「おーい、兄弟!」
 懐かしい声が聞こえた。重く太く、ざらついた耳への感触。
 四条総一郎はゆっくり目を開けた。永田がそこにいた。懐かしいと思ったのは、永田の声だったのだ。
「目覚めたな! とにかく朝だ」
 永田は濃紺のダブルを太い体型にビシッと着こんで、目の前に立っていた。スーツには縦ストライプが入っている。黒いシャツに臙脂色のネクタイが派手に見えている。無精ヒゲもきれいに剃っている。
「ああ」と四条はうめいて、答えた。曇りガラスから外を見るように意識のピントがかすんでいて遠い。身をゆっくり起こした。気がつくと上半身は裸だった。周りを見回した。まったく記憶にない部屋だ。ベッドが一つ。洗面台が一つ。打ちっ放しの灰色のコンクリート。小さな四角い窓。そこに鉄格子があれば立派に監獄だった。
 数10秒で曇りガラスの向こうが少しずつ見えてくる。永田の体がヨハンナの銃弾を受けて飛び跳ねているスローモーションが視覚野に蘇る。
 そうだ、こいつは死んだのだ。死んだはずだ。
 それなのに、なぜ、気合充分の服装と屈託のない表情で私を眠りから目覚めさせようとしているのか。逆ではないのか。
「なぜ、なんだ・・・」を脳内で繰り返しながら、四条は今の現実が理解できないまま永田を鋭い目線で探った。
「いい筋肉をしているな」
 永田はニヤついて四条をのどかに見ている。そうだ、なぜ、私は裸になっているのだ?
 もう一度見ると、上半身はわずかに汗をかいていて、数カ所にごく小さな赤い斑点があった。四条はシーツをはねのけ、脚をベッドの外に出し、そして、立ち上がろうとした。
「アー、久しぶりによく寝た。1週間の不眠状態だったからな。今朝は最高に気持ちいい」
 永田のその言葉を耳に流しながら、四条は服を探す。意識はまだ回復途中で、頭がやや痛かったが、体は普通に動いた。服は床にきちんと畳まれて置かれていて、四条はそれを手に取り、素早く身につける。
「銃の威力は抜群だ。弾に込められた睡眠誘導剤でぐっすりだった」
 大きな伸びを永田はする。ゆるい腹部がぐっと前にせり出す。
「で、私はなぜ、ここで寝ていたんだ?」と四条は言った。
「ああ、そのことか。ま、焦るな。ゆっくり話そう。ゆっくりとわかったほうがいいことは世の中にいっぱいある」
「ヨハンナは何者だ?」
 永田の返事に四条はさらに問いを重ねる。
「ああ、ヨハンナか。あいつは戦士だ。お前なら、わかるだろ、あの撃ち方で。いくつもの戦場を駆けてきた」
「20年代のヨーロッパの戦争で、か」
「そうだ。人民のために戦う熱い心を持っている。ただし、体内に流れているのは冷たい血だ」
 ヨハンナ。彼女は永田の会社の掃除係ではなかったのか・・・・。
 いや、わかっていた、彼女がそれ以外の何者かであることを。私は直感的にわかっていた・・・・しかし、なぜ、冷たい血の戦士が永田の側にいて、今、何を任務にしているのか。
 わからないことだらけだ――――四条はベッドの端に座って、床を見つめ、心のモヤモヤを払うように何度も首を振った。沈黙が二人にやってきた。地下の静かな時間が流れているのを四条は感じる。地上とは違う、行き場のない静寂が心にのしかかる。
 しばらくして、永田が沈黙を破った。大仰に両手を広げて言った。
「兄弟、さ、行こう。朝食の時間だ」
 永田は下がってきたズボンのベルトを上げる。四条も我に帰って、長身を立ち上げる。
「さ、熱いコーヒーが呼んでいる。とびっきりのダイナーにご案内しよう」



<MOON DINER>はまさしく60年代のアメリカだった。ユニバーサルスタジオか何かに作られた映画のセットのようだった。<MOON DINER>のピンク色の丸っこい文字がネオンになって鮮やかに光っていた。メニュー表示もカウンターの上に、やはりネオン管で作られていて、夜光虫のように妖しく輝いていた。赤、黄、青、それらの発光色が暗闇に絡み合いながら、タイムトリップしたような、古き良き空間を形作っていた。
 見上げると天井には大きな月のオブジェがシャンデリアさながらにあり、柔らかい光の波長ですべてを静謐に照らしていた。その月球儀をよく見ると、中に女神アルテミスのようなシルエットが浮かび上がっていた。
 広々としたスペースに、銀色の小ぶりなテーブルがいくつも余裕を持って置かれていて、研究員と思われる人たちが座り、顔をネオンライトと月の光に浮かび上がらせている。思い思いに朝食を摂り、様々な言語で談笑している。カウンターの奥からは触れ合う食器の音が聞こえ、ウエイターの女性の声が時折、明るく響いていた。永田と四条はオーダーし、席に腰かけた。
「朝食なのに、まるで夜だな」と四条は言った。
「美しいだろ。すべてが陰影に包まれていて。時間に表情というものがある。理想の朝食じゃないか」
 やがてサーブされたブラックコーヒーは熱く、苦く、香り高かった。
「うまいな、兄弟。こうでなくちゃならない、コーヒーというものは」
 そう言う永田に促され、四条もブラックコーヒーをゆっくりと喉に流し込んだ。香りが胸にまでふっくら広がっていき、アウエイの心がようやく落ち着きを取り戻し始めていった。
「今日は、地下の秘密を知ってもらおう。この地下でどんなプロジェクトが動いているか、それをまずは知ってもらおう」、永田はコーヒーカップを手にしたまま言った。
「いいのか、私はまだお前の味方になると約束していない」
「いいのさ、アンタがリンゴをこの手に渡した時、確信した。コイツとは長い関係になるってな」
 永田は笑って、今度は分厚いチーズバーガーを手にした。朝からこれだ、この男は。ペンギンのような体型から脱するのはおそらく無理だろう。
「ま、ダチになったわけだ、ダチに。そのかわり・・・・」
 そこで永田は大きくバーガーにかぶりつき、目を見開いて、行儀悪く咀嚼しながら続いて話した。
「秘密は秘密だ。そいつは神よりも尊い。わかるだろ、な、兄弟」
「もし、神の方が尊いと思ったらどうする?」
「ハハハ。アンタならわかるはずだ、その時は・・・その時は、地獄に落ちてもらうことになる」
 四条はコーヒーを飲み、ゆっくりと天井に輝く月の女神を見上げた。とりあえず今は永田の示した道を行くしかない。しかしだ、兵士としての道も残して置かないといけない。危険が迫ったら躊躇なく退却する道を。それは戦場でだけではなく、人生を戦う時の鉄則でもあるのだ。
 心の奥底でそう決意し、四条はBLTサンドを手に取り、朝食に取り掛かった。



 恐ろしく年老いた、枯れ木のような肉体が横たわっていた。白い手術台のようなベッドに身を仰向きに寝かされている。黄色い法衣らしきものが腹部にゆったりと横にかけられているが、胸部や陰部より下の部分はすべて露出している。静かな満ち足りた顔で、彼が今、死後の世界にいるのか、いまだ生の世界にいるのか、判別できなかった。
 手術台の周りでは、研究者たちが数人ゆっくり歩きながら、息を殺して何かの作業に従事していた。ピリピリとした緊張感が漂っていた。
「シャマルパ、例の高位の僧だ」
 永田は小さな声で四条に言った。
「ヒマラヤ地方に侵攻したX国の軍から逃れてここにきた。貴重なニューカマーだ」
 よく見ると細く透明なチューブが体のいたるところから伸びていて、数台の計測用エクイップメントに繋がれていた。4、5本のチューブが頭部、つまり脳からも出ている。
「彼の肉体、精神のあらゆるデータを今、収集している」
 永田が言うと、一人の研究者がいきなり二人の横に立った。そして、永田の言葉をいきなり補足した。
「彼の持っている精神の巨大エネルギーの秘密を解き明かそうとしています」
「スミノクラだ。このワークの若き責任者だ」
 永田は枯れ木の老人に視線を投げたまま紹介した。スミノクラは四条の横にぴったりと立って、続けた。
「ブッダはサールナートで鹿に説法したと言われます。言語が理解できないのになぜ、鹿はブッダに心を動かされたのか、とても興味があります」
 彼の現れ方も言葉も唐突で、四条はかなり違和感を覚えたが、その場に立っているしかやり過ごし方はなかった。スミノクラはやや大きな声でさらに続けた。
「脳に入った情報は言語に置換され、AからBへ伝わっていき、やりとりされる情報になります。図で書くと、Aの脳→Aの言語→Bの脳→Bの言語です。ここで、2番目と4番目のプロセスを省くとどうなるか。ブッダはおそらく鹿とそうやって話をしたのだと思います。言語のない会話です。脳と脳が直接、話をするという能力を使ったのでしょう」
「なるほど」と四条は小声で反応した。
「すいません、いきなり」とスミノクラは言った。「つい興奮してしまって」
 四条は顔を彼の方に初めて向けた。本当に若くて、少年のようだった。丸い眼鏡をかけている。賢そうだ。おそらくIQ150超えは間違いないだろう。
「あの老人にはその能力があると言われているのさ。言葉という余計なプロセスをなくしたコミュニケーションの使い手だ」
 永田がそう言うと若い責任者は
「そうです、直接だからこそ、膨大なエネルギーを生み出す可能性もあります」と言葉を足した。
「脳と脳の直接的なやりとり・・・」
 四条がうろうろと考えていると、永田はシャマルパの方にスッと歩き始めた。
「多くの人の脳と脳を直列につなげたらどうなるか、並列でつなげたらどうなるか、そんな夢のようなことも考えています・・」
 スミノクラのその言葉を聞き、彼に軽く会釈をしながら、四条も永田の後を追った。

 高僧は穏やかに眠っている。息はしていないように見える。胸部と腹部に何の動きもない。生体反応は見た目にはなかったが、この場の状況を察すると、確実に生きているのだろう。若い女性の研究員が高僧の側に立ち、透明なチューブを抜いた。うまくデータが取れなかったのかもしれない。もう一度、差し直すのだ、おそらく・・・・。

 その時。四条の体に冷たいものが走った。
 それは悪寒に恐怖が含まれたものだった。チューブを抜いた箇所に、浅黒い皮膚に残った赤い小さな斑点を認めたのだ。声には出さなかったが、あっ!とまさに電流のように感情が走った。朝、起きた時に、自分の上半身にあった不可解な赤い小さな斑点! 針で刺したような痕跡! 思い出したのだ。同じではないか。そうだ、朝、意識がはっきりしなかったのは頭部へのチューブが影響しているのではないのか。
 やりやがったな! 四条は怒りがむっくりとアドレナリンとともに噴出してくるのを感じた。瞬間、腕組みをしながらゆっくり手術台の周りを巡っている永田に向かって大声で詰問しようとした。
「許可なく、私の肉体と精神からデータを盗んだな!」と。
 しかし、怒りは強い罵声を発するレベルには充分すぎるほど達していたが、かろうじて言語化するのは踏みとどまった。この静寂を唐突に破ることに臆したのかもしれない。この場にいる誠実な研究者たちに嫌な思いをさせたくないと感じたのかもしれない。とにもかくにもとどまった。怒りのマグマは容易に冷えていかなかったのだが・・・・・。
 2030年代後半の今、個人情報とは年齢、生年月日、金融機関のパスワードやネット履歴は言わずもがなで、その個人の肉体が有する個別データ、脳(ブレイン)データ、遺伝子(DNA)情報がメインになっていた。個人情報保護法はもはや人間存在の根幹にかわるデータを保護するところまで改定されていた。
 四条には一つの筋書きがおぼろげに見えてきていた。銃に撃たれたのは、永田だけではないのだ。ヨハンナは永田を撃った後、私も続けて撃ったのだ!
 そして、深い眠りに落とされ、シャマルパと同じように裸にされ、いくつものチューブを体の随所に刺されたのだ。永田が撃たれた時、その突然の衝撃で私は無防備になっていた。そうでなければ安易に撃たれなどしない。つまり、だ。私のガードを一瞬、緩めるために、永田は撃たれた。この芝居の筋書きは偶然にできたものではなく、永田とヨハンナが共同で練り上げたものであるはずだ。
 四条は無性にヨハンナに会いたくなった。なぜ、無防備な私を近距離で撃ったのか。睡眠銃とはいえ、そこに良心の呵責はなかったのか。そこまでお前の心は礼儀知らずに荒んでしまっているのか。聞きたかった。そして許されるなら、その腹部にパンチを一発見舞いたかった。そのくらいの屈辱と復讐の念が四条の心には芽生え始めていた。
 永田はどうしているかと見ると、スミノクラと部屋の隅で話をしていた、ヒソヒソと。その様子を見ながら、四条はここの連中はみんな黒い企みを持っているのだと感じ始めていた。
 決して気を許してはならない。いざという時の退路は常に確保しておけ! 四条よ。ヤバくなってきたら、素早く身を消すのだ。そう自分の心に何度も言い聞かせた。



 貨物用のエレベーターがゆっくりと上がっていく。ゴトゴトとレトロな音を立てながら。天井のライトがチカチカと点滅している。二人の男は窓のない箱の中を揺れながら上がっていく。
 今日は多くのものを見た。<ラボ2>の花の園、<ラボ3>の小麦の畑、それぞれの広大なスペースをじっくりと巡った。<ラボ1>には水槽があった。水族館と同じ構造の分厚い強化ガラス。足元から天井までの満たされた海水。白いイルカが悠然と泳いでいた。その水槽は巨大だったから、数頭のイルカがひどく寂しい存在に見えた。「まだここは研究のテーマが定まっていない、だから研究員も集められない。絶滅の危機にある海洋生物を集めようと言う話もあるが、それはひどく困難がつきまとう作業だ」と永田は言った。
 いくつかの<ルーム>も巡った。シャマルパが寝かされていた部屋のサイズの実験室。ウイルスを研究しているルームもあったが、永田のような「部外者」は残念ながら中に入るために、面倒な手続きがいるとのことだった。
 ラボやルームを巡りながら、四条は怒りがまだ残る脳裏で、このTOKYOの地下研究所が何を目指して作られているか、掴みかねていた。「善テクノロジー」と永田は言ったが、どんな組織がこの施設を開発し、オペレーションしているのか、あまりに謎過ぎていた。研究は新しい発見を生み出し、特許を獲得し、生産や運用までつなげることで、利益を得られる。そして、それが研究開発費となり、次のより偉大な発見へと循環していく。その再生産のプロセスはここにはあるのか、どうなのか・・・・。
「今日、最後の場所に行く。倉庫だ。そこに俺の仕事のコアがある」
 永田はそう言い、四条をかなり歩かせて、1分前にこのレトロなエレベーターに乗せたのだった。
 上昇中、永田は珍しくずっと無言だった。沈黙を破って、不規則に揺れる空間で、四条はようやく言いたかったことを言葉にした。
「勝手に、私のデータを取ったな」
 永田は驚かなかった。その問いが来るのを待っていたかのように答えた。
「すまない。だが、チップまでは体に入れていない」
 少しだけ間を置いて四条は冷静さを失わずに言った。
「それがお前たちの流儀なのか」
「いわば、定めなのだ。絆を固くするための」
「脳や遺伝子に書かれていることを知ってどうするのだ」
 そう四条が問うとタイミングを合わせるようにエレベーターがガタンと大きくひとつ揺れて、停止した。あまりにゆっくりだったが、10階分くらいを昇ってきた感覚がする。
「さぁ、着いた。地上だ、兄弟」
 大仰な軋み音を立て、エレベーターがゆっくり開くと、がらんとした倉庫が眼前にいきなり広がっていた。天井まで15メートルほど、奥行きは100メートルほど(それ以上かもしれない)。背の高いキャビネの大小の列が並び、そこをカメラ付きのAIカートが何台もキビキビと走っている。
「ここが私の仕事場だ。世界からここに来るもの。ここから世界に出ていくもの。搬入、ピッキング、搬出まで、すべてAI制御されている。人は一人もいない」
屋内とは言え、息がつまるような地下空間に長くいたせいで、開放感が半端なかった。モグラの生活より、少なくとも犬の生活の方がいいのだ。たとえ、鎖に繋がれていても。
「さて、今日のクライマックスはこれからだ。もう少し歩いてもらう」
 小太りの体型を左右に振りながら、永田は勝手にどんどんと歩き出していた。スリムで長身の四条は大股にそれを追った。
 倉庫の奥にはドアがある部屋があった。永田はその前に立った。
「俺はチップを入れている」と言いながら、右の手の甲をかざした。ドアはすぐに開いた。さして広くないが、壁がコンクリートではない素材で作られた上質の空間があった。空調の音が微かに耳に入った。何か特別な感じがする部屋だった。
 床には長方形のボックスがいくつか並べられていた。そう、全部で4つ。2メートルくらいの長さで、黒い光沢の金属で作られていた。四条は永田の顔を見た。永田は「開けてみろ」と言うようにアゴを下から上へボックスの方に動かして、促した。
 四条は指示されるままに歩みよった。しかし、また騙されるかもしれないという思いが強く胸をよぎる。躊躇した。ボックスの中には何があるのか。何が待っているのか。天使の瞬間か、あるいは悪魔の瞬間か・・・。四条は長身をやや傾けた状態でピタリと動きを止めた。360度に警戒の意識を走らせた。
「梱包は解いてある。もうロックも解除してある。そうだな?」
 その永田の声の先には、いつの間に忍び寄ったのか、人影があった。
 ヨハンナだった。無地の白いシャツにデニムのジーンズとヒール。四条はすぐさま身を起こし、敵意の目でヨハンナを睨みつけた。
 なぜ、私を撃ったのか。そのリベンジはさせてもらう。必ず。
 だが、ヨハンナは敵意の眼差しを受け流しつつ、数歩、四条に歩み寄り、無表情に近いが魅力的な微笑を返した。静寂の空間に香水のエレガントな匂いが漂い、倉庫の湿気くささをわずかに消した。
 四条はもはや開けるしかないと決めていた。ロックを外してあるボックスの蓋は簡単にずらせた。未知のものと出会う時の鼓動が胸を息苦しくさせる。不意に、ツタンカーメンの棺を初めて開けたカーター(確か、そんな名前だった)のようだと思った。
 和紙のようなもので丁寧に包まれた物体が現れた。そして、和紙のようなものを通してそれが何かはすぐにわかった。人型ロボットだ。目を閉じて、仰向けに腕を胸に置いて裸のまま横たわっている。まさに棺だった。それはミイラのようにも見えた。
「人型ロボットは今や輸出入の大切なアイテムになりつつある。ディープラーニングされる言語が英語であれば、英語圏で作られたほうがいいし、スラブ語であればスラブ語圏がいい。その国の文化や宗教のディープラーニングもそうだ。日本で教え込ませるのではなく、用途によってそれぞれの国で学習させ、輸入するほうがベターだ。その逆ももちろん、ある。日本からの輸出だ」、永田は長く話した。声はいつもより低く沈んでいた。
「さ、全部、開けてみてくれ」
 四条はなぜ、そんなことをするのか、と訝しく感じながらも、ボックスを開けていった。次々と人型ロボットが現れた。全部が男性だった。顔はアングロサクソン系に設計されているようだった。精巧に出来ているとは言え、人形のような造作も感じられ、一段と不気味さを増していた。棺をすべて開け終えて、四条はなんとも言えない気分になった。人と物の境目がよくわからなくなっていたのだ。それは不可思議な感情をもたらした。人が人のような機械と接する時、どう振る舞えばいいのか。どう心を接続したらいいのか・・・・。

 その時、沈殿していた四条の意識を永田の一言が目覚めさせた。
「さ、兄弟。本物は一つだ!」
 四条は二人の顔を交互に見た。一体、どういう意味なのだ。驚きの感情とともに探るように見た。二人とも穏やかな笑みをうっすらと浮かべていたが、目は真剣の刃のようにキラリと光っていた。

 四条は膝をついて、和紙を丁寧に剥がし、右手をロボットの口元に当てる。
 一番右端から、ゆっくりと。神経を研ぎ澄まして。
 1体目、2体目、3体目。そして、4体目・・・・・。
 息だ・・・微かな息が、手に感じられる。なんということだ。生きている。生きているのだ! ああ、これはロボットではない、死体でもない、これは人なのだ。



 倉庫の屋上に立つと、夕陽が空を鮮やかに染め上げていた。雲の群れがオレンジ色の最後の輝きを受けて動いていた。風が強く吹いている。羽があればその空に飛び立ち、壮大なパノラマの滑降をゆったりと楽しめそうだった。
 夕陽に包まれた街の広場が遠くに望めた。広場ではイベントをやっていて多くの人々が集まり、さざめいていた。空間だけではなく、彼らの時間まで夕暮れは輝かせているようだった。ジャグリングをやっている。中年の男とグリーンの大きなボールに乗る女の子が人の輪の中心で体を軽やかに動かしている。女の子の髪はブロンドだった。時折起こる歓声が音の波となって屋上まで寄せてきていた。その光景は遥かで、夢の一部のようだった。
「世界は美しいな。そう思わないか」と手すりに体を預けて永田は言った。「世界は今、滅びようとしているのに」
「お前のビジネスが何なのか、今日、やっとわかった」。四条も手すりに体を預けた。二人の男の体は空にわずかにはみ出した。
「ああ、それが今日の目的だった」と永田は目を細めて空を仰ぎ、言った。「破壊、分断、貧困、飢餓。そして戦争。独裁主義は民主主義を倒そうとしている」
 女の子がジャグリングをしている、その遠くのひたすらな姿を四条は見ていた。
「暴力に縛られている知を解放する。それが俺、いや、俺らの仕事だ」
「危険な仕事だな」
「俺らに救出のシグナルを送ってくれた人を、たとえ監獄に繋がれていようと救い出す。完璧な生命維持ボックスで国境を密かに越える。それが俺らの戦いだ」
 四条は思った。それも悪くない。
 一度しか生きられない人生だからと言って、何のリスクも犯さずに生きようとしても十分に生きたことにはならないのだ。
「国という頑な領域を超えて、すべての知恵を集めるしかない。このTOKYOに」
 夕日は最後の輝きを凄絶に放ちながら沈みいこうとしている。街が夜の闇に少しずつ浸され始め、濃い影をつくっていく。そこには、ひたすらな今を生きる人々の姿があった。確かに美しい・・・・四条は夕暮れの魔法の中で、深い思いに出会っていた。
「赤いリンゴが食いたくなった」と永田は言った。言葉が風に少し揺れている。
「今はない」と四条は答える。
「そうか」と永田は笑う。
 二人は何も言わなくなった。言わなくても、決意は伝わるのだった。いや、言わないからこそ、強く伝わるのだった。風がさらに強くなり、少し空気は冷たくなった。

 突然、声が聞こえた。
「男よ」
 四条は周りを見渡した。誰もいなかった、永田の他には。そして、声は明らかに永田の声ではなかった。その言葉は、言葉でありながら、耳からではなく、脳の中から聞こえてくる感じがあった。
 四条はもう一度、大きく燃え盛る赤い空を見上げた。頭の中に言葉がポッと浮かんで、また誰かが呼びかけた。一体、誰が私に話しかけているのだろう。
「男よ」
 声は深く脳内に響いて、なかなか立ち去って行こうとしなかった。



(第1部終わり)

 
【written by】
クロックムッシュ
コピーライター。博報堂にいたらしい。妄想を言葉にして生きている。人間という生物に感動している。
写真
未来のエモーション
時代は203X。いまから10数年先のちょっとさきの未来。テクノロジーは想像を絶するほどではないけど、想像を少し超えて進化した社会。その時代に生きる人間の感情はどのように揺れるのか。advanced by massmedianでは、未来の感情(エモーション)をテーマにしたショートショート小説をはじめます。
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