音楽は宇宙から舞い降りる ─ 未来のエモーション 第5話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第5話は「音楽は宇宙から舞い降りる」。
「ハロー! 地球! こちらPlanet Angel Tube!」
ちょっと嗄れているが、元気な声が機器たちのキラキラ光るスタジオに響く。
「さぁ、ISS2からライブ中継の始まりだ!」
ここは高度400km、熱圏軌道を回る国際宇宙ステーション2(ISS2)だ。スタジオからはブルーの地球が窓いっぱいに嘘のようなリアルさで見えている。
「今日も地球は美しいぜ。こんな美しい星でどこのどいつが戦争しようなんて思っているんだ。その大バカ野郎も宇宙に飛び出して、この地球を見ろ。さ、悪魔でさえ天使になっちまう場所から放送だ!」
DJのマイケル・ハザウエイは、そう叫びながら曲をサーチする。眼前のモニターには曲のリストがずらっと並んでいる。しかし、彼のチョイスは感覚的だ。思いつくままに次から次へと宇宙から地上へと音楽を舞い降ろす。
宇宙と地上の通信はすべて光でつながれている。2030年代の半ば、人類は光をメディアにして瞬時に自由に情報を伝え合う、神々しい世界を築きあげていた。
マイケルはいつも番組をISS2が日付変更線を通過するころから始める。地球一周が90分。Planet Angel Tubeのライブもその1周で終了する。
カメラは船外のカメラ、スタジオ内のカメラの2台。ライブ中はそれを使い分ける。船外カメラはほぼ360度の角度をカバーし、地球を見たままに映すこともあれば、ズームで映すこともある。宇宙からの宇宙である月や人工衛星を映し出すこともできる。とりわけ巨大な月の冷たい輝きは圧倒的に心を震わす。残念だが、月にはウサギもライオンも髪の長い女性も水桶を運ぶ男女もいない。しかし、それでも月には心を現実から解き放つ神秘の詩が光り輝いている。
今、スタジオカメラは真ん前からマイケルを映している。今年、90歳になる彼の顔はシワだらけだが、その動作にはよどみがない。機器やカメラを使いこなしながら、DJを鮮やかに演じていく。
経度180の日付変更線の右にハワイ諸島がある。マイケルはズームで諸島を映し出す。
今は夜だ。オアフ島のワイキキあたりに光の小さな群が見えるが、あとは黒く塗り込められて、島と海の境もほとんどわからない。
「さ、今日はカラパナから行こうか」
マイケルは、ハワイ出身のバンドの曲『愛しのジュリエット』を指で探し出し、すぐさまクリックする。そして、次もハワイつながりで、ジャック・ジョンソンか、ブルーノ・マーズにしようと瞬時に考えている――。
『愛しのジュリエット』は、宇宙から地上に美しく舞い降りていく。
ヒロからキラウエア・ボルケーノへ。活火山の島、ハワイ島の夜の道をTOYOTAのピックアップトラックが駆けていく。
1980年代のモデルで50年以上たった今も動力系は力強いままだ。EVもいいが古いモデルを修理しながら使い続けることも地球のためになる、そう考える島民も多い。道は舗装されているが、凸凹がところどころあり揺れる。
ラジオからカラパナが流れている。Planet Angel Tube。マイケル・ハザウエイのTubeだ。
夏原タケシは宇宙からの放送をインターネットラジオで聞くのが好きだ。
昼間のドライビング中、天空から音楽が大気の成分となって降りてきて、この島の自然の色彩を鮮やかに際立たせる。音楽が発色を変える。そんな気分がするのだ。
空、海、波、草原、火山、花、虹。人間が汚してしまった神の絵の具とパレットが、このハワイ島の自然の力と宇宙からの音楽の力で、汚されないまま生きている。そう感じ取れるのだった。
今は夜だ。揺れる窓の外には、闇を明るく照らす満月が見えている。その光は自分の存在の奥まで照らしてくるかのようで神霊なマナのパワーに満ちている。
妻は家に置いてきた。身重で、夜はゆっくりさせた方がいいと思った。二人はこの島にバカンスでやってきて好きになり、住むことに決めた。
夏原タケシは、初めてハワイ島のヒロに来た時のことを思い出す。ホノルルの喧騒を逃れたいなんてことは少しも考えずに、世界一澄んだ空がここにある、世界中の天文台がここに集まっている、という宣伝文句につられて、オプショナルツアーでホノルル空港を飛び立ち、ヒロ空港に降り立った。驚いたのは、同じハワイなのに、たった50分ほどのフライトで、ワイキキ界隈とはまるで違った空気や色や形がそこにあったことだ。タイムスリップした――簡単に言うと、そう感じたのだった。何もかもが古くて、懐かしくて、人間と自然がともになじみあって生きている空気があふれていた。
タケシは35歳で広告カメラマンをしていて、同じ年の妻はIT企業でマーケティングをしていた。サービス業とは違い、東京、あるいは日本にいなくても仕事はできる環境にあった。そして、二人とも何より疲れていた。デジタルとマーケティングの言葉で、頭はいっぱいに埋め尽くされていて、毎日、膨大に大切な「何か」を浪費している感覚が付いて回っていた。
スタジオで深夜までタケシは人物撮影をした後、そのままデスクで修正作業をし、やっとのことでクライアントにデータを送る。ところが、その後に何度も何度もオーダーが入り、修正をやり直す。何をやりたかったのかは、もうどこかにすっかり消えていき、事を収め、前へ進めるだけにすべての努力を費やす。そんな日々が続いていたのだった。どこへ向かうかわからない日照りの道をあてどもなく歩いているようだと感じていた。
ホノルルへ戻る飛行機のなかで、眩く発光する海を見下ろしながら、
「良かったね、ちょっと住みたくなっちゃった」
と妻が言った時、
「僕もそう思ってたんだ」とすぐにタケシは言葉を返していた。
この瞬間、ハワイの先祖神である<アウマクア>が二人の心に棲み着いたのだろうか。やがて2年後、二人は導かれるようにヒロに住み始めた。住み始めて1年で、結婚後なかなかできなかったべビーを授かったのだった。それは偶然ではなく、運命であるかのように二人は感じ取った。医師から妊娠を告げられて病院の外に出た時、いつの間にか降っていた雨が止み、大きな虹が教会の向こうにくっきりと架かっていた。二人はその天空からの贈り物を、いつまでも肩を寄せ合い、時を止めて、仰ぎ見ていた。
満月がルート11号の道を照らしている。しかし、雲が少しかかってきている。急な雨になるかもしれない。TOYOTAのピックアップは小さな街の明かりを通り過ぎていく。しばらくするとカーティスタウンだ。今日はその周辺のエリアを深夜過ぎまで巡ってみようとタケシは思っている。
まだ見たことのない「ナイトレインボー」と出会うために。最高の祝福をもたらすと言われる、伝説の夜の虹をカメラに収めるために。
イブラハムは、リヤドの町外れの遺跡<ディルイーヤ>にいた。砂漠から街の方角に風が静かに巻き上げるように吹いている。サウジアラビアの首都の喧騒がうっすらと夢のなかで聞くようにさざめいている。一斉にモスクのスピーカーから呼びかけられた日の出の礼拝から数時間、今、太陽は頭上高く昇り、時間さえもが熱い陽射しに溶けていくかのようだった。
黄土色のレンガで造られたかつてのサウード王国の都市は、今は人気の観光スポットになっている。イブラハムはこの美しい廃墟で、今、旅行者たちと父を待っている。滞在しているホテルから、この場所へ父がマイクロバスで連れてくるのだ。あと30分足らずで着くだろう。
15歳のイブラハムにとって考えることはたくさんあった。今も、いつの間にか深い穴に身を沈めるように考えていた。その考えは主に明日に向かっていて、何よりまだ知らない世界を知りたいという思いが強かったし、それにとどまらず、知ることで自分はどんな人になっていくのだろう、どんな人になるべきなのだろうという思いもあった。
白いトーブ姿の彼は、日差しのなか、赤く発色する遺跡の近くのレンガに座って、スマートデバイスをタップした。Planet Angel Tube。
「ハロー! 地球!」
マイケル・ハザウエイの英語が宇宙のライブ映像とともに流れてくる。砂漠のオアシスに住む彼の現在の時間に宇宙の悠久の時間が訪れる。
英語は学校で習っていて、少し聴き取れる。学校が休みの日、旅行ガイドの手伝いをする際、スマートデバイスを連絡用に持つことを父から許されている。そして、一人になった時に、英語の番組を視て、英語の音楽を聴く。ウキウキと熱中しながら同時に、今について、未来について考え、自分の内にある、ふわふわとした「何か」について考える。
イブラハムはベドウィンの末裔だ。その血が彼のなかを濃く深く流れていた。砂漠の遊牧民、ベドウィン。果てしのない砂漠を太陽や月や星座を見ながら移動し、家族と部族の絆を大切にし、放牧をしながら過酷な生活を生きぬいてきた、誇り高き民。
祖父が若いころまでは、彼の一族はまだ砂漠にいた。しかし、国家の統治的観点から、近代的生活の観点から、あるいは経済的な観点から、サウジアラビアのリヤドに定住を決めたのだった。だが、ベドウィンであることは生活のなかから完全には消えていかなかった。父は外国旅行者のために、砂漠の民の生活を疑似体験するツアーを企画し、キャンプ場をつくり、生業としたのだった。
今日もこれから1泊のツアーに出かける。<ベドウィンと赤い砂漠を旅するツアー>だ。ディルイーヤから出発し、砂漠を3頭のラクダとともに移動し、正午にはランチ。さらに砂漠を南下し、夜はテントで野営。翌朝、ディルイーヤに戻る。大した移動ではないが、砂漠には危険がある。突然の天候の変化もある、そして、思わぬ襲撃もある。襲撃――それは最近、とみに増えている。ゲリラによる反政府の戦いだ。国境を接する国から、そのゲリラによるミサイル攻撃も頻発していた。だから、ラクダには銃を積む。父は「この地はずっと戦いをし続けてきた、戦いに勝たないものは生き残っていけない」と言う。
しかし、イブラハムは思うのだ。このなんにもない不毛の砂漠の地を、命をかけて争って手に入れることになんの意味があるのだろうと。
父のマイクロバスがパーキングに入ってきた。イブラハムは宇宙からの映像を数秒見てから、そのバスの方に歩いて行った。
西海岸の歓楽都市、ラスベガスは光のイルミネーションのようだ。風が強いのだろうか、さまざまな色の人工の光が小刻みに点滅している。ISS2は地球を早足で巡っている。マイケルはプレスリーの『好きにならずにいられない』を地上の世界に流す。
ラスベガスにビルを持っていた。シカゴにもダラスにもニューヨークにも持っていた。マイケル・ハザウエイは不動産で大きな財を築いた。
そのオレが一体、なんで、この地上400kmでDJなんかやっているんだ?
太陽の光を受けて輝く月の巨大なクレーターをカメラで見ながら思う。
3度、結婚した。そしてよく働いた。いろんなヤツと戦い、あるいは仲間に引き込み、法律スレスレに稼ぎまくった。ビジネスはパワーそのものだった。しかし、最後に待っていたのは孤独だった。愚かしいことに80代にやっとそのことに気がついた、やっと。
心に残されたものは、満足でも栄誉でも賞賛でもなく、ブラックホールのような孤独の暗闇だった。すべての感情はその暗闇に引き摺り込まれて、もうどこにも出て行けず、心の奥底に深く沈殿し続けた。哀れな、マイケル! 哀れな、かつての不動産王!
3人の妻はもうこの世にはいなかった。大邸宅も、広大な土地も、一等地のビルも、もうどうでも良かった。そんなものは結局、何の役にも立たないのだった。子どもたちはマイケルのその財産を相続し、無駄に使い果たそうとしていた。
肉体も徐々に衰えていった。90歳の今、もう脚はまったく使いものにならなかった。目も耳もかなりイかれていた。それぞれの器官に機械を入れ、コンピュータで制御して動かしている。完全なサイボーグにどんどんとマイケルの体は近づいて行っている。かろうじて元気なのは脳と心臓だけだ。
地上ではうまく歩けなくても、無重力の宇宙空間では動ける。肉体の意志が通る。だから、もうマイケルは地上には戻りたくなかった。命が続く限り、この宇宙にとどまり生を終えたかった。できたら、最後は宇宙ゴミ(スペースデブリ)となって宇宙を永遠に彷徨いたかった。
夢の話をしないとな、とマイケルは月に目をやりながら思う。『好きにならずにいられない』が終わると、スイッチをオンにして彼は光の通路を使って地上に語り始める。
「・・・好きな子がいたんだ。青春のど真んなか、さ。ベトナムではまだ戦争をやっていた。あのころ、デートのお決まりはどこだか知ってるかい? メタバースの会議室じゃないぜ、ハハ! 映画館さ。あのクラシックな暗闇に、二人で息を潜めて、スクリーンの馬鹿でかい絵や音をシェアするんだ! 汗をかいた手なんかつなぎながら・・・・」
そうだ、あの時、二人で見ていたのは<アメリカン・グラフィティ>。ハイスクール最後のオンリー・ワン・ナイトを描いた傑作。音楽が秒の隙間にまで入っているような映画だった。甘く切なく悲しかったが、とてつもなく美しかった。そこに、あるDJが実名で登場する。<ウルフマン・ジャック>! 史上最高のDJ! 月に吠える狼のような声! たたみ込まれるナレーション! 最高にイケてる選曲!
オレはなりたかった、ウルフマン・ジャックに。不動産ビジネスはオレじゃない別の人間がやったんだ。名前も育ちもいっしょの、もう一人のオレが。他人を傷つけながら、たまに悪魔に魂を売り渡しながら、マネーを成功のポケットからあふれさせて。
そうして、オレはついに宇宙でDJになった。夢を人生の幕が降りる前に手に入れたんだ。マイケルは顔の皺をくしゃくしゃにして笑った。それはおそらく宇宙一の笑顔だった。
最後のマネーを使って、宇宙に出て、1日90分のスタジオ使用を許されたんだ。マイケルはまだ笑顔のまま、アメリカン・グラフィティで彼女が一番好きだと言った曲を流す。結局は離ればなれになった彼女を思い浮かべるが、顔さえ思い出せない。でもそれでいい、音楽が覚えているだろう。70年近く前の、二人の時間の感触と胸の高鳴りを。
「さ、行ってみようか、プラターズ『オンリー・ユー』!」
そう吠えるように言って、ボーカルが歌い始めるとマイケルは宇宙船の窓際にフワリと移動する。窓外を見て、不安な気持ちがぼんやりとだが強く胸をよぎる。
国籍不明の衛星が、かなり遠くだが確認できるところに不気味に浮かんでいた。月の光を反射し、何かを企みながらこちらを見ている気がしてならなかった。宇宙ステーションのクルーたちは、あれはX国、あるいはY国の偵察衛星ではないかと推測している。
ハワイ島、カーティスタウン付近。パラパラと降り始めた雨は、あっという間に狂暴に大地を襲い出した。クルマを大粒の雨が激しく叩く。月明かりは消えて、夜の闇のなかでその雨の粒はもう見えない。
いい兆候だ。Planet Angel Tubeの音量を上げる。『オンリー・ユー』が流れている。夏原タケシは、ルート11から小道に入って、ゆっくりとクルマを止めた。
昼間の虹は、大量に降った雨のあと、太陽の光がその水滴に屈折、反射して、プリズムの原理で7色に分解される。ナイトレインボーは月の光でできる。太陽に比べれば、その光量は頼りないほど少ない。雨の量。月の明度。雲のない澄んだ夜空。静かな風。自分が虹と月の間に立たなければいけないこと。さらに虹を見渡せる場所にいること・・・・。多くの数字が合うことでしか開けられない鍵のように、さまざまな条件が奇跡的にクリアーされなければ、ナイトレインボーには会えないのだ。
タケシはハンドルから手を離し、助手席からNikon F5を取り上げて手に持った。フィルムはプロ用の高感度35mmフィルムを入れた。三脚と二脚もピックアップの荷台に置いてある。さぁ、雨よ、もっと降れ! 水滴で空気中にベールをつくれ! そして、月だ。煌々と神秘の光で地上を照らせ!
やがて1時間後、雨は突然上がった。タケシはさらにクルマを奥に進め、溶岩流でゴツゴツとした場所に停めて、ドアをゆっくり開けて外に出た。雨がまだ少し降っていた。そして、空気を思い切り吸い込み、晴れかかっている世界一澄んだこの島の夜空に祈った。
今夜こそは、会わせてくれ。マウナケアよ。夜の虹に。今夜こそ。
ラクダをイブラハムは歩きながらひいていた。砂漠の砂はサラサラと細かく、鮮烈に赤かった。その赤い三日月型の起伏があちこちへと折り重なりながら続いていた。暑かったが、風が緩やかに吹いていて、ラクダに乗っているイギリスの女性は水平線を穏やかな表情で見ていた。残りの2頭のラクダは父がひいていた。1頭のラクダにはイギリス人の父親と可愛い女の子が乗っていた。イブラハムのラクダの女性が母親で、3人の家族のツアーだった。3頭目のラクダはランチのための材料や食器、そして2挺のライフル銃が積まれていた。かなたに大きな岩山が見えて来ている。下にはわずかに緑の草地も見える。その岩陰がお決まりのランチの場所だ。もう20分も歩けば着くだろう。
ラクダとラクダで交わされる英語の会話をイブラハムは聴いていた。父親が砂漠の広大さに感動する言葉を大きな声とジェスチャーで言うと、子どもが答え、母親がにこやかに乗り心地はどう?と聞く。5、6歳の女の子はどこかで馬に乗った経験があるらしく、「馬より楽しい」と言う。イスラムの教えでは家族の絆をかけがえのないものとして大切にするが、おそらくキリストの教えを信じる彼らも同じなのだろうとイブラハムは思った。
ふと、彼はいつの日か、この地を自分は出ていくのではないかと予感した。何かの啓示のようだった。砂漠ではない国へ、四季のある国へ、英語が話される国へ、ひょっとすると地球ではない場所へ。それはトキメキを秘めた憧れでもあったが、父や母をこの地に置いて出て行くことはできない、そんなことは到底できないとも思うのだった。
砂漠の上には、白く輝く太陽があって、地上のあらゆるものを容赦のない光で照らしていた。12時には西のメッカに向かって礼拝をする。偉大なる神に祈ろう。耳を澄まして言葉を聞こう。自分の歩む道はどこに向かっていて、その先には何が待っているのか。それをどうしても知りたいとイブラハムは願っていた。
今、大西洋をISS2は通過して行く。もうすぐ大陸の壮大な朝焼けに突入する。90分で地球をひと回り――なんて素敵な乗り物だとマイケルは思う。
この宇宙で生活していると意外なことに気づく。それは、宇宙が人工衛星にあふれ始めているということだ。しかも確かなその数はもうわからないのだ。2030年代の終わりには、衛星の数は2万機ほどにもなると言われている。増加の一途をたどるスペースデブリと衛星の激突、衛星同士の衝突の可能性さえもリアルに高まっていた。
人類はなんと宇宙までも、大都会の渋滞のような場所にしてしまったのだ!
愚かだ、愚かすぎる・・・。マイケルは深いため息をつく。国籍不明の衛星も数多い。なぜ、国境のない宇宙までやって来て、国や民族や主義にこだわり続けるのか、彼にはまったく理解ができなかった。
宇宙は夢の場所ではなかったのか。人類はやっと笑いあえる場所を見つけたのではなかったのか。それを争いの場所にしようとしているのは、どこの誰なのだ?
月が見える。あまりにも美しい月が見える。その月では各国の基地建設が進もうとしている。醜いナショナリズムの戦いがそこでも開始されている。神が創造した比類のない美しさで輝く月に、ヤツらは再び血みどろの国境線を引くつもりなのだろうか。
雨が上がった・・・月はどうだろう・・・? 出ている! 煌々とした満月だ。
夏原タケシは潅木と溶岩の暗闇を夢中で歩いた。もう道はない。何度か転んだが、NIKONを落とすまいと必死にガードして進んだ。現地のロコに聞いたポイントへ。三脚を肩に担ぎなから。
ナイトレインボーは気まぐれだ。AIでいくら予想しても出る場所を明確に示すことはできない。コンピュータが答えを出せない神の領域がまだあるのだ! タケシはこのハワイ島に住んでから、多くのことを自然から学んだ。そして、予測できない自然から、予測できない次のページをめくる喜びをもらった。
星が無数の光点となって瞬いていた。なんてキレイなんだと思いながら、溶岩の高い連なりを這いながらやっと越えた瞬間だった。風景が、新しいページに替わるように突然、サッと開けた。
目の前に、虹が大きなアーチとなって現れていた。
ああ、夢のなかにいるようだ・・・・タケシはただ呆然と立ち尽くし、涙が自然にあふれ出すのを感じた。しかし、やることがある。撮るのだ。この神から与えられた奇跡を永遠に残すのだ。そのために僕はカメラを持ち、今までカメラマンという職を生きて来たのだ!
巨大なナイトレインボーは中空にあり、背景に星々を従えて、神秘の国の女王のように君臨していた。
月は背後にある。さ、精一杯輝いてくれ。この暗さでは三脚が必要だ。タケシは素早くセットしようとする。奇跡が消えるまで、ほんのわずかの時間しかない。焦る。大きな息をつく。妻の笑顔が一瞬浮かぶ。ついに、会えたよ。海からの風が意思あるもののように吹いて来ている――。
X国の偵察衛星の光学カメラは、砂漠を進むラクダを捉えていた。サウジアラビア、リヤド付近。ラクダは3頭。それを二人の男がひいている。乗っているのは3人。1名は子どもだ。地上基地が指令を出すと、カメラはズームし、2挺のライフルを映し出した。この砂漠のエリアは、ゲリラが身をひそめるには絶好の場所だ。多様な勢力が複雑に絡み合っている。カメラは10センチ四方を識別する。映像データは宇宙からX国の地上軍事基地に送信され、危険だと判断されれば、さらなる追尾や砲撃などのしかるべき処置が講じられるだろう。
Y国の偵察衛星はハワイ諸島の上空にいた。ビッグアイランド、ハワイ島には各国の天文台が4000メートル級の高地付近に建設され、宇宙の情報を刻々と収集・分析している。今は夜だが、衛星の赤外線カメラは昼間と同じように対象物を識別できる。一人の男が、長い棒状のものを持って移動している。おそらく武器ではなく危険度は限りなく低いが、データはすべて地上に送信された。
X国、Y国と対峙するZ国の地上レーダーは、大気のよく澄んだ場所から偵察衛星を24時間監視していた。天文台からの宇宙情報も集められていた。衛星の動きを見ていると、偵察の対象が何なのかを推測することができる。万が一、戦争が起こった時、その偵察衛星の関与度次第では、地上の軍事基地からミサイルで破壊することも作戦の範囲とされている。
世界の動きは、もはや宇宙から完全に監視されていた。軍隊だけではない、ゲリラだけではない、一般の一個人でさえ、その監視の対象になっていた。宇宙条約が締結されても、各国は秘密裏に違法に、宇宙からのスパイ活動を行っていた。「神の杖」、つまり宇宙空間からのミサイル型爆撃も、もはや時間の問題だと言われている。核兵器をはるかに超える破壊兵器、SFでしか見たことのない悪魔の兵器が現実になろうとしている。しかし、X国もY国もZ国も、もう配備を「実際に」完了しているという情報もあった。
ナイトレインボーは10分足らずで遠ざかって行った。後には、きらびやかな星々の充満した夜空が残された。幻に会ったようにタケシは放心して、空をただ見つめていた。目を閉じなくても虹の残像が脳裏にはっきりと映っていた。ただひたすらな混じり気のない美しさ。その7色の余韻が自らの存在の奥に広がり、いつまでも消えていかなかった。
35mmのフィルムは現像に出さなくてはいけない。うまく撮れているか不安がジワリと襲ってくるが、どんなふうに撮れているか、その予測できない楽しみもあふれ出している。妻と生まれてくるベビーに最高のプレゼントができた。スマートデバイスでも撮った数枚は、露出が短く暗かったが、夜空に美しい巨大アーチがそれなりに映っていた。
タケシはその内の1枚をPlanet Angel TubeのDJマイケル・ハザウエイに送信した。「・・・偉大なる自然に心から感謝する。LOVE &PEACE!」というメッセージをつけて。
正午の礼拝が済み、ランチの片付けが終わるころ、父が「ベドウィンの末裔イブラハム、お前はお前の旅をしろ」と笑顔で突然、言った。砂漠の風が強くなっていた。それでもその言葉はくっきりと耳に残って、心からいつまでも動かなかった。父はいつの間にか、自分の心を読んでいたのだ。ランチの片付けをしながらツアー客と一緒に聴いていたPlanet Angel Tubeを見ると、巨大な夜の虹の映像がアップされていた。こんな虹がかかる場所がこの地上にはあるんだ!とまず驚き、次に、宇宙を経由してこの映像が届けられたことに感動した。僕らが生きている、この世界は広いのだ! 旅をする――どうしたらいいか、具体的にはわからないが、大きな勇気と愛を父から預かった気がイブラハムはしていた。
ISS2は、太平洋にまた戻って来ている。夜から昼へ、そして夜へ、ステーションは動いて来た。マイケルはナイトレインボーの映像をアップした。「初めて見たぜ! すごいぜ! 自然は天使だ、その姿や声をもっと見ようじゃないか、聞こうじゃないか。タケシ、ありがとう! 君と君の家族に、LOVE&PEACE!」
LOVE&PEACE! ―――なんて古いスローガンなんだとマイケルは思った。しかし、テクノロジーはとめどなく進化しちまったが、ホントのところは何も変わっちゃいない。愛と平和。それ以外にこの人生を動かす大事なものがあるなんて思えない。90年の人生を賭けて、絶対、そうだ!
さ、今日のLIVEはそろそろ終わりだ。最後の曲は何にしよう。『ムーンリバー』か、『虹の彼方』か。それとも『イマジン』か・・・。
何れにせよ、この宇宙から音楽という天使を降らせることがオレの仕事だ。
「ハロー! 地球! 聴いているかい、軍事衛星のみんなも! 宇宙のウルフマン・ジャックからラストナンバーのプレゼントだ。さ、平和で行こうぜ! こちらPlanet Angel Tube!」
ちょっと嗄れているが、元気な声が機器たちのキラキラ光るスタジオに響く。
「さぁ、ISS2からライブ中継の始まりだ!」
ここは高度400km、熱圏軌道を回る国際宇宙ステーション2(ISS2)だ。スタジオからはブルーの地球が窓いっぱいに嘘のようなリアルさで見えている。
「今日も地球は美しいぜ。こんな美しい星でどこのどいつが戦争しようなんて思っているんだ。その大バカ野郎も宇宙に飛び出して、この地球を見ろ。さ、悪魔でさえ天使になっちまう場所から放送だ!」
DJのマイケル・ハザウエイは、そう叫びながら曲をサーチする。眼前のモニターには曲のリストがずらっと並んでいる。しかし、彼のチョイスは感覚的だ。思いつくままに次から次へと宇宙から地上へと音楽を舞い降ろす。
宇宙と地上の通信はすべて光でつながれている。2030年代の半ば、人類は光をメディアにして瞬時に自由に情報を伝え合う、神々しい世界を築きあげていた。
マイケルはいつも番組をISS2が日付変更線を通過するころから始める。地球一周が90分。Planet Angel Tubeのライブもその1周で終了する。
カメラは船外のカメラ、スタジオ内のカメラの2台。ライブ中はそれを使い分ける。船外カメラはほぼ360度の角度をカバーし、地球を見たままに映すこともあれば、ズームで映すこともある。宇宙からの宇宙である月や人工衛星を映し出すこともできる。とりわけ巨大な月の冷たい輝きは圧倒的に心を震わす。残念だが、月にはウサギもライオンも髪の長い女性も水桶を運ぶ男女もいない。しかし、それでも月には心を現実から解き放つ神秘の詩が光り輝いている。
今、スタジオカメラは真ん前からマイケルを映している。今年、90歳になる彼の顔はシワだらけだが、その動作にはよどみがない。機器やカメラを使いこなしながら、DJを鮮やかに演じていく。
経度180の日付変更線の右にハワイ諸島がある。マイケルはズームで諸島を映し出す。
今は夜だ。オアフ島のワイキキあたりに光の小さな群が見えるが、あとは黒く塗り込められて、島と海の境もほとんどわからない。
「さ、今日はカラパナから行こうか」
マイケルは、ハワイ出身のバンドの曲『愛しのジュリエット』を指で探し出し、すぐさまクリックする。そして、次もハワイつながりで、ジャック・ジョンソンか、ブルーノ・マーズにしようと瞬時に考えている――。
『愛しのジュリエット』は、宇宙から地上に美しく舞い降りていく。
ヒロからキラウエア・ボルケーノへ。活火山の島、ハワイ島の夜の道をTOYOTAのピックアップトラックが駆けていく。
1980年代のモデルで50年以上たった今も動力系は力強いままだ。EVもいいが古いモデルを修理しながら使い続けることも地球のためになる、そう考える島民も多い。道は舗装されているが、凸凹がところどころあり揺れる。
ラジオからカラパナが流れている。Planet Angel Tube。マイケル・ハザウエイのTubeだ。
夏原タケシは宇宙からの放送をインターネットラジオで聞くのが好きだ。
昼間のドライビング中、天空から音楽が大気の成分となって降りてきて、この島の自然の色彩を鮮やかに際立たせる。音楽が発色を変える。そんな気分がするのだ。
空、海、波、草原、火山、花、虹。人間が汚してしまった神の絵の具とパレットが、このハワイ島の自然の力と宇宙からの音楽の力で、汚されないまま生きている。そう感じ取れるのだった。
今は夜だ。揺れる窓の外には、闇を明るく照らす満月が見えている。その光は自分の存在の奥まで照らしてくるかのようで神霊なマナのパワーに満ちている。
妻は家に置いてきた。身重で、夜はゆっくりさせた方がいいと思った。二人はこの島にバカンスでやってきて好きになり、住むことに決めた。
夏原タケシは、初めてハワイ島のヒロに来た時のことを思い出す。ホノルルの喧騒を逃れたいなんてことは少しも考えずに、世界一澄んだ空がここにある、世界中の天文台がここに集まっている、という宣伝文句につられて、オプショナルツアーでホノルル空港を飛び立ち、ヒロ空港に降り立った。驚いたのは、同じハワイなのに、たった50分ほどのフライトで、ワイキキ界隈とはまるで違った空気や色や形がそこにあったことだ。タイムスリップした――簡単に言うと、そう感じたのだった。何もかもが古くて、懐かしくて、人間と自然がともになじみあって生きている空気があふれていた。
タケシは35歳で広告カメラマンをしていて、同じ年の妻はIT企業でマーケティングをしていた。サービス業とは違い、東京、あるいは日本にいなくても仕事はできる環境にあった。そして、二人とも何より疲れていた。デジタルとマーケティングの言葉で、頭はいっぱいに埋め尽くされていて、毎日、膨大に大切な「何か」を浪費している感覚が付いて回っていた。
スタジオで深夜までタケシは人物撮影をした後、そのままデスクで修正作業をし、やっとのことでクライアントにデータを送る。ところが、その後に何度も何度もオーダーが入り、修正をやり直す。何をやりたかったのかは、もうどこかにすっかり消えていき、事を収め、前へ進めるだけにすべての努力を費やす。そんな日々が続いていたのだった。どこへ向かうかわからない日照りの道をあてどもなく歩いているようだと感じていた。
ホノルルへ戻る飛行機のなかで、眩く発光する海を見下ろしながら、
「良かったね、ちょっと住みたくなっちゃった」
と妻が言った時、
「僕もそう思ってたんだ」とすぐにタケシは言葉を返していた。
この瞬間、ハワイの先祖神である<アウマクア>が二人の心に棲み着いたのだろうか。やがて2年後、二人は導かれるようにヒロに住み始めた。住み始めて1年で、結婚後なかなかできなかったべビーを授かったのだった。それは偶然ではなく、運命であるかのように二人は感じ取った。医師から妊娠を告げられて病院の外に出た時、いつの間にか降っていた雨が止み、大きな虹が教会の向こうにくっきりと架かっていた。二人はその天空からの贈り物を、いつまでも肩を寄せ合い、時を止めて、仰ぎ見ていた。
満月がルート11号の道を照らしている。しかし、雲が少しかかってきている。急な雨になるかもしれない。TOYOTAのピックアップは小さな街の明かりを通り過ぎていく。しばらくするとカーティスタウンだ。今日はその周辺のエリアを深夜過ぎまで巡ってみようとタケシは思っている。
まだ見たことのない「ナイトレインボー」と出会うために。最高の祝福をもたらすと言われる、伝説の夜の虹をカメラに収めるために。
イブラハムは、リヤドの町外れの遺跡<ディルイーヤ>にいた。砂漠から街の方角に風が静かに巻き上げるように吹いている。サウジアラビアの首都の喧騒がうっすらと夢のなかで聞くようにさざめいている。一斉にモスクのスピーカーから呼びかけられた日の出の礼拝から数時間、今、太陽は頭上高く昇り、時間さえもが熱い陽射しに溶けていくかのようだった。
黄土色のレンガで造られたかつてのサウード王国の都市は、今は人気の観光スポットになっている。イブラハムはこの美しい廃墟で、今、旅行者たちと父を待っている。滞在しているホテルから、この場所へ父がマイクロバスで連れてくるのだ。あと30分足らずで着くだろう。
15歳のイブラハムにとって考えることはたくさんあった。今も、いつの間にか深い穴に身を沈めるように考えていた。その考えは主に明日に向かっていて、何よりまだ知らない世界を知りたいという思いが強かったし、それにとどまらず、知ることで自分はどんな人になっていくのだろう、どんな人になるべきなのだろうという思いもあった。
白いトーブ姿の彼は、日差しのなか、赤く発色する遺跡の近くのレンガに座って、スマートデバイスをタップした。Planet Angel Tube。
「ハロー! 地球!」
マイケル・ハザウエイの英語が宇宙のライブ映像とともに流れてくる。砂漠のオアシスに住む彼の現在の時間に宇宙の悠久の時間が訪れる。
英語は学校で習っていて、少し聴き取れる。学校が休みの日、旅行ガイドの手伝いをする際、スマートデバイスを連絡用に持つことを父から許されている。そして、一人になった時に、英語の番組を視て、英語の音楽を聴く。ウキウキと熱中しながら同時に、今について、未来について考え、自分の内にある、ふわふわとした「何か」について考える。
イブラハムはベドウィンの末裔だ。その血が彼のなかを濃く深く流れていた。砂漠の遊牧民、ベドウィン。果てしのない砂漠を太陽や月や星座を見ながら移動し、家族と部族の絆を大切にし、放牧をしながら過酷な生活を生きぬいてきた、誇り高き民。
祖父が若いころまでは、彼の一族はまだ砂漠にいた。しかし、国家の統治的観点から、近代的生活の観点から、あるいは経済的な観点から、サウジアラビアのリヤドに定住を決めたのだった。だが、ベドウィンであることは生活のなかから完全には消えていかなかった。父は外国旅行者のために、砂漠の民の生活を疑似体験するツアーを企画し、キャンプ場をつくり、生業としたのだった。
今日もこれから1泊のツアーに出かける。<ベドウィンと赤い砂漠を旅するツアー>だ。ディルイーヤから出発し、砂漠を3頭のラクダとともに移動し、正午にはランチ。さらに砂漠を南下し、夜はテントで野営。翌朝、ディルイーヤに戻る。大した移動ではないが、砂漠には危険がある。突然の天候の変化もある、そして、思わぬ襲撃もある。襲撃――それは最近、とみに増えている。ゲリラによる反政府の戦いだ。国境を接する国から、そのゲリラによるミサイル攻撃も頻発していた。だから、ラクダには銃を積む。父は「この地はずっと戦いをし続けてきた、戦いに勝たないものは生き残っていけない」と言う。
しかし、イブラハムは思うのだ。このなんにもない不毛の砂漠の地を、命をかけて争って手に入れることになんの意味があるのだろうと。
父のマイクロバスがパーキングに入ってきた。イブラハムは宇宙からの映像を数秒見てから、そのバスの方に歩いて行った。
西海岸の歓楽都市、ラスベガスは光のイルミネーションのようだ。風が強いのだろうか、さまざまな色の人工の光が小刻みに点滅している。ISS2は地球を早足で巡っている。マイケルはプレスリーの『好きにならずにいられない』を地上の世界に流す。
ラスベガスにビルを持っていた。シカゴにもダラスにもニューヨークにも持っていた。マイケル・ハザウエイは不動産で大きな財を築いた。
そのオレが一体、なんで、この地上400kmでDJなんかやっているんだ?
太陽の光を受けて輝く月の巨大なクレーターをカメラで見ながら思う。
3度、結婚した。そしてよく働いた。いろんなヤツと戦い、あるいは仲間に引き込み、法律スレスレに稼ぎまくった。ビジネスはパワーそのものだった。しかし、最後に待っていたのは孤独だった。愚かしいことに80代にやっとそのことに気がついた、やっと。
心に残されたものは、満足でも栄誉でも賞賛でもなく、ブラックホールのような孤独の暗闇だった。すべての感情はその暗闇に引き摺り込まれて、もうどこにも出て行けず、心の奥底に深く沈殿し続けた。哀れな、マイケル! 哀れな、かつての不動産王!
3人の妻はもうこの世にはいなかった。大邸宅も、広大な土地も、一等地のビルも、もうどうでも良かった。そんなものは結局、何の役にも立たないのだった。子どもたちはマイケルのその財産を相続し、無駄に使い果たそうとしていた。
肉体も徐々に衰えていった。90歳の今、もう脚はまったく使いものにならなかった。目も耳もかなりイかれていた。それぞれの器官に機械を入れ、コンピュータで制御して動かしている。完全なサイボーグにどんどんとマイケルの体は近づいて行っている。かろうじて元気なのは脳と心臓だけだ。
地上ではうまく歩けなくても、無重力の宇宙空間では動ける。肉体の意志が通る。だから、もうマイケルは地上には戻りたくなかった。命が続く限り、この宇宙にとどまり生を終えたかった。できたら、最後は宇宙ゴミ(スペースデブリ)となって宇宙を永遠に彷徨いたかった。
夢の話をしないとな、とマイケルは月に目をやりながら思う。『好きにならずにいられない』が終わると、スイッチをオンにして彼は光の通路を使って地上に語り始める。
「・・・好きな子がいたんだ。青春のど真んなか、さ。ベトナムではまだ戦争をやっていた。あのころ、デートのお決まりはどこだか知ってるかい? メタバースの会議室じゃないぜ、ハハ! 映画館さ。あのクラシックな暗闇に、二人で息を潜めて、スクリーンの馬鹿でかい絵や音をシェアするんだ! 汗をかいた手なんかつなぎながら・・・・」
そうだ、あの時、二人で見ていたのは<アメリカン・グラフィティ>。ハイスクール最後のオンリー・ワン・ナイトを描いた傑作。音楽が秒の隙間にまで入っているような映画だった。甘く切なく悲しかったが、とてつもなく美しかった。そこに、あるDJが実名で登場する。<ウルフマン・ジャック>! 史上最高のDJ! 月に吠える狼のような声! たたみ込まれるナレーション! 最高にイケてる選曲!
オレはなりたかった、ウルフマン・ジャックに。不動産ビジネスはオレじゃない別の人間がやったんだ。名前も育ちもいっしょの、もう一人のオレが。他人を傷つけながら、たまに悪魔に魂を売り渡しながら、マネーを成功のポケットからあふれさせて。
そうして、オレはついに宇宙でDJになった。夢を人生の幕が降りる前に手に入れたんだ。マイケルは顔の皺をくしゃくしゃにして笑った。それはおそらく宇宙一の笑顔だった。
最後のマネーを使って、宇宙に出て、1日90分のスタジオ使用を許されたんだ。マイケルはまだ笑顔のまま、アメリカン・グラフィティで彼女が一番好きだと言った曲を流す。結局は離ればなれになった彼女を思い浮かべるが、顔さえ思い出せない。でもそれでいい、音楽が覚えているだろう。70年近く前の、二人の時間の感触と胸の高鳴りを。
「さ、行ってみようか、プラターズ『オンリー・ユー』!」
そう吠えるように言って、ボーカルが歌い始めるとマイケルは宇宙船の窓際にフワリと移動する。窓外を見て、不安な気持ちがぼんやりとだが強く胸をよぎる。
国籍不明の衛星が、かなり遠くだが確認できるところに不気味に浮かんでいた。月の光を反射し、何かを企みながらこちらを見ている気がしてならなかった。宇宙ステーションのクルーたちは、あれはX国、あるいはY国の偵察衛星ではないかと推測している。
ハワイ島、カーティスタウン付近。パラパラと降り始めた雨は、あっという間に狂暴に大地を襲い出した。クルマを大粒の雨が激しく叩く。月明かりは消えて、夜の闇のなかでその雨の粒はもう見えない。
いい兆候だ。Planet Angel Tubeの音量を上げる。『オンリー・ユー』が流れている。夏原タケシは、ルート11から小道に入って、ゆっくりとクルマを止めた。
昼間の虹は、大量に降った雨のあと、太陽の光がその水滴に屈折、反射して、プリズムの原理で7色に分解される。ナイトレインボーは月の光でできる。太陽に比べれば、その光量は頼りないほど少ない。雨の量。月の明度。雲のない澄んだ夜空。静かな風。自分が虹と月の間に立たなければいけないこと。さらに虹を見渡せる場所にいること・・・・。多くの数字が合うことでしか開けられない鍵のように、さまざまな条件が奇跡的にクリアーされなければ、ナイトレインボーには会えないのだ。
タケシはハンドルから手を離し、助手席からNikon F5を取り上げて手に持った。フィルムはプロ用の高感度35mmフィルムを入れた。三脚と二脚もピックアップの荷台に置いてある。さぁ、雨よ、もっと降れ! 水滴で空気中にベールをつくれ! そして、月だ。煌々と神秘の光で地上を照らせ!
やがて1時間後、雨は突然上がった。タケシはさらにクルマを奥に進め、溶岩流でゴツゴツとした場所に停めて、ドアをゆっくり開けて外に出た。雨がまだ少し降っていた。そして、空気を思い切り吸い込み、晴れかかっている世界一澄んだこの島の夜空に祈った。
今夜こそは、会わせてくれ。マウナケアよ。夜の虹に。今夜こそ。
ラクダをイブラハムは歩きながらひいていた。砂漠の砂はサラサラと細かく、鮮烈に赤かった。その赤い三日月型の起伏があちこちへと折り重なりながら続いていた。暑かったが、風が緩やかに吹いていて、ラクダに乗っているイギリスの女性は水平線を穏やかな表情で見ていた。残りの2頭のラクダは父がひいていた。1頭のラクダにはイギリス人の父親と可愛い女の子が乗っていた。イブラハムのラクダの女性が母親で、3人の家族のツアーだった。3頭目のラクダはランチのための材料や食器、そして2挺のライフル銃が積まれていた。かなたに大きな岩山が見えて来ている。下にはわずかに緑の草地も見える。その岩陰がお決まりのランチの場所だ。もう20分も歩けば着くだろう。
ラクダとラクダで交わされる英語の会話をイブラハムは聴いていた。父親が砂漠の広大さに感動する言葉を大きな声とジェスチャーで言うと、子どもが答え、母親がにこやかに乗り心地はどう?と聞く。5、6歳の女の子はどこかで馬に乗った経験があるらしく、「馬より楽しい」と言う。イスラムの教えでは家族の絆をかけがえのないものとして大切にするが、おそらくキリストの教えを信じる彼らも同じなのだろうとイブラハムは思った。
ふと、彼はいつの日か、この地を自分は出ていくのではないかと予感した。何かの啓示のようだった。砂漠ではない国へ、四季のある国へ、英語が話される国へ、ひょっとすると地球ではない場所へ。それはトキメキを秘めた憧れでもあったが、父や母をこの地に置いて出て行くことはできない、そんなことは到底できないとも思うのだった。
砂漠の上には、白く輝く太陽があって、地上のあらゆるものを容赦のない光で照らしていた。12時には西のメッカに向かって礼拝をする。偉大なる神に祈ろう。耳を澄まして言葉を聞こう。自分の歩む道はどこに向かっていて、その先には何が待っているのか。それをどうしても知りたいとイブラハムは願っていた。
今、大西洋をISS2は通過して行く。もうすぐ大陸の壮大な朝焼けに突入する。90分で地球をひと回り――なんて素敵な乗り物だとマイケルは思う。
この宇宙で生活していると意外なことに気づく。それは、宇宙が人工衛星にあふれ始めているということだ。しかも確かなその数はもうわからないのだ。2030年代の終わりには、衛星の数は2万機ほどにもなると言われている。増加の一途をたどるスペースデブリと衛星の激突、衛星同士の衝突の可能性さえもリアルに高まっていた。
人類はなんと宇宙までも、大都会の渋滞のような場所にしてしまったのだ!
愚かだ、愚かすぎる・・・。マイケルは深いため息をつく。国籍不明の衛星も数多い。なぜ、国境のない宇宙までやって来て、国や民族や主義にこだわり続けるのか、彼にはまったく理解ができなかった。
宇宙は夢の場所ではなかったのか。人類はやっと笑いあえる場所を見つけたのではなかったのか。それを争いの場所にしようとしているのは、どこの誰なのだ?
月が見える。あまりにも美しい月が見える。その月では各国の基地建設が進もうとしている。醜いナショナリズムの戦いがそこでも開始されている。神が創造した比類のない美しさで輝く月に、ヤツらは再び血みどろの国境線を引くつもりなのだろうか。
雨が上がった・・・月はどうだろう・・・? 出ている! 煌々とした満月だ。
夏原タケシは潅木と溶岩の暗闇を夢中で歩いた。もう道はない。何度か転んだが、NIKONを落とすまいと必死にガードして進んだ。現地のロコに聞いたポイントへ。三脚を肩に担ぎなから。
ナイトレインボーは気まぐれだ。AIでいくら予想しても出る場所を明確に示すことはできない。コンピュータが答えを出せない神の領域がまだあるのだ! タケシはこのハワイ島に住んでから、多くのことを自然から学んだ。そして、予測できない自然から、予測できない次のページをめくる喜びをもらった。
星が無数の光点となって瞬いていた。なんてキレイなんだと思いながら、溶岩の高い連なりを這いながらやっと越えた瞬間だった。風景が、新しいページに替わるように突然、サッと開けた。
目の前に、虹が大きなアーチとなって現れていた。
ああ、夢のなかにいるようだ・・・・タケシはただ呆然と立ち尽くし、涙が自然にあふれ出すのを感じた。しかし、やることがある。撮るのだ。この神から与えられた奇跡を永遠に残すのだ。そのために僕はカメラを持ち、今までカメラマンという職を生きて来たのだ!
巨大なナイトレインボーは中空にあり、背景に星々を従えて、神秘の国の女王のように君臨していた。
月は背後にある。さ、精一杯輝いてくれ。この暗さでは三脚が必要だ。タケシは素早くセットしようとする。奇跡が消えるまで、ほんのわずかの時間しかない。焦る。大きな息をつく。妻の笑顔が一瞬浮かぶ。ついに、会えたよ。海からの風が意思あるもののように吹いて来ている――。
X国の偵察衛星の光学カメラは、砂漠を進むラクダを捉えていた。サウジアラビア、リヤド付近。ラクダは3頭。それを二人の男がひいている。乗っているのは3人。1名は子どもだ。地上基地が指令を出すと、カメラはズームし、2挺のライフルを映し出した。この砂漠のエリアは、ゲリラが身をひそめるには絶好の場所だ。多様な勢力が複雑に絡み合っている。カメラは10センチ四方を識別する。映像データは宇宙からX国の地上軍事基地に送信され、危険だと判断されれば、さらなる追尾や砲撃などのしかるべき処置が講じられるだろう。
Y国の偵察衛星はハワイ諸島の上空にいた。ビッグアイランド、ハワイ島には各国の天文台が4000メートル級の高地付近に建設され、宇宙の情報を刻々と収集・分析している。今は夜だが、衛星の赤外線カメラは昼間と同じように対象物を識別できる。一人の男が、長い棒状のものを持って移動している。おそらく武器ではなく危険度は限りなく低いが、データはすべて地上に送信された。
X国、Y国と対峙するZ国の地上レーダーは、大気のよく澄んだ場所から偵察衛星を24時間監視していた。天文台からの宇宙情報も集められていた。衛星の動きを見ていると、偵察の対象が何なのかを推測することができる。万が一、戦争が起こった時、その偵察衛星の関与度次第では、地上の軍事基地からミサイルで破壊することも作戦の範囲とされている。
世界の動きは、もはや宇宙から完全に監視されていた。軍隊だけではない、ゲリラだけではない、一般の一個人でさえ、その監視の対象になっていた。宇宙条約が締結されても、各国は秘密裏に違法に、宇宙からのスパイ活動を行っていた。「神の杖」、つまり宇宙空間からのミサイル型爆撃も、もはや時間の問題だと言われている。核兵器をはるかに超える破壊兵器、SFでしか見たことのない悪魔の兵器が現実になろうとしている。しかし、X国もY国もZ国も、もう配備を「実際に」完了しているという情報もあった。
ナイトレインボーは10分足らずで遠ざかって行った。後には、きらびやかな星々の充満した夜空が残された。幻に会ったようにタケシは放心して、空をただ見つめていた。目を閉じなくても虹の残像が脳裏にはっきりと映っていた。ただひたすらな混じり気のない美しさ。その7色の余韻が自らの存在の奥に広がり、いつまでも消えていかなかった。
35mmのフィルムは現像に出さなくてはいけない。うまく撮れているか不安がジワリと襲ってくるが、どんなふうに撮れているか、その予測できない楽しみもあふれ出している。妻と生まれてくるベビーに最高のプレゼントができた。スマートデバイスでも撮った数枚は、露出が短く暗かったが、夜空に美しい巨大アーチがそれなりに映っていた。
タケシはその内の1枚をPlanet Angel TubeのDJマイケル・ハザウエイに送信した。「・・・偉大なる自然に心から感謝する。LOVE &PEACE!」というメッセージをつけて。
正午の礼拝が済み、ランチの片付けが終わるころ、父が「ベドウィンの末裔イブラハム、お前はお前の旅をしろ」と笑顔で突然、言った。砂漠の風が強くなっていた。それでもその言葉はくっきりと耳に残って、心からいつまでも動かなかった。父はいつの間にか、自分の心を読んでいたのだ。ランチの片付けをしながらツアー客と一緒に聴いていたPlanet Angel Tubeを見ると、巨大な夜の虹の映像がアップされていた。こんな虹がかかる場所がこの地上にはあるんだ!とまず驚き、次に、宇宙を経由してこの映像が届けられたことに感動した。僕らが生きている、この世界は広いのだ! 旅をする――どうしたらいいか、具体的にはわからないが、大きな勇気と愛を父から預かった気がイブラハムはしていた。
ISS2は、太平洋にまた戻って来ている。夜から昼へ、そして夜へ、ステーションは動いて来た。マイケルはナイトレインボーの映像をアップした。「初めて見たぜ! すごいぜ! 自然は天使だ、その姿や声をもっと見ようじゃないか、聞こうじゃないか。タケシ、ありがとう! 君と君の家族に、LOVE&PEACE!」
LOVE&PEACE! ―――なんて古いスローガンなんだとマイケルは思った。しかし、テクノロジーはとめどなく進化しちまったが、ホントのところは何も変わっちゃいない。愛と平和。それ以外にこの人生を動かす大事なものがあるなんて思えない。90年の人生を賭けて、絶対、そうだ!
さ、今日のLIVEはそろそろ終わりだ。最後の曲は何にしよう。『ムーンリバー』か、『虹の彼方』か。それとも『イマジン』か・・・。
何れにせよ、この宇宙から音楽という天使を降らせることがオレの仕事だ。
「ハロー! 地球! 聴いているかい、軍事衛星のみんなも! 宇宙のウルフマン・ジャックからラストナンバーのプレゼントだ。さ、平和で行こうぜ! こちらPlanet Angel Tube!」