブの意思が感じられた。
大きなテーブルがあった。作品を置いたり、広げたりするために使うものだ。そこに一枚の白い紙がポツンと置かれていた。サラは暗示を感じてその紙を恐れることなくすぐ手に取った。
「ハイ。サラ! よくここまで来たね。僕は必ず来ると信じて待っていた。君の決断と覚悟にとても感謝している。
僕からの贈り物を受け取るべき時が来ている。右のキャビネの3列目にそれはある。黄色い紙に包まれた<J.V>と書かれた絵だ。真贋はわからない。僕はエンジニア系でアート系じゃないからね(笑)。しかし、この絵が僕のネットワークからもたらされた時、本物だと僕は思った。発表したまえ。君の名前で。この美術館の名前とともに。ニュースはあっという間に世界中を駆け巡るはずだ。
ああ、なんて素晴らしいラピスラズリのブルーなんだろう。
さ、紙を開けてみて、サラ。
滅びることのない永遠の愛を君に。
スティーブ」
サラは右の3列目のキャビネに静かに導かれた。作品はすぐにわかった。J.Vのマークが大きく書かれた、紙に包まれている、小ぶりなサイズの絵だった。胸は高鳴っていたが、冷静に慎重に彼女は動作した。大きなテーブルに置き、紙をめくった。
「ああ」
サラは瞬間、声にならない声を出した。
画面の左から光が差していた。窓からの光。そして鮮やかなブルー。
そのすべてのきらめきを、サラの目はスティーブの目とともに見ていた。
胸のあたりに黒い靄があって重く淀み、いつまでも消えていかなかった。それでもサラは広い階段の手すりにつかまり、一歩一歩登っていった。
ボストンのウエスト地区の美術館。午前8時過ぎ。創設されて10年足らずのこの美術館で、サラはキュレーターとして働いていた。1900年代の初頭に建造されたロココ調の建築物。元は、ある銀行だった。デジタル通貨やフィンテックによるファイナンス・スキームの変化で、もうリアル店舗は必要がなくなりつつあった。価値のない建物は次々に壊され、価値ある建物は、美術館やカレッジやラボラトリーにリノベーションされて生き残った。
「サラ、おはよう。大丈夫かい?」
心配げな声が階段の上からした。館長だった。
「おはようございます。ごめんなさい、心配させて」
大きな窓が館長の後ろにあり、見上げたサラの目に光が溢れて入ってきた。
「もう少し休んでもよかったんだよ、本当に」
「いえ、4日も休んでしまって。やっと・・・」
そのあとの言葉がサラにはうまく紡げなかった。
「ま、少しずつ君らしさを取り戻していけばいい。時の流れに心を任すことも必要さ」
「ありがとうございます」
年老いた館長は笑みを浮かべながら、まだサラを見ていた。彼女は手すりから手を離し、階段を登っていく。サラは今の彼女にしては大きな声で尋ねた。声が石造りの空間に響く。
「C倉庫のドアは開いたのでしょうか」
「いや、手を尽くしたんだが、開かない」
「そうです、か」
「君のスティーブの頭脳に、僕らは追いつけないんだ」
その声にはちょっと懐かしむようなトーンがあった。
『君の』スティーブ。
そう、スティーブ・サザランドはこの美術館のオペレイティング&セキュリティの責任者だった。全館・全作品をスマートシティのようにコンピューティングシステムでコントロールしていた。空調・温度・湿度、展示室の照明、全館の防犯、来館者の動向などすべてを、AIを駆使しながらオプティマイズしていた。
『君の』スティーブ。
そう、彼はサラの恋人だった。二人は深く愛し合っていた。そして、4日前に彼は死んだのだった。二人が暮らしていたアパートメントの部屋には、まだスティーブのものがそのままあった。だから、彼が永遠にいなくなったことがサラには信じられなかった。4日ぶりに美術館で働いた今日もふとした瞬間に、彼の存在を感じた。まだ心は彼と共に生きていた。
来週には部屋の片付けをしよう。前を向くためにはそうしないといけない。そうしていいよね、スティーブ。サラはリビングにある二人の写真に話しかけた。ヨットに乗った二人の後ろにはロングアイランド島の空と海があった。
別れは突然だった。しかし思い起こしてみると予兆がないわけではなかった。レストランで胸を押さえてレストルームに消えていったことがあった。青ざめた顔で地下鉄のコンコースでしゃがんでしまったこともあった。きっと心臓に前からトラブルを抱えていたのだ。思い起こすとそう思うのだが、チャーミングなスティーブのオーラにかき消されて、その時は悪い未来を少しも思わなかったのだ。
C倉庫のドア。今日のミーティングでもその話が出た。
なぜ開かないのか。
それはスティーブが自分の虹彩をパスワードにしたから。
片方の目をカメラが捉えて認証し、ロックを解除する。死んでしまった眼球の虹彩、つまり血の通っていない眼球の虹彩はもはやドアを開けられないのだ。コピーが存在しない、生きているその人の、生きているその目でなければ開けられない。だから簡単にパスワードがハックされてしまう今の環境で、最強のセキュリティを提供できるのだ。
しかし、次善の策をなぜスティーブはしなかったのだろう。心臓の不安を抱える身でありながら、なぜ自分の肉体の生きた一部にしか開けられないように設定したのだろう。万が一の場合の隠しパスワードは設定していなかったのだろうか・・・。美術館のみんなもそう思ったし、サラもそう思うのだった。
A倉庫、B倉庫には、展示用の作品が数多く収納されている。 A倉庫には、印象派やキュービズムなどの近代絵画の群。ルノワールやモネの作品もあり、少しずつだが質も量も充実してきている。B倉庫には、60年代のポップアートや写真のかなりの所蔵があり、美術館のチャームポイントになっていた。そしてC倉庫は?
そこにはAでもBでもないもの。つまり、価値づけが難しいもの、破損が甚だしいもの、真贋が問われているものが入っていた。これらは美術館の作品データからは外されている。キュレーターの中では「ガラクタ部屋」と呼んでいる人もいるくらいだ。
スティーブはこの部屋にだけ、自分の虹彩認証を設定した。ミーティングでは「なぜ」の問いがそれぞれの人の脳裏に灯ったが、まぁ、C倉庫がしばらく開かなくても当面の展示には差し支えないということでスルーされた。それよりはスティーブがいないことで、この美術館のオペレーションやセキュリティはどうなるんだろうという不安の声の方が多かった。
とりあえず、サラはシャワーを浴びて、それから食欲はまるでなかったが食事をしなくちゃと思った。黒い靄はまだ胸の奥に漂い続けていた。シャワールームのミラーに顔を写すと、サラのやつれた顔があった。まだ30才を少し過ぎただけなのにひどく年老いて見える。ふと涙が溢れた。青い目から滴がゆっくりと頬を伝わった。
そうだ、スティーブがなんて綺麗な目なんだといつも褒めてくれた目。青くて透き通っていてヨハネス・フェルメール(J.Vermeer)のラピスラズリの色のようだと言ってくれた目。ああ、スティーブ、あなたの目もすごく綺麗だった。私と同じブルー。同じラピスラズリのブルー。
スティーブは30代の後半になっていたが、少年のような好奇心と人を楽しませるユーモアのセンスに輝いていた。MITを卒業し、ベンチャーを経験した後、この美術館にやって来て、高い能力を発揮していた。そのくせ、展示作品を見つめ、「よくわからないや、説明して、サラ。この絵のどこがいいの?」とよく奢ることなく素直に聞いてきた。サラが説明すると、僕はエンジニア系だからアート系には弱いんだよ。君にはいつも教えられっぱなしだ、と微笑むのだった。そして作品を真剣に見つめて、「だったら、このライティングで本当にいいのかな?」と、しばらく腕組みをすることもしばしばだった。
それから5日ほどが経った。サラがスティーブの残してくれたお気に入りのミュージック・ムービーを超薄型100インチディスプレイに流しながら、部屋を整理していると、不意にサラのスマートデバイスがメールの通知音を鋭く鳴らした。その音は耳ではなく、心の奥底を刺激しているように思えた。
サラはメールを開けた。スティーブからだった。
「ハイ! サラ。元気かい? あのヒストリカルな情緒に包まれている美術館がとても懐かしいよ。君のデスクに用もなく訪ねて行っておしゃべりしたことを今楽しく思い出している。でも、僕はもうそこに行くことはできない。わかるね、僕の命はもう終わったからだ。
と言ってもたった今の僕は生きている。病室のベッドでこのメールを打っている。だいぶ体が辛いけれど打っている。このメールは僕がこの世から去って10日くらいして君に届くように設定した。どう? そうなっているかい?・・・」
サラの体ぜんぶがわなわなと震えていた。スティーブがタイムラグを超えて話しかけてきている。あの優しい声が体いっぱいに聞こえている。
「君に僕の病気のことを言わなかったことをとても後悔している。本当にそう感じる。ただ、弁解させてくれるなら、言えなかったんだ。言ってしまったら、君が僕から離れ、僕を見失い、そして僕が僕自身をも見失うのが怖かったからだ。
僕は10才の時に心臓の移植をした。まだ医学も今ほど進歩していなかったんだ。20年後か30年後、君の心臓はまた動きが悪くなるかもしれない、その可能性は高い、そうドクターは言った。その言葉はいつも僕の生活のどこかで恐怖のデータとして消えることなく存在していた。ああ、もう気持ちのすべてを説明し尽くすことが僕にはできない。
君を愛していた。誰よりも愛していた。
そのことを、そのことだけを、できたら忘れずにいてくれたらいいと今、感じている。いや、重荷になるならそんな感情は捨ててもらっても構わない。サラ、君の好きにしてくれるのが、僕の今の幸せだとも思っている。
時間はもうあまりない。最後に、僕は君にプレゼントをしたい。これも受け取るか受け取らないかは君の意思で決めてくれて構わない。そのプレゼントを手にするには、おそらく大きな決断と覚悟がいるだろう。
明日から僕は面会謝絶になるだろう。もう最後の時が迫っているのがわかる。君に会っても僕は君がわからないだろう。なんて最低なことなんだ!
さ、サラ。お別れだ。僕にはもう力の容量が1バイトも残っていない。このメールを読んだら、ダグラス・チェン医師を訪ねてほしい。必ず。
ありがとう、サラ。滅びることのない永遠の愛を君に。
スティーブ」
サラはメールを何度も見返した。始めは涙とともに読んだが、やがて、スティーブとの関係がまだこの現実世界に残っているような気がして不思議に心は澄んだ空のように透明になった。ダグラス・チェン医師のメルアドがメールに貼り付けられていた。
サラはなんの躊躇もなく、その未知のメルアドにすぐさまメールを送った。
ボストンのダウンタウンにあるその病院は古ぼけたレンガ造りの建物で暗い廊下が陰気に続いていた。2030年代の今、まだ1940年代の第二次世界大戦時の傷病兵がベッドに並んでいそうだった。迷路のような廊下を通り、指定の部屋にようやくたどり着いた。部屋には「DR.DOUGLAS CHEN」のネームプレートがあった。
部屋に入ると、窓側のデスクから白いあご髭を生やしたアジア系の医師が立ち上がり、微笑んだ。そこはおそらく彼の研究室で、実験用の器具で雑然としていた。サラは用意されたチェアーにおずおずと座った。二人は面と向かった。
「お待ちしていました、あなたが来るのを」
ドクター・チェンはそう言った。
彼は白衣を着ていて、意外にもその白衣は清潔に保たれており、彼の医師としての矜持と仕事の質を感じ取ることができた。
「スティーブが言っていた通りだ。あなたは美しい」
サラはなんと答えていいかわからず、ただにこやかに微笑し、ドクターの目をまっすぐに見つめた。
「どうしてここにきているのか、わからないと推察します。ですね?」
「はい・・・」
ドクターの顔から柔和さが消えて真剣になり、きっぱりとこう言った。
「私は、スティーブの眼球を預かっています」
サラは思わず息をのんだ。胸が大きな音を立てて動いた。
「私が取り出しました。正しく言うと私たちですが。私の友である彼に死が訪れる、その瞬間に取り出しました。そして血液を循環させています・・・。そうです。今も彼の右の眼球は生きています」
ドクターは白いあご髭を撫ぜながら続けた。部屋の照明が少しチカチカと息をしていた。
「こういった行いは合法か否か、今も政府はその判断に揺れています。しかし私たちは政府や国の枠組みをもはや信用しません。ネットを介した私たちの『知のチーム』は固い絆で結ばれ、世界中で行動しています」
聞いたことがある。かつてのフリーメイソンを凌駕するような高度なコミュニティが2030年代の今、どこかに存在していることを。その地下水脈のメンバーには現代のニュートンやモーツァルトもいる・・・。
サラは思った。スティーブもその一人だったのだろうか。
「安心してください。すべては私たちの友、スティーブがプランニングしたことなのです。愛するあなたに死を乗り越える贈り物をするために」
沈黙が二人に訪れた。遠くで廊下を歩く靴音がすすり泣くように聞こえてきている。
「さて、本題に入りましょう。ここに二つの道(TAO)があります。一つは極めて変化のない道です。現実を肯定し、日々を安寧に生きるという道(TAO)です。もう一つは、劇的にあなたの人生を変え、決して開くことのないドアを開ける道(TAO)です。あなたはどちらを選ぶか、それを今から問いたいと思うのです」
TAO。そうだ、中国語で道のこと。物理的な風景の道ではなく、精神的な生の道。サラは今、その二つのTAOの分岐点に立っている。
「一つ目は、私の話を聞いてやがてこの部屋から出ていく。それだけの道です。二つ目はスティーブの眼球をあなたの眼球と取り替える、つまり移植する道です」
そのプレゼントを手にするには、おそらく大きな決断と覚悟がいるだろう。
サラはスティーブのメールを思い出す。それは彼の音声になって繰り返し脳に蘇った。大きな決断と覚悟がいるだろう・・・。
サラは大きく息をした。恐怖と同時に、愛する人の肉体の一部とともに生きる喜びの感情も交錯した。そして、強く一つのことを思った。
ドアの向こうには何があるんだろう。それを見なければ私の人生は平坦なままなのではないか。見なければ恐ろしいほどの悔いを引きずるに違いないのではないか。
さ、サラ、ドアを開けよう。
サラは静かに揺るぎのない声で言った。
「スティーブの目を私の目にしてください。お願いします」
その日、朝7時にサラは美術館に着いた。まっすぐに地下のC倉庫に向かった。無音の館内は暗く冷たく、サラのナイキのシューズだけが微かな足音を立てていた。
スティーブの右目とサラの左目はともにブルーでよく似ていた。驚くことに移植後、サラの印象は全くと言っていいほど変わらなかった。ドクター・チェンのチームは完璧に仕事をしてくれた。痛みも違和感もすぐにやわらいでいった。
ついにドアの前まで来た。ついに。
待ち望んでいた瞬間がやってこようとしている。もしドアが開かなかったら・・・その不安が胸いっぱいに広がっている。もし認証を受けられなかったら・・・移植そのものが「完璧に」無駄になる、その恐怖も息苦しいほどに湧いてきている。
しかし、サラは信じていた。スティーブのこの最後のプロジェクトを。
そのプロジェクトを生み出した、愛の力を!
サラはカメラの前に立った。希望の火を必死にかき集め、祈るようにその場に立った。
「お願い、スティーブ、開けて」
ドアは開いた。
右目を読み取り、キューンという電子音を響かせて、ロックは解除された。サラは重いドアを開けた。照明が一斉に灯った。
大きな空間が目の前に広がっていた。キャビネの列が奥まで続き、無造作だがある秩序を持って、特別な紙やシートに包まれた作品たちが存在していた。
サラはしばらく立ち尽くしていたが、我に返り、倉庫の中へ歩いて行った。ライティングにも空調にも湿度設定にもスティーブの意思が感じられた。
大きなテーブルがあった。作品を置いたり、広げたりするために使うものだ。そこに一枚の白い紙がポツンと置かれていた。サラは暗示を感じてその紙を恐れることなくすぐ手に取った。
「ハイ。サラ! よくここまで来たね。僕は必ず来ると信じて待っていた。君の決断と覚悟にとても感謝している。
僕からの贈り物を受け取るべき時が来ている。右のキャビネの3列目にそれはある。黄色い紙に包まれた<J.V>と書かれた絵だ。真贋はわからない。僕はエンジニア系でアート系じゃないからね(笑)。しかし、この絵が僕のネットワークからもたらされた時、本物だと僕は思った。発表したまえ。君の名前で。この美術館の名前とともに。ニュースはあっという間に世界中を駆け巡るはずだ。
ああ、なんて素晴らしいラピスラズリのブルーなんだろう。
さ、紙を開けてみて、サラ。
滅びることのない永遠の愛を君に。
スティーブ」
サラは右の3列目のキャビネに静かに導かれた。作品はすぐにわかった。J.Vのマークが大きく書かれた、紙に包まれている、小ぶりなサイズの絵だった。胸は高鳴っていたが、冷静に慎重に彼女は動作した。大きなテーブルに置き、紙をめくった。
「ああ」
サラは瞬間、声にならない声を出した。
画面の左から光が差していた。窓からの光。そして鮮やかなブルー。
そのすべてのきらめきを、サラの目はスティーブの目とともに見ていた。