黄色い手帳 ─ 未来のエモーション 第2話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第2話は「黄色い手帳」。
3月、昼下がりの表参道。
ブランドショップが立ち並んでいる。さっきから数メートル先に、ふわふわっとした栗色の髪の毛が揺れている。
宮部健太はその後ろ姿をぼんやり見ながら、緩い坂を降りていく。女性が振り向いてくれることを期待しているものの、もしそうなったらどう反応したらいいんだろう、とあれこれ考えている。
ふわふわっとした栗色の髪。シュッとしたウエスト。それがスッスッとリズミカルにキャンペンガールのように歩いてゆく。街全体に春の陽が射している。今日は気分も浮いている。空にはドローンもぶんぶん飛んでいる。
「あっ!」
健太は突然、大きな声を上げてつまずいた。ガクガクッと膝を崩して数歩よろめいた。正しく言うと、ある物体が路上に見えて、踏み潰す瞬間にそれを避けたのだ。避けた結果、つまずいて、よろめいたというわけ。
「ある物体」を健太は拾い上げた。手帳だった。
鮮やかなイエローの手帳。2032と金のエンボスで書かれた表紙。パラパラとめくってみたが、なにも書かれてないようだった。
思い出して健太は目線を道の先に戻したが、ふわふわっの栗色の髪はもうどこにもいなかった。
それは切断された夢のようにどこかに消えてしまっていた。
健太は後ろの方のページをめくって、名前を探したがなかった。なんにもなかった。何度もめくったが、なにかを書くべき2032年、つまり今年の日付の欄が白くあるだけだった。白ばかりが続く空白・・・。
どうしようかと思ったが、まずはその手帳が落ちていた所のショップに訊いてみようとした。入ると、女性の店員が怪訝そうな顔をして健太を見た。健太の紺色スーツと白いワイシャツ姿に違和感を覚えたのかもしれない。シックで華やかな一着30万のレディース・スーツの購買層だとはどうしても考えられなかったのだろう。
「あのー、手帳が落ちてたんですけど・・・」
この健太の一言で、店員の違和感は頂点に達した。ここは"KOBAN"ではない。ここは華やかな夢を生む”OMOTESANDO”のブティックなのだ! 彼女はそれでも素敵な微笑みを忘れずに、手帳を手に取ってパラパラとめくった。なんだか手帳からいい匂いがした。健太はその匂いを彼女の香水の匂いだと感じた。
「わかりませんね。うちのお客様が落としたものとは思えないです。手帳をお持ちの方は今そう・・・」
その後の言葉はわかった。「今そう・・・いないですから」と続くはず。確かに今、手帳を持っている人は少なくなった。スマートデバイスやウォッチやメガネといった装着型デバイスのメモ機能を使えば、スケジュールマネージメントは容易にできるし、クラウドを使えばデータがなくなることはない。
しかし、手帳は落とせば、すべてが消滅してしまうのだ!
健太はこれ以上ここにいると迷惑かもしれないと感じて言った。
「KOBANに届けます」
店員はもう一度素敵に微笑んで、
「またのご来店を!」と言った。
KOBANは会社のある代々木とは逆の表参道交差点にあったが、近いこともあり、健太は坂を今度は登って行った。
ポリスは健太に拾った場所・時間・状況などを質問して、健太の連絡先をタブレットに打ち込ませた。持ち主が現れなければ、あなたに返却をするが、それでいいか、と言われ、健太が言い淀んでいると、ま、とにかく1カ月くらいして受取り手がいなければ、連絡しますよ、と面倒くさそうに話を閉じた。
1カ月して、手帳は健太に戻ってきた。
KOBANで受け取り、社に向かう坂を降りていく途中、歩きながらページを開く。
いい匂いがふわりと漂った。それは、はっきりと白い紙から香っていた。健太は立ち止まり、その匂いを胸に小さく吸い込んだ。うーん、なんだか幸せなふわふわっな気分。
健太は手帳を捨てずに、しばらく持っていようと決めた。所有者が誰だかわからない気持ち悪さはあるけれど、ま、会社のデスクにしまっておいて、時々、匂いでも嗅ぐとするか。そんなふうにその手帳について思ったのだった。
健太の会社は調理器具を製造、販売している。もう50年続いている会社で安定した売り上げを保っていた。健太は販売部門にいて、最近ではAIクッキングに力を注いでいる。レストラン本店のシェフのレシピを調理システムにAI学習させ、すべての支店にレシピを配信する。支店にはもう調理する人を置かない。レシピの教育・習熟に時間を割くこともない。そんな製品が業務用でヒットをし始め、健太は毎日、レストランチェーンを巡っていた。彼の誠実さが信頼され、導入する店が少しずつ増えていた。
手帳は会社のデスクにとりあえずしまった。健太は持ち主を諦めずにまだ探そうとも思っていた。SNSのTwitterで、写真付きで「こんな黄色い手帳を拾いました。あなたのではありませんか?」というメッセージをアップした。が、反応はなかった。もともとフォロワーがさして多くなかったからかもしれない。しかし、「友人も最近、手帳を拾ったって言ってましたよ」とのリプもあった。
それからまた2カ月ほどが過ぎた。
健太に不思議なことが起こっていた。
それは、仕事で疲れた時、気分が落ちている時、手帳を引っ張り出して、その匂いを嗅ぎたくなることだった。健太は感じた。「アロマテラピーみたいだ」。
その匂いの形容はとても難しく、言語ではとても表現できないようなミステリアスな官能があった。果実の香りのようであり、花の香りのようであり。
健太は天女が、もしいたらこんな香りを漂わせるのではないかと妄想した。妄想している最中に、「他人の持ち物だった手帳になにをうっとりしているんだ」と思い、顔を一人で赤らめ、慌てて手帳を閉じたこともあった。そして、健太は時折、持ち主不明の手帳を胸のポケットに入れるようになった。
不思議なことは続いた。
2年先輩の矢吹朝子。ボブヘアーで長身、清楚タイプの彼女が、ある日、こう声をかけたのだ。わざわざ健太の席までするっと忍び寄って来て。
「ねぇ、ねぇ、宮部くん、話があるんだ」
健太はびっくりして、心臓がゴクンと音を立てた。彼女はみんなの憧れで、真面目さだけが取り柄のフェロモン少な目の健太は今まで直接、声をかけられたことなどなかった。
「後で、お茶でもしようよ」
その追い打ちで心臓は音を立てるだけでなく、口から飛び出しそうになった。
なにが起きているか、わからなかったが、健太は「ありがとうございます」と小さく答えた。
会社の近くのカフェは仕事帰りの人で混んでいた。書店と一体になった<BOOKCAFE>で、無数と言ってもいいほどの本がそこら中の棚に分類されて置かれていた。本は買うこともできたが、レンタルすることもできた。新刊も古本もあった。東京では、もう書店単独で経営しているところは少なくなってきていた。
朝子はカフェラテを両手で持ちながら、健太に笑いかけた。
「初めてだね、二人になるの」
「あー、ええ、そうですね」
健太は落ち着かなかった。なぜ、朝子が自分に声をかけたのか、その理由を早く知りたかった。
「会社、慣れた? 3年目だったよね」
「ええ、そうです。少しだけ慣れました」
健太がそう答えると、朝子は窓側の棚にある海洋生物の本の方を見て、カフェラテを1回飲んだ。ちょっと沈黙があって、彼女は大きな目を健太にまっすぐ向けて言った。
「君、最近、いい香りがしているよね」
あ!と健太は心の中で叫んだ。直感的に朝子が手帳の持ち主なのではないかと思ったのだ。
そうして彼は申し訳ない気持ちで、ごそごそと胸のポケットから黄色の手帳を出してテーブルに置いた。朝子はその手帳を手に取り、ページをパラパラとめくった。
「これかぁ、香りの犯人は」
<犯人>の言葉に、健太は怖気付いて頭を下げた。
「すいません、僕が拾いました」
「なに、なに、そうなんだ、拾ったんだ、これ」
朝子は手帳を開いて、うっとりと匂いを確かめている。
「嗅覚は、人間の本能そのものらしいよ。視覚みたいに嘘をつかない、って」
確かに、表面が綺麗に見える人でもモノでも、中身がダメなことはよくある。そして、衝撃的な言葉が朝子からひょいと無造作に飛び出した。
「ね、今度の土日とか、VR水族館に行かない?」
突然すぎて、わー!と声をあげそうなところを、健太はかろうじて飲み込んで話した。
「横浜にできたやつですよ、ね。日本中の水族館とオンラインで結んでVR映像で見せるやつですよ、ね」
「そうそう、知ってるじゃん」
目をキラキラさせて朝子は言った。
健太はもちろん承諾した。それから二人はなんだか1時間ほど話した。なにを話したか、健太は覚えていなかった。心がぶらんぶらんと空中遊泳しているようで、ほとんど朝子の話を脳の端っこの方でぼんやりと聞いていた。それでも朝子が最後に言った言葉だけは、明瞭すぎるほどの輪郭で覚えている。
「デートの時、手帳も持ってきてね」
二人はやがて1週間に一度は、お茶をしたり、ご飯を食べたり、スポットに出かけるようになった。不思議に二人は合った。派手と地味。饒舌と寡黙。噛み合っているとは言えなかったが、二人でいるとなぜだか楽しかった。健太は今進行している事態に戸惑いながらも、幸せな気持ちを味わっていた。
そうして、その幸せな気持ちを、元は他人の手帳に自分の文字で書くようになった。
・・・彼女はよく笑う。その笑い声に僕は救われる。今日も充電忘れで動かなくなった僕のスマートウォッチのせいで遅刻したけど、笑ってくれた・・・
・・・ボブヘアーは似合うけど、一度、ロングにした彼女も見てみたい。今度、言ってみようかな。由比ヶ浜の海風に吹かれる彼女を見てそう思う・・・
2032年の初夏から、空白の白が少しずつ埋まっていった。書くのは朝子のことだけ、二人のことだけに限定した。それでも、黒い文字で虚しかった空白が少しずつ埋まっていった。書きながら手帳から漂う、アロマの官能をいつもそばに感じていた。他人が落としたものを自分のものにしてしまった罪悪感のようなものは微かにあったが、それもいつの間にか溶けていった。
手帳の年が尽きる頃、なんとなく二人は結婚を考えるようになった。そう思うまで本当に早かった。「私たち、いわゆるスピード婚かしら」、そう朝子は笑った。
結婚式場も探し始めた。いくつかの式場をデートがてらに回った。どこも魅力的だったが、光がキラキラとあふれている宇宙船のような雰囲気の式場に結局は決めた。
決め手はもう一つあった。
「さっきのウエディング・チャペル、いい匂いがしてたよね」
朝子は手をつなぎ、冬の街を歩きながらそう言った。
「僕もそう思った」
「しかも」
「そうだよね」
「手帳の匂いに似てたよね」
二人は幸せそうにお互いの顔を見て笑った。東京は冬。夜の闇に、息が言葉とともに白い妖精のように浮遊し、消えていった。
5月、ウエディングの日がやってきた。
列席者は30人ほど、親族と会社の上司たちがほとんどで、友人が少し。会場には黒いツイード服に臙脂色の蝶ネクタイをした司会者が一人。
宇宙船に外光と照明がドラマチックにあふれている───。
巨大なモニターにオンラインで会場以外の友人たちが多く参加した。大学時代の同級生で海外にいるやつもかなりいる。故郷にUターンして起業をしているやつもいる。ニューヨーク、ベルリン、ドバイ、シンガポール、金沢、高知、岩手・・・。中継されるウエディングの晴れ姿をみんなが見つめていた。そしてモニターから次々に聞こえる祝福の言葉たち。朝子の白いウエディングドレス姿をみんなが美しすぎると褒めちぎった。感動で言葉に詰まった女子の祝辞もあった。すべては幸せに包まれて進行し、心に明るい余韻を残しつつ、ウエディングはとりあえず終わった。
健太は参列者たちとロビーにいた。朝子のメイクアップを待って、庭に出て、フィナーレの動画撮影がある。健太はふかふかのソファに座りながらぼんやりとしていた。少し疲れていたが、それをはるかに上回る幸福感があった。
「今日はお疲れ様でした!!」
その声で我に返って見上げると、司会の男だった。臙脂色の蝶ネクタイを両手で引っ張り、笑顔を見せた。
「宮部様に嬉しいお知らせがあります。恋のキューピッド・アロマキャンペーン、ちょうど50人目のお客様になりました!」
なにを言われているかわからないまま、健太は頭だけ下げた。
「普通に広告したって、もうなにも効きません。今まで広告は視覚と聴覚ばかり。これからは嗅覚の時代。そして体験の時代。拾った手帳には、当社と広告会社・香芳堂が共同開発した、恋のアロマが印刷されていました!」
健太はわけがわからないまま進んだ、この1年余りの恋の物語の原因がわかった気がした。
すべては仕込まれていたことだったのか。
あのふわふわっの髪の女性もスタッフの一人だったのかもしれない・・・。しかし、悪い気はあまりしなかった。思いがけず、かけがえのないハッピーエンドの物語が誕生したのだから。
「宮部様にはオリジナル・プレゼントがあります!」
男は革張りの手帳を差し出した。すぐに健太は本能的にページをめくって匂いを嗅ぎたくなった。
男は顔を近づけ、低い声で言った。
「安心してください。印刷されているアロマは、恋のキューピッド・タイプではなく、夫婦円満サステナブル・タイプですから」
朝子がきらびやかなドレスと笑顔で健太に向かって歩いてくるのが見えた。
ブランドショップが立ち並んでいる。さっきから数メートル先に、ふわふわっとした栗色の髪の毛が揺れている。
宮部健太はその後ろ姿をぼんやり見ながら、緩い坂を降りていく。女性が振り向いてくれることを期待しているものの、もしそうなったらどう反応したらいいんだろう、とあれこれ考えている。
ふわふわっとした栗色の髪。シュッとしたウエスト。それがスッスッとリズミカルにキャンペンガールのように歩いてゆく。街全体に春の陽が射している。今日は気分も浮いている。空にはドローンもぶんぶん飛んでいる。
「あっ!」
健太は突然、大きな声を上げてつまずいた。ガクガクッと膝を崩して数歩よろめいた。正しく言うと、ある物体が路上に見えて、踏み潰す瞬間にそれを避けたのだ。避けた結果、つまずいて、よろめいたというわけ。
「ある物体」を健太は拾い上げた。手帳だった。
鮮やかなイエローの手帳。2032と金のエンボスで書かれた表紙。パラパラとめくってみたが、なにも書かれてないようだった。
思い出して健太は目線を道の先に戻したが、ふわふわっの栗色の髪はもうどこにもいなかった。
それは切断された夢のようにどこかに消えてしまっていた。
健太は後ろの方のページをめくって、名前を探したがなかった。なんにもなかった。何度もめくったが、なにかを書くべき2032年、つまり今年の日付の欄が白くあるだけだった。白ばかりが続く空白・・・。
どうしようかと思ったが、まずはその手帳が落ちていた所のショップに訊いてみようとした。入ると、女性の店員が怪訝そうな顔をして健太を見た。健太の紺色スーツと白いワイシャツ姿に違和感を覚えたのかもしれない。シックで華やかな一着30万のレディース・スーツの購買層だとはどうしても考えられなかったのだろう。
「あのー、手帳が落ちてたんですけど・・・」
この健太の一言で、店員の違和感は頂点に達した。ここは"KOBAN"ではない。ここは華やかな夢を生む”OMOTESANDO”のブティックなのだ! 彼女はそれでも素敵な微笑みを忘れずに、手帳を手に取ってパラパラとめくった。なんだか手帳からいい匂いがした。健太はその匂いを彼女の香水の匂いだと感じた。
「わかりませんね。うちのお客様が落としたものとは思えないです。手帳をお持ちの方は今そう・・・」
その後の言葉はわかった。「今そう・・・いないですから」と続くはず。確かに今、手帳を持っている人は少なくなった。スマートデバイスやウォッチやメガネといった装着型デバイスのメモ機能を使えば、スケジュールマネージメントは容易にできるし、クラウドを使えばデータがなくなることはない。
しかし、手帳は落とせば、すべてが消滅してしまうのだ!
健太はこれ以上ここにいると迷惑かもしれないと感じて言った。
「KOBANに届けます」
店員はもう一度素敵に微笑んで、
「またのご来店を!」と言った。
KOBANは会社のある代々木とは逆の表参道交差点にあったが、近いこともあり、健太は坂を今度は登って行った。
ポリスは健太に拾った場所・時間・状況などを質問して、健太の連絡先をタブレットに打ち込ませた。持ち主が現れなければ、あなたに返却をするが、それでいいか、と言われ、健太が言い淀んでいると、ま、とにかく1カ月くらいして受取り手がいなければ、連絡しますよ、と面倒くさそうに話を閉じた。
1カ月して、手帳は健太に戻ってきた。
KOBANで受け取り、社に向かう坂を降りていく途中、歩きながらページを開く。
いい匂いがふわりと漂った。それは、はっきりと白い紙から香っていた。健太は立ち止まり、その匂いを胸に小さく吸い込んだ。うーん、なんだか幸せなふわふわっな気分。
健太は手帳を捨てずに、しばらく持っていようと決めた。所有者が誰だかわからない気持ち悪さはあるけれど、ま、会社のデスクにしまっておいて、時々、匂いでも嗅ぐとするか。そんなふうにその手帳について思ったのだった。
健太の会社は調理器具を製造、販売している。もう50年続いている会社で安定した売り上げを保っていた。健太は販売部門にいて、最近ではAIクッキングに力を注いでいる。レストラン本店のシェフのレシピを調理システムにAI学習させ、すべての支店にレシピを配信する。支店にはもう調理する人を置かない。レシピの教育・習熟に時間を割くこともない。そんな製品が業務用でヒットをし始め、健太は毎日、レストランチェーンを巡っていた。彼の誠実さが信頼され、導入する店が少しずつ増えていた。
手帳は会社のデスクにとりあえずしまった。健太は持ち主を諦めずにまだ探そうとも思っていた。SNSのTwitterで、写真付きで「こんな黄色い手帳を拾いました。あなたのではありませんか?」というメッセージをアップした。が、反応はなかった。もともとフォロワーがさして多くなかったからかもしれない。しかし、「友人も最近、手帳を拾ったって言ってましたよ」とのリプもあった。
それからまた2カ月ほどが過ぎた。
健太に不思議なことが起こっていた。
それは、仕事で疲れた時、気分が落ちている時、手帳を引っ張り出して、その匂いを嗅ぎたくなることだった。健太は感じた。「アロマテラピーみたいだ」。
その匂いの形容はとても難しく、言語ではとても表現できないようなミステリアスな官能があった。果実の香りのようであり、花の香りのようであり。
健太は天女が、もしいたらこんな香りを漂わせるのではないかと妄想した。妄想している最中に、「他人の持ち物だった手帳になにをうっとりしているんだ」と思い、顔を一人で赤らめ、慌てて手帳を閉じたこともあった。そして、健太は時折、持ち主不明の手帳を胸のポケットに入れるようになった。
不思議なことは続いた。
2年先輩の矢吹朝子。ボブヘアーで長身、清楚タイプの彼女が、ある日、こう声をかけたのだ。わざわざ健太の席までするっと忍び寄って来て。
「ねぇ、ねぇ、宮部くん、話があるんだ」
健太はびっくりして、心臓がゴクンと音を立てた。彼女はみんなの憧れで、真面目さだけが取り柄のフェロモン少な目の健太は今まで直接、声をかけられたことなどなかった。
「後で、お茶でもしようよ」
その追い打ちで心臓は音を立てるだけでなく、口から飛び出しそうになった。
なにが起きているか、わからなかったが、健太は「ありがとうございます」と小さく答えた。
会社の近くのカフェは仕事帰りの人で混んでいた。書店と一体になった<BOOKCAFE>で、無数と言ってもいいほどの本がそこら中の棚に分類されて置かれていた。本は買うこともできたが、レンタルすることもできた。新刊も古本もあった。東京では、もう書店単独で経営しているところは少なくなってきていた。
朝子はカフェラテを両手で持ちながら、健太に笑いかけた。
「初めてだね、二人になるの」
「あー、ええ、そうですね」
健太は落ち着かなかった。なぜ、朝子が自分に声をかけたのか、その理由を早く知りたかった。
「会社、慣れた? 3年目だったよね」
「ええ、そうです。少しだけ慣れました」
健太がそう答えると、朝子は窓側の棚にある海洋生物の本の方を見て、カフェラテを1回飲んだ。ちょっと沈黙があって、彼女は大きな目を健太にまっすぐ向けて言った。
「君、最近、いい香りがしているよね」
あ!と健太は心の中で叫んだ。直感的に朝子が手帳の持ち主なのではないかと思ったのだ。
そうして彼は申し訳ない気持ちで、ごそごそと胸のポケットから黄色の手帳を出してテーブルに置いた。朝子はその手帳を手に取り、ページをパラパラとめくった。
「これかぁ、香りの犯人は」
<犯人>の言葉に、健太は怖気付いて頭を下げた。
「すいません、僕が拾いました」
「なに、なに、そうなんだ、拾ったんだ、これ」
朝子は手帳を開いて、うっとりと匂いを確かめている。
「嗅覚は、人間の本能そのものらしいよ。視覚みたいに嘘をつかない、って」
確かに、表面が綺麗に見える人でもモノでも、中身がダメなことはよくある。そして、衝撃的な言葉が朝子からひょいと無造作に飛び出した。
「ね、今度の土日とか、VR水族館に行かない?」
突然すぎて、わー!と声をあげそうなところを、健太はかろうじて飲み込んで話した。
「横浜にできたやつですよ、ね。日本中の水族館とオンラインで結んでVR映像で見せるやつですよ、ね」
「そうそう、知ってるじゃん」
目をキラキラさせて朝子は言った。
健太はもちろん承諾した。それから二人はなんだか1時間ほど話した。なにを話したか、健太は覚えていなかった。心がぶらんぶらんと空中遊泳しているようで、ほとんど朝子の話を脳の端っこの方でぼんやりと聞いていた。それでも朝子が最後に言った言葉だけは、明瞭すぎるほどの輪郭で覚えている。
「デートの時、手帳も持ってきてね」
二人はやがて1週間に一度は、お茶をしたり、ご飯を食べたり、スポットに出かけるようになった。不思議に二人は合った。派手と地味。饒舌と寡黙。噛み合っているとは言えなかったが、二人でいるとなぜだか楽しかった。健太は今進行している事態に戸惑いながらも、幸せな気持ちを味わっていた。
そうして、その幸せな気持ちを、元は他人の手帳に自分の文字で書くようになった。
・・・彼女はよく笑う。その笑い声に僕は救われる。今日も充電忘れで動かなくなった僕のスマートウォッチのせいで遅刻したけど、笑ってくれた・・・
・・・ボブヘアーは似合うけど、一度、ロングにした彼女も見てみたい。今度、言ってみようかな。由比ヶ浜の海風に吹かれる彼女を見てそう思う・・・
2032年の初夏から、空白の白が少しずつ埋まっていった。書くのは朝子のことだけ、二人のことだけに限定した。それでも、黒い文字で虚しかった空白が少しずつ埋まっていった。書きながら手帳から漂う、アロマの官能をいつもそばに感じていた。他人が落としたものを自分のものにしてしまった罪悪感のようなものは微かにあったが、それもいつの間にか溶けていった。
手帳の年が尽きる頃、なんとなく二人は結婚を考えるようになった。そう思うまで本当に早かった。「私たち、いわゆるスピード婚かしら」、そう朝子は笑った。
結婚式場も探し始めた。いくつかの式場をデートがてらに回った。どこも魅力的だったが、光がキラキラとあふれている宇宙船のような雰囲気の式場に結局は決めた。
決め手はもう一つあった。
「さっきのウエディング・チャペル、いい匂いがしてたよね」
朝子は手をつなぎ、冬の街を歩きながらそう言った。
「僕もそう思った」
「しかも」
「そうだよね」
「手帳の匂いに似てたよね」
二人は幸せそうにお互いの顔を見て笑った。東京は冬。夜の闇に、息が言葉とともに白い妖精のように浮遊し、消えていった。
5月、ウエディングの日がやってきた。
列席者は30人ほど、親族と会社の上司たちがほとんどで、友人が少し。会場には黒いツイード服に臙脂色の蝶ネクタイをした司会者が一人。
宇宙船に外光と照明がドラマチックにあふれている───。
巨大なモニターにオンラインで会場以外の友人たちが多く参加した。大学時代の同級生で海外にいるやつもかなりいる。故郷にUターンして起業をしているやつもいる。ニューヨーク、ベルリン、ドバイ、シンガポール、金沢、高知、岩手・・・。中継されるウエディングの晴れ姿をみんなが見つめていた。そしてモニターから次々に聞こえる祝福の言葉たち。朝子の白いウエディングドレス姿をみんなが美しすぎると褒めちぎった。感動で言葉に詰まった女子の祝辞もあった。すべては幸せに包まれて進行し、心に明るい余韻を残しつつ、ウエディングはとりあえず終わった。
健太は参列者たちとロビーにいた。朝子のメイクアップを待って、庭に出て、フィナーレの動画撮影がある。健太はふかふかのソファに座りながらぼんやりとしていた。少し疲れていたが、それをはるかに上回る幸福感があった。
「今日はお疲れ様でした!!」
その声で我に返って見上げると、司会の男だった。臙脂色の蝶ネクタイを両手で引っ張り、笑顔を見せた。
「宮部様に嬉しいお知らせがあります。恋のキューピッド・アロマキャンペーン、ちょうど50人目のお客様になりました!」
なにを言われているかわからないまま、健太は頭だけ下げた。
「普通に広告したって、もうなにも効きません。今まで広告は視覚と聴覚ばかり。これからは嗅覚の時代。そして体験の時代。拾った手帳には、当社と広告会社・香芳堂が共同開発した、恋のアロマが印刷されていました!」
健太はわけがわからないまま進んだ、この1年余りの恋の物語の原因がわかった気がした。
すべては仕込まれていたことだったのか。
あのふわふわっの髪の女性もスタッフの一人だったのかもしれない・・・。しかし、悪い気はあまりしなかった。思いがけず、かけがえのないハッピーエンドの物語が誕生したのだから。
「宮部様にはオリジナル・プレゼントがあります!」
男は革張りの手帳を差し出した。すぐに健太は本能的にページをめくって匂いを嗅ぎたくなった。
男は顔を近づけ、低い声で言った。
「安心してください。印刷されているアロマは、恋のキューピッド・タイプではなく、夫婦円満サステナブル・タイプですから」
朝子がきらびやかなドレスと笑顔で健太に向かって歩いてくるのが見えた。