黒い男 ─ 未来のエモーション 第10話
時代は203X。今から10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。一話完結。第10話は「黒い男」。
海が見渡す限り広がっている。遊覧船が波をキラキラと光らせて走っている。白いTシャツにグリーンのジャケットの、一人の若い男が大きく伸びをした。
彼は海に面した山下公園のベンチに一人で腰を下ろしている。
横浜の港の左側には長く伸びた桟橋があり、大きな客船がのんびりと停泊している。港の向こうには工場地帯の煙突が林立し、巨大な風力発電のブレードがゆっくりと時計方向に回っている。
爽やかな秋の青空だ。風も心地よく動いている。若い男は最近、Mと人気を二分している新しいハンバーガーチェーンのチーズバーガーを手にした。価格的にやや身分不相応な感じもするが、焦げ目がついた国産牛が香ばしくて美味しいと評判だ。
今日は久しぶりに会社に来た。会社はこの公園の近く、みなとみらいにある。10数年前のパンデミック以来、ビジネスはすっかりオンラインになった。週に会社に行くのは平均2日ほどだろうか。あとは自宅でも、カフェでも、公園でも、レンタルルームでも、仕事ができる。それでなんの問題もないが、確かに会社の人とは会わない。2030年代の前半に入社して以来、先輩も同僚も後輩もきちんとリアルに会った人は20人いるかどうか。会って、意外にも高身長だった女子もいたりした。古い世代は会ってなんぼと言う。そして若い世代はそんなの古いよ、と言う。しかし、いま、ハンバーガーをほおばった若い男も、正直、会社があまりにバーチャルな気がしてつまらないと思うときもあった。
さて、彼のことを紹介するのが遅くなった。影山栄治。文房具メーカーRに勤める入社6年目の男だ。Z世代とかつては言われていた、デジタルネイティブな世代。オンライン以外の働き方を経験したことはない。大学時代はサッカーの同好会に所属していた。ポジションはハーフ。優しい性格で優しい顔をしている。決してモテないタイプではないが、まだこれと決まった相手はいない。今日はこれから会社に行く。その前にお気に入りの公園で、いま、ランチをしているところだ。
この若い男の物語は、この海を見渡せる公園の昼下がりから始まる。
ベイブリッジの上空にスカイタクシーが飛んでいた。その飛行音はいくつか重なっていて、よく見ると数台が飛んでいた。羽田空港へ行くのか、あるいは羽田空港からみなとみらい地区の高層ビルのヘリポートに行くのか。スカイタクシーにまとわりついて遊ぶように白いかもめたちも滑降していた。
栄治はその飛行するいくつかのものの行く先をぼんやりと見ながら、最後のハンバーガーの一口を終えた。うまかった、癖になりそうだった。スマートデバイスが「エイジ、報告会1時間前です!」と女性の声で知らせる。彼は、ゆっくりとベンチを立ち上がって、また大きく伸びをした。
今日は月に一度の販売実績報告会だ。すべての営業担当が集まり、一人ひとりがその月の数字を会社のおエライさんに報告し、評価を受ける場だ。全部で50人ほどの人数になる。あまりにひどい数字だと叱責を受けることもあるし、なぜそうなったかの分析を求められることもある。
「影山くん、どうしてなんだね、みんな売り上げがいいのに」とか。「頑張ったと言うけど、数字に現れないと頑張ったとは言えないんだよ」とか。
この会議には、セレモニーの意味ももちろんあった。同じ目的を持って働く社員が同じ場に集まることで、会社の構成員たる自覚を持たせ、共有意識を感じさせ、インナーブランディングを強化し、絆をつくる。まぁ、そんな目的があった。オンラインでやらないことにこそ、大きな意義を会社のエライ人たちは感じているのだろう。
栄治もその目的をよく理解はしていた。ただ、どうにも鬱陶しいと感じるのは、その場がマウントの醜い戦いの場になることだ。一人ひとりの性格はどうかわからないが、その報告の場では、自分を大きく見せることが「通常」なこととして行われるのだった。
ビジネスが人の本来の姿を変えてしまう。そんなふうに彼は虚しく感じた、いつもいつも。だから、彼はこの月に一度の会議が、イヤでイヤでたまらなかった。会議前に自分の実績データを会議主体である営業統括局に送信するとき、嫌悪のあまり心臓が高鳴り、パクパクと酸欠の金魚のように息をした。もっと盛ればよかったかも・・・問い詰められたらなんて答えよう・・・後輩たちにダメなやつだと思われたら・・・と、自分の中の揺らぎに、いたたまれなくなるのだった。
そう、影山栄治はあまり優秀なセールスマンではなかった。いや、優秀なセールスマンにはなり得ない性格だったと言ってもいいかもしれない。入社時に何回か会っただけの同期より、ほぼ毎月、数字が悪いことは特に彼を傷つけた。
しかし、そのマウントの場を除けば、会社Rでの毎日は嫌いではなかった。街の文房具屋さんやデパートや商業施設の文房具売り場の人と触れ合いながら、必要な製品を置いてもらうことは、むしろ心安らぐことだった。
いま、この物語をお読みの方の中には、文房具なんて2030年代に、売れるのか、と思う方もいるかもしれない。その疑問に答えておこう。
文房具は人が書くこと、描くことをやめない限り生き残る。情報伝達と情報ストックのインフラは、すっかりウェブになったことは間違いないが、それでも人は書く、描く。現実に、クレヨンや色鉛筆などというアンティックな遺物のような文房具もコンスタントに売れていた。親と子のコミュニケーションツールなど、教育の場でも欠かせないものだった。
さらに、文房具の進化も着々となされていた。例えば、1000文字くらいの情報なら記憶でき、メールで送信、共有できるペンも開発されていて、ヒット商品になっていた。アイデアが湧きやすい脳科学を応用した、筆記具のシリーズもマーケットに出始めていた。アナログツールではなく、アナログの体感性や情緒性を活かしたデジタルツールへと成長している。そんな位置に、今の文房具があった。
公園のベンチから立ち上がって、花壇がある海沿いの道を歩きながら、栄治は気分が重くなっていくのを感じていた。足取りも沼地に足を踏みいれたように重く変化していった。会社まで10分ほど、今日もやり過ごさなければいけない時間が待っている。
彼はただこう祈りながら、歩くのだった。
「時間よ、早く過ぎてくれ、早く過ぎて、鬱陶しいときを一瞬のときに変えてくれ」
そのとき、栄治を見つめている男がいた。
すらりとした体に黒いジャケットとスラックスを着込み、黒いステッキをついて、フェルトの黒い中折れハットをかぶり、立っていた。体全体が黒ずくめな男。いや、色彩だけではない。その存在にも、調和を欠いた暗さが確実にまとわりついていた。
黒い男はメガネをかけ、影山栄治が視界から消えるまでその姿を見つめ、やがてくるっと回転し、ステッキで地面をカツカツと叩きながら歩き始めた。沖の船がボーッと霧笛を大きく一つ鳴らした。
ほぼ1カ月がたった。明日は販売実績報告会だ。栄治はまた山下公園のベンチに座っていた。そのベンチからは噴水が見えていた。秋の透明な陽射しに、その水は大きく宙に舞ったり、ベール状に広がったりした。女神の石像が真ん中にあり、その周囲を水滴は自由演技のきらめきで踊っていた。
彼は「ああー」と長いため息をつく。さっきまで元町の古い文房具店で楽しく、お店のスタッフたちと話していたことはもう頭になかった。当然ながら、ため息の理由は、明日やってくる報告会だった。今月の数字はマウントしきれないほど良くなかった。なんと言いつくろおうか、考えていると、黒い影が不意にどこからともなく現れ、気がつくと隣に座っていた。
黒い影はいきなり言った。落ち着いた静かな声だった。
「よくこの公園でお見かけしますね」
ジャケット、スラックス、帽子、ステッキのすべてが黒く、男は不気味な印象だった。顔色は妙に青白く、口ひげをはやし、栄治の方を見ずに、ステッキに両手を置いて、同じ噴水の方を見ている。
「どこかでお会いしましたか?」
なんと答えていいかわからないまま、とりあえず栄治はそう言った。
「私はあなたをずっと見ていました、失礼ながら」
栄治は不可解さが心にじんわり広がっていくのを感じた。
「なぜ?」
男は少し笑って、シルバーの縁の分厚いメガネをかけた。そうして、栄治を見つめた。
「あなたは、心がどうしようもなく不安だ。そうですね」
「・・・・・」
「このメガネには新開発のセンサーがついていて、あなたの心を図形やデータにして科学的に把握することができるんです。それによれば、あなたはいま、メンタルヘルス的にはかなりいい状態ではない。ですね?」」
「あなたは誰なんですか?」
男はにっこりと笑い、メガネを外して、
「申し遅れました。私はこういうものです」と名刺を胸のポケットから取り出した。
そこには、
Y製薬株式会社 メンタル担当セールスパーソン
とあり、
新開発メンタルヘルス・センサーで、あなたの心の悩みをその場で見つけます。
とキャッチフレーズっぽい2行だけがあった。
「名前は?」と栄治は男の顔を恐る恐る見ながら言った。あまり表情の起伏のない顔がかえって、伺い知れない企みを感じさせて不気味だ。
「あなたは、Eコマースで商品を買うとき、いちいち担当者の名前を打ち込みますか?」
「・・・・いえ」
「それと同じです。ちなみに、その裏面にあるバーコードを読み取れば、我が社の技術がいかに卓越しているかがわかるはずです。そして、信頼に足ることがわかるはずです」
この黒ずくめの男がなにを企んでいるのか、栄治は推し測らざるをえなかった。突然現れて、いかがわしいメガネで心の悩みを見つけました、などと言い寄ってきて、あまりにも変だ。変すぎる。とにもかくにも用心しよう。関わらないようにしよう。
「そう、関わらないことにしようといま思っている、あなたの気持ちもわかります」
え、こいつ、僕の心を読んでいる・・・・驚きながら、栄治はちょっと強めに言い放った。
「僕はもう行かないといけません。明日、大きな会議があるんです。準備をしないと、です!」
栄治はベンチを立った。男は声のトーンを変えずに言った。
「チケンをしてみませんか?」
「えっ、チケン?」
「新薬をいち早く服用して効果を確かめることです。メディカル・トライアル」
「・・・・モルモットになれということですか」
「そうです。おイヤですか」と言い、威嚇するようにステッキをトンと1回、地面に打ち付けた。
「人類がまだ誰も体験したことのない効果を特別に手に入れることができるのです」
栄治は半腰のままになって男を見た。男の言葉と言い回しには、抵抗できない不可思議な磁力があり、栄治は動きをピン留めされた。そして、もう一度、ベンチに座り直した。
「あなたは特別な人になるのです。時間の呪縛から解放されるのです」
「明日やってくる、堪え難い時間の呪縛から逃れることができますか」
「ええ、もちろん」
「それなら・・・・」
「明日、もう一度、お会いできますか。この場所で、この時間に」
男はそう言って、フェルトの中折れハットの中折れの部分をちょっとだけ手でつまんだ。お互いの合意を祝福するような感じで。そして、静かに微笑みながら、ベンチを立ち、風景に溶け込むように去っていった。
翌日、男が手渡した薬は、ピンク色の錠剤で10粒あった。
「時間が早く流れる薬です。人にもよりますが、1時間が10分ほどに感じられるのではと思います。意識は朦朧としたりはしません。意識が明確なまま時が早送りのように流れます。明確なまま、がポイントです」
栄治は助かった!と思った。副作用を含めた危険性についても無論、頭をかすめたが、それ以上にこれから始まる報告会に使える!と感じたのだった。
「あなたが時間を早送りしたいとき、その前1時間くらいを目安にお飲みください」
黒ずくめの男から受け取ったピンクの錠剤を栄治はポケットに入れた。
そのとき、「エイジ、報告会1時間前です!」とスマートデバイスの女性の声が知らせた。
港は今日も晴れていた。海も空も明るく、果てしのない開放感に包まれているように感じられる。栄治はポケットの中から錠剤を一粒、出し、口を上に向けて、エイっと飲み込んだ。
男はそれを見て、言った。
「それから、です。飲みすぎてはいけません。1日に2錠以上飲むと、時間に対する感覚が壊れるかもしれません」
「わかりました。薬がなくなったら、どうしたらいいですか」
「ご心配なく。また、この公園であなたの前に現れます。私はメンタルヘルスのエキスパート。困っている人のところに現れるのが仕事です、ので」
黒づくめの男は笑顔になって、昨日やったように、ハットをつまみ上げ、会釈した。早く会社に行きなさいと男の顔の表情は栄治を促していた。
やがて栄治が視界から消えると男はステッキを動かしながら、軽やかにタップを踏んで得意そうに踊った。
ふた月あまりが経った。秋の空気に冷気が漂うころ、栄治は公園を訪れた。噴水を浴びる石の女神はちょっと寒そうだった。空はよく晴れ渡り、澄んでいた。海から吹く風には潮の香りがたっぷりと含まれている。栄治はベンチに腰をかけ、周りをゆっくりと見渡した。黒ずくめの男はどこにもいなかった。
なにもかもうまくいった。報告会はもちろんのこと、日頃の上司との打ち合わせにも薬の効果は絶大だった。イヤな時はあっという間に過ぎていき、なんのストレスも心に残さなかった。男が言うように、意識は明確だから、会議のメンバーの発言は全部きちんと記憶にあった。いわば、時間を速記しているような感覚。副作用もまったくなかった。そして、薬はあと2粒を残すだけになっていた。
しかし、だ。
すべてうまくいっていたのだが、思いがけない問題が栄治には起こっていた。いや、それは、問題という悪い感じのものではなく、明らかに心弾む感じのものだった。単純だが、最も人間をきらめかせるもの。偶然から始まって、やがて必然に育つもの。そう、栄治は恋をしたのだった。
お相手は、この話の最初の方に触れた、会ってみたら高身長だった女子、本庄エリカだった。販売部ではなく、商品企画部にいる2期上のプロダクトデザイナー。ボブヘアにキラキラとした目。そして、なによりもキリッと鮮やかな赤い唇が印象的だった。私は私らしく生きてやる!と主張しているような赤。その赤は、栄治の胸を刺すように惹きつけた。
リアル会議の折にお互いの苗字と顔を覚えたが、個人的に話したことはなかった。だが、神様は、二人の心が裸のままで会う不思議な瞬間を用意していたのだった。その突然の事件は、ピンクの錠剤を飲み始めたころに起こった。順を追って話していくことにしよう。
或る夜のことだった。8時を過ぎていただろうか。
会社から最寄りの地下鉄駅までのわずか100メートルほどの帰路を彼は歩いていた。みなとみらい地区は高級マンションが建ち並んでいて、落ち着いた住環境を損なわない程度の照明の道が続いている。上品な暗がりが続くと言ってもいいかもしれない。その暗がりを、自転車が猛烈な勢いで栄治の方に向かって走ってきた。その瞬間、「待って!誰か止めて!」という女性の鋭い声が聞こえた。
クロスバイクタイプの自転車は栄治と擦れ違おうとする。サングラスをかけた若い男の必死の形相が闇に浮かび上がる。手にはA4サイズほどの薄いバッグが見える。それは1秒ほどの出来事だったが、栄治には一コマ一コマが鮮明に認知された。すぐさま栄治は自転車を追いかけた。同好会とは言え、元サッカー部だ。脚力にはそこそこ自信はある。その背中に、「つかまえて!お願い!」の金切り声が必死に投げられる。ヒールの音をガンガン響かせて、女もこちらに狂ったように駆けてくる。
走り続けた。久しぶりに体の中のエネルギーを1ミリリットルも残さず燃焼させた。マンションの暗い中庭に自転車は逃げ込んだ。栄治の脚がやわらかい芝生を踏んだ。脚がもつれたが、自転車もスピードが落ちた。栄治が後輪に手が届きそうになると若い男はバッグを放り投げた。後ろから追っていた女が近づいてきていた。栄治が息を切らせながら地面に落ちたバッグを拾い上げると、「ありがとうございます!」と大声で言いながら迫ってくる。もうクロスバイクは闇に消えていた。
「ああ、良かったぁ」とエリカは息を弾ませて、栄治に頭を下げる。
「大事なものが・・・入っていて・・・・ありがとう・・・・ほんとに・・・・」
酸素を吸い込むことがまず必要なことだから、言葉は途切れ途切れになる。
「なにが・・・入っているん・・・です?」
栄治も息を弾ませて、平べったいバッグを手渡す。「ラフスケッチです・・・新商品の・・・」
「え?・・・そんなものを会社の・・・外に持ち出して・・・いいんですか?」
「夜・・・・家でアイデアを・・・詰めようとして・・・・」
中庭を照らす灯りの下で、二人は息をまだ弾ませていたが、ゆっくり駅へと歩き始めた。
「とにかく・・・ダメです・・・データ管理はちゃんとしないと」
「まさか・・・この時代、ひったくりに会うなんて・・・」
「まさかのために・・・みんな気をつけているんです・・・」
エリカは胸にバッグを抱きしめていた。二人は肩を並べながら歩いた。人は誰もいなかった。靴音が二つだけ。取り残されながら、絡み合いながら、一つのメロディになって夢の一部のように響いているーーー。
「ひょっとして手書きなんですか・・・ラフスケッチは」
「そうです・・・オリジナルです」
「いまどき、どうして・・・思い切りアナログなんですか」
「それは・・・私たちが文房具メーカー・・・だからです」
理屈はいまいちピンと来なかったが、気持ちはわかる気がした。駅への入り口で栄治は立ち止まって、エリカを見た。キリッとした目で、エリカも栄治を見た。AIでコントロールされた光がスポットライトのように二人への光量を増して、エリカの汗をかいた顔を浮かび上がらせていた。彼女の存在が、胸の奥の方で思いがけず明るく灯った。ああ、ここに探していた人がいるーーー栄治はそんなふうに思った。彼女の赤い唇は自分の存在を表そうとしていた。その赤さを栄治は忘れられないものとして記憶した。エリカはバッグをもう二度と離さないと決意して、きつく胸に抱えていた。
二人はやがて二人だけで会うようになった。会うと、美しい時間が泉のように想像を超えて流れ出した。時間は美しいまま、日常の器を超えてどうしようもなく溢れ、あっという間に過ぎていった。カフェで、レストランで、美術館で、ホテルで、平凡な街角のベンチで。
彼女は忙しかった。新商品のアイデアが次々と採用されて、それをプロトタイプにし、AIによる予測型マーケティングでシミュレーションを繰り返しているようだった。カフェで1時間待たされることはそれほど珍しくなかった。2時間待って、1時間レストランで食事をして、また彼女が会社に戻ったことも1回あった。
彼は、エリカと会うとき、こう祈るのだった。
「時間よ、ゆっくり過ぎてくれ、ゆっくり過ぎて、楽しい一瞬を永遠のときに変えてくれ」
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
黒づくめの男の声だった。誰も知らない空間を通ってくるかのように、彼は栄治の隣に突然、現れた。栄治はドキッとしたが、それは待ち望んだ遭遇だった。男にどうしてもお願いしたいことがあったのだ。
「ええ、うまくいっています」
男は例のセンサー付きのメガネをかけた。右手でメガネの縁のコントローラーを動かす。
「なるほど、サーモモードにすると、血流がいいことがわかります。特に脳のあたりが。エレクトロモードにすると心臓のパルスが・・・なるほど、極めて規則正しい。マインドの危機をあなたは脱したようですね」
栄治は、男へのお願いを口に出そうとして少し躊躇した。男は人がたくさん歩く、公園の周囲をぐるりとメガネで見ていた。
「このメガネで見ると、心が病んでいる人ばかりです。ほら、あちらにもこちらにも。特に、 そう、あなたはひどかったーーーこの心の医療のマーケットは途方もなく大きく成長するばかりです」
「あの・・・」、栄治は小さな声を出した。
「なんでしょうか。もう私たちはこれで会うこともない。ウィンウィンで物語は終わる。ですね?」
「あの・・・時間が早くではなく、ゆっくり流れる薬はないでしょうか」
男はその言葉を聞いて、すべての動きをピタリと止めて、栄治をまっすぐに見つめた。なにを言っているんだ、と非難するように。沈黙は長かった。30秒、いや1分。男は言った。
「いや、いけません。それはいけません」
「なぜです?」
「時間を早く過ごすことと、遅く過ごすことは、真逆の作用だから。怒りと笑いを同時に叶えるようなもの」
「で、ないのですか、その薬は?」、栄治は引き下がることはなかった。
「なぜ、あなたはいまのあなたではいけないとお思いになるのか? うまく行っているはずなのに、なぜなのか?」
「長く時間を過ごしたい人がいるんです。10分が永遠に感じられるほどに」
男はメガネを外して、うつむきながら首を左右に小さく振った。少し笑っているようだった。
「そうですか、そうですか。なるほど、そういうことですか」
「恋をしているんです、僕はいま!」
「恋はまことに影法師。いくら追っても逃げていく。シェイクスピアです。今度はそちらの心の病にかかったのですね、あなたは」
「僕の願いを聞き入れてくれませんか」
男は明るい海の方を見ながら、しばらくじっとしていた。そして、言葉にした。
「わかりました。考えさせてください。私の一存では決められない大きな問題です。また、明日。よろしいでしょうか、この場所で」
全身が黒の男は立ち上がった。数歩歩いて振り向いた。
「時間は、あなたそのものです。時間という紙にあなたの物語は書かれていく。その紙を気の向くままに変えていいのかどうか」
真剣な眼差しだった。海からの風が音を立てて二人に吹いている。
「それは人間の自由のはずです。心の問題なのだから」と栄治は言った。
「そこに薬という科学がどう介在するべきなのか」
自分に言うようにそれだけ言うと、男は遠くの空をしばらく見つめていた。
夜7時をまわった金曜のカフェはかなり混んでいて、窓側の並びの席をとりあえず確保した。栄治は座りながら、エリカを待っている。アイスカフェラテが彼の前に置かれている。窓側からは暗い海にゆらゆらと動く船の灯が見えた。会社から数分のカフェ。ここで会って、二人はいつも次の場所へと出かけていく。
エリカを長く待つことも、以前より少なくなりつつあったが、相変わらずあった。スマートデバイスが震える。「ごめんね、1時間遅れる。本当にごめん」。今日もエリカはそうなりそうだった。
しかし、今日は、会ってからの時間が長く過ごせる。多分そのはずだ。明日は休日なのだから。そんなことを思いながら、栄治は茶色のジャケットの胸ポケットから、白い錠剤を一粒取り出し、テーブルに置いた。そして、それを腕組みしながら、焦点が定まらないまま凝視し始める。
いつもの公園の噴水の前。黒づくめの男が白い錠剤10粒を渡すときに言った言葉。それが蘇ってくる。
「時間をプラス方向とマイナス方向に進ませる薬を同時に服用してはいけません、絶対に。数日は開けてほしいのです」。男の顔はいつもより真剣なように感じられた。
「約束できますか」
栄治は「ええ、もちろん。約束します」と答えた。
昨日は、1月の販売実績報告会だった。成績は数カ月好調だったが、年初の今月は急下降し、惨憺たるものだった。ごく自然に、残った2錠のうち1錠を栄治は服用した。
そして、今日だ。目の前には白い粒があった。迷った。とんでもないことが起こってしまうかもしれない・・・・だが、なにも起こらないかもしれない。やめようと何度も思ったが、栄治はやがて決断する。未来なんて、しょせん、わからないもの。それにこだわって、いまを無駄にしなければいけないなんて、愚の骨頂だ。同時に、エリカの花が咲いたような笑顔が幸せのドーパミンを振りまいて脳を駆けていく。
なんと言っても、彼は恋をしていたのだ。恋はルールを破る勇気の羽ばたきを人に与える。栄治は錠剤のシールドをまず破った。一気に水と共に飲み込んだ。多くの約束がそうであるように、男との約束もごく簡単に破られた。そうして、やがて、来るであろう、時間がゆっくり流れる効き目を彼は体を硬くして待った。
エリカは会社を飛び出すと、待ち合わせのカフェに小走りに向かった。すぐの距離なのに、少しでも早く着きたいと気持ちが走っていた。息を弾ませてカフェに着くと、彼女は栄治を探した。彼はいなかった。トイレに行っているのかもしれない。何度もゆっくり店内を探した。が、どこにも姿はなかった。エリカの胸はどうしようもなく騒いでいく。どこへ行ったの、栄治。スマートデバイスを鳴らした。レスポンスはなかった。エリカはもう一度、店内をくまなく探した。そして、1階の海側の席に孤独なアイスカフェラテを見つけた。誰もいないテーブルには薬のシールドのようなものが小さく光っていた。
あっ、と栄治は小さな声をあげた。手が少しづつ消えていっている。透明になっていっている。意識も少しづつ遠のいていっているようだ。ああ、薬は効いてきている、と栄治は感じた。だが、こんなふうに効いてくるものなのか。なんだか体が溶けていっている気がする。マイナス方向とプラス方向の時間。それはゼロ? ゼロとは消滅。時間がない世界。不思議に安堵に近い幸せな気持ちもした。なぜなら、時間に自分は縛られ、翻弄され、心を変形させられてきたのだから。こうして消えていく。それも悪くない・・・・。
いや、待て。あの男は、時間はあなたそのものだと言った。自分にとっての「あなた」。エリカにとっての「あなた」。溶解を始めている「あなた」。それらはどうなるのだろう。
きっといま、エリカは会社を出て、飛び跳ねるようにこちらへ向かっている。赤い唇から息を吐いて。そうだ、初めて、自転車泥棒を二人で追いかけたときのように。僕の時間が消えれば、エリカの時間はどこへ行くのだろう? 栄治はこの地上から消えながら、不安で胸がいっぱいになっていく。
カフェを外から見ている男がいた。黒ずくめの男だ。黒く長いトレンチコートを着て、ステッキを持って立っている。約束を破って、時間を失い、消えていく治験対象者を苦々しく見ていた。失敗だ。しかし、この事態を止められる薬はないのだ。
エリカは誰もいないテーブルを見つめた。栄治はここにいたのではないかと思った。なんだかわからないが、そんな気がした、確実に。カフェラテから水の雫がテーブルに落ちて、小さな水溜りをつくっている。その雫に栄治の「らしさ」を感じた。どこに行ったの?と苦しげに胸を詰まらせていると、空間にかすかに茶色の色彩の存在を見つけた。目をよくこらすと、それはジャケットの一部のようにも見えた。
ほぼ透明だが、微かな茶色のあたりをエリカは両方の手を広げて、胸に抱いた。ああ、いる。ここに栄治がいる。見えないが、確かにいる、「私の」栄治が。
胸を押し付けて、自分の温かさをすべてエリカはその無の場所に伝えようとした。
なにもない場所よ、なにかがある場所になれ。やがて、茶色ははっきりと茶色になり、ジャケットの輪郭はおぼろげに現れていった。店の数人が、エリカのそのパントマイムのような不思議な行為を見ていた。
ああ、温かい。栄治は脳の芯、おそらく記憶を司るあたりに熱を感じていた。どこか、いつも行きたいと思っていた、懐かしいふるさとのようなもの。わかった、それはエリカだった。エリカがいま、ここに来ているのだ。
黒づくめの男は、抱き合う二人を遠くから見ていた。栄治はもう栄治の姿になっていた。物語はハッピーエンドでなくてはならない。男はステッキを動かしながら、軽やかにタップを踏んで得意げに踊った。そして、闇の中へとふっと跡形もなく消えていった。
彼は海に面した山下公園のベンチに一人で腰を下ろしている。
横浜の港の左側には長く伸びた桟橋があり、大きな客船がのんびりと停泊している。港の向こうには工場地帯の煙突が林立し、巨大な風力発電のブレードがゆっくりと時計方向に回っている。
爽やかな秋の青空だ。風も心地よく動いている。若い男は最近、Mと人気を二分している新しいハンバーガーチェーンのチーズバーガーを手にした。価格的にやや身分不相応な感じもするが、焦げ目がついた国産牛が香ばしくて美味しいと評判だ。
今日は久しぶりに会社に来た。会社はこの公園の近く、みなとみらいにある。10数年前のパンデミック以来、ビジネスはすっかりオンラインになった。週に会社に行くのは平均2日ほどだろうか。あとは自宅でも、カフェでも、公園でも、レンタルルームでも、仕事ができる。それでなんの問題もないが、確かに会社の人とは会わない。2030年代の前半に入社して以来、先輩も同僚も後輩もきちんとリアルに会った人は20人いるかどうか。会って、意外にも高身長だった女子もいたりした。古い世代は会ってなんぼと言う。そして若い世代はそんなの古いよ、と言う。しかし、いま、ハンバーガーをほおばった若い男も、正直、会社があまりにバーチャルな気がしてつまらないと思うときもあった。
さて、彼のことを紹介するのが遅くなった。影山栄治。文房具メーカーRに勤める入社6年目の男だ。Z世代とかつては言われていた、デジタルネイティブな世代。オンライン以外の働き方を経験したことはない。大学時代はサッカーの同好会に所属していた。ポジションはハーフ。優しい性格で優しい顔をしている。決してモテないタイプではないが、まだこれと決まった相手はいない。今日はこれから会社に行く。その前にお気に入りの公園で、いま、ランチをしているところだ。
この若い男の物語は、この海を見渡せる公園の昼下がりから始まる。
ベイブリッジの上空にスカイタクシーが飛んでいた。その飛行音はいくつか重なっていて、よく見ると数台が飛んでいた。羽田空港へ行くのか、あるいは羽田空港からみなとみらい地区の高層ビルのヘリポートに行くのか。スカイタクシーにまとわりついて遊ぶように白いかもめたちも滑降していた。
栄治はその飛行するいくつかのものの行く先をぼんやりと見ながら、最後のハンバーガーの一口を終えた。うまかった、癖になりそうだった。スマートデバイスが「エイジ、報告会1時間前です!」と女性の声で知らせる。彼は、ゆっくりとベンチを立ち上がって、また大きく伸びをした。
今日は月に一度の販売実績報告会だ。すべての営業担当が集まり、一人ひとりがその月の数字を会社のおエライさんに報告し、評価を受ける場だ。全部で50人ほどの人数になる。あまりにひどい数字だと叱責を受けることもあるし、なぜそうなったかの分析を求められることもある。
「影山くん、どうしてなんだね、みんな売り上げがいいのに」とか。「頑張ったと言うけど、数字に現れないと頑張ったとは言えないんだよ」とか。
この会議には、セレモニーの意味ももちろんあった。同じ目的を持って働く社員が同じ場に集まることで、会社の構成員たる自覚を持たせ、共有意識を感じさせ、インナーブランディングを強化し、絆をつくる。まぁ、そんな目的があった。オンラインでやらないことにこそ、大きな意義を会社のエライ人たちは感じているのだろう。
栄治もその目的をよく理解はしていた。ただ、どうにも鬱陶しいと感じるのは、その場がマウントの醜い戦いの場になることだ。一人ひとりの性格はどうかわからないが、その報告の場では、自分を大きく見せることが「通常」なこととして行われるのだった。
ビジネスが人の本来の姿を変えてしまう。そんなふうに彼は虚しく感じた、いつもいつも。だから、彼はこの月に一度の会議が、イヤでイヤでたまらなかった。会議前に自分の実績データを会議主体である営業統括局に送信するとき、嫌悪のあまり心臓が高鳴り、パクパクと酸欠の金魚のように息をした。もっと盛ればよかったかも・・・問い詰められたらなんて答えよう・・・後輩たちにダメなやつだと思われたら・・・と、自分の中の揺らぎに、いたたまれなくなるのだった。
そう、影山栄治はあまり優秀なセールスマンではなかった。いや、優秀なセールスマンにはなり得ない性格だったと言ってもいいかもしれない。入社時に何回か会っただけの同期より、ほぼ毎月、数字が悪いことは特に彼を傷つけた。
しかし、そのマウントの場を除けば、会社Rでの毎日は嫌いではなかった。街の文房具屋さんやデパートや商業施設の文房具売り場の人と触れ合いながら、必要な製品を置いてもらうことは、むしろ心安らぐことだった。
いま、この物語をお読みの方の中には、文房具なんて2030年代に、売れるのか、と思う方もいるかもしれない。その疑問に答えておこう。
文房具は人が書くこと、描くことをやめない限り生き残る。情報伝達と情報ストックのインフラは、すっかりウェブになったことは間違いないが、それでも人は書く、描く。現実に、クレヨンや色鉛筆などというアンティックな遺物のような文房具もコンスタントに売れていた。親と子のコミュニケーションツールなど、教育の場でも欠かせないものだった。
さらに、文房具の進化も着々となされていた。例えば、1000文字くらいの情報なら記憶でき、メールで送信、共有できるペンも開発されていて、ヒット商品になっていた。アイデアが湧きやすい脳科学を応用した、筆記具のシリーズもマーケットに出始めていた。アナログツールではなく、アナログの体感性や情緒性を活かしたデジタルツールへと成長している。そんな位置に、今の文房具があった。
公園のベンチから立ち上がって、花壇がある海沿いの道を歩きながら、栄治は気分が重くなっていくのを感じていた。足取りも沼地に足を踏みいれたように重く変化していった。会社まで10分ほど、今日もやり過ごさなければいけない時間が待っている。
彼はただこう祈りながら、歩くのだった。
「時間よ、早く過ぎてくれ、早く過ぎて、鬱陶しいときを一瞬のときに変えてくれ」
そのとき、栄治を見つめている男がいた。
すらりとした体に黒いジャケットとスラックスを着込み、黒いステッキをついて、フェルトの黒い中折れハットをかぶり、立っていた。体全体が黒ずくめな男。いや、色彩だけではない。その存在にも、調和を欠いた暗さが確実にまとわりついていた。
黒い男はメガネをかけ、影山栄治が視界から消えるまでその姿を見つめ、やがてくるっと回転し、ステッキで地面をカツカツと叩きながら歩き始めた。沖の船がボーッと霧笛を大きく一つ鳴らした。
ほぼ1カ月がたった。明日は販売実績報告会だ。栄治はまた山下公園のベンチに座っていた。そのベンチからは噴水が見えていた。秋の透明な陽射しに、その水は大きく宙に舞ったり、ベール状に広がったりした。女神の石像が真ん中にあり、その周囲を水滴は自由演技のきらめきで踊っていた。
彼は「ああー」と長いため息をつく。さっきまで元町の古い文房具店で楽しく、お店のスタッフたちと話していたことはもう頭になかった。当然ながら、ため息の理由は、明日やってくる報告会だった。今月の数字はマウントしきれないほど良くなかった。なんと言いつくろおうか、考えていると、黒い影が不意にどこからともなく現れ、気がつくと隣に座っていた。
黒い影はいきなり言った。落ち着いた静かな声だった。
「よくこの公園でお見かけしますね」
ジャケット、スラックス、帽子、ステッキのすべてが黒く、男は不気味な印象だった。顔色は妙に青白く、口ひげをはやし、栄治の方を見ずに、ステッキに両手を置いて、同じ噴水の方を見ている。
「どこかでお会いしましたか?」
なんと答えていいかわからないまま、とりあえず栄治はそう言った。
「私はあなたをずっと見ていました、失礼ながら」
栄治は不可解さが心にじんわり広がっていくのを感じた。
「なぜ?」
男は少し笑って、シルバーの縁の分厚いメガネをかけた。そうして、栄治を見つめた。
「あなたは、心がどうしようもなく不安だ。そうですね」
「・・・・・」
「このメガネには新開発のセンサーがついていて、あなたの心を図形やデータにして科学的に把握することができるんです。それによれば、あなたはいま、メンタルヘルス的にはかなりいい状態ではない。ですね?」」
「あなたは誰なんですか?」
男はにっこりと笑い、メガネを外して、
「申し遅れました。私はこういうものです」と名刺を胸のポケットから取り出した。
そこには、
Y製薬株式会社 メンタル担当セールスパーソン
とあり、
新開発メンタルヘルス・センサーで、あなたの心の悩みをその場で見つけます。
とキャッチフレーズっぽい2行だけがあった。
「名前は?」と栄治は男の顔を恐る恐る見ながら言った。あまり表情の起伏のない顔がかえって、伺い知れない企みを感じさせて不気味だ。
「あなたは、Eコマースで商品を買うとき、いちいち担当者の名前を打ち込みますか?」
「・・・・いえ」
「それと同じです。ちなみに、その裏面にあるバーコードを読み取れば、我が社の技術がいかに卓越しているかがわかるはずです。そして、信頼に足ることがわかるはずです」
この黒ずくめの男がなにを企んでいるのか、栄治は推し測らざるをえなかった。突然現れて、いかがわしいメガネで心の悩みを見つけました、などと言い寄ってきて、あまりにも変だ。変すぎる。とにもかくにも用心しよう。関わらないようにしよう。
「そう、関わらないことにしようといま思っている、あなたの気持ちもわかります」
え、こいつ、僕の心を読んでいる・・・・驚きながら、栄治はちょっと強めに言い放った。
「僕はもう行かないといけません。明日、大きな会議があるんです。準備をしないと、です!」
栄治はベンチを立った。男は声のトーンを変えずに言った。
「チケンをしてみませんか?」
「えっ、チケン?」
「新薬をいち早く服用して効果を確かめることです。メディカル・トライアル」
「・・・・モルモットになれということですか」
「そうです。おイヤですか」と言い、威嚇するようにステッキをトンと1回、地面に打ち付けた。
「人類がまだ誰も体験したことのない効果を特別に手に入れることができるのです」
栄治は半腰のままになって男を見た。男の言葉と言い回しには、抵抗できない不可思議な磁力があり、栄治は動きをピン留めされた。そして、もう一度、ベンチに座り直した。
「あなたは特別な人になるのです。時間の呪縛から解放されるのです」
「明日やってくる、堪え難い時間の呪縛から逃れることができますか」
「ええ、もちろん」
「それなら・・・・」
「明日、もう一度、お会いできますか。この場所で、この時間に」
男はそう言って、フェルトの中折れハットの中折れの部分をちょっとだけ手でつまんだ。お互いの合意を祝福するような感じで。そして、静かに微笑みながら、ベンチを立ち、風景に溶け込むように去っていった。
翌日、男が手渡した薬は、ピンク色の錠剤で10粒あった。
「時間が早く流れる薬です。人にもよりますが、1時間が10分ほどに感じられるのではと思います。意識は朦朧としたりはしません。意識が明確なまま時が早送りのように流れます。明確なまま、がポイントです」
栄治は助かった!と思った。副作用を含めた危険性についても無論、頭をかすめたが、それ以上にこれから始まる報告会に使える!と感じたのだった。
「あなたが時間を早送りしたいとき、その前1時間くらいを目安にお飲みください」
黒ずくめの男から受け取ったピンクの錠剤を栄治はポケットに入れた。
そのとき、「エイジ、報告会1時間前です!」とスマートデバイスの女性の声が知らせた。
港は今日も晴れていた。海も空も明るく、果てしのない開放感に包まれているように感じられる。栄治はポケットの中から錠剤を一粒、出し、口を上に向けて、エイっと飲み込んだ。
男はそれを見て、言った。
「それから、です。飲みすぎてはいけません。1日に2錠以上飲むと、時間に対する感覚が壊れるかもしれません」
「わかりました。薬がなくなったら、どうしたらいいですか」
「ご心配なく。また、この公園であなたの前に現れます。私はメンタルヘルスのエキスパート。困っている人のところに現れるのが仕事です、ので」
黒づくめの男は笑顔になって、昨日やったように、ハットをつまみ上げ、会釈した。早く会社に行きなさいと男の顔の表情は栄治を促していた。
やがて栄治が視界から消えると男はステッキを動かしながら、軽やかにタップを踏んで得意そうに踊った。
ふた月あまりが経った。秋の空気に冷気が漂うころ、栄治は公園を訪れた。噴水を浴びる石の女神はちょっと寒そうだった。空はよく晴れ渡り、澄んでいた。海から吹く風には潮の香りがたっぷりと含まれている。栄治はベンチに腰をかけ、周りをゆっくりと見渡した。黒ずくめの男はどこにもいなかった。
なにもかもうまくいった。報告会はもちろんのこと、日頃の上司との打ち合わせにも薬の効果は絶大だった。イヤな時はあっという間に過ぎていき、なんのストレスも心に残さなかった。男が言うように、意識は明確だから、会議のメンバーの発言は全部きちんと記憶にあった。いわば、時間を速記しているような感覚。副作用もまったくなかった。そして、薬はあと2粒を残すだけになっていた。
しかし、だ。
すべてうまくいっていたのだが、思いがけない問題が栄治には起こっていた。いや、それは、問題という悪い感じのものではなく、明らかに心弾む感じのものだった。単純だが、最も人間をきらめかせるもの。偶然から始まって、やがて必然に育つもの。そう、栄治は恋をしたのだった。
お相手は、この話の最初の方に触れた、会ってみたら高身長だった女子、本庄エリカだった。販売部ではなく、商品企画部にいる2期上のプロダクトデザイナー。ボブヘアにキラキラとした目。そして、なによりもキリッと鮮やかな赤い唇が印象的だった。私は私らしく生きてやる!と主張しているような赤。その赤は、栄治の胸を刺すように惹きつけた。
リアル会議の折にお互いの苗字と顔を覚えたが、個人的に話したことはなかった。だが、神様は、二人の心が裸のままで会う不思議な瞬間を用意していたのだった。その突然の事件は、ピンクの錠剤を飲み始めたころに起こった。順を追って話していくことにしよう。
或る夜のことだった。8時を過ぎていただろうか。
会社から最寄りの地下鉄駅までのわずか100メートルほどの帰路を彼は歩いていた。みなとみらい地区は高級マンションが建ち並んでいて、落ち着いた住環境を損なわない程度の照明の道が続いている。上品な暗がりが続くと言ってもいいかもしれない。その暗がりを、自転車が猛烈な勢いで栄治の方に向かって走ってきた。その瞬間、「待って!誰か止めて!」という女性の鋭い声が聞こえた。
クロスバイクタイプの自転車は栄治と擦れ違おうとする。サングラスをかけた若い男の必死の形相が闇に浮かび上がる。手にはA4サイズほどの薄いバッグが見える。それは1秒ほどの出来事だったが、栄治には一コマ一コマが鮮明に認知された。すぐさま栄治は自転車を追いかけた。同好会とは言え、元サッカー部だ。脚力にはそこそこ自信はある。その背中に、「つかまえて!お願い!」の金切り声が必死に投げられる。ヒールの音をガンガン響かせて、女もこちらに狂ったように駆けてくる。
走り続けた。久しぶりに体の中のエネルギーを1ミリリットルも残さず燃焼させた。マンションの暗い中庭に自転車は逃げ込んだ。栄治の脚がやわらかい芝生を踏んだ。脚がもつれたが、自転車もスピードが落ちた。栄治が後輪に手が届きそうになると若い男はバッグを放り投げた。後ろから追っていた女が近づいてきていた。栄治が息を切らせながら地面に落ちたバッグを拾い上げると、「ありがとうございます!」と大声で言いながら迫ってくる。もうクロスバイクは闇に消えていた。
「ああ、良かったぁ」とエリカは息を弾ませて、栄治に頭を下げる。
「大事なものが・・・入っていて・・・・ありがとう・・・・ほんとに・・・・」
酸素を吸い込むことがまず必要なことだから、言葉は途切れ途切れになる。
「なにが・・・入っているん・・・です?」
栄治も息を弾ませて、平べったいバッグを手渡す。「ラフスケッチです・・・新商品の・・・」
「え?・・・そんなものを会社の・・・外に持ち出して・・・いいんですか?」
「夜・・・・家でアイデアを・・・詰めようとして・・・・」
中庭を照らす灯りの下で、二人は息をまだ弾ませていたが、ゆっくり駅へと歩き始めた。
「とにかく・・・ダメです・・・データ管理はちゃんとしないと」
「まさか・・・この時代、ひったくりに会うなんて・・・」
「まさかのために・・・みんな気をつけているんです・・・」
エリカは胸にバッグを抱きしめていた。二人は肩を並べながら歩いた。人は誰もいなかった。靴音が二つだけ。取り残されながら、絡み合いながら、一つのメロディになって夢の一部のように響いているーーー。
「ひょっとして手書きなんですか・・・ラフスケッチは」
「そうです・・・オリジナルです」
「いまどき、どうして・・・思い切りアナログなんですか」
「それは・・・私たちが文房具メーカー・・・だからです」
理屈はいまいちピンと来なかったが、気持ちはわかる気がした。駅への入り口で栄治は立ち止まって、エリカを見た。キリッとした目で、エリカも栄治を見た。AIでコントロールされた光がスポットライトのように二人への光量を増して、エリカの汗をかいた顔を浮かび上がらせていた。彼女の存在が、胸の奥の方で思いがけず明るく灯った。ああ、ここに探していた人がいるーーー栄治はそんなふうに思った。彼女の赤い唇は自分の存在を表そうとしていた。その赤さを栄治は忘れられないものとして記憶した。エリカはバッグをもう二度と離さないと決意して、きつく胸に抱えていた。
二人はやがて二人だけで会うようになった。会うと、美しい時間が泉のように想像を超えて流れ出した。時間は美しいまま、日常の器を超えてどうしようもなく溢れ、あっという間に過ぎていった。カフェで、レストランで、美術館で、ホテルで、平凡な街角のベンチで。
彼女は忙しかった。新商品のアイデアが次々と採用されて、それをプロトタイプにし、AIによる予測型マーケティングでシミュレーションを繰り返しているようだった。カフェで1時間待たされることはそれほど珍しくなかった。2時間待って、1時間レストランで食事をして、また彼女が会社に戻ったことも1回あった。
彼は、エリカと会うとき、こう祈るのだった。
「時間よ、ゆっくり過ぎてくれ、ゆっくり過ぎて、楽しい一瞬を永遠のときに変えてくれ」
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
黒づくめの男の声だった。誰も知らない空間を通ってくるかのように、彼は栄治の隣に突然、現れた。栄治はドキッとしたが、それは待ち望んだ遭遇だった。男にどうしてもお願いしたいことがあったのだ。
「ええ、うまくいっています」
男は例のセンサー付きのメガネをかけた。右手でメガネの縁のコントローラーを動かす。
「なるほど、サーモモードにすると、血流がいいことがわかります。特に脳のあたりが。エレクトロモードにすると心臓のパルスが・・・なるほど、極めて規則正しい。マインドの危機をあなたは脱したようですね」
栄治は、男へのお願いを口に出そうとして少し躊躇した。男は人がたくさん歩く、公園の周囲をぐるりとメガネで見ていた。
「このメガネで見ると、心が病んでいる人ばかりです。ほら、あちらにもこちらにも。特に、 そう、あなたはひどかったーーーこの心の医療のマーケットは途方もなく大きく成長するばかりです」
「あの・・・」、栄治は小さな声を出した。
「なんでしょうか。もう私たちはこれで会うこともない。ウィンウィンで物語は終わる。ですね?」
「あの・・・時間が早くではなく、ゆっくり流れる薬はないでしょうか」
男はその言葉を聞いて、すべての動きをピタリと止めて、栄治をまっすぐに見つめた。なにを言っているんだ、と非難するように。沈黙は長かった。30秒、いや1分。男は言った。
「いや、いけません。それはいけません」
「なぜです?」
「時間を早く過ごすことと、遅く過ごすことは、真逆の作用だから。怒りと笑いを同時に叶えるようなもの」
「で、ないのですか、その薬は?」、栄治は引き下がることはなかった。
「なぜ、あなたはいまのあなたではいけないとお思いになるのか? うまく行っているはずなのに、なぜなのか?」
「長く時間を過ごしたい人がいるんです。10分が永遠に感じられるほどに」
男はメガネを外して、うつむきながら首を左右に小さく振った。少し笑っているようだった。
「そうですか、そうですか。なるほど、そういうことですか」
「恋をしているんです、僕はいま!」
「恋はまことに影法師。いくら追っても逃げていく。シェイクスピアです。今度はそちらの心の病にかかったのですね、あなたは」
「僕の願いを聞き入れてくれませんか」
男は明るい海の方を見ながら、しばらくじっとしていた。そして、言葉にした。
「わかりました。考えさせてください。私の一存では決められない大きな問題です。また、明日。よろしいでしょうか、この場所で」
全身が黒の男は立ち上がった。数歩歩いて振り向いた。
「時間は、あなたそのものです。時間という紙にあなたの物語は書かれていく。その紙を気の向くままに変えていいのかどうか」
真剣な眼差しだった。海からの風が音を立てて二人に吹いている。
「それは人間の自由のはずです。心の問題なのだから」と栄治は言った。
「そこに薬という科学がどう介在するべきなのか」
自分に言うようにそれだけ言うと、男は遠くの空をしばらく見つめていた。
夜7時をまわった金曜のカフェはかなり混んでいて、窓側の並びの席をとりあえず確保した。栄治は座りながら、エリカを待っている。アイスカフェラテが彼の前に置かれている。窓側からは暗い海にゆらゆらと動く船の灯が見えた。会社から数分のカフェ。ここで会って、二人はいつも次の場所へと出かけていく。
エリカを長く待つことも、以前より少なくなりつつあったが、相変わらずあった。スマートデバイスが震える。「ごめんね、1時間遅れる。本当にごめん」。今日もエリカはそうなりそうだった。
しかし、今日は、会ってからの時間が長く過ごせる。多分そのはずだ。明日は休日なのだから。そんなことを思いながら、栄治は茶色のジャケットの胸ポケットから、白い錠剤を一粒取り出し、テーブルに置いた。そして、それを腕組みしながら、焦点が定まらないまま凝視し始める。
いつもの公園の噴水の前。黒づくめの男が白い錠剤10粒を渡すときに言った言葉。それが蘇ってくる。
「時間をプラス方向とマイナス方向に進ませる薬を同時に服用してはいけません、絶対に。数日は開けてほしいのです」。男の顔はいつもより真剣なように感じられた。
「約束できますか」
栄治は「ええ、もちろん。約束します」と答えた。
昨日は、1月の販売実績報告会だった。成績は数カ月好調だったが、年初の今月は急下降し、惨憺たるものだった。ごく自然に、残った2錠のうち1錠を栄治は服用した。
そして、今日だ。目の前には白い粒があった。迷った。とんでもないことが起こってしまうかもしれない・・・・だが、なにも起こらないかもしれない。やめようと何度も思ったが、栄治はやがて決断する。未来なんて、しょせん、わからないもの。それにこだわって、いまを無駄にしなければいけないなんて、愚の骨頂だ。同時に、エリカの花が咲いたような笑顔が幸せのドーパミンを振りまいて脳を駆けていく。
なんと言っても、彼は恋をしていたのだ。恋はルールを破る勇気の羽ばたきを人に与える。栄治は錠剤のシールドをまず破った。一気に水と共に飲み込んだ。多くの約束がそうであるように、男との約束もごく簡単に破られた。そうして、やがて、来るであろう、時間がゆっくり流れる効き目を彼は体を硬くして待った。
エリカは会社を飛び出すと、待ち合わせのカフェに小走りに向かった。すぐの距離なのに、少しでも早く着きたいと気持ちが走っていた。息を弾ませてカフェに着くと、彼女は栄治を探した。彼はいなかった。トイレに行っているのかもしれない。何度もゆっくり店内を探した。が、どこにも姿はなかった。エリカの胸はどうしようもなく騒いでいく。どこへ行ったの、栄治。スマートデバイスを鳴らした。レスポンスはなかった。エリカはもう一度、店内をくまなく探した。そして、1階の海側の席に孤独なアイスカフェラテを見つけた。誰もいないテーブルには薬のシールドのようなものが小さく光っていた。
あっ、と栄治は小さな声をあげた。手が少しづつ消えていっている。透明になっていっている。意識も少しづつ遠のいていっているようだ。ああ、薬は効いてきている、と栄治は感じた。だが、こんなふうに効いてくるものなのか。なんだか体が溶けていっている気がする。マイナス方向とプラス方向の時間。それはゼロ? ゼロとは消滅。時間がない世界。不思議に安堵に近い幸せな気持ちもした。なぜなら、時間に自分は縛られ、翻弄され、心を変形させられてきたのだから。こうして消えていく。それも悪くない・・・・。
いや、待て。あの男は、時間はあなたそのものだと言った。自分にとっての「あなた」。エリカにとっての「あなた」。溶解を始めている「あなた」。それらはどうなるのだろう。
きっといま、エリカは会社を出て、飛び跳ねるようにこちらへ向かっている。赤い唇から息を吐いて。そうだ、初めて、自転車泥棒を二人で追いかけたときのように。僕の時間が消えれば、エリカの時間はどこへ行くのだろう? 栄治はこの地上から消えながら、不安で胸がいっぱいになっていく。
カフェを外から見ている男がいた。黒ずくめの男だ。黒く長いトレンチコートを着て、ステッキを持って立っている。約束を破って、時間を失い、消えていく治験対象者を苦々しく見ていた。失敗だ。しかし、この事態を止められる薬はないのだ。
エリカは誰もいないテーブルを見つめた。栄治はここにいたのではないかと思った。なんだかわからないが、そんな気がした、確実に。カフェラテから水の雫がテーブルに落ちて、小さな水溜りをつくっている。その雫に栄治の「らしさ」を感じた。どこに行ったの?と苦しげに胸を詰まらせていると、空間にかすかに茶色の色彩の存在を見つけた。目をよくこらすと、それはジャケットの一部のようにも見えた。
ほぼ透明だが、微かな茶色のあたりをエリカは両方の手を広げて、胸に抱いた。ああ、いる。ここに栄治がいる。見えないが、確かにいる、「私の」栄治が。
胸を押し付けて、自分の温かさをすべてエリカはその無の場所に伝えようとした。
なにもない場所よ、なにかがある場所になれ。やがて、茶色ははっきりと茶色になり、ジャケットの輪郭はおぼろげに現れていった。店の数人が、エリカのそのパントマイムのような不思議な行為を見ていた。
ああ、温かい。栄治は脳の芯、おそらく記憶を司るあたりに熱を感じていた。どこか、いつも行きたいと思っていた、懐かしいふるさとのようなもの。わかった、それはエリカだった。エリカがいま、ここに来ているのだ。
黒づくめの男は、抱き合う二人を遠くから見ていた。栄治はもう栄治の姿になっていた。物語はハッピーエンドでなくてはならない。男はステッキを動かしながら、軽やかにタップを踏んで得意げに踊った。そして、闇の中へとふっと跡形もなく消えていった。