真っ暗闇だ。深い闇を私は歩いている。
 左右に壁らしきものがある。それを恐る恐る触ってみたが、指先にはなんの反応も返ってこない。
 無音の静寂をただ一人歩いている。自分がむき出しになり、自分の内面が歩いている感覚がする。歩いているのに足音がしない。不安が胸いっぱいに満ちているが、その不安には実体がないようだ。
 ここは一体どこなのだ?
 やがて、わずかに白い点が塗り込められた闇にポツンと見えた。私はその希望の針の点を目指して足を早めていく。点は少しずつだが大きくなっていき、光が漏れ始めていく。それでも夢のなかにいるようで、明瞭なものはなに一つ感じられない。だが、自分の意思で歩いているのは確かなようなのだ。おそらく誰かに会うために。

 ドアだ。見慣れたドアだ。数メートル先に濃い茶色の木のドアが現れた。
 <La Vie>とドアにはエンボスの表札がかかっている。その下に100均で買ってきたパーティグッズの文字の飾りがある。
 <A HAPPY NEW YEAR 2018>。
 今日は2018年1月15日だ。会社から7、8分のこのスナックのドアの前に私はいる。いつも歩いているその道を今日は奇妙な暗闇を通ってきてしまった。さっきは 一体なんだったのだろう・・・。
 ま、いい。ドアは目の前にあり、私はこの向こう側に入るのだ。私は、「人生」(La Vie)という名のドアを勢いよく開けた。

「倉ちゃーーーん!!」
 瞬間、光子ママのしわがれた声が大音響で歓迎してくれた。空間には人が5、6人いて、オレンジ色の照明の海に浸かっている。
「おめでとう!! 今年もよろしく!!」
 そう叫ぶと後ろに回り、私のコートを脱がせにかかる。香水の甘い匂いがふわっと私の体全体を包む。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「清水先輩、来てるわよ」
 光子ママは白いワンピースに大きな金色のブローチをキラめかせ、茶色の髪を上に巻き上げ、アイシャドーで黒く縁取られた目で、奥の席を見るように私を促した。
「おっ、倉木くん! 待ってたよ!」
 清水先輩はかなり薄くなった頭髪をかき上げて、私を手招きする。鼻の下のヒゲもまだらに白い。
「今日、約束してましたっけ?」
「してないよ。してないけど、待ってたよ。倉木くんが来るのを、さ」
 私はその言葉に頬を緩める。さっきの得体の知れない暗闇の不安が解凍され、いつもの安堵がやっと心を占め始めている。ここは週に2度は来る馴染みの店なのだ。
 私は清水さんのテーブルに座った。テーブルの上にはビール瓶とビールグラスと乾きものが置かれている。
「ま、ビールでも、どうだ?」
 タイミングを合わせたように、お店のエリカさんがビールグラスを持って二人のテーブルにやってきて、よく冷えたグラスを私の前にコトンと置いた。
「オレが注ぐよ。エリカちゃんの方がいいかい?」
「いや、清水さんで。新年早々、光栄です!」
 私がそう答えると、
「倉ちゃんは、本命が他にいるから」
 と丸顔のエリカさんは丸い目をクリッとさせて明るい声で言った。
「明けましておめでとう、2018年!!!」
 ビールで乾杯した後に、私はLa Vieのなかをゆっくり見渡した。そんなに広い店ではない。4、5人座れるカウンター席があり、テーブルが3つでそれぞれ4人ほど座れるから20人ほどで満席になってしまう店だった。
 奥のテーブルには、営業3部の古川部長とその部下の長谷部まりさんがいるのがわかった。もう一人いるようだが、姿の輪郭が曖昧で黒ずんでいてわからない。隣のテーブルはまだ空いていて<予約席>の札が白くポツンと置いてあった。誰が来るのだろう・・・? 

 清水さんの横に座っていたエリカさんが
「今年、定年だからって、清水さん、ちょっとシミジミしてるのよ。定年になったらLa Vieに来られなくなるって」と花柄のロングスカートの裾をひらひらさせながら言った。
「定年延長しないんですか?」
「うん、迷ってる。会社人生もいつかは終わりが来るから、粘って会社にいても同じことだと思ったりもする」
 清水さんはそう答えて、確かにシミジミとビールを静かに飲んだ。
「君は若いからな、可能性の伸びしろがあっていいよなぁ。これから、いい仕事をして、いいパートナーをつくって、いろいろできる」
 いいパートナー・・・・。その言葉に私の心は、思いがけず震え、ビクッと反応した。

 清水さんと私は、同じ飲料メーカーKに勤めている。奥の古川さんと長谷部さんもだ。La Vieは、光子ママがこの店を始めて20数年、ずっとK社の夜のサロンになっている。その理由は、会社の正門から近い所にあるというだけで、他の理由は私にはよくわからない。
 美大を卒業後、会社に入って間もなく、清水さんと新商品のビールのプロジェクトで出会った。彼は研究者だ。酵母菌の研究一筋の真面目で誠実な人で、下の面倒見もよく、商品パッケージを担当する他部門のデザイナーの私と話をするようになった。そして、La Vieで時折、会うようになっていった。

 入社から8年、私も今年30歳になる。伸びしろがあるほど若くはきっとないのだろう。毎日の会社生活の繰り返しに息がつまることも多くなっていた。
「清水さん! 人生はバラ色よ、La Vie en Rose。今日はパッと飲んで歌いましょ。ところで、倉ちゃん、La Vie en Roseって歌、知ってる?」
「知らないです」
 そう答えた私はエリカさんが注ぐビールをぐいと飲んだ。酔いがふわっと顔のあたりから下の器官に広がっていく。
「そうよね、若い人は知らないわよねー、古いシャンソン。あとで歌うと思うわ。ね、清水さん」
 エリカさんは、私より確実に年上だが、そんなに離れてはいないはずだ。わざとらしい商売の明るさでなく、いつも自然な明るさで私たちに接する。顔の印象だけでなく、なんだかすべてが丸い人だ。
 清水さんはいつものようにビールグラスを片手に酵母のうんちくを話し始める。やがて、話はワイン酵母を経由し、乳酸菌あたりまで行くだろう。エリカさんがそのいつもの話を丸い頬をツヤツヤさせて聞いている。
 しかし、私はなんだか気持ちが別の場所にあるようで落ち着かなかった。近頃、この店に来るといつもそうだ。人の声が遠くに聞こえるように感じ、認識の焦点がぼやけてしまう。先ほどの暗闇の不安がまだうっすらと続いているようにも思った。

 ニコニコとしているエリカさんと酔って少しとろんとした目の清水さんを、私はスマホのムービーモードで撮った。1分ほど。

「・・・おめでとう」
 ドアを入ってきたかぼそい声がかろうじて私の三半規管をすり抜けた。そのあとに光子ママの声が大音響ですぐに追いかける。
「おめでとう!! ガクさん!!」
 ガクさんこと、阿久津学さんは、ひょろっとして繊細そうで、文筆家か、学者みたいな感じだが、実は代々、質屋をやっている。なんでも江戸時代から続いているそうだ。
 普段は物静かないい人だが、酔いがまわると性格がくるっと裏返しになり、本性が爆発する。信じられないほど陽気にハシャギ、騒ぎ、天井を突き破る。その彼がビシッとしたスーツ姿で私たちの隣の予約席に恥しがるように今、座った。
「もうちょっと待ってね、倉ちゃん。もうすぐ来ると思うわ」
 光子ママはそう私に耳元で囁いてから、ガクちゃんの席にアイスの入った容器を手に持って、ウォーターを胸に抱えつつ座った。

 もうすぐ来るはずの人は、1時間しても来なかった。
 それぞれのテーブルの人の声がだんだんと音量を上げている。グラスとグラス、あるいはグラスとテーブルが触れて、カチカチと軽やかなメロディをあちこちで奏でている。
 良い年の初めだ。きっとそうだ。今、新しい年の祭りが始まろうとしている。スナックLa Vieが華やかな予兆にゆらゆらと漂い始めている───。

 清水さんは頭を光らせ、ご機嫌に酵母の話をエンドレスに続けている。もうすぐ会社人生を終えるかもしれないのに「いやー、次の新商品はさ、大ヒットさせたいんだよな」などと未来の夢を切々と語っている。
 ガクさんは、なにをしてる? あれっ、自分のネクタイを取って、ママの首にかけて結んでいる。そのうちワイシャツも脱ぐかもしれない。質屋のガクさんは脱ぎ魔なのだ。自分の身に着けているものを人に与えてしまう。商売柄、所有の概念が緩いのか。しかし、早い、今日は脱ぐ時間がいつもより早い。

「撮っといて!」。隣の席からネクタイ姿の光子ママが大きな声で私に要求する。ピースサインをしている。私は撮った、今度もムービーで、30秒ほど。

 突然、美しい女性がふわっと現れた。その現れ方はとても不意で、店のドアを通った様子もなく、いきなり彼女は私の目の前にいた。時間と空間の隙間から前後の脈絡がなく現れたように感じられた。
 私は待っていた。渇ききった体が水を求めるように彼女を待っていた。La Vieは彼女と会うための、唯一の交差する点だった。
 いつの間にか、私は、清水さんとエリカさんのテーブルではないテーブルに座っている。
 彼女の名前は「陽射子」(ひざし)。その陽射子が、目の前で静かに笑っていた。赤いハイネックのセーターに白く輝く顔が映えている。まさに柔らかな陽が射し込むようだと私は感じた。
「こんばんは」
 私は言った。
「こんばんは」と陽射子は答えた。大きな澄んだ目がまっすぐに私を見ている。
「先日は、ありがとうございました。わざわざお芝居に来てくれて」
 赤い唇から出たその声も澄んでいて、店の雑音を払いのけて私の脳に届く。
 先日・・・。そうだ、私は、陽射子の舞台を見に行ったのだ。大きな劇団ではないが、彼女は就職してからそこに属し、舞台女優として生きていくことを決意した。その後、会社を辞め、20代後半の今まで多くの時間を舞台のトレーニングに費やしている。だが、舞台だけではとても食べていけない。昼間は事務職のアルバイトをし、夜はLa Vieに時々来ている。そして、私と偶然に交差した。

 必死に生きている。生きようともがいている───。
 彼女の舞台を見て、私はそう強く感じ取った。劇は不条理なストーリーで正直私には理解がうまくできなかったが、彼女は主人公の男を愛する若い亡霊の役で、10分ほどの登場時間を与えられていた。白いフワフワとしたウエディングドレスのような服を着て、暗がりから不意に現れ、青白い照明を浴びながら、体ぜんぶを震わして、こう言うのだった。

あなたは今です
ひたすらな私の今です
それなくしてどうして生きられると言うのでしょう

 死してなお愛に生きようとする、その矛盾がドラマとしては面白いのだろうが、私は筋立てを完全にほっぽり出し、彼女しか見ていなかった。見ながら、どうしようもなくなにもかも好きだと心が動いていた。彼女と共に生きることでしか自分が生きられないような気がしていた。私は彼女と会うことで、日々のさして代わり映えのしない日常が、きらめき始めるのを感じた。いや、彼女と会うことで、今の日常が代わり映えのしないものだと知ったのだ。
 そんなことは初めてだった。
 このLa Vieという時間で、空間で、その初めての思いは温まり、溢れ出るのだった。私は何度もこの店で陽射子と会い、話しながら笑いながら、彼女の存在を必死にたぐりよせようとしていた。それはうまくいってないように思える瞬間もあり、うまくいって幸福感に浸れる瞬間もあった。そして、彼女の心がどこまで自分の心に今日近づいたのか、そればかりがLa Vieからの帰り道にいつも気になるのだった。

 私はビールを飲み、彼女に断って、彼女のボブヘアの白い顔をムービーで撮影した。笑ってくれた。30秒ほど。

「旅に出なくちゃいけないの」
 陽射子は笑顔を閉じて、唐突にセリフのように言った。どこかで聞いたようなセリフ。テレビのドラマで、あるいは、ありふれた恋愛映画で。
 店はいつの間にか満杯になり、麻痺するように夜の狂気に達しようとしていた。
「なぜ? やっと話ができるようになったのに」
「ええ、それはわかるわ。でも、行かなくちゃいけないの。今日はそれを言いに来たの、あなたに」
 私は訳がわからなかった。「あなたに」の言葉が心を刺して、ビールを乱暴に注いで乱暴に飲み干した。陽射子は赤い唇をきっと結んで私を見つめていた。二人はしばらく黙り込んだ。
 芝居はどうするの? 舞台女優になる決意は捨ててしまうの?
 旅に出る。その宣言の唐突さに私はどうしようもなく混乱していた。

 清水さんが歌い始めた。シャンソンを英語で歌っている。「Hold me close and hold me fast~~」。誠実に几帳面に歌っている。La Vie en Rose。人生はバラ色―――。
 ガクさんは、もうワイシャツを脱いでいる。光子ママにそれを着させて、立ち上がって阿波踊りのような手つきで踊り始めた。
「あなたに会えて良かったと思うわ」
 そう言い終わった唇はまたきつく結ばれ、まっすぐな意志を表している。嘘じゃないのよ、という意志。「会えて良かった」に私はかすかな喜びを感じたが、言葉にすることがしばらくできなかった。
「終わらせたいということ?」
 沈黙の後に、かろうじて、本当にかろうじて、私は言葉にした。
「いや、違うの、始めたいということ」
 彼女はそう答えて、またじっと私を見つめた。瞳が冷たく星のようにきらめいていた。
「新しい自分を始めたいということ。過去のこだわりを捨てて生きたいということ」

 小さな美しい駅がある。空は澄み渡り、花畑が色鮮やかに広がっている。ホームに上りと下りの列車がほぼ同時に入ってくる。上りに座っている少女が、下りに座っている少年に窓越しに微笑みかける。とても素敵な笑顔だ。少年はその笑顔に心惹かれて、笑いの会釈を返す。しかし、やがて列車はホームを動き始める。上りと下りが同時に。少年は急速に離れていく上り列車の少女を目で追いかける。もう一度会いたい、と、もう会えない、の二つの感情に引き裂かれながら。

 そんな映像が私の脳裏に浮かんで、しばらく現実のすべてが見えなくなった。その幻想が十数秒で消えると私は彼女につぶやいた。
「僕らは途中の駅で会っただけ」
 彼女はぎごちなく笑って、
「なんだか、いい例えだと思うわ。でも、出会いがすれ違いでも、いつまでも覚えている人もきっといるのよ」と言った。
 その時、突然、なにかが壊れ出した感覚がした。店が揺れている。心臓の鼓動に合わせて振動している気がする。変だ。見ている光景が何度か暗転する。映像のコマの間に黒味のカットが入ったように。
 ガクさんは頭にクリスマス・パーティ用の赤と白の尖った帽子を被っている。そして激しく踊っている。エリカさんがいつの間にか白いコットンの半袖のシャツになっている。光子ママもノースリーブの夏仕様だ。季節が狂っている。清水さんは変わらない。シミジミとビールを自分で注いで飲んでいるままだ。あれ、その隣には、長谷部さんがいて足をバタバタさせて笑っている。いつの間に移動したんだろう。いくつかの映像をごちゃごちゃにして無理やり繋げたようにLa Vieの世界は回り始めている。

「あなたに預かって欲しいものがあるの」
 陽射子は喧騒のなかで、私に顔を近づけて言った。そして細い左手の中指から銀色に光る指輪を抜いた。
「大事なものなのよ。安物だけど」
 私は指輪を受け取り、黙ったままそのちっぽけな光るものを見つめた。左手の中指には当然入らず、薬指も難しく、小指にその指輪をはめた。少しだけ緩かった。
「その指なのね、入るのは」
 陽射子はそう言って微笑んだ。私は左手を照明にかざして何秒か見つめた。そして、指輪を抜いて、テーブルに置いた。その指輪を美しいともなんとも思わなかった。彼女が大事なものなのと言う、ただ、それだけの価値しかないとぼんやり感知しているだけだった。頬を近づけたまま彼女はポツンと言った。
「捨てる勇気がなかったの」
 説明して欲しかった。なぜ、旅に出るのか。なぜ、指輪を渡すのか。その理由を言葉にして欲しかった。そうでなければ、あまりに中途半端じゃないのか。
「だから、あなたに捨てて欲しいと思ったの」
 なぜ? がいくつも私の頭の内部を駆け巡り、今起こっていることの根拠がわからず、思考の行く先が見出せなかった。ただ、目の前の陽射子は、美しくて、柔らかなオレンジの光のなかに在り続けていた。それは一枚の優れた肖像画のように永遠の存在だと私の感性は受け取っていた。

 私は無意識に彼女の顔を永遠の記憶にとどめようと撮っていた。数枚の写真。
 ほんの数秒間の時が・・・止まる。

「捨てるか、捨てないかは僕が決めてもいいよね」
 話を先に進めなくちゃと私は感じたのだろうか。なんという間抜けなセリフだったんだろう。
 私はわかっていた。陽射子は絶対に、旅に出る理由も指輪を渡す理由も話さない。なぜなら、それは彼女自身の意思であり、人に犯されたくない聖域だから、犯されたら壊れてしまうかもしれないから。赤く結ばれた唇と澄んだ瞳に、必死に生きている彼女のぜんぶがあるように私は思った。
 La Vieの人々は、イキイキとこの世の今を謳歌していた。清水さんはまだ歌っていた。いつの間にか賑やかなロックを歌っていた。マイクを持っているのは清水さんだが、声は違う人の声のようだ。上半身裸になったガクさんは、雲の上で跳ねるように一心不乱に踊っていた。エリカさんとママは二人で手を取り合って踊り出した。
「ねぇ、私たちも踊りましょう」
 陽射子は私の手を取って、立ち上がった。舞台女優は軽やかに私をリードしながら踊り続けた。くるくるとクリーム色のフレアスカートが舞っている。なにかを忘れるように夢中になって体を動かしていた。その彼女の体が私にぴったりとくっつく瞬間もあった。彼女の匂いが私の存在の芯にまで香ってくるようだった。私は、これらはきっと夢なのだと思った。幸せが胸にどうしようもなく満ち溢れてきて、今が永遠に続けばいい、夢ならば覚めなければいいとそれだけを祈り続けていた。

「倉ちゃん、撮るのよ、今を!!」
 光子ママの叫びで、陽射子と結んだ左手を離さず、右手で、踊る被写体たちを撮った。3分ほど。激しくブレながら。

 エンドレスに続く空間に満ちた賛歌。しかし、視界がまた暗転を始める。陽射子の顔も明と暗が繰り返されていく。すべてが遠ざかり、フェイドアウトしていく。繋いだ手が離される。温度が消える。彼女が真剣に私を見つめながら、汗に濡れた顔を輝かせている。なにかを言った。ああ、聞き取れない。意識がもうつかまえられない。そうして、私は深い闇のなかに再び引きずり込まれていった・・・・・・・。



「お目覚めでしょうか」
 声が聞こえた。私は視界が徐々に明るくなっていくのを感じている。目を開けて、上半身をノロノロと起こした。
「お帰りなさい」
 男が近くにいて、私の頭に装着していたインターフェースを持って座っていた。白いスーツを着ている。
「いかがだったでしょうか。私ども<タイムトラベル社>の旅行は。お探しの人や懐かしい場所に会えたでしょうか」
「・・・ええ」と私は焦点が定まらない意識のまま答えた。
「体は過去に戻れないが、脳は過去に戻れる。ある時間のある場所に、そのままリアルにお客さまをお連れするのが私ども<タイムトラベル社>のサービスです」
「・・・ええ」と私は答えた。La Vieでの光景は確かに今、鮮明に残っている。
「倉木さまが、当時の映像や画像のデータを多く残されていたので、脳のスクリーンにクリアに再現できていたのではないでしょうか。プラス、倉木さまの海馬と大脳皮質に潜入して映像補正をさせていただきました。タイムトラベル社自慢の最先端ブレイン・テクノロジーです」
 部屋は広大で全体が真っ白で、壁面に大きくデジタル数字が光で浮きだって見えていた。
 2038・01・15。
 2018・01・15ではなく、今年の今だった。私は20年前の今日にタイムトラベルしたのだった。
「ありがとうございました。とても楽しい旅行でした」
 私はそう言いながら、体の芯に陽射子の香りが残っていることを確認した。
「データは1カ月後に自動的にデリートされます、よろしいですか」
「はい、もう必要ありません」と私は答えて、手術台のようなタイムマシーン・ベッドからフロアに足を降ろした。少しふらついた。
 白いスーツの男は最後に言った。
「お探しの方ですが、まだ発見できていません。お顔のデータと近い方を私どものグローバルネットワークを使って膨大なデータから見つけ出そうとしているのですが手間取っています・・・20年経過しているので難易度も高くなっており・・・」
「いや、もういいです。彼女には会えましたから。いいんです。それだけで良かったと思っています、いいんです」
 私はそう言ってから、ゆっくり歩き、部屋の白いドアへと歩いて行った。

 2038年の渋谷の街は進化を続けている。超高層のインテリジェントビルがびっしりと貼られた太陽光パネルを光らせていた。空にはドローンやタクシーが飛んでいた。透明なチューブのなかを私は歩く歩道で移動している。
 人にはもう一度どうしても行ってみたい過去があるものだ。私はそこへ旅したことで、今の自分を確かめられたと感じていた。清水さんはもうこの世にはいなかった。エリカさんも結婚したらしいが消息はよくわからない。ガクさんは大病をして店を他人に譲ったと聞いた。そして、La Vieは店じまいをしてもう存在していなかった。光子ママも介護施設に入っていると聞いた。途中の駅で会っただけ。なにもかもが変わって、かけがえのないものも無残に消えていく。だからこそ、今リアルにある、新しい年を新しい気持ちで生きていこう。そう決意しながら私は大きく深呼吸をした。



 10日ほど経ってからだった。タイムトラベル社から連絡があった。「お探しの方がやっと見つかりました! 今、ロサンゼルスに住んでらっしゃいます・・・不思議にもあなたに会いたいと感じていたとのことです・・・脳の共鳴でしょうか・・・伝言があります」
 私はそのメール文を読むために、一度、電車を降りてホームに立った。
「・・・預けてある指輪をそろそろ返して欲しいとのことでした」



 飛行機の高度が下がっていく。強い陽射しを受けて青い海が一面に輝いている。フラップが出され、最終の着陸態勢に入った飛行機はカリフォルニアの大地へ降り立とうとしていた。彼女とは空港の到着ロビーで待ち合わせた。
 私はジャケットのポケットにある指輪を握りしめる。
「捨てる勇気がなかったの」
 私もそうだったのだと、感じていた。



 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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