青山から渋谷へ、坂を下っていた文月薫は汗を拭って立ち止まった。ゴッーという音が降ってきて空を見上げた。
 2030年の夏は盛りだったが、雲が多い日で光の凶暴な放射はなかった。しかし、それでも薫は目を細めて上空を仰いだ。ジェット機だった。白く輝く機体はすぐ真上にあって、ビルの角をかすめるように動いていた。思いがけず巨大な物が頭上に現れて、「ああ」と声が出て、そのまま薫は立ち尽くしたのだった。
 赤いライトがチカチカと胴体の腹部で点滅していた。羽田へ着陸するルートに当たっているんだな、着陸準備でコックピットはきっと最後の緊張の中にあるんだろうなと薫は思った。
 雲の端、ちょうどジェット機がかすめていくあたりに夕方の金色の光がキラキラと輝いていた。なんだか空を舞台に宗教的な儀式が行われているように感じられ、あのキラキラの中には白い羽の天使たちが棲んでいるかも、とつかの間に想像した。
 すぐに薫はスマートデバイスで写真を撮った。心が素直に動いた。白い巨鳥はビルの高い群に阻まれてまもなく見えなくなった。薫はスマートデバイスに「7月28日午後6時12分、渋谷上空を飛んでいる飛行機は?」と話しかけた。スマートデバイスは「エールフランスAF270便 パリ発東京行き 着陸体勢に入っているところです」と瞬時にツツッと表示した。
 パリかぁ、行きたいな、今すぐにでも。そう薫は思いながら、ふたたび坂を下り始めた。
 今日は取材の仕事で青山にあるファッションメーカーWのオフィスを初めて訪れた。この数日オンラインで在宅勤務をしていたので外出したら体が少し重かった。取材した女性は執行役員で、とても感じのいい人だった。薫はその取材をコピーライターとしてまとめ、Wのオウンドメディアにアップし、SNSにもアップする。
 取材している間は、気持ちも張っていて頭も動いていたが、外に出たらじっとりとした夏の湿度が体全体を包み、いきなりぼんやりとしてしまった。薄手のベージュのジャケットを脱いで手に持った。営業さんと別れ、渋谷から帰ろうと思い、上空のAF270便と遭遇したのだった。
 宮益坂を下り切ると、渋谷の雑踏が待ち受けていた。人の合間を歩きながら駅に向かっていると、ふと、さっきの飛行機は無事に羽田に着いたのかなと思った。スマートデバイスに小声で話しかけると「今、着陸してタキシング中です」と表示された。ま、それはそうだろうな、よかったなと安心したら、次に、夏休みはどうしようか、という考えがふっと湧いてきた。
 8月の終わりに競合の大プレゼンがある。まさに社運をかけた戦いとみんながキリキリと神経質に舞い上がっている。ま、負けても死ぬわけじゃないし、と薫は思っているが、スタッフの一人として頑張りどころだとは認識していた。
 プレが終わってからどこかへ、行くぞ、必ず。
 そう薫は決心し、職業柄、街頭の広告をざっと見渡した。賑やかな広告にあふれている。広告が街の活気をつくっている。頑張れよ、日本経済。そして広告たち。珍しく本屋にでも寄ってみようと思って、薫は駅に向かわず、熱気のこもったスクランブル交差点を宇田川町の方に渡っていった。



「あの人、ラスボスっぽいんだよなぁ」
 突然、中原サユリは空になったミネラルウォーターのボトルを左右に振りながら言った。
「誰のこと?」
 スマートデバイスの画面に視線を落としたまま薫は訊いた。
「星さん。今度、競合プレのCDに抜擢された人」
 薫の画面には広告が映っていた。パリのエッフェル塔が映り、凱旋門が映り、ルーブル美術館が映った。「憧れのパリへ。5日間秋の特別価格・・・・円。」のコピーが現れてすぐに消えた。夏の盛りの坂でエールフランスの機影を撮った数日前から、急にパリ旅行の広告が薫のスマートデバイスに現れるようになった。しかも、頻繁に。完全にターゲティングされたな、と感じ、正直、「つきまとうなよ、広告」とも思うのだった。
「星さんかぁ、まだ会ってないなぁ」
 薫は今、取り掛かり中の仕事のキャッチコピーが浮かんで、神谷準さんからもらった白い鉛筆でメモをした。二人しかいないミーティングルームはとても静かで、鉛筆の音までサラサラと聞こえそうだった。
「打ち合わせで、じかに同じ空気吸ってないから、強烈な悪のオーラを感じてないんですよ」
 薫は顔を上げて「悪って、そこまで言うか」と思いながらサユリを見た。サユリはボブヘアを少し揺らして窓の外を見て、ツンと唇を尖らせた。
「CDのYさんはもういないし、センパイも出てこないしで、ラスボスの攻撃に私ごときが立ち向かっている状況です」
「ごめん、明日の打ち合わせからはちゃんと出られると思うよ」
 企画とコピーが決まった、あとはデザイン部隊にお任せ、という明日にでも手を離せる仕事があって、いよいよ天下分け目のS社の大競合にどっぷり参加可能になる。「ちゃんと出られる」は嘘ではなく、多大な時間を投入する覚悟はきっちりできていた。
「プレゼン日までもう2週間くらいなのに、なーんにも決まってないんですよ、なーんにも」
 窓の外には分厚い入道雲が見えている。暑そう!の印象しか与えないほど立派な夏の雲で、青い空との境目がギラギラと輝いていた。
「コンセプトというか、戦略というか、根っこのところも、まだ全然なんだ」
「そうなんです、だから考えようがないというか・・・CDによってこうも違うものかと思いました」
「ふーん。そうなんだ」と言いながら、薫は今度の競合プレは意外なドラマが待っていそうな予感にとらわれ始めていた。



 CDのYはつい10日くらい前に会社を辞めた。正直、辞めさせられたと言ったほうがいいかもしれない。誰も気づかないほど静かに彼は去って行った。
 我が社でトップの売り上げを誇る、教育関連ビジネスのS社の責任CDはYだった。通販広告、ECサイトをメインに各種のプロモーションやセミナーなどの施策を通して、チームを統率しながらS社の売り上げに貢献し、信頼を勝ち得てきた。しかし、彼は提案型のCDではなく解決型のCDだった。S社のやりたいことをある意味、きちんと無難にそつなくこなしていた。クライアントの予想をはるかに上回る「創造的破壊」はできないタイプだった。
 S社の売り上げは下がっていなかったが、デジタルメディアへの予算投下はどんどん増えていた。つまり、広告を打っても打っても効かなくなっていて、広告効率の低下は大きな問題としてS社に認識され、不満としてくすぶり続けていた。
 そしてその状況下で衝撃的なデータが示された。ブランドエンゲージメントのスコアがこの数年、下がり続けていたのだ。端的に言えば、S 社がターゲットの心の中に入り込めず、絆を失いつつあったのだ。
 幼児はやがて小学生になり、中高生になり、大学生になる。教育ブランドの好意度は教育を受ける当人とその親に受け継がれていく。いや、受け継がれていかなければいけない。しかしデータは、幼児教育で高い実績を持つS社のターゲットが成長するにつれ、絆を弱めて行くことを示していた。
 では、なぜ、そうなったのか。その答えは見つからなかった。S社にも我が社にも、CDのYにも。
 答えを求める相手をオープンにしようとした結果、広告会社2社を含めた競合になったのだった。競合に負け、アカウントを失えば、会社の現在と未来が揺らぐ規模のダメージを受けることは確実だった。即座に会社は決断した。それはYをS社の担当から外し、他のCDを立てるという決断だった。首のすげ替えで急場を凌ぎ、競合に少しでもいい影響を与えたいという算段だった。そして、選ばれたのが新進気鋭のフリーランスCD、星有斗の起用だった。

 ガランとしたYのルームの前を通るたびに、薫は寂しさとやるせなさを感じていた。今朝、出社した時もそうだった。「使い捨て」、そんな古い言葉が頭に浮かんだ。S社のビジネスがうまくいかなかったのは、全部がYのせいではない。営業やマーケだって、問題を見過ごしてきたのだし、会社のトップだってほうっておいた。それを、すべて個人の責任にするという理不尽さ。いちばん努力してきた人間が、梯子を外され、周りから「あんたのせいということになったよ」と結論づけられたら、もう会社を辞めるしかないだろう。
 若いクリエイターたちには、その理不尽さが心の傷となって伝染していた。目には見えない、だがわかる、痛みが空気になって伝わっているのが。Yの下で働いていたサユリに、その痛みはきっと人一倍リアルなものだろう。
 長谷部が定年退職で数週間前にCDルームを去っていて、それから間もなくしてYも去った。2つのガラス張りの部屋は嘘のようにガランとしていて、その喪失感は半端ではなかった。
 薫は明日の星CDとの打ち合わせに何か考えていくべきだと思ったが、何にも決まっていないというサユリの一言でその努力を放棄した。星はデジタルマーケティング領域からクリエイティブディレクターになった人で、いくつかのクライアントで注目すべき成功を収め、業界に新しい風を起こしていた。
 ラスボス、星。どんな人なのか。正直、楽しみでもあった。顔検索はせずに出席しよう。それにしても、サユリはどんな「悪」を彼に見出しているんだろう、そのことも気になっていた。



 午前10時きっかりに画面がオンになり、次々とスタッフの顔が現れた。おはようございます、おはようございますとさまざまに声が交わされる。オンライン上に10数人のスタッフが集結した。薫は何も言わずに少しだけ頭を下げた。中原サユリもいる。あれ、星CDがいない。全員知っている顔だから、薫はすぐ気がついた。進行役の営業さんが「時間になりましたので・・・」と言った後、言葉を止めた。星CDは数分、遅れて突如、画面に映った。あ、確かに!と薫は思った。サユリがラスボスと言った理由がなんとなくわかった。アニメキャラのようにだらりとした長い髪を真ん中で分けている。目が奥まっていて眼光が鋭い。しかも、部屋の照明が暗く、光がスポットライトのように当たっていて、顔が青白く、髪も銀色に輝いているように見える。突然、ダンジョンの奥に現れる魔王。そんなドキッとする感じが数10%、いや50%くらい入っていた。なるほど、なるほど。薫は誰にもわからないように少しだけ微笑んだ。
 まずは営業がS社に取材したプレゼン情報が画面共有され、次にマーケティングのスタッフから市場分析がされた。分析は30分近くも続いただろうか、ほぼ現状の確認に終始し、当たり前すぎて薫の頭をスルーした。何にも残らなかった。このミーティングが停滞しているのがよくわかった。薫は今日が初めてだが、もう数回これをやっているとしたら、ヤバイ。
 ここで星CDが発言した。太くておごそかな声だった。
「分析、ありがとうございます。ちょっとよろしいでしょうか。もうスタンスを決めないといけないので、私が考えているストラテジーを話したいと思います」
 なんだかみんな息を止めた。いよいよ何かが動く期待感と緊張感。
「何がダメなのか、を考えましたが、まず私たちはS社のコアターゲットをよく知らないのだと思います。教育を受ける対象者なのか、その対象者の親なのか。前者は成長していく過程で、大きくペルソナやアクションを変えていきます。ここはもう捨てるべきです。もう決めましょう、私たちのターゲットは親であると。親をS社のファンにすることこそ、まずはすべきことです」
 薫は、まともじゃん、と感じた。確かに、成長の段階に合わせて広告を打っても効率はまるでよくない。星CDは続けた。
「では、その親をファンにするためには徹底的に彼ら彼女らを知らなければなりません。徹底的に、です。先ほどのような、ぬるいマーケティングをしていても意味はありません。どんなコンテンツを見ているか、どんなトレンドに惹かれているか、どんな文章を好むのか、どんな画像に反応するのか、どんな感情や思考に支配されているか、まで知り尽くすこと」
 先ほどのような、ぬるい、のところで、マーケティング部長は恐怖を感じたようにビクッと体を震わせた。
「検索や投稿やECからだけでなく、ChatAIとの対話や文章作成や画像作成などを分析し、潜在的な欲望や揺るがせない価値観をデータ化するのです。表面的なデジタルマーケティングはもうやめましょう。これからは、ターゲットの人格や思想や美意識にまでフォーカスしていくべきです。そして、その知り尽くしたターゲットにS社の情報を有効な瞬間に供給していく。広告をたまたま出会うものではなく、日常の生活に組み込まれていくものにします。それを最新のAIテクノロジーを使ってやっていくのです。僕はそれを、『全知全能マーケティング』と呼びたいと思います」
 なるほど。この6、7年で普及し、今や精密さも増して、スマートデバイスにもインストールされているChatAIは、人の感情や思想に近いツールだ。そこから獲得できる情報はブランディングのための情報として使える。本当にそうだ。
「そして、そのテクノロジーが今、僕の手元にあります。さ、このテクノロジーで他社を凌駕し、新たな勝利を勝ち取るのです」
 その最後の言葉は、ちょっと魔王っぽかった。しかし見てくれの好き嫌いはあるにしても薫は「悪」の要素をまるで感じなかった。
 星CDの発言の後、長い沈黙が訪れた。
「質問いいですか?」と突然、大きな声が飛び出した。中原サユリだ。
「コピーライターの中原です。キャッチコピーはいつ書いたらいいでしょうか」
 画面の中の星CDは表情を少しも変えずに答えた。
「待ってください。後、1週間ほどでS社のターゲットのインサイトが手にとるようにわかります。欲望も苦悩もすべての感情も。そのデータに基づいて書けばいいと思います」
「でも、もうプレゼンまで時間がありません。自分の視点で書き始めてもいいでしょうか。そのコピーを見てもらうこともやっていただけるのでしょうか」
 サユリの声は緊張をやや感じたが、しっかりしていた。むしろ、周りのスタッフがサユリの発言に危険を感じとり、緊張をしているようだった。その空気がビリビリと伝わってくる。
「もう少し待ってください。ターゲットを完全に知り尽くしてからアイデアを考えるのが私のやり方です。AIコピーライターもそのほうが的確な答えが出せるでしょう」
 星CDはそう言って、銀色に光る長髪をクールにユラっと揺らした。薫は「あれ?」と思った。
 この人、ひょっとするとAIでターゲットを決め、AIでキャッチコピーを書き、AIでデザインをつくろうとしている?
 そんな疑いが薫の頭にパッと灯った。
 自動生成の世界はどんどん進化していて、デジタルマーケティングとリンクさせることで、広告コンテンツは最適化される。そんな広告制作と配信が2030年の今、かなり行われつつあった。
 もう人間が集まって、知恵を絞り、熱く語り合い、試行錯誤を重ねて、高いレベルの発想や感動を生み出す。そんなことは古代すぎる!タイパもコスパも悪すぎる!という人がデジタル系ではなく、クリエイティブ系の中からも現れてきていた。その根底には、人間が考えるより、AIが考えた方がいいものができるのだ、というテクノロジー信仰が強く存在しているように薫は感じていた。
「企画やコピーはもう考え始めようと思います」
 サユリは星CDの「もう少し待ってください」をガン無視して言った。反旗を翻したようにも感じられたが、ラスボスは何も言わずに、画面の向こうでただ鋭い目線を放っていた。

 薫はサユリを探して社内を歩いた。が、彼女はいなかった。オンライン・ミーティングには家から参加していたのかもしれないと思い、立ち止まってチャットした。
「ラスボスに挑んだ勇士さん、お疲れ!」
 返事はすぐには来なかった。薫は少し自分だけになろうと考え、カフェに行くことにしてオフィスから街に出た。カフェは歩いて数分のところにあり、薫はお気に入りの窓側のテーブルに座った。夏の日差しで街のすべてが光り輝いていて、行き交うクルマや人が地面からの熱気でゆらゆらと揺らめいていた。
 自動生成された、先日のファッションメーカーWの取材記事の下書きがスマートデバイスの画面にあった。そろそろアップしなければいけないが、ちょっとほっておいた、その文章を薫はゆっくりと見始めた。取材を録音したデータを読み込ませれば、あとはChatAIが自動で記事にしてくれる。薫がやることはどういうふうに書き上げて欲しいか条件を入力するだけだ。2000文字という文字数と<です・ます>という文体、それだけを指定した。
 文章はよくできていたが淡々としていて、起承転結がないというか、レポートのような感じだった。これを人間が読んで感情に起伏をもたらす『記事』にしないといけない。話の順番を変えたり、不必要な箇所を削除したり、場合によっては発言していなかったことを補足することも必要だった。自動生成といえども、最後には人間の感性や思考の領域を通さないと売り物にはならない。せっかくのステキなインタビューをよりステキなものにして読み手に届けたい、そう思って、薫はまたAIの下書きを丁寧に読み返していった。
 チャットのマークが画面にポンと出た。サユリからだった。
「センパイもお疲れさんでした」
「君の気持ちがちょっとわかったよ」
「でしょ、ターゲット、ターゲットって言われても、なんだかなぁです」
「君の言う通り、考え始めようよ。時間もないことだし」
「ですよね!」
「また、明日、話そ」
「かなり落ちてましたけど、少し元気になりました。じゃ、明日!」
 明日。今日の不安や失望をすべて過去のものにする呪文のような言葉。
 下書きから目を離し、コーヒーを飲み、薫はぼんやりとした。そうなってしまったと言うより、そうしたかったのかもしれなかった。
 疲れているのかな、何に疲れているのかわからないけど・・・窓の外の夏を眺めながら音楽を聴こうと薫は思い、長い髪をどかして白いヘッドフォンを装着した。動画付きの音楽サイトに入ると、いきなり広告が現れた。またパリ旅行の広告だった。「憧れのパリへ。5日間秋の特別価格・・・・円。」―――いつものやつだ。ただ、絵柄にパリのカフェが新たに加わった気がした。位置情報で、自分が今、カフェにいることがバレたのかもしれないと感じる。広告は薫を狙い続け、追いかけ続け、なかなか自由にしてくれない。やがてお気に入りの音楽が始まり、自分を取り戻すように大きめに息をしてから、薫はコーヒーをまた飲んだ。



 1週間後、星CDからのデータはすべてのスタッフに送られてきた。それを薫は誰もいないミーティングルームで見た。
 膨大なものだったが、S社の顧客を日常的な行動や感情まで生々しくリアルに分析していた。競合他社の顧客との比較も当然あった。S社の教育システムや教育ツールの選定決定者は90%が女性、つまり母親だった。彼女らは理知的でアクティブで社交的だったが、生きることへの不安をどこかに抱えていて、社会的成功を望んではいるがまだなし得ていない現状にもどかしさを感じていた。子どもの未来への期待は大きかったが、どう育てていいか、に悩み、仕事が忙しい中で子どもの知育を自らできないことへの罪悪感も強かった。しかし子供への愛は十分にあり、家庭への愛も同様だった。その愛ゆえに子どもの成長によるささいな変化にも敏感に反応し、傷つきやすかった。つまり、ターゲットは精神軸でも思考軸でも「揺らぎ」が多く、競合他社に乗り換える可能性は十分あり、選定理由は曖昧で、S社との絆はあまり強くなかった。
「さて」と薫は思った。これをどうやったら広告案にするのか、コンペに勝つ戦略にしていくのか。揺らいでいるターゲットを安心させるにはどうしたらいいのか。それはそもそも広告で解決できるものなのか。自分の専門領域であるコピーを書くことはできる。だが、それは何のために書くのか。企業イメージ向上か、サービスイメージの向上か。メディアはどうチョイスすればいいのか、そしてデザインはどうするのか?
 星CDの言葉が蘇る。「AIコピーライターもそのほうが的確な答えが出せるでしょう」・・・つまり、このデータをAIに読み込ませ、広告案をアウトプットさせる? それを見て、人間が調整して最終案にする?
 薫の頭にはいくつもの「?」がぐるぐると渦巻いた。もし、そのプロセスで進んでいくとしたら、自分は何をすればいいのだろう。どういう広告をつくるかではない。そもそも、どういうふうにこの仕事に参加するのか。すべてが自動になるのであれば、人間はそこに「参加」はできない。参加はせずに、利益だけをもらう。それは楽だ、コスパだ、タイパだ。だが、それで本当にいいのか。本当にそれが自分の目指す仕事なのか。その問いが胸に広がり出し、だんだんいたたまれない気持ちへと落ちていった。
 ああ、サユリもそう感じたんだ・・・だから、「悪」だと言ったんだ・・・・。
 薫はなんだか何もする気がなくなって、一人のミーティングルームでじっとしていた。どこへも行けない、帰れない、迷子になってしまった気がしていた。



 中原サユリと星CDはまた衝突した。
 ついさっきのことだった。ミーティングはまたオンラインで、サユリと薫はそれぞれ、会社の空いている2つのCDルームから出席した。
 驚くことに広告案はもうできていた! 教育界の有名人やインフルエンサーがたくさん起用され、さまざまなWebメディアに登場してS社のステマギリギリの広告をするというものだった。Webメディアはターゲットが閲覧するサイトを膨大なデータから的確にチョイスしてあり、現行のポータルサイトへの流入率が3倍ほどにアップすることを科学的に約束していた。企業スローガンは「迷ったら、本気のSへ」と書かれていた。どこかで見たようなフレーズだったが、揺らいでいるターゲットたちには、理屈上、わかりやすいとAIが判断したのだろう。
 うすうす薫はこんな展開になるのを予想していた。もちろん、そうならないことを祈ってはいたのだが・・・。しかし、サユリはそうではなかった。画面から大きな声で叫んだ。
「質問です!」
 星CDの代わりに営業部長が「いいよ」と言った。その感じで、この広告案がもうすでに営業には見せられていることが薫にはわかった。たぶん、これで行こうというGOサインを出しているのかもしれない。根回し済みというやつ。
「これだと心は動かないと思います。心が動かないと生活者とのブランドの絆はできないのではないでしょうか」
 先日のようにまた緊張が走る。小犬が吠え立てているようなもので、ただうるさいだけだと多くのスタッフが感じているのが伝わってくる。星CDはサユリの言葉にすぐに反応した。
「今、あなたは生活者と言いましたね。私はもうその古い考え方には立っていない」と静かだがちょっと威圧的に星CDは言った。
「生活者でなければ、なんなのでしょう。教えてください」
「私は情報者だと捉えています。あなたの言う生活者とやらはWebのどこかに日常的に多くの痕跡を残している。『好きだ』『便利だ』『楽しい』という気持ちで、ネットのアルゴリズム上に自分を表現し、記録を残していく。だから、情報者なのです。私は広告をもっと効くものにしたい。そう考えているだけです」
『情報者』! その言葉に薫は侵入された。なるほど、そうなのか、という思いと、本当にそれでいいのか、という思いがごちゃ混ぜになって、薫の脳に秩序なく流れ込んだ。
「人の生活はネットだけで成り立っていないです。一人で泣いている瞬間、その心の痛みはネットには反映されません」とサユリは返した。
「しかし、その泣いたあと、多くの人間はSNSにつぶやいたりするのです。そうではないですか」
 サユリは悔しそうな顔をして黙った。星CDは続けた。
「古い広告ではなく新しい広告を提案するのです。もはや生活者ではなく、情報者を科学することで、見えなかった未来さえ見えるようになるのです」
 勝負はもうついた。古いと言われてしまえば、もうそれでおしまいだった。古いはキラーワードだった。ビジネスパーソンは新しいという『絶対的価値』には抵抗できなかった。
 薫は敗者のサユリの顔を見た。勝者の星CDの顔を見た。
 そして突然、薫はバネがポンと弾けるように大きな声を出した。
「コピーライターの文月薫です。人間と言葉が好きで広告業界に入りました!」
 あれ、ワタシ、何を話しているんだ、と思ったが、もう止まらなかった。
「ふつつか者ですが、人間と言葉を愛する者として、1案考えさせてください!」
 サユリだけでなく、デザイナーやプランナーも薫の声を聞いていた。沈黙が20秒ほどあって、星CDは答えた。
「いいでしょう。ただし、私のデータから逸脱しないこと。よろしいですか」
「はい、わかりました、頑張ります!」
 薫は言い終わると、目の前のPCカメラに向けて頭を下げた。胸は少しもドキドキしていなかった。なんだかわからないけど、抑えられていた本心がビヨーンといきなり跳ね出して、爽快な気分さえあった。プレまで1週間だ。頑張る!それしかない。
 人の心を動かすことに古いも新しいもあるものか。
 深夜までだって働いてやる。会社のためじゃない、それは思いを込めて広告をつくっている人たちのため、そして社会で一生懸命生きている生活者のため、なのだ。ルームの窓をサユリが叩いていた。横にはデザイナーの男子もいた。二人とも笑顔を窓につけて薫を見ていた。サユリは右手の親指を立てて、グッドジョブのサインを送った。



 競合プレゼンは負けた。敗北後の4、5日は会社全体が沈鬱な空気になっていた。薫も虚脱感に包まれて、会社にいても人とあまり話をせずに過ごした。申し訳ないという気持ちもあり、プレ前の残業続きで体の芯まで疲れていて、サユリとも会わずに午後2時頃、会社を出て家に帰ったりした。S社の扱いが飛んで、「うちの会社ヤバイ」という会話がそこら中で交わされ、空になった2つのCDルームがそのヤバさにビジュアル的な拍車をかけていた。
 定年退職した元CDの長谷部さんから、事務所開設のお知らせが会社に来ていた。今時、珍しいハガキで、活版印刷された文字のみのデザインだったが、フォントの選び方が上手で、おしゃれで温かい印象を与えていた。喪失の後は、補充をしないと生きていけないな、きっと。新しい事務所に行こうかなと薫はぼんやりと思った。

 競合プレゼンの結果の詳細がわかってきた。勝利は広告会社のHで、企業ブランドを高めるためにエモーショナルなストーリーの動画広告を軸に、街メディアや交通メディアを利用するキャンペーンだった。星CDの案の評価は悪くなかったが、新し過ぎてここまではできないという意見も多かったそうだ。
 しかし、思いがけない朗報もあった。サユリが書いて提案した企業スローガンが採用されたのだ。この秋ではなく、来年度の予算で、そのスローガンを使った動画広告を作りたいとのオーダーが来たのだった。薫たちの案は、「勉強することで親子の絆も育まれる」というコンセプトで、サユリの書いたのは「どうか親子の愛も育ちますように」だった。
 すぐに薫はサユリに「おめでとう」とチャットしたが、少しだけ、ほんの少しだけ悔しい気もした。なぜ、自分がもっといいコピーを書けなかったのだという思い・・・・それがどうしてもまとわりついてくる・・・・。
 夏が過ぎようとしていた。もう一度、今の自分を見つめて、歩いて行く方角を確かめたかった。神谷準さんにも会いたい。「君の言葉を待っている人がいる」。彼の言葉が蘇ってくる。
 長谷部さんの事務所は神保町の近くにある。久しぶりに古本街でブラブラしつつ、行ってみようと薫は決心し、スマートデバイスのサイトをウロウロしていたら、プレゼンの時、いろいろ調べたせいか、S社も含めた教育関連の広告が出現していた。パリは遠くなったなと感じつつ、もう負けて仕事をすることもないS社界隈の広告を見るのは嫌だった。スマートデバイスを閉じて、薫は一度背伸びをしてから、窓の外の夏最後の入道雲をしばらく見つめていた。

 古本屋が並ぶ「すずらん通り」を一本入った道筋に長谷部さんの事務所はあった。方向音痴の薫だったが、すぐに見つけることができた。以前は酒屋とか木工所とか駄菓子屋とか、そんな感じの全面が木とガラスでできた入り口だった。入る前、脱いだストローハットで白いブラウスの胸元をパタパタすると、ジワリとかいた汗に小さな風が当たって涼しかった。
「こんにちは!」
 薫は入り口から中に向かって大きな声を出した。夏の日盛りを歩いてきたから、目がまだ室内の暗さに慣れていなかった。「こんにちは!」、もう一度、声を出した。人が出てきた。灯りをつけた。長谷部さんだった。大きな木のテーブルがあり、壁際のスペースには昔ながらの白いデスクトップコンピュータが数台、並んでいた。
「ヤァ、来たね。待ってたよ」
 派手な柄のアロハシャツを着た長谷部は顔じゅうを笑顔にして言った。
「お久しぶりです」
「どう、元気かい?」
「ええ、まぁ、普通の元気でやってます」
「そうか、普通なら、いいやね」
 薫は長谷部とテーブルに並んで座った。新たにつくったものなのだろうか、木のかぐわしい匂いがそのテーブルから香っている。
「デザインのお仕事始めたんですね」とアップルマークのコンピュターを振り返って見て薫は言った。
「そう、辞めてから1カ月くらい経って、やっとね。ビジネスというよりは趣味の領域だけど」
 長谷部は角刈りの頭を1回、撫でてから笑った。
「へー、すごいな。生涯デザイナーですね」
「たいした仕事はしてないんだけど、根っから好きなんだよね、デザインが。つい夢中でやっちゃう」
「『好き』かぁ。ワタシももっとコピーが好きにならないとダメなのかなぁ」
 長谷部は立って奥の部屋に入り、すぐにミネラルウォーターの瓶を2本、持ってきた。エビアンだった。半休を取って、夏の駿河台から古本街のあたりを探検していたから喉が渇いていた。
「S社の競合は負けたらしいね」
「そうなんです。会社、暗いです。CDルームもガラ空きだし」
 薫は会釈をしてエビアンのキャップを開け、ぐいと飲んだ。体を水がスッーと沁みていくのがわかる。薫は大競合の顛末を、星CDの話ももちろん混ぜて、長谷部に話し始めた。

 エビアンを飲み干す頃、話は終わった。
「情報者か。確かに広告ビジネスをする側から言うとそうなんだろうなぁ。でも、広告は受け手のものでもあるから、見方が一方的な気はする」
 長谷部はそう言ってから、奥の部屋に入り、2本目のエビアンを持ってきた。
「自分が目指していた広告の世界から、今、どんどん離れて行ってる気がして居心地が悪いんです」と言いながら、薫は頭を少し下げて、冷たい瓶を受け取った。
「広告はコミュニケーションだから、受け手のことをとことん想像して考えると、人に優しい気持ちを持つことができたり・・・コピーとアートやマーケが一緒にウンウン唸ってアイデアを出すから、チームで喜びをシェアできるし・・・ひたすらいいものをつくろうと頑張るから今の自分を超えて成長できる・・・そんな場だったんだけどね」
「そうですね。そうなんですよね」
 薫はそう言ってから、ストローハットの中に人差し指を入れて、くるっくるっと回した。ガラガラと突然、音がして、誰かが入ってきた。若い男性だった。
「よおっ」と長谷部が手を挙げると男性は微笑んでマックの前に座った。
「ここで、広告デザイン教室をやっているんだよ。週1回、6時から」
「へー、いいなぁ、それ」と薫が反応すると、また一人、入ってきた。今度は若い女性で、やっぱりマックの前に軽く会釈してから座った。
「大学の授業が終わったんだと思う。教室の始まる前に、課題を仕上げるために来てるんだよ。みんなすごく熱心」
 クリエイティブワークを含めた広告の作業がどんどん自動化されていっているのに、一方で若い人たちが広告のデザインを目指している―――このアンバランスはなんなのだろう。世の中には、2つのタイプの人間がいるのかもしれない。『便利』をモットーにプロセスを排除しようとする人と、夢中になりたくて『手間』に喜びを感じようとする人。薫は、自分は絶対に後者として生きたいと思った。長谷部さんが言うように、そこには成長があるはずだ。つくることには葛藤や挫折や苦悶がついてまわる。だからからこそ、人は「生の温度」を感じ、自らを見つめ続け、新しい自分になることができるのではないのだろうか。
 薫はバッグから白い鉛筆を出した。長谷部に見えるように宙にかざす。
「大事に使っているんですよ、まだ」
「おー、神谷準さんのインスピレーションが出る鉛筆。中原さんもかな」
「ええ・・・そうそう、彼女のコピー、S社の企業スローガンに採用されたんですよ」
「聞いたよ、やるね」
「でも、100%喜べない自分がいたりもして。それもイヤだなーと思ったりしてます」
 また若い人が入ってきて、ボーンと言うマックの立ち上げ音が響いた。
「ハハ、そうなんだね。嫉妬も、文月さんが成長した証なんだよ、きっと」
 事務所に活気が出てきた。学生同士が会話をしている。若い活気、つくる活気。マウスのカチカチとした音が重なる。
 きっとこういうことなんだ、空気がはしゃいでいる、この感じ。思いをカタチにする前の、この感じ。
「神谷準さんもここにいらっしゃったりします?」
そうだったら、嬉しいなぁという気持ちが素直に口から出た。長谷部の動きがぎごちなく止まった。そうして、頭を1回なでてから、
「実はね、もういなんだよ・・・この世に」と薫の目を正面に見据えながら言った。
 何もかもが沈黙した。音だけでなく、時間までもがシンと静かになった。
「どういうことですか、いないって」
 やっと薫はつぶやくように言った、やっと。
「だいぶ前に亡くなったんだよ」
「いつですか?」
「もう10年以上になるかな」
 重い驚きが薫の胸ぜんぶを圧迫して、息苦さでいっぱいになった。
「そんなことあるわけないじゃないですか・・・・」
 涙がスーッと薫の頬を伝わった。
「会いましたよ、一緒にいましたよ。言葉をもらいました、鉛筆をもらいました。だから、そんなこと嘘です」
 ああ、なんということなんだろう。あの時、ワタシの目は神谷さんを確かに見ていた。耳は確かに言葉を聞いていた。それはワタシの心のなかにある宝物だった。いつでも取り出せる宝物だった。素晴らしい時がそこには詰まっていた。また会えることがワタシの命の願いだった。
「あの店に行くと、会えることがあるんだ。だから、僕らの仲間はずっと賃料を払い続けている」
 薫は言葉がもう出なかった。自分が溶けて消えていきそうだ。心は「嘘、嘘、嘘」と繰り返し続けている。
「思いが強い人のところに現れるんだ」
 その言葉を聞いて、薫の目から涙がいく筋も勝手にまた流れた。
「一生懸命、心を込めて戦っている人のところに現れるんだ」
 薫は神谷準の笑顔のシーンをなんども思い出していた。伝説のコピーライターという遠い人がくれた、温かく、近い笑顔。
「ごめん、ちゃんと話しておけば良かったね・・・」
 薫は長谷部の顔を見て、黙ったまま首を小さく左右に振った。「いいえ」という意思表示として。
 木とガラスの大きな入り口から、光がさしていた。その光には黄昏の色が混じっていた。まもなく夕暮れが来て、古本街に時の忘れ物のような美しい光景が訪れるのだろう。
 薫はストローハットを手に持った。もう行かなくちゃいけない。どこへ、かはわからないけど、どこかに、行かなくちゃいけないのだ。
 薫は何も言わず立ち上がり、長谷部さんに頭を深々と下げてから、顔を隠すようにストローハットをかぶった。

 街は夕陽に包まれようとしていた。人の影や電柱の影が長くなり、背の低いビルの向こうにパステルで描いたようにオレンジ色の光が広がり始めている。薫はその光の方角に目的もなく歩いて行った。心は水の入っていない器のようだった。街のすべては逆光のなかで眩しく輝いていて、現実を喪失していた。自転車がすぐ側を通りすぎて行く。店の脇の路地に古本がうずたかく積まれている。ぼんやりと焦点の定まらない目で薫はしばらく街を徘徊した。いつもは脳裏を駆け巡る、いろいろな言葉も一切、生まれてこなかった。「空っぽだ、ワタシ」、それだけを感じていた。
 そして、ふと、ある古本屋の店先に立つ、一人の男の姿に目が止まった。遠かったから、はっきりとはしなかったが、その姿には見覚えがあった。
 男は本を広げてゆっくりと読んでいた、言葉と自分の出会いを楽しむように。ややオレンジに染まった半袖の白いシャツが薫の目に入った。薫は近づいて行った。なんだか似ている。すごく似ている。100%、その人ではないはずなのに。
 薫は数メートルのところで立ち止まった。神谷準さんだった。幻でもなんでもなく、間違いなく神谷さんだった。神谷さんは薫が近づいてくるのがわかっていたようにタイミングよく本から目を離し、薫の方を見た。
「やぁ」、そんなふうに神谷さんの唇が動いた。
「神谷さん・・・・」
 薫は呻くようにつぶやき、固まり、足が動かなくなった。
「会いたかったです・・・本当に会いたかったです」
 薫の心は悲しさと切なさではちきれ、震えていた。
 神谷さんは薫を静かに見つめながら笑っていた。
「話したいことがあるんです、たくさん」と薫は言った。太陽が最後のきらめきを放ちながら沈みいこうとしている。何もかもが戻ってこない彼方に消えていく、その刹那に、神谷準と文月薫は遭遇していた。
「思いが強い人のところに現れるんだ」
 長谷部のその言葉を薫は思い出す。
 ワタシが弱すぎるから、来てくれたのですね・・・。
 突然、神谷準はくるっと後ろ姿を見せて、歩き始めた。まるで次に行く場所へ急ぐように。薫は追いかけた。早足で白いシャツの背中を追う。男は右の路地に曲がった。薫は見失いたくない一心で駆けた。
 男の姿はもうなかった。しんとした路地だけがあり、向こうには大通りがわずかに見えていた。誰もいなかった。そこには夜の暗がりが濃厚にうずくまっていた。薫は、ボーッと長い間、立ち尽くしていた。しばらくして、気がつくとストローハットがなかった。夢中で駆けたので、どこかに落としたのだった。
 ゴーッという大きな音が上空から降ってきた。
 見上げるとジェット機だった。チカチカと赤い光を、挨拶するように点滅させていた。瞬間、まるで神谷さんが飛行機に転生したように感じた。そんなわけはないけど、そう思った。
 そして薫は意を決して、スマートデバイスを手にし、電話をかけた。相手が出た。
「ね、サユリ。旅に出ない?」
「センパイ、なんですかぁ、いきなり」
「遅めの夏休み。君もあのプレがあったから取ってないよね」
「そうですけど」
 中原サユリの近くで人の話し声が聞こえた。音のくぐもり方から会社にいるのかもしれない。
「で、どこ行くんですか」
「パリ」
「いつ、行くんですか」
「明日」
 答えはすぐに返った。
「いいですよ。中原サユリ、お供します」
「ありがと」と薫が言うと
「パリ、初めてなんですよ。可愛いコピーライターには旅をさせろ、と言うし」とサユリは返した。
「誰が言った?」
「ふふふ、私が今、思いつきました」
 二人は笑った。
「センパイ、明日って、いい言葉ですよね。明るい日と書いて明日」
「どこかの歌詞にあったな、それ」
 また二人は笑った。
 明日か。そうだな、次の日だから、「次日」でもよかったのに、なぜ、「明るい日」にしたんだろう。センスあるコピーライターが大昔にもいたのかもしれないな。
 薫はやっと歩き出した。東京・パリを予約して、サユリに便名や待ち合わせ時間をメールして、会社に夏休みを宣言して、トランクを出して、身支度を整えて・・・・忙しくなるな、そう思いながら、地下鉄の駅を目指した。
 人影が次から次へ通りすぎ、すれ違っていく。薫はハッと胸を突かれる。ああ、それぞれの影には、ただ一回きりの命が宿っている。それは当たり前のことすぎて、みんな気づけていないだけなんだ。ワタシよ、生をもっともっと抱きしめろ。そして前に進んで行け。
 駅の階段を降りる手前で、薫は決意したように立ち止まり、空を見上げると、わずかに残った夕陽の中を、飛行機が小さな黒いシルエットになって飛んでいるのが見えた。


 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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