ラボの外で音が聞こえた。静けさのなかをかすかだがくっきりと近づいてくる。人が歩く音のようだった。
 花原釉(ゆう)は予測シミュレーション中のモニター画面からゆっくりと視線をラボの入り口へと移した。珍しいことだった。釉がここに越してきてから半年、この古い木造の一軒屋に人が訪れたことは一度もなかった。
 誰だかわからないが誰かの足音が少しずつ近づいてきている。
 釉は緊張して待った。音はゆっくりと大きくなる。足音は軽い音の後にやや重い音が続いた。繰り返し繰り返し、その規則を守って近づいてくる。釉はふとなにか亡霊のようなものが近づいてきているのではと感じた。いつだったか、そんなホラー映画を見たことを思い出す。

 やがて入り口のガラス戸に人の影が映り、いきなり戸をガラガラと開けた。

 女が立っていた。中肉中背で、髪を後ろに無造作に束ねていた。さらに女を見たとき、釉は胸を突かれた。顔の右半分に青黒いアザが走っている。両目は離れ、鼻と口の位置がややずれていた。くちびるの右端の肉が盛り上がり異様に赤かった。大きな事故に会った人だと釉は直感し、女の過酷であったであろうその過去を思い、驚くことをやめて冷静になろうとした。

「あー。ずいぶん変わっちゃった」
 女の声はやや低かったが、無音の家によく響いた。
 釉はまだ高鳴っている胸のまま女の動きを追った。釉に挨拶もせず、ラボのなかを入り口に立ったまま、あちこちと見回していた。
「なんだか、工場みたいになっちゃったわねー」
 そうして許しも得ず、無遠慮にどんどん入ってきて、室内に散らばる計測器や工作機械やコンピュータや化学薬品の容器の間を縫って歩き始めた。
「ここ、陶器づくりの工房だったわね、確か」

 その通りだった。陶器をつくっていたのは釉の父だった。この北関東のMという街に若いとき、良質の土を求めて移住し、釉の母と出会い、家庭をつくった。まず、女の子が生まれ、だいぶ経って男の子が生まれた。その男の子に父は、釉薬から取った「釉」という名をつけた。
 父の陶器は人気が出て、地元の道の駅からランクアップし、個展での高い評価もあり、全国レベルの作品人気になろうとしていた。「なろうとしていた」、そう、父は今からおよそ20年前の2012年に突然、この工房で心臓麻痺を起こし、亡くなったのだ。まだ50歳台の半ばだった。母とはすでに離婚していた。
 釉はまだ10歳で、父の死を現実として受け止めることができず、日々、どう自分が振る舞えばいいかわからなかった。ただ父の突然で永遠の不在は、彼の胸を深くえぐり続けた。徐々にその傷は広がり、自分の殻に閉じこもりがちになり、姉とも友達ともうまく接することができなくなった。

「そう、それで、あなたはなにをここでやっているの?」
 女の質問は無邪気というか無礼というか、なんとも突然なものだった。
「ここは、僕のラボなんです」
 女は奥の棚の方を見ていた。釉の答えは宙に漂い、消えていきそうだった。棚には父の作品が未完成なものも含めていくつか残されていた。正確に言うと、父の死後、ほとんど整理されず、そこに置かれっぱなしになっているのだった。
 女は釉のほうを見ずに言った。
「やっぱり。陶器があるわ。いいお皿ね、素敵だわ・・・・それであなたはなにをやってるの?」
「僕は、ロボットが専門なんです」
 釉がそう答えると、女はじっと彼を見つめた。うまく表情がつくれないようだった。表情には自由がなかった。釉は目をそらしたくなった。
「わたしの左足もロボットなのよ。ま、サイボーグって言った方がいいかしら。人工筋肉で動いているの」
 釉は、だから右と左の足音が違ったんだと納得した。
「慣れたわ、この機械に。体だけじゃなくて、心もね」
 女は父の陶器を手に取り、20年分のホコリをハンカチで拭った。白く細い指だった。しばらく家のなかを無言で歩いた後、女は釉の隣に立った。モニター画面を覗いた。
「難しいことをしてそうね」
「ええ、なかなかうまくいかなくって」
 釉は意外に素直に反応することができた。
「頭がいいと苦労するのよ。わたしなんかおバカだから楽。また来るわ」
 釉がなんと答えていいか、迷う間もなく、女はくるりと回って背中を見せ、出口に歩いて行こうとしていた。右と左の肩が交互に揺れた。
「じゃ、また来るわ。近いうちに」
 そうして女は出て行った。入ってくるときと同じようにガラス戸がガラガラと鳴った。しんとした静けさだけが残された。



 誰かが自分の名を呼んでいる。空は青く、風が緩やかに吹いている。「ゆー、ゆー」と名が呼ばれているようだが、頭にはなにも残っていかない。
 真緑の水田が一面に続いている。その広いあぜ道に、なぜか丸太のシーソーがある。黒い虫がたくさん飛んでいる。釉はシーソーの片方に座り、ゆっくりと動かす。すると、もう片側に誰もいないのに、シーソーは上がって、下がった。何度も釉の重量に応えるように勢いよく上がって、下がった。
 ひとりぼっちなのにそこにはいつも誰かがいる。
 そんなふうに少年の花原釉は感じていた。誰かとは、消えた母なのか、死んだ父なのか、年の離れた姉なのか、今、世話になっている親戚なのか、わからなかった。髪を揺らすが重さがない存在、まるで風のようだった。空は青く目に鮮やかで涙が出そうだったが、少年は堪えていた。シーソーの片側に小さな昆虫がいるのを見つけた。考えているみたいに触手をゆっくり動かしていた。「キミがこのシーソーを動かしていたの?」と少年は訊いた。昆虫はしばらくじっとしていたが、羽を動かして飛び立った、なにも言わずに。「ゆー、ゆー」、誰かがまた呼んでいる・・・・。

 汗を大量にかいて、釉は目を覚ました。ウェラブル端末を見ると熱はだいぶ下がっていた。金曜の夜、研究室での実験中に悪寒がした。インフルエンザが流行っていて感染したのだった。桜の季節で東京の街も地下鉄も混んでいたが、人ごみをふらふらと縫って四谷見附のアパートにやっと着き、倒れるように眠った。深夜に熱が下がらず、ネットドラッグで購入した解熱剤を飲んだ。それが効いて、熱が下がったのだった。スマートデバイスを起動させると朝6時半。なんの気無しにニュースサイトを見た。

 それは後から思えば、偶然のようであり必然のようでもあった。運命が変わるきっかけがニュースの動画に隠されていたのだった。

 小さな画面の左上に「M市」の文字があって、まず目に入った。ああ、ふるさとだ、久しぶりだな、と釉は思った。初老の男性が出てきていてインタビューに答えている。「もう数年は蛍が出てねぇなぁ。どこ行っちゃったかねー。温暖化の影響もあるのかねー」。ああ、そうなんだとサイトを見ながら感じ、釉はだるい体をベッドに投げ出した。画面は変わり、1本の清流が現れた。だいぶ上流のようだった。そこに若者たちが何人かで作業をしていた。蛍の幼虫を探している人たちだった。「雪がもうずいぶん降ってないので、水量も減り、ここらの環境も急激に変わりつつあるのかもしれません」。そんなふうに大学の研究員が清流をバックに話している。「今年こそは、昔のように飛んで欲しいと思って活動をしています」、そう続けた。そうして、画面は暗闇に蛍が飛び交う映像に変わった。<30年前のM市郊外の水田・・・>というテロップが付いている。赤外線カメラで撮ったものだろう、光は鮮やかな黄色ではなかったが、それでも美しかった。
 そのとき、なにかが釉の胸にやってきて、鋭く刺した。ああ、と声をあげた。決心が言葉になって胸の内を走った。
 つくろう、蛍を! ロボットの蛍を!
 釉は故郷に帰ろうと思ったのだ。東京に出てきてから10数年。大学に入り、ロボット工学を勉強し、介護・医療用ロボットの開発をする企業に就職し、夢中で走ってきた。多くの友達や先輩もできて、なにかに不満があるわけでもない。でも、いつかではなく、今、帰りたいと思った。父も母も姉もいない、住所もない、その場所に、生まれて初めて帰りたいと思った。
 衝動的な決意だったが、決意とはそういうものではないのか。考え尽くした結果でなくてもいい。人生を変えるとはそういうことではないのかーーー釉はふるさとの自然を頭に蘇らせ、光って飛ぶロボット蛍のイメージを何度も浮かべていた。決心は揺るがなかった。



 父の工房は小高い丘の上にあり、遠くM市を見下ろせた。釉は多くの器材をドローンで運び込み、コンピュータと3Dプリンターだけは人力で丘のふもとから慎重に運んだ。衣服や寝具や身の周りのすべてをそろえ、釉は長い間、空家だった工房に寝泊まりするようになった。会社を辞めてから1カ月足らずの初秋に、工房はラボへと変身した。
 会社は退職したが、研究所の幾人かが「ロボット蛍」に興味を持ち、プライベートにサポートメンバーになってくれた。目標は次の夏の終わりだった。1年足らずで、人工の蛍を開発し、飛ばそう。数匹、いや、できたらもっと飛ばしたい。メンバーたちからは早速、昆虫ロボットの研究論文や最新成果のデータが次々と届き、釉はそれらをすべて読み込み、開発をスタートさせた。
 昆虫型飛行ロボットの研究はMITを始めとしてかなり進んでいる。まずは、低電圧でありながら、敏捷性や耐久性に優れたアクチュエーターをつくること。当然、自由な飛行体であるために、ワイヤレスでバッテリーフリーを目指す。そのために人工筋肉システムを用いることにした。アプローチはさまざまにあったが、アルコール燃料を動力源とすることに決めた。形状記憶合金を使い、加熱時に収縮させ、冷却時に伸ばす、を繰り返す。そうして自律的にエネルギーを生み出す。人工筋肉のテクノロジーは釉の専門領域でもあった。

 難問はたくさんあった。どうやって光らすか。液晶LEDを使用しようと考えたが、そのためにはエネルギー効率もあげなくてはいけないし、しかも点滅させないといけない。そもそもどのくらいの時間、飛行させるかの根本的なテーマもあった。いちおう30分飛ばすことを目標においた。しかもその間、発光の照度も確保しなければならなかった。
 釉は改めて自然の偉大さを思った。思っただけではない、本当に畏怖すべきものだと心から感動に打たれた。ゲンジボタル、わずか1.5センチの大きさに、どれだけの奇跡が詰まっているのか。膨大な進化の時間が生み出した生命のメカニズムを、たった1年足らずで僕はやろうとしている。それはあまりに愚かなことではないのか。
 難問だらけだったが、釉は試行錯誤の沼に日々はまりながらも少しずつ進んでいった。自分もプロフェッショナルなんだ!と気持ちを奮い立たせながら。研究者の仲間たちとのメール数もどんどん増えていったし、いつの間にか海外の今まで知らなかった研究者たちともつながり、オンラインで情報をやり取りするようになっていった。メタバースでロボット蛍を研究するラボを設置すると、そこにも研究者が訪問し、さまざまなチャットを通じてアイデアを提供してくれた。



 冬のある日、女はまたやってきた。
 木枯らしが吹く音が時折、聞こえていた。ラボのなかは寒かった。小さなストーブひとつしかなく、釉は吸湿発熱素材のタートルネックを着込んで、作業をしていた。
 ガラガラと無造作に入り口のガラス戸が開けられた。
「こんにちは、これもらっていい?」
 彼女はいきなりそう言った。釉が見ると、60~80センチ大の縦長の看板を抱えている。厚い木づくりで、墨で文字が書かれていた。<花原陶芸教室>。父の字だ。もうだいぶ字は木と一体化し、見えにくい。家の外にガラクタとして放置されていたものだ。
 釉が答えられずにいると、「懐かしい。お父さんの字よね」と言って、看板の表面を右腕の袖でゴシゴシと拭いた。
「どうぞ。僕のものでもないので」
 釉はそう答えて、モニターに視線を移して、作業中だった飛行に関するデータを打ちこんでいった。
「この前、答えなかったわね」と看板を抱えたまま女性は釉の近くに立った。
「なんでしょうか?」
「あなたがなにをやっているかを」
 モニターの画面を彼女は少し腰をかがめて覗いた。
「あら、昆虫みたいね、これ。うーん、蛍っぽいな」
 彼女の声の調子がちょっと高くなったようだった。
「マイクロロボットです。夏に飛ばすんです」
「ほんと? 素敵ね。頭いいのね、そんなことできちゃうんだ」
 彼女はそう言って、近くにあったスツールに腰を下ろした、看板は抱えたままで。
「久しぶりなのよ、この街に来るの」
 それが僕となんの関係があるんだろうと感じたが、
「僕もこの街に久しぶりに帰ってきました」と素直に返した。
「蛍も今は絶滅危惧種なのよね。昔はそこら中に飛んでたのに」
 モニターから離れて女性は室内をゆっくり歩き始める。看板はフロアーに置いた。無言でくまなく歩き回る。
 この異形の人がなぜ、こんな辺鄙な場所にわざわざ訪ねて来るのか、わからなかったが、釉はなにかを探しているのではないか、と感じた。探しているものはなにか、それは物体なのか、あるいは目に見えないものなのか。しかし、特別なものはここにはないはずだった。ろくろなど父の道具もすべて廃棄し、今は多少の作品だけが残っている。皿、茶碗、壺の類が奥の棚にあるだけだ。
「人類はなんでかくも傲慢なんでしょう。共存ではなくて、絶滅を選んで。サイエンティストとして、あなたどう思うの?」
 そんなことは正直、考えたことはなかった。目の前には克服すべき課題があり、それを解決しようとしてきただけだから。この10年、研究者どうし、企業どうしのテクノロジー競争も目に見えて、最大に加速、加熱している。
 釉の研究で言えば、機能を失った肉体を人工的につくり上げること。運動をサポートし、日々を健常化し、生きる力を取り戻すこと。それは重要な「いのちの課題」であり、信じるべき「パーパス」でもあった。
 しかし、確実にそれらはビジネスのメカニズムのなかに取り込まれていっている。「いのち」というテーマでさえ、無軌道で巨大なビジネスの渦に巻き込まれている。研究・開発は企業の株価を上げるという課題も解決しようとしているのだ。
 なぜ、蛍をロボットにしようとしたのか。明瞭にはわからないが、失われていくものの代替をつくろうとしたことは間違いないと感じる。生物というソフトウエアを科学という力で模倣・再現する。傲慢なことと言われればそうかもしれない。しかし、今、自分が進めていることは、少なくとも化石燃料や原子力を使って巨大なエネルギーをつくる類の科学ではない。代替ではあるが、それによって社会や他者が喜んでくれたらいい。あるいは、自然の素晴らしさに気づくきっかけになってくれてもいい。今はそう単純化して考えた方がいい。熱の下がった朝に見た、あのニュースが単刀直入の決心をくれた。その原点だけは忘れずにいたいーーー釉は、質問に言葉では答えず、心のなかでそう思った。
「蛍を見てみたいわ。本物でも嘘ものでもいいから。暗闇を照らす小さな光。その夢のような乱舞をね」と女性はぎごちなく笑顔をつくって言った。
「嘘ものですいません」、釉の心も少し和んだ。
「頑張って。夏まで、この街にいようかしら」
 彼女は窓の外を見ながら、左の人工筋肉のほうの足をさすった。痛みや違和感があるのだろうか。神経機能を持った人工筋肉なのかどうか、興味が湧いた。
「また来るわね」
 女性は花原陶芸教室の看板を胸に抱えて、入り口の方に向かった。釉は素早く立ち上がり、ガラス戸を開けてあげた。ガラガラという音が大きく響いた。
 外に出て、女性は少しの間立ち止まったが、もう振り向かなかった。小さな肩の向こうには冬の澄み切った空があり、その下に街が静かな絵のように広がっていた。

 

 春になった。ひと冬の間、雪は降らなかった。今年も蛍は現れないのだろうか。
 ロボット蛍は難問にぶつかっていた。一つは大きさだった。どうやってもゲンジボタルの1.5センチ大まで小さくすることが無理だった。アクチュエーターをさらに小さくするためには、本格的な開発をしていかなければいけなかった。開発成果の改善という今のやり方では難しく、およそ3センチ大ならなんとかなりそうだった。
 次は、飛行の軌道だった。釉は何度も何度もネット上にある、蛍の飛行映像を見た。「光る」と「飛ぶ」の二つの機能を、豆粒ほどの体に持っていることに驚愕しつつ、その二つの機能の複合が、不思議な蛍の光の軌跡になっていることを認知する。
 ふわふわと漂いつつ光り、すっとどこかに消えていき、またすっと現れて光る。ピントがあったり、外れたりする。光るのはオスなのだが、その求愛のイルミネーションは気まぐれで、アナログそのもので、デジタル的に処理することが難しかった。ふわふわと空中運動させることはできても、発光というメカニズムと、どうリンクさせたらいいのか。釉はとことん悩んだ。
 釉は悩んだが決心した。自分のロボット蛍はもう無理はしない。ふわふわと飛ばし、LEDで勝手に点滅させればいい。動きのリンクは求めない。しょせん、神の技にいたることはできないのだ。ロボット蛍を見た人の脳のなかに、蛍の神秘の美しさのイメージを醸成できればそれでいい。人の心のなかの詩を呼び起こせばいいのだ。それが自然に対するリスペクトの表現でもあるのだ。

 詩。そういえば、ある詩が自分の胸に芽生えた日があった。
 作業の合間にふとラボの外に視線を向けると、ふるさとの山の稜線に今まさに陽が落ち、夜の闇が迫りつつあった。そのとき、思い起こされた。
 あれは小学5年生の課外授業だった。市街から少しずつ離れ、生徒たちはS川の上流へとどんどんと歩いて行っていた。夏だった。稜線に陽が赤々と燃えながら沈むと、あたりを闇がひたひたと音もなく浸していった。20人ほどの生徒たちが静かになる。会話が途絶えた代わりに、清冽な川の音が急に聞こえてきて、冷気が肌ににじり寄ってくる。もうかなり上流に来ているのだ。そうだ、この流れに沿った道を登り行くと学校の施設があって、そこに1泊して自炊するのが、課外授業だったのだ。
 父を1年前に失い、孤独のなかで揺らいでいた、あのころの心を釉は思い出す。少年の釉はその揺らぎを人には悟られたくなかった。孤独は嫌だったが、それを他者に知られるのはもっと嫌だった。わざと表面を快活に装っていることもあった。
 ひとかたまりだった生徒が3人、4人ずつくらいにばらけてくる。心細くなるほど遠くに来た。もうあたりは家や街灯の明かりもまばらになりつつあり、すっかり暗い。釉は遅れた。一人でいちばん最後を歩いていく。女の子たちの白いシャツがぼんやりと遠くなっていく。その先を行く男の子たちは闇に紛れてもう見えなくなっている。
「花原くん。ほら、見て」
 後ろから明るい声が聞こえた。釉は振り向いて止まった。高垣先生だった。
 長い髪を揺らして、すらりとした肢体を弾ませ、早足で歩いてくる。瞳が古い電柱の光の下できらめいている。
 先生は釉にさっと追いついて、美しい笑顔になって、目をクリクリと動かした。左右の手を胸のところで結んでいる。なにかをそのなかに持っているようだ。
 背の高い先生は少し腰をかがめて、弾んだ声で言った。
「蛍よ。さっき私のところに飛んできたの」
 先生はゆっくりと左右の手を開いた。小さな暗がりがそこにはあって、小さな生き物が光っていた。ふわっと黄色くお尻のところがきらめいている。釉の胸はドキドキとした。なんて綺麗なんだと思った。赤い頭部の2本の触覚を動かしながら、先生の手のなかで生命体は輝く宝石だった。
「きっとお父さんかもしれないわ」と先生は言った。
「えっ」と釉は声を出した。父の葬儀のときに高垣先生が悲しい顔でうつむいていた、その光景が蘇った。
「詩があるの。物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞみる」
 まるで意味がわからなかったが、魂という言葉と蛍という言葉が結びついて、釉は少しだけ理解することができた。釉を見つめる父の優しい笑顔が、不意に浮かんだ。
「好きな人のところに蛍になって飛んでいくの。あくがれは憧れのことで、強く人を思う気持ちのこと」
「お父さんは先生に会いにきたの?」と釉は尋ねた。
「うーん、どうかな。そうだといいけど・・・・そんなはずないかな・・・・」
 先生の目は少し遠くを見ていた。そして再び、釉を見て、顔に影を浮かべながら微笑んだ。
「さ、放してあげようか」
「ずっととっておこうよ」
「それはダメだわ。この子には光りながら空を飛ぶ定めがあるの。それがいちばんふさわしいことなの」
 そうして先生は手を開きっぱなしにした。しかし、蛍は飛んで行かなかった。じっと名残りを惜しむように動かずにいた。今度は、先生は手を高くあげ、背伸びするように空に向かってスーッと開いた。
 蛍は飛んだ。
 別れの合図のようにふわっふわっと二度、輝いた。さようなら、さようなら。暗い夜空に飛び上がると光は少しずつ小さくなった。先生が釉の肩に手をやり、その様を二人で見た。先生の体から甘い匂いがしていた。そのとき、少年・花原釉は、ああ、これが詩なんだと思った。この特別な心のトキメキこそが詩というものなんだと。少年は時の流れが止まるということを知り染めた。「永遠」は「瞬間」にも存在するのだ。理屈ではなく感覚で釉はそのことを知った。
 その夜、彼は眠れなかった。いつまでも蛍が彼の頭のなかを光って飛び続けていた。



 桜が丘に咲き、吹雪のごとく散り、小さな赤い実を地上に落とすころ、女性はまたラボにやってきた。
 いきなり「桜餅を食べる?」と言ってから、父の作品の皿を棚から出し、水道の水で洗い、布で拭いて、餅を並べた。ゆっくりと時間をかけて、それらの動きをこなした。二人は桜餅を食べた。
「できそう? 蛍」
「ええ、アクチュエーターはほぼできていて、光らせる電圧も確保できそうです」
 釉は答えた。少し完成までの道が見えてきていた。6月には試作機ができるかもしれない。
「アクチュエーター?」
「駆動装置のことです」
 笑いながら釉は言った。しばらく二人は黙り、桜餅を食べた。
「科学はすごいわね。私も命を救われた・・・・その昔にね」
 釉は彼女にシミュレーション画面を見せた。3Dで基本的なモーションを試せる。かつて CAD/CAMと呼ばれていたアプリだ。最近、進化が著しい。
 4枚の羽がそれぞれ動き、マイクロロボットが本物のようにふわふわと飛行する。動きは外部から指示するのではなく、自律的に行えるようにした。駆動装置、アクチュエーターは、今は機械がむきだしのままだ。この地域で生産されている、ごく薄い和紙を利用して、手づくりで胴体をデザインしようと考えている。
「あら、いい感じね、これがうんと小さくなるのよね」
 女性は画面に顔をくっつけて見ていた。視力もあまりないのかもしれない。
「そうです。今、3センチくらいにならないかと試行錯誤中です」
「最近、体調が悪かったけど、あなたを見ていたら元気になったわ。少しだけだけど」
 また沈黙が続いた。釉は寡黙なタイプだったし、彼女も今日はなにか重いものに囚われているようで、心の身動きができない感じだった。会話は何度も途切れて、時間が空回りするように流れていった。
「この街にいることにしたわ、夏が過ぎるまではあなたの蛍を見るために、生きる」
彼女は重そうに体を動かし緩慢に立ち上がって、釉を見つめ、精一杯の笑顔をつくった。「夏が過ぎるまで」ともう一度、繰り返す。
 釉も立ち上がった。女性の背は彼の肩くらいしかなかった。ラボの外に出て、後ろ姿を見送った。いつの間にか、不思議な女性は釉の生活に入り込んできていた。どこから来たのか、なんのために来たのか、なにを探しているか、すべてわからないままにーーー。



 季節は駆け足で過ぎた。夏のあたまに試作機ができて、釉は研究者仲間にデータを送った。オンラインでレビューを何度もした。修正をかなり加えた。飛行時間30分、高度5メートル、30体製造をミッションにした。飛行実験日は8月22日。30体は釉だけではとてもつくれない。仲間たちで手分けすることになった。
 どこで飛ばすか。その課題が残された。実はロボットだからどこで飛ばしても良かった、闇さえあればいいのだから。しかし、蛍が「飛ぶべき場所」で飛ばしたかった。人工ではない「聖なる自然の場所」がどうしても必要だった。そのサンクチュアリをどこに探すか。
釉はいつしか決めていた。S川の上流。蛍のロボットをつくりながら、脳裏にはその場所が何度も約束したように現われ、彼を導いた。
 高垣先生の手のなかから蛍が闇に飛び立ち、消えていった場所。その清流のさらなる上流にかつての蛍の群生スポットがあったという。もう誰一人として訪れない、そこに行きたいと強く憧れ、願った。
 入道雲が湧き始めた初夏のある朝、釉は準備万端整え、その清流の奥地を目指した。ラボを出てから6時間ほど歩いた午後、細い渓流が太くなり、広い淵をつくっている場所にたどり着いた。開けていて、飛ばす作業や回収する作業がスムーズにできそうだった。流れを囲む木々は低く迫ってなく、高い位置にあった。これならマイクロロボットの飛翔に問題ないだろう。夏とは信じられないほど、空気はひんやりとマイナスイオンに満ちていた。釉は周囲の様子を高精細度カメラに収め、経路や緯度経度のデータをすべて仲間たちに送信した。さ、光のショーが始まるのだ。長い年月を経て咲く花のように釉の心は華やいだ。



 陽がすっかり沈んだ。8月22日。雲の合間に光る月がのぞいていた。足元や手元を照らしていたライトが切られ、あたりは深い漆黒の闇に包まれた。30体のロボット蛍はスタンバイを終えた。蝉の声も止み、ただ淵からこぼれ落ちる瀬音だけが聞こえていた。
 釉と研究仲間が5人。そして、夏まで生きると言った女性が一人。女性は釉が歩行をサポートして、やっとここまでたどり着いた。みんな息を潜めて、釉からの合図を待っている。時もまた川の流れのように静謐だった。月が完全に雲に隠れたことを確認し、釉は1回大きく息をし、合図を出した。
 ロボット蛍が次から次へと宙に舞い上がった。小さな光が無限の闇に飛んでいく。ふわふわと近づき遠ざかり、やがて30の光は漆黒のキャンバスに乱舞した。言葉をみんな失っていた。光は時に高く駆け上り、その光をいくつかの光が追いかけた。いくつもの輝きは集まり、絡み合い、離れて、美しい運動を不規則に繰り返している。それらが機械であることも忘れていた。たゆたう蛍火は、神秘そのものだった。光はやがて綾をなし、心のなかにまで入り込んで舞うようだった。
「光が増えている!」
 誰かが叫んだ。奇跡が起こっていた。30の光より多くの光が飛んでいるのだ。
 全員息をのんで、蛍の数を数えた。「本物の蛍が飛んでいる」と誰かがつぶやき、「信じられない」と誰かがつぶやいた。広い淵の彼方から、光はいくつもふわりふわりと現れ、ロボットの光に加わっていく。光が光を呼び、発光のショーが始まった。この世ならぬ美しい光景が繰り広げられていた。光は瞬きながら、とめどなく集まってきていた。

 釉は女性を見た。小さな石に腰を下ろして、闇をたじろぎもせず、まっすぐ見つめている。横顔を蛍の数知れぬ輝きが浮かび上がらせている。その豊饒な光を受けて、今度は彼女自身が輝き始めたようにも見えた。はっとするほど妖しく美しかった。
 ああ、と声を釉はあげた。この人は誰なんだ、と思い続けてきた、その答えを温かい液体が胸を走るように直感したのだった。

「物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞみる」

 女性は輝く顔を釉のほうに向けて、揺るぎなく見つめて、そう言った。そうか、そうだったのか。であるならば、父の魂もきっとこの場に来ているに違いない。蛍が光の帯になって闇を駆け巡っていた。女性の肩にすっとひとつの蛍が止まった。美しい人は微笑んで、くちびるを動かした。そして、
「花原くん、私よ」と言った。


 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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