オフィスに踏み込むと、無機質な空間にチープなデザインの白いデスクと椅子が並んでいた。デスクの上には、それぞれ発光するモニターが置かれ、人型ロボットが座っている。おおよそ10数人、いや、10数「体」。それらが同じような動きで作業をしていた。
 ダブルの紺色スーツを着て、派手な赤いネクタイをした男がぼんやり立っていた。
「永田社長ですね」
 四条総一郎はその男に声を鋭く投げた。

 2030年代後半。TOKYOのダウンタウンの古ぼけたビル。夜9時過ぎ。
 およそ50年前、映画「ブレードランナー」で描かれたサイバーパンクそのものの、未来でありながらアルゴリズムを持たない巨大なカオス・シティ、TOKYO。サーチライトを光らせたキャブが飛び交い、街角を救急車とパトカーが悲鳴に似た音を立てて駆けていく。メタ空間が発達した今、リアル店舗は数少なくなり、賑わっているのは、バーやレストランやバーチャルゲーム・スタジアムばかりだ。そこに人々は集まり、漂流しがちな心を停泊させ、魂を開け放つ。少子化の壊滅的進展の結果、政府は難民を大量に受け入れていて、TOKYOには多種多様な人間が住んでいた。ひらがな、漢字、アルファベット、キリル、ハングルなど雑多な言語がネオンとなって混沌の輝きを放ち、それらの人間たちの合間を縫って、ロボットたちが立ち働いている。

 従業員32人のその会社には、どう見ても人間は社長一人しかいなかった。
「だからね、みんなオンラインで仕事してるから、ここにはいないの、わかる?」
 社長の永田道雄はそう怒鳴るように言って、鼻をキツくかんだ。鼻が赤くなった。
「まさか、ですが。ロボットを従業員数にカウントしてるんじゃないでしょうね」
 四条はなるべく冷静に声を落として言った。
「そんなこと、してないよ! ほとんどオンラインなんだよ、うちはそういう働き方」
 鼻が赤いだけでなく、顔まで赤くなってきている。人は言い逃れを始めると、血圧が上がり、決まって赤くなる。
 小太りの永田は長身の四条にやっと席を勧めた。身長の差はかなりあるが、年齢は同じ40歳くらいだろうか。四条は座りながら、もう一度オフィスをぐるっと鋭利な目で見渡した。

 四条は、法人の税金逃れを調べる<スペシャル・エージェント>、つまり特別税務捜査官だ。政府が委託している会社Xに属し、隠密裏に動き、強い権限での捜査ができる。
 特に、この数年、顕著に増加してきたのが従業員数の水増しだ。
 人型ロボットやアンドロイドを企業が多数雇ったり、メタバースで複数アカウントを社員が使っていたり、社員が副業で何社かの仕事をするようになったり、と、もはや従業員数は非常に曖昧なものとなりつつあった。しかし、意図的な従業員数のオーバーカウントは、所得隠しになり、法人税逃れになる。ロボットはいるが人間がいない、そんな会社がタレコミのリストに多数上がり、一件一件、捜査のメスを入れないといけない事態になっていた。
 そして今、倉庫業を営む永田のオフィスに踏み込んでいるのだ。

「では、そのオンラインで働いている方が社員であることを証明してください」
 四条はオフィスの片隅のテーブルで永田と対峙しながら問いかけた。永田からは甘いアルコールの匂いが微かにしていた。顔が赤いのはそのせいもあるかもしれない。目を何度も瞬かせる。なんだか、何かにいつもせかされているような男だ。
「ね、アンタ。勝手に人の会社に入ってきてエラそうだよね、ずいぶんと、さぁ」
「ま、そう言わずに、私の質問に答えてください。お願いします」
 四条はわずかにへりくだった。
 永田は、吸っていい?とも聞かず、タバコに火をつけた。紫の煙が一筋ゆらゆらと立ち昇った。数秒後、タバコのフレーバーの匂いでアルコールの匂いは消されていた。今時、タバコはとてつもなく高価なものになり、無論、健康に害があることもあり、もう吸う人はごく稀にしかいなかった。
「珍しいヤツだと思ってるだろ。そうだよ、オレは珍しい。でも、そうじゃないとやってられないのさ、わかるだろ、アンタも。ま、いいよ。証明するものを今度、集めておくよ、それでいいんだろ」
 その口調は、明らかに開き直っていた。四条は目線で永田を真っ直ぐに捉えて言った。
「今度とはいつですか。例えば、数日後とかは、いかがですか」
「無理、無理・・・全然、無理・・・さぁ、いつにするかなぁ・・・」
 煙が永田の口からゆっくりと昇り、不気味な生き物のように漂って行く。
「では、1週間後、また来ますよ。それでいいですよ、ね」
 永田はそれには答えず、オフィスの方に体をゆっくり向け、四条の目線を外して言った。
「こいつらロボットだからさ、タバコをオフィスで吸っても文句言わないんだよ、いいだろ。それと24時間よく働くよ。倉庫に入れる、出す。テキパキとこなしてくれる。ま、レンタル料はそこそこするけどさ」
 ロボットたちはよくできていた。人間に本当に近かった。表情も遠くから見ると真剣に仕事に没頭している人間と変わらなかった。単純作業用のロボットでさえ、こうなのだから、ニュースで取り上げられる最先端の人型ロボットは恋愛の対象にしてもいいほど、精巧だった。
 四条は、ロボットに人間と同じ権利を与えることはできなくても、同じ給料を払ってもいいのではないか、とぼんやり感じていた。もちろん、給料を払っても彼らがそれを消費し快楽を手にする手段はない、だから、そう感じたことはまったくの妄想に過ぎないのだったが・・・・。
 いやいや、しかし、税法がある以上、それに則り、会社を経営してもらわないといけない。それが私の仕事だ、とも同時に思うのだった。

「・・・・オレの親父は、さ、運送業をやっていたんだよ。まだ小学校のころ、大昔の話だ。結構な数の従業員を抱えてさ・・・・」
 タバコには人を過去に戻す力があるのか。それともたまたま、永田の心のスクリーンに過去がふと映ったのか。彼は話すというよりは語り始めていた。
「なんだっけ、あれはリーマンショックって言ったっけ。それで、おかしくなったんだよな。ガキのオレにもわかったよ、お袋にオヤジが辛く当たったりしてさ。従業員を怒鳴ったりもしてたな。オヤジは変わったのさ。会社が燃えて、自分も燃えて、すっかり焦げて、燃えカスみたいになっちまった・・・」
 永田は大きくタバコを立て続けに吸って、吐き出した煙が天井に昇っていくのを放心したように見ていた。
「金の切れ目が縁の切れ目って、まったくよくできたことわざだよな。従業員がだんだんと辞めていくわ、ドライバーも引き抜かれていくわ。会社をたたんで、借金払って・・・それで何が起こったか、アンタ、わかるかい?」
 四条は答えなかったが、視界の隅に人影が入ってくるのを感じた。この時間に一体誰なのだろう。
「死んだのさ、オヤジは、自分でね・・・・」
 そう言うと、永田は体も目線も四条に戻したが、口を閉ざし、しばらく黙った。二人は静かに見つめ合う形になった。数分後、永田は声を押し殺すように低く笑った。
「ハハハ・・・その親父の息子のオレが、また、こうやって事業に手を出したってわけさ。笑えるだろ」
 そして、最後の一服を吸うと、無造作にタバコをフロアーに落とし、靴でグリグリとぞんざいに踏み消した。四条はずいぶん見ていない光景を見たと思い、危ない行為だと思った。
「ま、心配するなよ。人間が後始末してくれる」
 四条の気持ちを先回りしてそう言ってから、手招きをした。その手招きの先に一人の中年の人間の女がいた。さっきの人影だ。日本人ではない東欧系の顔をしていた。ニッコリと二人に柔らかく笑った。
「ロボット以外にも従業員はいるんだ。彼女にはオフィスを綺麗にする仕事をしてもらっている。ダウンタウンで困っていたんで、オレが雇ったわけだ」
 永田は急がされるように不意に立ち上がった。
「ま、オレも、社会にいいことはしてるんだ。じゃ、またな、捜査官どの」
 永田は緩んだズボンのベルトを締め直し、オフィスのエントランスへ向かった。女とすれ違うと、「ありがとう」と小さく言いながら肩を軽くポンと叩いた。そして、きらびやかな闇をたたえたTOKYOに溶けるように消えていった――。



 冷たい金属のベンチに四条は座っていた。ここはダウンタウンの馬鹿でかいショッピングモールの広場だ。照明がムダに明るく、植え込みの芝生は所々で剥げ、噴水の水ももう出ていない。人影もない。
 四条はボスにスマートデバイスからコンタクトを取った。小さな画面に顔が映った。ロバート寺川。彫りの深い顔立ちの男だった。実際に会ったことはない。会うことは、X社のようなミッションの組織では必ずしも賢いことではない。仮想というアンダーグランドで繋がれば用は済む。リアルで繋がることで捜査の秘匿性が妨げられこともあるのだ。
「Nと話をしました」
 四条は小声で話した。
「どうでした?」
 ロバートの背景には窓越しのビルの夜景らしきものが見えた。どこにいるのだろう。
「明らかにやってますね。間違いありません。いろいろ言ってはいましたが」
「彼は他に副業を持っていると言うリークもあります」
 ロバートの声は落ち着いていて、感情の抑揚がなかった。
「1週間後にまた会います」
 そう言って、スマートデバイスの画面から四条は1秒、目を離した。広場に二人の人間がやってきている。しかし、距離は、10メートルはある。彼は話を続けた。
「危害を与えるような男ではないと感じました」
「わかりました。その結果を報告してください、また指示を出します」
 ロバートは言って、わずかに口角を上げ、自分の方から画面をオフにした。

 広場の二人は、中年の男と10歳程度の女の子だった。男は日本人のようだったが、女の子は金髪で肌が白かった。そして、美しかった。男はサスペンダーのだぶだぶのズボン、女の子はジーンズに白いシャツを着ていた。二人はやがてボーリングのピンのようなものを何本も大きな袋から取り出し、宙に投げ始めた。ジャグリングの練習だった。
 広場の明るい照明が、ジャグリングに当たり、キラリキラリと光った。次から次へ、それは腕から湧き上がるように宙に舞った。男は年代物のラジオカセットを持ち出し、ボリュームを大きくひねって音楽をかけた。テンポのいいサウンドが広場の隅々にまで広がっていく。
 四条はぼんやりとだが、二人を長いこと見ていた。男はジャグリングの本数を順調に増やしていった。女の子は時々、ジャグリングを落とした。金色の髪を必死に揺らして、それを拾ってまた投げた。何度も投げた。やがて顔に汗をかいて、照明でたくさんの涙かと見間違うほど光った。
 ひょっとすると悔しくて涙と汗がいっしょになっているのかもしれなかった。
 汗も涙も、ロボットのものではなく、人間のものだ―――ふと、四条はぼんやりとした意識のまま感じ取っていた。

 生きていることで、思いを深めることで、体外に分泌される液体。それはとても美しいものなのではないか。

 彼はポケットからリンゴを出した。さっきモールで買った赤いリンゴ。なぜ食べたくなったかわからないが、無性に食べたくなって一つだけ買った。そのかぐわしい香りの球体を彼はかじった。サクッと歯が果皮を超えて果肉に届き、すぐに口一杯に甘い汁が広がっていった。幸せだと思った。
 小さい量だが、これは確かに幸せの重さなのだ。幸せとは、何かの目標を叶えた時の心ではなく、今、生きていることが明るく灯る時の心ではないのか。
 不意に、永田の親父の話を思い出す。そう言えば、自分の父親も会計事務所をやっていたが、AIの普及とともに得意客が離れていった。その時、もっと時代を読む感覚があれば違った結果が出たかもしれないが、やがて事務所は傾き、親父は経営を諦め、親戚がやっている会社の経理に収まった。コンピュータ社会はあっという間に事態を変える。それは無情に人の生活を壊していくこともある。しかし、その変化に追いつけない人間は置いていかれるしかないのだ。そう言えば、DXという言葉が大流行したな、あのころ、と四条は思った・・・・。

 広場では、女の子がジャグリングを投げ続けていた。
 失敗しながらも、汗をほとばしらせて、夜の闇に美しい軌道を描いていた。まるで祈りを空に届けるようだと四条は心が透き通るように感じていた。



 永田が失踪した。
 1週間後、四条がオフィスを訪れると、相変わらずロボットたちが黙々と誠実に働いていた。しかし、永田はどこにもいなかった。代わりに、この前会った女性がいた。「永田さんはどこへ行きましたか」と問うと、「社長いない。どこかへ行ったよ」と答えた。嘘を言っているとは思えなかった。嘘に慣れている職業なのでその勘は確かなはずだ。
 追加の税徴収があるとしても、ものすごい額ではないだろう。キツイとは思うが会社を放り出して逃走するほどではない。それ以外に理由があるのか。ロバート寺川は副業をやっているとも言っていた。副業の方が忙しくなったのか。四条はしばらく考えたが、答えは出なかった。ともかく、再び現れるのを待つか、それとも探し出すか、のいずれしかないだろう。四条は後者にしようと決め、女性に会釈をして、オフィスを出てロバート寺川に報告をした。
 彼はいつものようにスマートデバイスの画面に現れた。今日の背景は暗い取調室のようなところだ。永田が消えたこと、探してみようと思っていること、を言うと、ロバートは端正な彫像のような顔で抑揚なく静かに言った。
「小さな案件ですから、無理しないようにしてください。危険なこと、危険なところに気をつけてください」
 TOKYOのダウンタウンの闇は深い。犯罪は数多かったが、検挙率は低調だった。汚れた水が地面に染み通り、地下で大きな水脈となっている、そんなエリアになっていて、正義や常識が見えないほど混沌としていた。



 四条はダウンタウンのはずれにあるチャイニーズレストランで、リー・コーライを待っていた。林紅蕾。彼女はシンガポールの華僑の家柄だ。中国語はむろん、英語、フランス語、スペイン語、日本語を流暢に話す。ITテクノロジストでもあるが、今の本業は「人探し」だ。
今、夜の7時前。6月の夕陽のかけらが白いテーブルクロスとビールのグラスに残っている。
 サイバー空間が広がることで、人の「実在」はわかりにくくなっていた。アバターを個人が持つことも普通になっていて、顔や年齢や性別の判別がつかなかったし、そんなものどうでもいいという空気も増していた。リアルが基本だった人間社会のルールがもう通用しづらくなっていた。しかし、その一方で、隠れてしまいがちな「リアルな人間」を探し出したいというケースも生まれてきている。リーの仕事もそれだった。しかも、デジタルテクノロジーを駆使した極めて優秀な「人探し」のプロだった。四条は彼女に揺るぎのない信頼を置いていた。
「ソウ、久しぶり!」
 リーはグリーンの半袖のワンピースを着ていた。長く黒い髪をかきあげて、ニッコリと笑った。額が広く、大きな目で、愛くるしい顔をしていた。すごい能力を持っている人とはとても思えない自然な人だった。彼女は、総一郎を「ソウ」と呼んでいる。
「やぁ、リー。もう先に始めていたよ」
「あら、チンタオ(青島)ね。私もそうしようかな」
 リーは、ロボットのウエイターに目配せし、四条のチンタオを指差した。
「座ってすぐだけど。Nはまだ手がかりがないわ」
「意外と、あれで用心深い男なんだな」
 四条はタバコをくゆらす小太りの男の顔を思い浮かべる。間も無くサーブされたチンタオで二人は乾杯をした。リーの顔に残照がオレンジ色に射していた。
「どう、ビジネスは?」
 四条は訊いた。リーは微笑みを絶やさず答えた。
「そうね、まぁまぁね。いろんなことが難しくなっている。そちらは?」
「こっちも、難しくなっている。状況はどんどん解きづらいパズルのようだよ。案件が次から次へ起こっているけど、追徴まで手間がかかることが多くなっている」
「いつから社会はこんなに複雑になったのかしら」
 リーは窓の外を、少しため息をつくような仕草で見て、メニューを手に取った。
 二人はいろいろなものをオーダーし、いろいろなことを話した。初めは二人が最初に出会ったパリのこと。次に、四条が外国人部隊に傭兵として入っていたこと。次に、IT企業にいたリーが日本語を学ぶために日本人のグループに接近していたこと。そして、楽しく朝までパリの誰かの家で騒いでいたこと・・・・。
 四条はリーに何度も心を動かされたが、本気で彼女を愛せなかったことを今、彼女と話しながら思い出していた。あれから10数年、お互いに独身だから、そのチャンスはまだ取り戻せる、とも感じていた。
「ね、ソウ、1ロボットって、知ってる?」
 リーは、海老と香菜入りの生春巻きを頬張りながら突然、尋ねた。
「イチロボット? いや、わからない」
「単位よ、単位」
「何の?」
 四条は新しく頼んだ、よく冷えた白ワインを喉に流し込んだ。
「働いて成果をあげることの単位よ。人型ロボットが普通に働く成果の量を1とする。それ以下か以上かを測る。人間に適用されるインジケーター」
「例えば、君は、1.5で、僕は、0.5みたいなこと?」
「その通り」
「バカバカしい!」と四条は首をすくめるポーズをとった。
 リーは大きな目で四条を静かに見つめた。
「本気で政府は使うつもりらしいわよ、生産性の単位として。だって、生産性の明確なインジケーターは今までないんだから、統治する側が持とうとしても不思議じゃない」
 四条も真剣にリーの目を見つめて、しばらく黙った。もちろん、そんなことはあるわけがないと感じたが、やがて、ありえないことはないような気もしてくるのだった。
 この社会はどこに行くんだろう。そして、人間はどこへ行くのだろう。ひりひりとした不安が胸をよぎっていく。
「気をつけなければ、データや数字だけが真実である社会ができてしまうのかも」
 リーはそう呟いてから、気を取り直すように笑って明るく言った。
「ま、すぐの話じゃないと思うわ。さ、食べましょう、今日がいちばん大事な日だから!」
 四条も明るく笑い返したが、その笑顔はどこか中途半端に淀んでいた。


 久しぶりに酔っていた。四条はリーと別れたあと、酔いを覚ましながら一人で考える時間が欲しいと思い、マンションまで歩いた。道の途中に川があった。川沿いには緑のスペースが伸びていて、そこの古ぼけた木のベンチに座った。渡っていく風が心地よかった。
 1ロボット。
 その言葉が頭から離れなかった。彼が恐ろしいと思ったのは、数字で管理されることと言うより、数字で測れないものは切り捨てられるという乱暴さ、無情さだった。しかし、自分もノルマを果たすために、追加徴収する金額をせっせと増やそうとしている。この感じはなんと言ったらいいのだろう。「生きづらい」。そんな言葉が若い時分、しきりに言われていたが、今はもうそれさえも言われることはなく、すべてが「わかりづらい」世界になってきている。
 多様な価値観と急速なテクノロジーの海で、僕らの乗る船は幸せの国へ向かっているのか、どうなのか・・・・。
 どのくらいそこにいたのだろう。四条は、「さ、明日も頑張って目の前にあることをこなしていくしかない」と思い直して、暗い川べりを家の方角に歩き始めた。
 突然、黒い塊に当たった。人が倒れていた。四条は驚いて暗闇を覗き込んだ。
 いや、人ではない。ロボットだ。手を宙に上げたまま動かなくなっている。エネルギーが切れたのかもしれない。しかも、その横にもう2体のロボットが倒れている。誰かが不法に破棄したのだろうか。暗くてよく見えなかったが、どこかが破損しているわけではないようだ。ともかく不気味だった。人間に似ているから、それらはリアルに死体のようにしか見えないのだった。
 どうしたらいいのだろう。四条は倒れているロボットを足で蹴るようにして動かした。1体、2体、3体・・・・、反応はなかった。やがて、人ではないのだから、ここに放って置くしかないという結論に至りついた。人なら救急車を呼ぶ。しかし、人ではないのだから、単なる「もの」なのだから、放置しておくしかない。それは自然な思考だ。
 心に微かなわだかまりはあったが、四条は意を決した足取りで振り返りもせず、その場を立ち去った。



 ショッピングモールの広場では、二人がジャグリングの練習をしていた。中年の男と金髪の女の子。久しぶりに来たように思うが、いつもの光景だなと微笑みながら、四条の心は柔らかく動き始めた。キラキラと宙に舞う金属の膨らみのある棒。それを全身でバランスを取りながら、リズミカルに受け、投げ上げる美しい肉体。
 今日もいくつかのオフィスに出向き、込み入った案件を処理してきた・・・。今はわずかな達成感と疲労感が混在していた。ポケットにはリンゴがあった。またモールで買った。今日は二つ買った。
 四条は、ボスに話したいことがあると呼び出されていた。どうせ、今日の業務の報告もしなくてはいけない。彼はいつものようにスマートデバイスを立ち上げ、メタバースの空間へINした。ロバート寺川はすぐにいつもの抑揚のない表情で現れた。背景は真っ黒い布のようだった。
「本日の案件の報告をします。その前に。話したいこととは何でしょうか?」
 四条は聞いた。ロバートはこう言った。
「残念なことを言わなくてはいけません」
「何でしょうか」
 四条は繰り返した。ロバートは少し間を置いて宣告した。
「あなたを解雇します。あなたはロボット社会不適合者と判定されました」
 四条はその突然すぎる言葉に息を飲み込んだ。
 そして、ほんの数秒の沈黙の後、アッと大きな声をあげた。言葉にした。
「ひょっとすると、あなたは・・・」
 ロバートは無言で頷いた。
「ロボットだったんですね・・・」
「そうです。あなたはロボットたちを助けなかった。心のどこかでロボット社会への進化を拒否していた。繰り返します。あなたを解雇します」


 四条は広場にいて、ぼんやりとジャグリングの二人を見ていた。いろんな疑問が鈍く渦巻いていた。ロボットたちを助けなかったとは、リーと会ったあとの川沿いの公園でのことだろうか。あの行動を誰が見ていたのだろうか。あんな寂れた場所に監視カメラがあったとは思えない。一体、誰が・・・・。社会の進化に、最近、違和感を覚え始めていたことは確かだ。しかし、それを言葉にしたことはないはずだ・・・・すべては監視されているのか・・・。
 ロバート寺川は税務捜査官のボスではなく、他のミッションを持って私を調査していたのだろうか。なぜ? なぜ? 疑問は何度も繰り返され、解決されずに絡み合い、重く沈殿していった―――。

「探したよ、アンタを」
 声がいきなり後ろからした。四条はゆっくりと振り向いた。暗がりに永田がダブルのスーツで立っていた。
「久しぶりだな、兄弟。シケた顔して、どうした?」
 お前に兄弟と呼ばれる筋合いはないと言おうとしたが止めた。永田は隣に腰を下ろした。もう四条にはこの男を捕まえる必要も権限もなくなっている。
「あのブロンドの子もオレが救ったのさ。数字を追い求める仕事はもうロボットたちに任せればいいんだよ。ルールは変わった。人間の仕事は、人間を救うことさ。オレと一緒にやらないか、な、兄弟。救おうぜ、はじかれ、行き場のなくなった人間たちを」
 永田が話し終わると、四条はじっと黙り込んだ。
 しばらくして、ポケットから二つの赤いリンゴを出し、一つを自分の手に持ち、もう一つを永田の胸に差し出した。


 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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