Vol.56 ベンチャー志向だった私が「歯車」となって会社を動かす楽しさを知った キャリアアップナビ
キャリアアップナビでは、マーケティングやクリエイティブ職のキャリアアップについて、毎月テーマをピックアップして解説します。今回は、日清食品でビヨンドフード事業部 ダイレクトマーケティング部部長を務める佐藤真有美(さとうまゆみ)さんにこれまでのキャリアについて伺いました。良い転職は、良質な情報を入手することから始まります。「こんなはずではなかったのに…」とならないための、転職情報をお届けします!
──もともと、どんなキャリアを目指していたのですか?
大学では広い知識を得て、社会の問題を解決する力を養う総合政策学を専攻しました。夢中で勉強するうちに、将来は自分の意思と能力を生かせる仕事がしたい、大企業の歯車になるような働き方はしたくないと考えるようになりました。
そこで卒業後はベンチャーのメディアに入社。世の中の不公平や貧富の差など多様な問題と向き合うジャーナリストに憧れたからです。
ところが、入社して3カ月が過ぎた頃に会社が倒産。入社した1999年頃はITバブルで、ベンチャー企業が次々と立ち上がっては破綻していました。「第二新卒」なんて素敵な言葉もない時代に、同期入社の18人が全員、スキルも経験もないまま放り出されてしまいました。
早く何か仕事をしなくては、と求人誌で見つけたのが、外資系紙メーカーの事務職でした。経営は安定していて、給与も良かった。ただ、入社して3年が経ち、ふと「大学で勉強したことや、あの頃に抱いた希望はどこに行ってしまったのだろう」と考え始めてしまうことに。
キャリアに悩んでいたある日、見に行った社会人野球に日本マイクロソフト社員のチームが出ていたんです。楽しそうな職場の雰囲気が伝わってきて、いい会社なんだなと。転職サイトをのぞくと、いくつか募集があり、ものは試しと応募してみたら、思いがけず入社が決まって。
日本マイクロソフトにいたのは12年間。最初は社長室で、社内イベントの企画運営を担当。数回の異動を経て、3年目にマウスやキーボードなどハードウエア商品のプロダクトマーケティング(PM)担当になりました。同社のマーケティング部門で、商品の全責任を持つPMは花形職種でした。序列のトップはソフトウエアの担当ですが、ハードウエアの担当も羨望の眼差しで見られるポジション。紆余曲折がありましたが、学生時代に思い描いた「裁量権を持って仕事をする」という理想をやっと実現できました。
──その後、EC担当に異動したそうですね。
これは“外資系あるある”ですね。突如、自部署の人員削減が命じられ、2名体制だったPMが1名体制となることに。私はEC担当に異動だと告げられ、聞いた時は本当にショックでした。当時、家電は量販店で買うのが一般的でしたから、ECの仕事に魅力を感じることができなかった。「PMを外された人」というレッテルを貼られるのも嫌でした。
もう半分やけっぱち。別人として生きないとやっていられないと思って、ビジネスネームを旧姓から新姓に変えたくらいでした。それからは営業会議で、頼まれてもいない購入者データの分析結果を毎週毎週プレゼンし続けました。最初は煙たがられましたが、だんだん面白がってくれる人が出てきて。社会的なWebの盛り上がりという後押しを受けてECの売上を伸ばしていくうちに、社内でのECの価値が上がっていきました。私自身のECへのモチベーションも高まり、日本法人のデジタルリードを務めるまでになりました。
会社に所属していると、興味がない仕事を任されることがあります。私も本当に嫌だと感じた異動でした。しかし、あの配置転換がなかったら、今ほどキャリアの幅が広がらなかった。自分にとって何がベストかなんて、その時はわからないもの。置かれた場所で諦めずにやってみれば、意外と道が開けることもあるのだろうと思います。 ──現在の日清食品に入社したきっかけを教えてください。
日清食品に転職したのは38歳のとき。育児で「小1の壁」にぶつかったことと、販売マーケティングから仕事の領域を広げるため、外資の日本支社ではなくグローバル企業の本社で働きたいと考えたんです。
私にとっては初めての日系企業で、まわりはプロパーが多く、受け入れてもらえるか心配でした。勝手に「最初の3カ月で結果を出さないと」と思い込み、他人の提案にも遠慮なく口を出して。嫌な人と思われていたかもしれません。
米国日清のECプロジェクトリーダーとして入社し、最初の企画が通り、アメリカ市場向けに即席めんを開発することになりました。経営層へのプレゼンまでは順調だったのですが、実際の商品化は困難続き。法律や規制、原材料などわからないことだらけで、ひとりでは越えられないハードルばかり。開発・生産部門の責任者をはじめ、先輩や同僚に教えを請い、時には怒られながらもひとつずつ進めていきました。これをきっかけに、社内の知り合いも増えましたね。発売日が決まってお祝いをしたとき、ようやく仲間になれた気がして泣けました。
学生の頃は企業の歯車になるのは嫌だと思い込んでいました。でも、ひとつの歯車に連動して生まれる動きの大きさ、そして無数の歯車をつなぐハブとしてのマーケティングの仕事のやりがいと難しさが今ならわかる。ベンチャーしか見えていなかった、あの頃の自分に説教したいですね(笑)。
──限られた誌面には収まりきらなかった佐藤さんのキャリアを、advanced限定記事でもお伝えします。
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大学では広い知識を得て、社会の問題を解決する力を養う総合政策学を専攻しました。夢中で勉強するうちに、将来は自分の意思と能力を生かせる仕事がしたい、大企業の歯車になるような働き方はしたくないと考えるようになりました。
そこで卒業後はベンチャーのメディアに入社。世の中の不公平や貧富の差など多様な問題と向き合うジャーナリストに憧れたからです。
ところが、入社して3カ月が過ぎた頃に会社が倒産。入社した1999年頃はITバブルで、ベンチャー企業が次々と立ち上がっては破綻していました。「第二新卒」なんて素敵な言葉もない時代に、同期入社の18人が全員、スキルも経験もないまま放り出されてしまいました。
早く何か仕事をしなくては、と求人誌で見つけたのが、外資系紙メーカーの事務職でした。経営は安定していて、給与も良かった。ただ、入社して3年が経ち、ふと「大学で勉強したことや、あの頃に抱いた希望はどこに行ってしまったのだろう」と考え始めてしまうことに。
──それで転職を決めたのですね。
キャリアに悩んでいたある日、見に行った社会人野球に日本マイクロソフト社員のチームが出ていたんです。楽しそうな職場の雰囲気が伝わってきて、いい会社なんだなと。転職サイトをのぞくと、いくつか募集があり、ものは試しと応募してみたら、思いがけず入社が決まって。
日本マイクロソフトにいたのは12年間。最初は社長室で、社内イベントの企画運営を担当。数回の異動を経て、3年目にマウスやキーボードなどハードウエア商品のプロダクトマーケティング(PM)担当になりました。同社のマーケティング部門で、商品の全責任を持つPMは花形職種でした。序列のトップはソフトウエアの担当ですが、ハードウエアの担当も羨望の眼差しで見られるポジション。紆余曲折がありましたが、学生時代に思い描いた「裁量権を持って仕事をする」という理想をやっと実現できました。
──その後、EC担当に異動したそうですね。
これは“外資系あるある”ですね。突如、自部署の人員削減が命じられ、2名体制だったPMが1名体制となることに。私はEC担当に異動だと告げられ、聞いた時は本当にショックでした。当時、家電は量販店で買うのが一般的でしたから、ECの仕事に魅力を感じることができなかった。「PMを外された人」というレッテルを貼られるのも嫌でした。
もう半分やけっぱち。別人として生きないとやっていられないと思って、ビジネスネームを旧姓から新姓に変えたくらいでした。それからは営業会議で、頼まれてもいない購入者データの分析結果を毎週毎週プレゼンし続けました。最初は煙たがられましたが、だんだん面白がってくれる人が出てきて。社会的なWebの盛り上がりという後押しを受けてECの売上を伸ばしていくうちに、社内でのECの価値が上がっていきました。私自身のECへのモチベーションも高まり、日本法人のデジタルリードを務めるまでになりました。
会社に所属していると、興味がない仕事を任されることがあります。私も本当に嫌だと感じた異動でした。しかし、あの配置転換がなかったら、今ほどキャリアの幅が広がらなかった。自分にとって何がベストかなんて、その時はわからないもの。置かれた場所で諦めずにやってみれば、意外と道が開けることもあるのだろうと思います。 ──現在の日清食品に入社したきっかけを教えてください。
日清食品に転職したのは38歳のとき。育児で「小1の壁」にぶつかったことと、販売マーケティングから仕事の領域を広げるため、外資の日本支社ではなくグローバル企業の本社で働きたいと考えたんです。
私にとっては初めての日系企業で、まわりはプロパーが多く、受け入れてもらえるか心配でした。勝手に「最初の3カ月で結果を出さないと」と思い込み、他人の提案にも遠慮なく口を出して。嫌な人と思われていたかもしれません。
米国日清のECプロジェクトリーダーとして入社し、最初の企画が通り、アメリカ市場向けに即席めんを開発することになりました。経営層へのプレゼンまでは順調だったのですが、実際の商品化は困難続き。法律や規制、原材料などわからないことだらけで、ひとりでは越えられないハードルばかり。開発・生産部門の責任者をはじめ、先輩や同僚に教えを請い、時には怒られながらもひとつずつ進めていきました。これをきっかけに、社内の知り合いも増えましたね。発売日が決まってお祝いをしたとき、ようやく仲間になれた気がして泣けました。
学生の頃は企業の歯車になるのは嫌だと思い込んでいました。でも、ひとつの歯車に連動して生まれる動きの大きさ、そして無数の歯車をつなぐハブとしてのマーケティングの仕事のやりがいと難しさが今ならわかる。ベンチャーしか見えていなかった、あの頃の自分に説教したいですね(笑)。
──限られた誌面には収まりきらなかった佐藤さんのキャリアを、advanced限定記事でもお伝えします。
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